marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(413回目)パウロの手紙にはところどころ分からんところがあるけれど 〔ローマ信徒への手紙&創世記第3章〕

2017-08-13 01:00:00 | 日記
 すべての人に公開されて来たが、見出す人は少ない・・・ それである。今もそうである。「狭き門より入れ」これはイエスの言葉である。小難しい聖書、聞いたことがあるけれど誰が読むもんかいと多くの人たちの声が聞こえそうだ。日本には、それなりの代替えがあるではないか・・・と。
◆一度、疑問を持つと、本当に奥が深くて、多くの人は品行方正、律儀で清さを求めて・・・いずれ、ひ弱な感じのイメージを持つのを免れ得ない。ニーチェなどは、自分の弱さをただ、それを覆うべく(つまりごまかすべく)傷をなめあっているだけではないか、ルサンチマンの解消にキリストの愛とやらを持ち出して自己肯定しているだけではないかと「アンチクリスト」を書いた。彼は、牧師の息子であり、相当に優秀であった。彼が発狂したのは、バチがあたったようにいう人もいるが、彼はキリスト・イエスを否定したのでは決して無く、ご都合主義の受け取る人間を批判したのであった。
◆僕は唯一の(イエスの)神は、すべての人間が考えるべく今ある宗教以前のもっと高い次元での大本(おおもと)と考えている。(たまたま僕には、イエスの父なる神が唯一の神であるとそう考えざるを得ない訳で・・・理由を書くと長くなる・・・というか今までの欧米のあらゆる、思想、政治、哲学、教養書などの本筋に乗っ取っているのは<怪しいのもあるが正統派で>、この揺るぎない命を与えている唯一の神というお方のベースの上に積み上げられていることが察せられると思っているからなのだが)
◆旧約聖書を少なくともそういう一般人間の品行方正、律儀という先入観で読んでも(読んで分かる筋書きのところを探して読んでも)なんだこれは何を言いたいのか・・・で、そういう先入観はすっ飛ぶ。これが世界のベストセラーにしてはあまりに分からん。お尋ねしたいところが沢山あって、これは何やら洗脳されているのではあるまいか・・・と逆に言われそうだ。確かにそうなのだ・・・おまけに新約聖書の最後の黙示録など読むと、救われる人は14万4千人なのだそうだ。え~えっ!少ねーぇじゃん。
◆さて「罪」ということについて考えてきた。様々の広い意味に捉えることが出来る概念のようだった。何らかの生きている間の、不品行や道徳的最低限の常識も含まれているようで、パラダイスから放り出された人は、もとの世界ので神との関係のある霊的世界からの脱落によって、肉における律法からの逸脱を罪と考えるようになった。それは部分であるが、表層の一部であることがらである。律法の真の核となるべく意味はこれがまさに、それが通常通りに行われれば「的外れではない」ということになり、恣意的にではなく内なる事柄の肉からの当たり前の促しとしての行為になるということが「的どおり」という訳だ。
◆だから、イエスを信じる「義」に対して、それが完全であれば、律法を成就することになるというのだ・・・ということになる。今回の表題は、ペテロの手紙に書かれている言葉である。(→ペトロの手紙Ⅱ第3章16節) ペテロが実際、パウロのどの手紙を読んでそう考えたのかは詳しく分からないけれども、パウロの神学的展開となるような手紙においておそらくそう思ったに違いない。例えば、イエスを信ずる事さえ行えば、律法はどうでも良いというようなことが起こったに違いないのだ。(今もそうかもしれない)。そのことへの戒めも、パウロ、ペテロの手紙に見受けられる。つまり、「罪」と同様に「律法」に対する概念も大きく理解しにくいものになって来ていたということだ。
◆富める青年が、イエスに向かい「先生、永遠の命を得るにはどんな良いことをすればいいか」「どの掟ですか」と尋ねる。イエスの答えに対して「そのようなことは、みな守ってきました」という。彼は、本来の「罪」の意味からではなく、肉なる外側からの規定、先祖伝来の言い伝え、戒めに沿って、自己診断し答えを得、満足しようとしたのだった。(マタイ:第19章16節)詰まるところ、律法を行おうとしても心の霊的な満足は決して得られずかえって富めるが故に、その満足をその富でどうにか出来ないものかとイエスに尋ねた理由であったのだ。イエスは言われる「もし、完全になりたいのなら行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。それから、わたしに従いなさい。」と言われたのです。
◆肉なる外の人に関する充足の手段は、内なる人の霊的充足を与える物とはならないことをこの富める青年は理解していなかったのである。・・・ Ω