marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(410回目)神に対する人間の罪という奴がどうもいまいち分からない 〔創世記第3章〕

2017-08-09 22:10:45 | 日記
 今回は、創世記の人が神に対して罪を犯す時点から、さらに進んで、わかりやすく共同体としての遵守事項としての神との契約が基準にされた出エジプト記に少し入り込みます。
◆神に対する人間の罪という奴がどうもいまいち分からなかった。今も多くの人は、道徳的なことだと思ってる・・・。嘘言ってはいけないとか、物取ってはいかんとか・・・。これは、モーセの十戒の中にもある。しかし、これはモーセによってエジプトから導き出された人々がその共同体として歩むときの決まり事としての守らなければいけない事柄、この諸々の詳細が契約事項として”出エジプト記”というところに書かれている。
◆僕は、この契約という概念が驚きなのだった。あの時代、しかもどこかの国のなんとなくの宗教ごと、言葉にはしない、してもお題目で、何が書いてあるかもよく分からず・・・というか、分かっても「生きることはかくかくしかじか・・・」とう説明にすぎないような内容で、長々と繰り返し・・・。まさに観念的な他力本願。ところが、旧約聖書、神は人間にまずは、共同生活の基本として神の言葉の理解とその遵守と実行を約束ごととして提示する。理解するとは、受け取る側も自分の言葉で理解するということなのだ
◆おまけに、人というのは言葉では何でもそのときは守りますと・・・しかし、慣れや怠惰や忘却やご都合主義の解釈に変ずるのが人というもの。そこで、少なくとも確実としての自覚として、それは我々のためであるし、その提示にたいしてその弱点を防御するために命が賭けられるように血が関係してくる。(この意味においても、新約になりイエスの十字架の血の意味が関係してくる。)
◆出エジプト記には第20章に十戒(十の神からの戒め)に対して第21章からはその契約の詳細が記載されている。で、民はこれを逸脱した場合に罪を犯すということになると考えたのだろうな。時代はくだり、さらに詳細に細かな規定が出来ていった。************ 
(24:7)契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語らえたことをすべて行い、守ります」というと(24:8)モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」********
 言葉に基づくということは、少なくとも実行可能かどうか以前の人どうしの間で話された言葉にも理解されるものであったということ。これがキリスト教は言葉の宗教であると言われるゆえんかと・・・。つまり、ここで人の生理医学的といえばいいか、脳みその前頭葉を必ずフィルターとして神は少なくとも一度は、自分の言葉を用いて神と自己の関係を(血を通してだから)自分の肉体の生き死に考えながら意識せざるを得ない時を経験する訳であった。
◆一昔前は、ノーベル賞受賞者の6~7割はユダヤ人が占めていたのは、こういう普遍性のある言葉を観念的でなく、実際の事柄としてその言葉を実際的に使う訓練をしていたからなのかなと思ってしまう時があった。
◆さて、この共同生活、出エジプトに参加は、純粋なイスラエル人だけでは無論ないわけだったから、共同生活としての決まりは第一に神との関係に於いて契約としていかなる人も適応しなければならない事柄となった要素を内に含んだものだったことが理解される。・・・ここまできてどうだろう、創世記第3章の人が罪を犯したこととどういう関係があるのだろう。そこで、また戻ります。
(※注:突然に引用した出エジプト記第24章なのだが、上述引用の次の9節~11節と12節以降が、ちぐはぐとなっているのは先のブログに書いたが編集前の大切な資料を継ぎはぎしているからであることが推察される。10節 イスラエルの神を見る・・・なんて書いているけど神を見た人は死ぬんじゃなかったかなぁ!)・・・・続く