marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(412回目) それで改めて”信仰義認”を考えてみます 〔ローマ信徒への手紙&創世記第3章〕

2017-08-12 01:00:00 | 日記
 キリスト教で言われるところの「罪」ということを旧約聖書の中の律法(出エジプト記:モーセさんの”十戒”創世記第20章~24章あたり)と創世記第3章から少し考えてきました。そこで、僕ら一般の人々が思っているベールを少し剥ぎたいと思うのです。このブログの主旨は、初めから変わっていません。すべてのしがらみを脱ぎ捨てて、命のことばであるイエスのことばを自分のものに、つまり日々会話をすることです。
◆それで、”すべてのしがらみ”の中に自分も入るのですが、これが、又、大きなベールに包まれて自分で気がつきそれを剥ぎ取るということは、簡単な事ではないのです。ところがです・・・。時代が降り、新約聖書の時代を生きてきて、それを読むとどうも、さらにそれを突き詰めて自分の内の何かからも脱出を図るように促す文書の薦めが見られるように感じられる人も多くいるのではないかと思います。だいぶ以前に書いたこと、聖書は、”脱出”と”前進”であると、その理由は、永遠の命への帰還であると、そして、生き方の手法は”契約”に示されてあると言うことになります。それが、律法を通して、それを採用するとことの媒介、つまりそれが採用されて用いられる人というものの、その本来からにしてそれを採用して、いいとか悪いとかの全くそれ以前のベースたる人自体がもともと根が腐ってんじゃんという突き詰めまで我々に、内面まで深く掘り下げられて迫ってくる訳です。
◆自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。自分を愛することの困難さもあるが、命に関しては、つぎのイエスの言葉が迫ってくる、それは、命は誰しもこの地上で終わるのが必然なのだということ、それを乗り越える、つまり自分の自分では選択できないこの地上に生命を受けた、その肉との決別、脱出。(ヨハネによる福音書12章25節)「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」なのである。
◆それが、神の選民族たるイスラエル人の律法が与えられる以前の異邦人にも適応される、つまりは全人類の創造されたアダムの罪の汚染が以降の全人類に適応されるのだというのが、パウロの手紙なのでした。それは、アブラハムが選民族以前のしきたり、いわれの前に行為としてではなく、神を信じた・・・そのことが 信仰を第一にとの信仰義認、神に義と認められるということの証拠であると言うのです。
我々は、神の律法によりこの不完全な肉をそれに従わせきるということの不完全さを知らされる。この肉をキリストと共に十字架につけて自分の「罪」に死ぬのであるというのである。
◆キリスト教において、もっとも信者が少ない理由はここにありというところの通奏低音が、きらびやかな崇高な上昇志向の中においていつも糸の切れた凧にならにようにといえばよいか、そのアンカー(錨)となっているそのものが、自分自身の欠陥に気づくということになってくるのです。それが、2000年前この地上に立てられたイエスの十字架ということなのであると。不完全さの自覚、それに伴う個々人の人生の宿題、課題・・・「自分の十字架を負って我に従え」と言われたイエス。
◆(ローマ信徒への手紙第3章20~26節)「律法を実行する事によっては、だれひとり神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないからです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより。信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには、何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今、このときに義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」・・・・ Ω