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雨宮処凛がゆく! 第520回:「コロナになってもならなくても死ぬ」〜国へ緊急要望書提出〜

2020年04月30日 | 社会・経済

マガジン9  2020年4月29日
   https://maga9.jp/200429-1/


「生活はギリギリ。コロナになってもならなくても死ぬ」

「派遣でデパートで働いていたが、4月は1日しか仕事がなく、5月はすべてキャンセルになった」
「コロナウイルスに感染し入院していた。退院したが雇い止めになった。最後の給与が手取り7万しかなく支払いができない。昨日も食べてなく、栄養失調になる。お金がない」
「自宅の家賃も店舗の家賃も払えない」
「40年近くカラオケスナックを運営してきた。2月下旬から売り上げが急減し、4月は17日までの半月あまりで、月の売り上げが合計6000円。自粛しろと言っても、私たちはもう生活できない」

 相談事例には、そんな悲痛な叫びが綴られていた。4月18日、19日に開催した「コロナ災害を乗り越える いのちとくらしを守るなんでも相談会〜住まい・生活保護・労働・借金etc.〜」に寄せられた声だ。私も相談員をつとめさせて頂いたこのホットラインのことは前回の原稿でも書いたが、寄せられた相談を受け、4月23日、国に対して緊急要望書を提出した。「国は、自営業者・フリーランス・働く人々の”呻き声”を聴け!」という要望書だ。

 全文はこちらで確認してほしいが、ここで求めているのは、とにかく一刻も早く、直接当事者に対して、自宅や店舗を維持確保し、生活を支えるための現金給付を、単発ではなく感染拡大が収束するまで継続的に行うこと。そして当面の生活を圧迫する納税や債務の弁済につき、一時的にその支払いから解放することである。

 2日間で寄せられた電話は、全国で約5000件。が、フリーダイヤルには42万件のアクセスがあったという。ということは、電話をかけたうちの1.6%しか繋がらなかったということだ。共通したのは、「外出自粛・休業要請で仕事と収入が途絶え、今月又は来月の家賃(自宅・店舗)やローンが払えない。生活費も底をつく」という崖っぷちの状況だ。もっとも多かった相談は「生活費問題」で2700件以上。

 自粛だけが要請され、補償がまったくなされないことの当然の帰結だろう。「自粛と給付はセットだろ」と多くの人がずーっと求め続けているのに、一向に事態は好転していない。遅い。とにかく何もかもが遅すぎる。
要望書では、生活保護を受ける際の要件の緩和や、住まいの確保、ローンなどの支払い猶予制度の創設、各種手続きの簡略化などが求められた。
 それにしても、まとめられた相談事例を読んでいるだけで、リーマン・ショックとは比較にならないほどの規模の経済危機が起きていることがよくわかる。

 例えば歯医者を経営している人からは、「コロナの関係で営業を継続できない。3人のパートには休業してもらい、10割の補償を出しているが、もう限界だ」という声が寄せられ、キャバクラで働く女性からは「5月6日まで休むよう指示された。歩合給で雇用されているが休業手当はもらっていない。転居先物件の入居費用を払ったばかりだが、収入がないと家賃さえ払えない」という悲鳴が寄せられる。経営者や夜の仕事の女性からの相談は、このようなホットラインではあまり受けたことがないはずだ。
 フリーランス、個人事業者からの相談も多く、ピアニスト、理容店、美容院、マッサージ師、バー・スナック経営、居酒屋、音楽教室、喫茶店、個人タクシー、ヨガのインストラクター、通訳、カメラマンなどなどあらゆる業種が並ぶ。
 また、住宅ローンを支払っているがローンが払えないという人からの相談も相当数あったという。

 厚労省に要望書を提出した後、ホットラインのメンバーで記者会見をしたのだが、そこで法政大学の布川日佐史氏は、新型コロナ感染拡大を受けたドイツの対応を話してくれた。
 ドイツでは3月末の時点で、100万世帯以上が困るだろうことを予測し、生活保護を受けやすくすることを決めているという。よって、申請そのものも非常に簡略化されたそうだ。例えばドイツでも、生活保護を受ける時には大きな資産がないかの確認があるのだが、今は「私は大きな資産を持っていません」とチェックをするだけでOK。収入についても、「これから収入は見込めません」と書くくらいの手軽さで、とにかく早く、困っている人が漏れなく使えるような対応がされているという。しかも、大臣がわざわざ動画でドイツの人々に向かって生活保護の利用を訴えているというから驚く。
 その内容は、「手続きを簡単にしました。こういう手続きをしてください。申し訳ないけれど、手続きしてから2、3日かかってしまうので、それは我慢してほしい」等々。「悪いけど2、3日我慢して」って、全然我慢できるよ! だってこっちはもう2ヶ月我慢してるのに、マスク2枚だよ? しかも私はそれも届いてないよ? 
 その上、ドイツの大臣は生活保護について、「恥ずかしさを持たずに権利として受けてください」と語りかけているのだという。ああ、本当にこの国に生まれてよかったな……。私がドイツ人だったら、心からそう思っているだろう。しかもドイツではコロナ対策で窓口が閉められているため、生活保護申請はウェブでもメールでも郵送でもできるというのだから本当に大違いだ。

 翻って日本の場合、いまだに生活保護申請は、役所の狭いブースの中、申請者と職員が向き合い、1時間以上締め切った場所で行われている。私も今月生活保護申請に同行したが、その時はテーブルを挟んでこちら側が申請する本人、私、区議会議員、あちらが職員一人と、4人で狭すぎるブースに1時間以上こもらざるを得なかった。思い切り「3密」が揃った場所である。
 こっちもたまったものではないが、役所の職員だって気の毒だ。ドイツのようにオンライン申請などで簡略化すれば職員も守れるのに、この国からは「人の命を守ろう」という気概がまったくと言っていいほど感じられない。そこがじわじわと辛く、不安がより募るのだ。

 そんな中、この一週間ほどで少しだけ動いたのは、「住居確保給付金」の条件が緩和されたこと。
 これまでは、離職・廃業から2年以内の人のみが対象だったが、4月20日からは収入が減った人も対象になった。これでフリーランスや自営業者も使える可能性が出てきたのである。また、この給付金を受けるには、ハローワークに登録して求職活動をしなければならなかったが、30日からはさらに緩和され、求職申し込みが不要となった。これまでは自営業者やアーティストが行っても、「今の仕事をやめてハロワで仕事を探す」ことが求められたわけだが、やめなくても良くなったのだ。
 まぁ、対象は広がったことはいいことだが、今やこんな重箱の隅レベルの改訂をちょこちょこやったところでどうにかなる状況ではまったくない。とにかく、遅い!! 遅いし全部がチマチマしすぎている!! 今必要なのは、ドイツ並のスピード感と根こそぎ救う感に他ならない。

 そんなことを考えていたところ、コロナで失職した男性が、空腹のためカップ麺などを盗んで逮捕されたというニュースが飛び込んできた。60代の派遣社員の男性は閉店後のスーパーに侵入してカップ麺や米、野菜などを盗んだのだという。
 自粛と給付がセットにされないままにじわじわと経済的に追い詰められれば、当然、このような事件が起きるわけである。
 一方、25日には、横浜市で不動産会社の女性が客の男に刺され、バッグや車を奪った疑いで男が逮捕されている。逮捕された24歳の男は、「新型コロナウイルスの影響で仕事がなくなり、生活に困っていた」「女性を殺害して現金を奪おうと思った」と供述しているという。刺された女性は、重体。

 あまりにも、痛ましい事件だ。が、今のような状況が長く続けばこの手の事件は増えていくだろう。経済的に逼迫した人を放置しておけば、どうしたって治安に反映してくる。今、スーパーは家族総出ではなく代表が一人で行くよう言われているが、「女一人じゃ物騒でスーパーなんか行けない」なんて時代になるのは、このコロナ禍の中でありえない話ではないと思うのだ。そういう意味からも、補償は絶対に必要なのだ。そこをケチれば、結果的に「治安対策」費が必要となり、コストが高くつくから言っているのだ。

 と、なんだか絶望的な気分になってくるが、最後に、少し嬉しい報告。この連載の前々回で書いた、所持金13円だったAさんだが、無事生活保護が決定し、なんと5月頭頃にはアパート生活が始まりそうである。
 緊急事態宣言によるネットカフェ閉鎖の中、生活保護につながることによって生活再建できた彼のような人がいる一方で、神奈川のネットカフェ生活者用の施設では、いまだに相部屋で食事も提供されず、簡易ベッドに毛布3枚という状態だそうだ。
 どうか、必要な人に必要な支援が届きますように。そう祈りつつ、できることをやっていくしかない。


久しぶりに雨のない一日。気温も18℃と今季一番かな?
ねこやなぎは大きくなって散り始めている。木々の新芽も動き出した。北こぶしのつぼみも膨らんできた。桜はひょっとしたら4月中に開花?なんて思わせたのだが、しばらくの悪天候と寒さで5月に。それでも例年よりは早まるか?

これから広葉樹すべてが萌え出す新緑の時期を迎える。


岡村隆史氏「『困っている女性が風俗に』大変不適切で深く反省」遅すぎる見解表明と問題意識の希薄さ

2020年04月29日 | 社会・経済

藤田孝典  | NPO法人ほっとプラス理事 聖学院大学心理福祉学部客員准教授 

Yahooニュース 4/29(水) 

岡村隆史氏の「風俗発言」に対する謝罪
 私が4月26日に岡村隆史「お金を稼がないと苦しい女性が風俗にくることは楽しみ」異常な発言で撤回すべきではないかという記事を配信し、岡村氏の発言を問題視して撤回を求めてから4日目である。 

 本件を再度、振り返っておいてほしい。 
ただ、この上記の記事の岡村発言では、人によって心身に大きなダメージが及ぶので、閲覧は引き続き注意いただきたい。 
一応、形式的であれ、謝罪することは決まったようである。それについては歓迎したい。 
以下の産経新聞など各紙が報道でも伝えるとおり、ようやく本人が公式に謝罪の意を示して、真意をラジオ放送で自ら報告するそうだ。 

 お笑いコンビ「ナインティナイン」の岡村隆史さん(49)がニッポン放送のラジオ番組で「コロナが明けたら美人さんが風俗嬢やります」などと発言したことについて、29日、「大変不適切な発言だった」として、所属する吉本興業の公式サイトで謝罪した。 

 岡村さんは24日未明放送の「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン」で、新型コロナウイルスの感染拡大をめぐり、「コロナが終息したら絶対面白いことがある」と発言。 
続けて「コロナが明けたら、なかなかのかわいい人が、美人さんがお嬢(風俗嬢)やります」「短時間でお金を稼がないと苦しいですから」などと話した。 
この発言について吉本興業は公式サイトで、「当社としても、現下の新型コロナ禍で仕事に対する不安を覚えている方々に不快な思いをさせてしまう不適切な発言と考えている」とコメント。 

 「本人と面談致しましたが、岡村自身発言を深く反省しております」としている。 
これに続き、岡村さんは「私の発言により不快な思いをされた方々に深くお詫び申し上げます。大変申し訳ございませんでした」などと謝罪のコメントを掲載した。 
27日にはニッポン放送が、「不快に感じられた皆さま、関係の皆さまにおわび申し上げます」と謝罪していた。 
30日深夜放送の同番組で、岡村さん本人から改めてお詫びするという。岡村さんの29日のコメントの全文は以下の通り。 

 この度は 4月23日(木)「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン」の放送における私の発言により不快な思いをされた方々に深くお詫び申し上げます。大変申し訳ございませんでした。 
世の中の状況を考えず、また苦しい立場におられる方に対して大変不適切な発言だったと深く反省しております。 
2020年4月29日 ナインティナイン 岡村隆史 

出典:岡村隆史さん、不適切発言を謝罪 「深くお詫び」4月29日 産経新聞

 まずもって対応が遅すぎだろう。 
私が問題提起してから4日目、本人の問題発言からは間もなく1週間である。 
そもそも本人や周囲、ラジオのリスナーさえ、大きな問題意識、人権侵害の意識を持ち合わせていなかったのだろう。
 
 もはや手遅れ感が否めない。 
==謝罪の遅さによる影響と周囲のメチャクチャな論理による擁護の醜悪さ==  
岡村隆史氏は知名度もあり、多くのファンを抱え、財力も発言力もある社会的な権力者である。 
その権力者に批判をするということは大変な労力がいることだ。 
特に社会的に弱い立場にある女性の場合は、怖くて声を上げたくてもあげられないだろう。 
そして、謝罪の遅れ、見解発表の遅れは勝手な憶測を呼び、周囲の人々を無意識に「批判者への攻撃」へと導く。 

 すでにそれを証明するように、私たち批判者や多くの勇気を持って批判・発言できる女性のもとには、数々の心ない非難や罵詈雑言が殺到している。 
なかには日常的な社会活動、研究活動、言論活動を脅かすようなものまで現れている始末だ。 
 権力者は何かを自分たちに与えてくれているので、その存在がいなくなることが耐えられない人々にとって、私たち批判者は不愉快極まりない存在だ。 
現実的にすでにある成立した権力構造、社会構造に異議申し立てをすることは、だからこそ容易ではない。 
そのような権力関係のなか、止むに止まれず批判した重たい意味を岡村氏本人や周囲、ファンなどには理解いただきたい。 

 つまり、どのような擁護論が出てこようとも、看過できるような発言では到底無いということだった。 
しかし、権力者は批判されても、残念ながら守ってくれる様々な機構が存在する。 
ある意味では何を言っても免罪したり、被害を最小に抑えようと奔走する人々も多くいることだろう。 
 早速、以下のような軽薄で無責任な擁護論まで現れ、権力者同士での慰め合いも始まっている。 
高須院長「悩むな岡村くん。僕も謝ってばかりだ」
 こうやって権力者同士で権力構造を強化してきたため、きちんと問題化されず、問題自体が無いものか、あるいは一部の批判者、異常者による屈折した批判だと消化させられてきた。 
 破綻した擁護論であっても、批判者への暴力や暴言でも何でもよく、メチャクチャな論理で権力者を守ろうとする周囲の人間が大量に生み出される。 
批判者に対する不当な攻撃や非難も当然許されるものではないが、このような事態を巻き起こした責任も岡村氏は自覚すべきだろう。 
少なくとも、謝罪や見解発表が早ければ、このような被害も抑えられたはずだ。非常に迷惑である。 
 だからこそ、謝罪ではニッポン放送が数行でコメントしたような形式的なものに終始させてはいけない。 

 あれは謝罪ではなく、謝罪していることを見せかける文章である。 
日本では権力者が謝罪をする際には、具体性もなく、内容がない文章の読み上げが謝罪だということになってしまう。 

 毎回、中身のない使い回しのテンプレート謝罪文は、権力者がこのような警護役たちに保護されてきたことを表すだけだ。 
その意味ではニッポン放送、吉本興業とも相変わらず、今回も興味深い行動だ。 
迅速にテンプレートを貼り付けてきている。 


 だからこそ、岡村氏にはきちんと発言に向き合っていただき、本人だけでなく、その周囲の環境や発言を生み出した構造を自認して欲しいと思う。 
私も含め、誰だって間違いは犯すし、自戒しながら死ぬまで成長し続ける生き物が人間である。 
 周囲の人たちも岡村氏とともに、再発防止策、被害を与えた女性たちへの補償のあり方、本人の番組降板も含めた中身のない謝罪ではなく、具体的で明確、そして厳正な処分を課していってほしい。 
 今後、どのような処分になるのか、私たちはまずラジオ放送での本人の語りに注目し、継続的に岡村氏らの権力を監視していきたい。


「みんなのブログ」アピールについて、最近チャンスが訪れる機会が大幅に減少した。ちょっと前では、1日に1.2回のチャンスが来たのだが最近では4.5日に1回である。早々事務局へ意見を申し上げたのだが5日後、ようやく返事が来た。

「お問い合わせの件ですが、
以前は、アピールチャンスがたくさん訪れるユーザ様とあまり訪れないユーザ様と、アクセス状況や条件によって機会が偏る傾向にありました。

そこで3月末ごろに、アピールチャンス機能を見直し、
すべてのユーザ様に均等に訪れるように仕組みを変更しております。

そのため、お客様のご利用状況によっては、
アピールチャンスの頻度が減ったように思われるかもしれませんが、
今後も皆様に均等にアピールチャンスが訪れるよう
調整を行ってまいりますので、ご理解いただけますと幸いでございます。

今後ともgooをご愛顧くださいますようよろしくお願いいたします。」

 何をもって「均等」なのかようわかりませんが、それはそれでいいとしたところで、「みんなのブログ」掲載されて一回りする時間が以前の5倍くらいかかっているのではないだろうか?もう少し時間を短くして、より多くのブログを紹介したほうが良いと思います。


いのちの政治学~コロナ後の世界を考える 「今、リーダーに必要なこととは?」(後編)

2020年04月28日 | 社会・経済

   Imidas連載コラム第2回 2020/04/28

「コトバ」を待つ──石牟礼文学を生み出したもの
中島 先ほど(注・連載1回目の後半)水俣の話に触れましたが、『苦海浄土』などの作品で水俣病の人々の苦しみと向き合い続けた作家・石牟礼道子さんも、「いのちの政治学」を考える上で重要な人物だと思います。
 というのは、石牟礼さんこそはまさに「コトバ」の人だったと思うからです。私は生前、1回だけお会いしたことがあるのですが、非常に印象的だったのが、石牟礼さんが、お話ししているときに「躊躇なく沈黙する」ことだったんですね。
若松 よく分かります。私も石牟礼さんとは晩年、親しくさせていただいていたのですが、あの沈黙は最初、とまどいますよね。
中島 こちらが何か聞いても、1分くらいじーっと黙って返事をなさらないことがよくあるんですよね。でも、それは「何かいいことを言ってやろう」と考えているわけではまったくない。何らかのコトバがやってくるのを、耳を澄ませて待っているがゆえの沈黙だったと思うのです。「語る」ことすら奪われてしまった人たちの「声なき声」にそうして耳を傾けることによって、石牟礼文学は成立していた。その意味で、『苦海浄土』はノンフィクションともまた異なる文学だといえると思います。
若松 さっき言った、コトバが生まれてくるのは無私になったときだというのは、日常においては私たちの「言葉の玉座」には自分自身が座っているからです。そうして「私」を語ろうとしている間は、コトバは降りてきてくれない。石牟礼さんは沈黙している間、玉座に座るのでなくその横で待っていたのだと思います。そこで何者かが彼女にコトバを託し、語り始めるまでの時間が、「1分間の沈黙」だったのではないでしょうか。
 現代においては、表現といえばすぐに「自己表現」となりがちですが、石牟礼さんのように、逆に自己を手放すことによって表現できる人たちというのもたしかに存在している。そして、リーダーというのも、そういう人でなくてはならないと思うのです。
 自己を語るのではなく何者かに託されたコトバを語るわけですから、時には自己を否定しなくてはならない場合もある。先ほど中島さんがおっしゃった「過去の過ちを認めて転換できる」のがメルケルのすごいところだというのも、そういうことではないでしょうか。今、発言することが、かつての自分の発言が否定され、糾弾されることになるかもしれない。けれど、それが、時代が私に託してきたコトバである以上、語らざるを得ない、ということだったと思うのです。
中島 対して日本の政治家の多くは、過去の自分にずっとしがみついているから、そうした「転換」ができないんですね。
 私は大学でヒンディー語を学んだのですが、最初につまずいたのが「与格(よかく)」という文法の構造でした。これは、感情表現などが典型的なのですが、「私は悲しい」というときにも、主語を「私」にしないんです。直訳すると「私に悲しみがやってきて、とどまっている」という言い方をするんですね。これは言語についても同じで、「私はヒンディー語を話せます」というときは、「ヒンディー語が私にやってきて、とどまっている」という言い方をする。私が主体として「何か」をとらえるのではなく、私にやってくる「何か」が存在しているという考え方なんです。
 そして、その「何か」は、自分を超えたところからやってくる、私にはコントロールできないもの。私はその「何か」を受け止める器にすぎない、という感覚ですね。この「何か」こそがコトバだと思うのです。こらえても流れてくる涙や悲しみで震える手は、言葉以上のコトバです。こうした「与格」的な姿勢こそが、人の胸を打つ。その本質を、インドの人々はよくとらえていたのではないかと思います。

「弱くあること」から学ぶ
中島 もう一人、石牟礼道子と並ぶ「コトバ」の人であったと私が考える文学者が、広島での被爆体験をもつ作家、原民喜です。
 彼は1944年、38歳のときに11年間連れ添った妻を病気で亡くしているのですが、病床にいる妻を前にしてこんなことを書いています。
「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……」(『遥かな旅』)
 それほどまでに、原にとって妻は大きな存在であり、精神的な支柱でもありました。人付き合いの苦手だった原は、妻が隣にいなければまともに会話もできなかったともいわれています。
しかし、実際には彼は、妻が亡くなった後も、自死を選ぶまで6年あまりを生きることになります。なぜかといえば、原爆に遭ったからです。原の実家は広島の爆心地近くにあり、そこで被爆した彼は、多くの人があまりにも「無造作な死」を迎える凄惨な光景を目の当たりにすることになりました。
 いわば、それまで生きてきた現実の世界が根底から崩壊してしまった。そのときに原は、自分には生きて発しなくてはならないコトバがある、命は絶えてもいい、けれどいのちを生きるためには死者とともに語らなくてはならない、と考えた。そうして書かれたのが、『夏の花』などの作品だったのだと思うのです。
 原の作品は、人が危機におかれたときにどのようなコトバがあり得るのかということを考える上で大きな意味を持ちます。今また病による危機にさらされている私たちにとって、重要な問いかけだと思います。
若松 私は原民喜とは縁があって、『夏の花』に出てくる場所を何度か歩いたりしたこともあるのですが、彼は決してもともと強い人ではない、むしろ非常に繊細で、ある意味では弱い人だったと思います。
それが被爆後も生きてあれだけのものを書いたというのは、生命を持ちながら新たに生まれ変わることで、とてつもなく強くなった人なのだと思うのです。おっしゃるように、彼の思いが命からいのちへと移ってゆくのも、必然だったのではないでしょうか。
中島 この「弱さ」というのも、「いのちの政治学」における重要なキーワードです。というのは、今のような危機のときには、どうしても「弱い存在」が見えなくなっていくからです。たとえばホームレス状態にある人、難民や在日外国人……。その人たちに十分な情報が行き渡っているのか、居場所は確保されているのかといったことが、危機の中で見えなくなってしまう。そこに目を向けるためには、「自分たちはみな弱い」ということを前提にしなくてはならないと思うのです。
 私たちは誰しも、赤ん坊のときには母親の乳房にしゃぶりつかなくては生きられなかったし、ある年齢になれば誰かに支えてもらわなくては生きていかれなくなる。あるいは、どんなに金持ちであっても、実は非常な孤独を抱えているということもあります。つまり、強者のように見えたとしても、それは「たまたま今、ある側面において強い」ということであって、強者と弱者は背中合わせの存在にすぎないわけです。
 そのことを常に自覚して、普遍的な弱さという前提に立つことで、他者の弱さが見えてくる。それが、社会の中に分断を生まないための非常に重要な方法だと思います。
若松 人が弱さを自覚するのは、誰かに「助けられた」ときだと思います。自分が助ける側に立っているときは自分の弱さは見えなくて、助けられる立場になったときに初めて世界が違って見えてくるし、自分が助けるべき人のことも見えてくる。今、人を助けることも大事だけれど、「助けられる」ことも私たちにはとても大切な経験だと思うのです。
だから、今の政府が常に「自分たちが国民を助けてやる」という態度であることがとても気になります。本当は、リーダーこそ「弱い」人、「助けてもらう」ことのできる人でなくてはならないと思うのです。弱いからこそ支えようとする人が出てくるのであって、強いことを誇りにするリーダーは絶対に孤立していくのではないでしょうか。
中島 知らないことに出合ったときに「分かりません、教えてください」と言えたり、自分の失敗を率直に認めたりできる、自分の弱さを見せられる人のコトバこそが、人の胸を打ちます。そういう人は、弱いからこそ本当の意味で「強い」のだと思うのです。
若松 弱さを自覚することなく、他人を助けることはできないと思います。弱さを見せられない人が他人を助けたとしても、それは「施し」になってしまう。私たちがやらなくてはならないのは、施しではなくて「共有」なんだと思うのです。
 だから、今、やるべきことがあるとすれば「弱くあることから学ぶ」ことに尽きると思います。
 たとえば今、私たちは仕事をしたくてもなかなかできない状況にある。でも、コロナのことがなくても、病気や家庭の事情などで働きたいけれど働けないという人たちは一定数いたわけです。それが当たり前なんだ、私たちはそういう人たちとともに生きているということを、多くの人が実感できるといいと思います。
中島 そうですね。自由に外出できないという状況になって初めて、たとえば重度障害のある人が世の中をどういうふうに見ていたのか、その一端を私たちは感じられるようになったわけです。その地平を拡大させたいですね。
若松 最近、出かけるとき、マスクを手に取ったときなどに、よく福島のことを思います。すごく天気がよくて気持ちのいい日なんだけれど、マスクを付けた瞬間にその光景が一変して見える。ああ、福島の人たちはずっとこういう日常で生きていたのか、と感じる。今の危機的な状況になって、やっと私たちはほんの少しでも、彼らの痛みを共有できるようになったのかもしれません。そこからも学びたいと思っています。

ファシズムが破壊しようとするもの
若松 私が「弱さ」とともに重要だと思うのは「小さくあること」です。私たちは、万人を救うことはできません。気持ち的にはそうしたくても、能力も、行動範囲もいつもより狭まっている。その中で、この危機を切り抜けるためには、小さく深くつながっていくしかないのではないか。小さくて強い共同体をつくり直して、それをさらにつないでいくしかないと思うのです。
 このコロナ危機の中で、アルベール・カミュの『ペスト』が非常に読まれているそうですが、あの小説におけるペストは、ファシズムのメタファーでもあります。
今の日本は「伝染病」とファシズム、両方の意味において、物語に描かれている状況とそっくりだと感じました。 だから今、ファシズムが破壊しようとするものを守ることが非常に重要になっていると思うのです。
 たとえばハンディキャップのある人たち、芸術、人種の交わり、そして小さな共同体。そういうものをファシズムはとても嫌った。だから、それらを守ることはそのまま、ファシズムに抵抗する力になるんだと思うのです。
 『ペスト』の原型ともいうべき作品に『ペストのなかの追放者たち』(宮崎嶺雄訳)という短編があります。ここでカミュは、結局ペストが人間にもたらしたのは、「別れ」、「別離」だったとも書いています。ここでの「ペスト」も、やはりファシズムのメタファーですから、「別れ」の中には、誰かが亡くなったり、会いに行けなくなるといった物理的な別れだけでなく、価値観の対立といったこともおそらく含まれる。私たちは今、そういう状況に直面しつつあるんだということが、もっと共有されるべきだと感じています。
 
中島 『ペスト』には、病原菌──つまりファシズムに対して、逃げる人も迎合する人も、いろんなタイプの人が登場するのですが、その中で「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」(宮崎嶺雄訳)という言葉が登場します。あれはとても印象的でした。今の状況下でも、誠実に生きるということの延長上に、ファシズムへの抵抗があるのではないかという気がしています。
 もう一つ、今の日本の状況と重なると感じる本が、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』です。ナチスの台頭に至ったドイツの状況を考察した本ですが、ここにも現在日本で起きている問題が描かれていると思います。
 つまり、ナチス以前、ワイマール政権下のドイツでは、非常に民主的な憲法のもと、すべての人々に広く自由が認められました。しかし、そうして自由が与えられたことによって、人々は逆に権威を求め始める。自分たちで何もかもを決めるのはもう疲れた、誰かが決めてくれたほうが楽だという考えが広まっていき、やがてナチスの台頭へとつながっていく。自由であるがゆえに自由から逃げてしまう、という構図ですね。
 非常事態宣言を待ち望む声の多さなどを見ても、不安に耐えきれず、誰かが強い言葉によって私たちを仕切ってほしいという空気が、今の日本にも漂っているように感じます。でも、そうした空気がファシズムを招き寄せたことは、歴史が証明している。私たちは、それとは違うかたちのリーダーを生み出さなくてはならないんだと思うのです。
若松 それがまさに、先ほど話に出た「弱いリーダー」なのではないでしょうか。
中島 そのとおりです。弱さを見せられる、「私は弱い、だから一緒にやっていこう」と言えるリーダーこそが今、必要なんだと思います。
 
いのちとつながる政治を取り戻すために
中島 今、この危機的な状況において、検査体制が整わない、医療現場が疲弊している、思い切った経済政策が打ち出せないなどの問題が山積しているのは、明らかに日本が「小さな政府」を志向してきた結果だと思います。合理性を追求する新自由主義のもと、さまざまなものを切り捨ててきた末に、私たちはこれほどまでに危機に弱い体制をつくりあげてきてしまったわけです。
 小さな政府というのは、福祉などをアウトソーシングすると同時に、責任もアウトソーシングしてしまうということなんですね。自分たちで全部決めてくれ、政府は責任を取らないよ、という体制なわけです。イベントを自粛しろとは言われるけれど、何の補償もないからリスクはすべて自分たちで負わなくてはならない。それでは生きていけないから自粛せずに開催しようとすると「危機感が足りない」と罵倒されてしまう。国民と政府との間には、信頼関係がまったく成り立たない。それが、小さな政府を追求してきた末の現状なんですよね。
若松 これは、福島第一原発事故のときも感じたことですが、新型コロナウイルスによって新たなリスクが生まれたわけではありません。以前からあったリスクが、コロナによって露呈したにすぎない。
 もともと原発は危険だったけれど、その危険性が東日本大震災によって露呈した。今回も、もともと医療体制などが脆弱だったという現実を、新型コロナウイルスが露呈させたわけです。ともすると、「日本の医療には十分なキャパシティがあったけれど、これだけ流行が拡大してくると足りなくなる」という話にすり替えられがちですが、そこははっきりさせておかなくてはならないと思います。
 この状況が「小さな政府」の結果だというのも、まったく同感です。その象徴ともいえるのが、私は図書館だと考えているんです。
図書館は、本来は単に本を貸し出すだけではない、「避難所」としての役割もあったはずなんです。事実、夏休みが明けた9月1日には、教室に行けなくて図書館に「避難」する子たちがたくさんいる。そこまでいかなくても、嫌なことがあったときに図書館に行って本を読んでいたなんていう経験は誰にでもあると思うのです。
 その図書館をすら、この国は民間にアウトソーシングし続けてきました。結果として、「頼まれたら本を出して渡す」だけの、機能的なコインロッカーみたいになってしまった図書館が少なくありません。一方で逃げ場を失って、自ら命を絶ってしまう子どもたちもいます。
 いのちの視点から見ればとても大事なものが、「無駄」だとして効率に置き換えられてしまう。そういう意味で、図書館の現状は今の危機的な状況とも密接につながっているのではないかと考えています。
中島 こうした状況を変えるためには、やはり「いのち」とつながった政治を取り戻さなくてはならないのだと思います。そのための知恵を歴史から見出したい、過去のリーダーや政治家の言動に学びたいというのが、この対談の趣旨です。
 たとえば、次回ではまず聖武天皇を取り上げたいと考えています。奈良の大仏を建立した人として知られていますが、あの大仏は単に「大きなものをつくりたい」というだけでつくられたものではありません。疫病の流行が続き、ものすごい勢いで人が亡くなっていく、遷都を繰り返したけれども状況はいっこうに改善されない……そのときに聖武天皇がやろうとしたのは、「みんなで心の中に大仏をもとう」ということ。まさに「いのちを守ろう」ということだったのだと思います。
 さらに、それに呼応して大仏建立などの工事を担った仏教僧、行基のことも取り上げたいと考えています。彼らもまた、一方的に国民に命令をするのではなく、ともに厄災に向き合っていこうとする「弱いリーダー」だったのではないかと思うのです。
若松 聖武天皇の意を受けて動いた行基の下には、さまざまな民衆がいたはずです。中には、罪を犯したりして世の中から排斥されていた人もいたでしょう。そういう人たちが、行基を「扉」にしながら天皇とつながって、世の中を支え、社会を変えていった。
そのように「扉」になりながら民衆の底力を体現していった人ともいえるのではないかと思います。
 アウトカーストの人たちとともにインド独立を目指したガンディー、社会から排斥されていた黒人たちを率いて公民権運動を進めたキング牧師などにも、同じことがいえます。こういった人たちも、今後の対談の中で取り上げていきたいですね。
 未来に向かって何かをやるときには、そうして歴史と深くつながることが不可避だと思います。現在の知恵だけで未来に足を進めようとするのは、とても危険です。
中島 おっしゃるとおりです。過去のリーダーたちの歩みを振り返ることで、政治というものの本質をあぶり出し、私たちが目指すべき「いのちの政治学」のすがたを見出したい。そこから、いのちを見捨ててきた今の政治に代わる、もう一つの選択肢が見えてくるのではないかと思うのです。
*対論連載「いのちの政治学~コロナ後の世界を考える」はつづきます。


 この連載、長くなりそうですので、あとは皆さんが直接お読みいただければと思います。https://imidas.jp/inochinoseiji/1/?article_id=l-93-002-20-04-g812

 不安定な天気が続きます。とても寒いのです。しかし時折、日がさすためハウス内は一気に暑くなります。そんなわけでハウス内の内張やトンネルの開け閉めが結構煩わしい。

ボートget
ついにボートをgetしました。5000円也。
安定させるため両サイドに「浮き」をつけるタイプです。これではジュンサイを両脇で取れないのではないかと思います。先頭あるいは船尾でしか手は届かないでしょう。それでも浮き輪のボートよりはましです。
 沼にはカモさんがたくさん来ています。横断歩道を渡るカモさん一家のように、共存できれば楽しいのでしょうが。


いのちの政治学~コロナ後の世界を考える 「今、リーダーに必要なこととは?」(前編)

2020年04月27日 | 社会・経済

第1回 
中島岳志(政治学者)
若松英輔(批評家・随筆家)
(構成・文/仲藤里美)
imidas 2020/04/27

    中島岳志さんと若松英輔さん。この心を閉ざしがちな危機的な状況の中で、お二人に“コロナ後”を見据えての対論連載を始めていただくことになった。私たちの心に平穏をもたらす政治家とは? 過去から未来へ、縦横無尽に検証する。


二人の「リーダー」の演説
中島 「いのちの政治学」と題したこの対談では、政治家や運動家など、過去に存在したさまざまな人物の歩みを振り返りながら、私たちに今必要な「リーダー」というもののあり方を改めて考えていきたいと思っています。
「リーダー」のあり方を再考する必要性を切実に感じたのは、我が国の首相、安倍晋三氏が2020年2月29日に行った、新型コロナウイルス対策に関する記者会見のときです。あの会見で、首相はそばのプロンプターに映し出された原稿をひたすら読み上げるだけで、自分の言葉で語ろうとはまったくしませんでした。記者からの質問に対しても、事前に官僚が作成した回答を読み上げるのみで、他の質問は無視。質問できなかった記者が「まだ質問があります」と叫んでも、首相は振り返りもせずに去っていきました。
 おそらくこのときに限らず、私たちはもう何年も、安倍首相という人の「声」を聞いていないのではないでしょうか。首相という一国のトップでありながら、誰かが用意したものをただ読み上げるだけの、非常に空虚な存在になっている、そのことがよく表れていた会見だったと思います。
 しかも、会見を目にする国民のほうは「イベントは中止しなきゃいけないのか」「これからの生活はどうなるのか」と、非常に大きな不安を抱えていたはずです。それに向けて、最低限の補償すらも示さず、「同じ苦しみの地平に立っている」という感覚を与えることさえできなかった。いわゆる「森友問題」では、公文書の改ざんを強要されて自殺に追い込まれた財務省近畿財務局職員の遺書が出てきてもなお、いまだしっかりとした説明がなされていませんが、それとも共通する日本政府の態度をよく表した会見だったといえます。
 一方、安倍首相の会見と非常に対照的に映ったのが、3月18日に行われた、ドイツのメルケル首相のテレビ演説でした。彼女は、コロナ危機について国民に向けて、こう語りかけています。
 これは、単なる抽象的な統計数値で済む話ではありません。ある人の父親であったり、祖父、母親、祖母、あるいはパートナーであったりする、実際の人間が関わってくる話なのです。そして私たちの社会は、一つひとつの命、一人ひとりの人間が重みを持つ共同体なのです。
 つまり世界中で、新型肺炎の致死率はこのくらいで、死者は何人で、それをこれからどのくらいの規模に抑えて……といった「数字」によってコロナ危機を語る言説があふれている中で、彼女は「抽象的な数字の問題ではない」と言い切ったわけです。そうではなく「生きた人たち」の話なんだと明確に、しかも非常にクリアでやさしい言葉で国民に投げかけているんですね。
 その後、「戦いの最前線」に立つ医療関係者や、食料品などの供給を担うスーパーの店員などに感謝の言葉を述べた後に、国民に協力を呼びかけます。
 誰もが等しくウイルスに感染する可能性があるように、誰もが助け合わなければなりません。まずは、現在の状況を真剣に受け止めることから始めるのです。そしてパニックに陥らないこと、しかしまた自分一人がどう行動してもあまり関係ないだろう、などと一瞬たりとも考えないことです。関係のない人などいません。全員が当事者であり、私たち全員の努力が必要なのです。
 感染症の拡大は、私たちがいかに脆弱な存在で、他者の配慮ある行動に依存しているかを見せつけています。しかしそれは、結束した対応をとれば、互いを守り、力を与え合うことができるということでもあります。
(中略)
 誰も孤立させないこと、励ましと希望を必要とする人のケアを行っていくことも重要になります。私たちは、家族や社会として、これまでとは違った形で互いを支え合う道を見つけていくことになるでしょう。
 この文章を読んで、私は我が国のリーダーとのあまりの落差に愕然としました。若松さんは、どう感じられましたか?
若松 今日の日本のリーダーとメルケル首相との決定的な違いは、その言葉の「方向」だと思います。
 日本のリーダーの話は、「私が考えていることを国民に伝える」というかたちを取っています。しかし、メルケルがやったのはそのまったく逆で、「あなたたちが思っていることを、私が言葉にして伝える」ということだったと思います。つまり、メルケルが語ったのは、メルケル自身の言葉であると同時に、みんなが気づいていて、けれど言葉にできなかった思いだったのではないでしょうか。
 スーパーマーケットの売り場で働く人たち、あるいは宅配便や郵便を運ぶ人たちといった、賃金からいえばおそらく高いわけではない職種の人たちが、これほどまでに社会を支えていたことを、私たちは今回初めて実感したと思います。そのように、平常時に見ていた社会とまったく違う社会の実相を今私たちは見ているということを、メルケルはまず言いたかった。その上で、この状況を乗り越えるには協力し合うほかはないのだとみんなが感じている、それを改めて言葉にして示してみせた。これこそリーダーの役割ではないかな、と思いました。

中島 この会見では、こんなことも語られます。
  感謝される機会が日頃あまりにも少ない方々にも、謝意を述べたいと思います。スーパーのレジ係や商品棚の補充担当として働く皆さんは、現下の状況において最も大変な仕事の一つを担っています。皆さんが、人々のために働いてくださり、社会生活の機能を維持してくださっていることに、感謝を申し上げます。
 スーパーのレジ係への謝辞に象徴されるように、メルケルの言葉を聞いた国民は、「首相は国民のほうにしっかりと目を向けている」という感覚、首相と自分がつながっているという感覚を非常に強く持つと思うんですね。そういう象徴的な言葉をこれほどクリアに分かりやすく出せる政治家を、久しぶりに見たと感じました。
 また、もう一つ、私が彼女を素晴らしいと思うのは、自分の言ってきたことが間違っていたと気づいたときに、きちんと転換ができる人だということです。
 それがよく表れていたのが、原発の問題ですね。ドイツは福島第一原発事故の後、当事者である日本以上に大きな方向転換をしました。2011年5月に、「2022年までに全原発を停止する」と、「原発を手放す」方向性を明確にしたのです。
若松 メルケルは、世界を冷静に見る「目」と人の心を見る「眼」、両方の眼を備えた人だという気がします。冷徹なまでの現実主義と、人の心の痛みを感じ取る力とが、彼女の中には併存している。これは、リーダーにとってかけがえのない資質ですよね。
 日本の政治家を見ていると、冷徹な現実主義のほうだけで、もう一つの「眼」を備えていないと感じる人が多いのが怖いですね。人の痛みを感じることができず、冷徹な目でだけものを見て行動するリーダーは、必ず間違うと思うのです。
中島 しかも、困ったことにその冷徹なはずの目までが濁っている政治家も多いように感じます。

言葉を超えた「コトバ」とは?
中島 言語学者の井筒俊彦は、言語によって伝えられる「言葉」とは別に、その人の態度や存在そのものから、言葉の意味を超えた何かが伝わってくるようなものを「コトバ」と呼びました。大切な思いが「言葉」にならないことって、私たちにはよくあると思います。「言葉」にならないからといって、その思いが存在しないというわけではありません。時に沈黙のほうが雄弁であることさえあります。「言葉」を超えた「コトバ」の世界があると思うのですが、若松さんのおっしゃる「人の心を見る眼」を備えた人は、この「コトバ」で伝えることのできる人でもあると思います。
 私はドイツ語がまったく分からないのですが、それでもメルケルの演説を聴いているとどこかぐっと迫ってくるものがある。それは、彼女が「言葉」だけではなく「コトバ」を発しているからだと思うのです。
若松 華美な表現が使われているわけでもなくて、非常に冷静に、率直に話をしているだけなのに、それ以上のものが伝わってきますね。言葉以上のコトバが、そこにあふれているということだと思います。
 韓国の康京和(カン・ギョンファ)外相の会見にも、同じことを感じました。彼女もやっぱり言葉だけではなくコトバを発している人だ、と。「私たちはこんなことをやりました」というだけではなく、「私たちの経験を、世界の経験として生かしてほしい。私たちも他の国の経験から学ぶ」という態度がはっきりと表れていた。そうした、「危機になればなるほど開かれていく」という姿勢も、リーダーにとってとても大事だと思います。
中島 政治家ではないのですが、私が「コトバが語られている」と感じたのは、日本相撲協会の八角理事長が、三月場所の千秋楽で挨拶したときです。彼は話し始めに、ぐっと涙を堪えるように黙り込みました。そして、「元来、相撲は世の中の平安を祈願するために行われて参りました」と話し、最後に新型コロナウイルスによって亡くなった人たちへの哀悼の意を述べたのです。
 これもまた、非常に平易な表現でしたが、「コトバがあふれている」ところがあったと感じました。それはやはり、この状況下で開催していいのかどうかを悩み、最終的に無観客でやる、しかし一人でも感染者が出たら中止するというぎりぎりの選択をした八角理事長の、さまざまな葛藤や苦しみが表れていたということだと思います。逆に言えば、我が国のリーダーには、そうした葛藤や苦しみがないから、コトバが表れてこないのではないかと思うのです。
若松 プロンプターに映し出される言葉とは違って、コトバはその人の中からしか出てきません。内在するものがなければ、コトバは何も出てこないのです。
 メルケルにしても康京和にしても八角理事長にしても、それまでの政策や行動への評価はさまざまかもしれません。それでも、彼らの中には言葉を超えて蓄えてきたものがずっとあり、それが今回のような危機の状況になって一気に湧出してきたということだと思います。
中島 勉強ができるとか、哲学を知っているとか、そういうことではないんですよね。誠実に、真摯に現実と向き合い、葛藤しながらいろんな痛みを経験してきた人間からは、おのずと言葉にならないコトバが発せられてくる。それを人はどこかで感じ取るからこそ、その人と一緒にやっていこうと思えるわけです。そうしたコトバを発せられる人こそがリーダーなのではないでしょうか。そのコトバが我が国のリーダーには存在していないということが、今回の危機であぶり出されたと思っています。
若松 コトバを生み出すのは、「無私」の精神だと思います。ここでいう「無」は、「私」を無くすということではなく、超えていくということです。英語でいえば「no self」ではなく「beyond self」、私自身を包み込みつつも私を超えていくというイメージです。それができていることが、コトバが発せられるための最低条件だと思うのです。
「私」を超えるということは、代わりに何かが前に出てくるということです。それは場合によって民衆の声であったり、相撲の歴史であったりするけれど、自分よりも前に出てくるものがあったときにコトバが発せられるのだと思います。
「自分を超えて何かを前に出す」というのは、なにも特別なことではなくて、たとえば親と子の関係などではしばしば見られるあり方のはずです。
しかし、それを政治の場、あるいは危機が迫っているような場面で実行できる人は非常に限られている。それをできる人こそが、リーダーなのだと思います。

「命の統計学」から「いのちの政治学」へ
中島 言葉とコトバの話に続いて、今回の対談のタイトルにもしている「いのち」についてもお話ししていきたいと思います。
 私は「いのち」という言葉を、肉体的な生命を指す漢字の「命」よりももっと幅広い、人間の尊厳などを含み込んだ概念を指す言葉として使っています。私たち人間は、単に命だけを生きているのではない。身体は生きていても、いのちが失われてしまうことはあるし、逆に命は失われても、いのちが生きていることはあり得る。自由を奪われ従属を強いられた奴隷は、命はあっても、いのちが消えているかもしれない。死者は命がなくても、多くの人に想起され、振り返られることでいのちを保っている。そういう関係性が存在していると思うのです。
 新型コロナウイルス感染症によって何人死亡した、陽性反応が何人出たなど、数値化したデータが表すのは、この「命」のほうだけの問題です。しかし、そこで問題になるのは、では「いのち」のほうはどうなのか、ということ。病気にかかったかどうかにかかわらず、私たちは今、誰もがいのちの危機に瀕しています。そこにどういうメッセージを届けられるかが、リーダーにとって非常に重要ではないかと思うのです。
 今の政治においては、統計的な数値によって表される命の問題ばかりが語られがちです。この「いのちの政治学」の対談ではそうではない、いのちに語りかけるようなコトバや政策とはどういうものなのかを考えたいと思っています。
若松 「命」というのは、計量かつ論証可能なもの。対して「いのち」とは、計量も論証も不可能で、けれどたしかに存在すると実感できるものだと思います。私たちにとっては両軸がどうしても必要であって、メルケルの話も、その両方をしっかりと見据えているからこそ私たちの胸に響くのではないでしょうか。
 数字や言葉だけでは示せない、いのちというものをどう分かち合っていくのか。それが「いのちの政治学」だと思います。
中島 若松さんは最近、こんなツイートをされていました。

愚劣な政治は「いのち」を簡単に量に換算する。数字で語る事で理解したと思い込む。だが、現実はまったく違う。病むのはいつも誰かの大切な人であり、世界でただ一つの存在だ。これが「きれいごと」にしかならないなら、文学も哲学も芸術も不要だろう。これらはつねに、「いのち」の表現だからだ。(2020年3月14日)

 おっしゃるとおりだと思います。そして、計量可能な命の面ばかりを語ろうとする人たちはいつも、その「量」をごまかそうとします。被害を小さく見せようとし、逆に危機を煽ろうとするときには数値を大きく見せようとする。それがこれまで行われてきた「命の統計学」だったのではないでしょうか。私は、そこにコトバを突きつけることで、それとは違う「いのちの政治学」の地平を開いていきたいと思うのです。
「命の統計学」の象徴が、水俣病の問題ですよね。被害をとにかく小さく見せようとごまかしが続けられた結果、救えたはずの多くの命が失われていった。そして、尊厳や社会関係といういのちまでもが奪われた。私たちが水俣から学ぶべきことは、非常に大きいと思います。
若松 現代においては、「数ではっきりと示せない」ことと、「存在しない」ということが、同じこととして扱われるようになっている気がします。でも本来、その二つはまったく別のことのはずです。
 たとえばアウシュビッツにおけるユダヤ人虐殺について、600万人も殺されたなんて嘘だ、だからジェノサイドではなかった、などと主張する人がいます。しかし、ジェノサイドというのは、亡くなった人の数の問題ではないのです。仮に600万人という数字に誤りがあったとしても、亡くなったのが一人だったとしても、アウシュビッツで行われたことは許されてはならないはずです。
中島 私の専門の政治学で必ず学ぶことの一つに「統治の原理」というものがあります。ある国が植民地を支配するときに何を重視するかということなのですが、その大原則が「数を数える」ことと「分類する」ことなんです。
 たとえば、イギリスによるインドの支配においても、最初に行われたのはインドの人々に「宗教は何か」「カーストは何か」といったことを尋ねて集計する、いわば国勢調査でした。実はそれまでのインドでは、宗教の境界線は曖昧で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が明確に区分されていたわけではなかったのです。そもそも、ヒンドゥー教という概念が成立しておらず、一枚岩の宗教という認識もなく、さらにカーストの区別も明確ではありませんでした。イギリスはそれを無理やり、あらかじめ分類したカテゴリーにあてはめていきました。どういう分類の人がどこに何人住んでいるのかを把握することで、徴税をはじめとするいろんなシステムをつくっていくというのが、近代国家の原理だからです。
 私は、この数と分類による「統治の原理」を超えたところにこそ、本当の政治があるのではないかと思っています。そして、そこを知るためには、いわゆる政治学だけではなく、文学や宗教といったものに接近していく必要がある。そこから「いのちの政治学」が見えてくると思うのです。

*後編につづく。「今、リーダーに必要なこととは?」(後編)は4月28日公開予定です。

(【4月28日予定】 goo blog、マルシェルでのサービス停止を伴うシステムメンテナンスのお知らせ)がありますので、アップできないかもです。

 


新型コロナが問う日本と世界 医療崩した緊縮政策 欧州各国の労組・メディア 人権・福祉最優先を迫る声

2020年04月27日 | 社会・経済

  「しんぶん赤旗」2020年4月25日

 新型コロナウイルスが猛威を振るう中、イタリアやスペインなどで医療崩壊が深刻になっています。
 「病院の資材、集中治療室(ICU)のベッド数と重症患者の数がまったく釣りあわない。もし呼吸に問題のある高齢の患者が来ても処置はされないだろう。治療するかどうかは、患者の年齢や健康状態で決められる。冷酷な宣告だが、残念ながらそれが真実だ」
 イタリア国内で感染者・死者が最も集中している北部ロンバルディア州。ベルガモ市内の病院に勤務する医師は、欧州のニュース専門テレビ局ユーロニュースにこう語りました。患者が押し寄せ、医師や看護師は全く足りず、「命の選別」(助かる可能性がより高い患者を優先して治療すること)を余儀なくされていることを訴えました。

 これは3月半ばの事態。すでに医療現場はこれほどの危機に見舞われていました。この時点で約1000人だった死者数はみるみる膨れ上がり、約1週間後には中国を抜いて世界最多になり、今月22日には約2万4000人に達しました。
 欧州でイタリアに次ぐ死者が出ているスペインでも似たような事態が起きています。現地からの報道によると、首都マドリード市内の病院では緊急治療を待つ患者が1日で数百人に上り、資材不足で医療従事者は通常の制服とマスクだけしか身に着けていない状態。集中治療室には助かる見込みのある人が優先的に運び込まれています。
 全国労組スペイン労働者委員会(CCOO)はメーデー向けの声明で「(EUなど)欧州の機関は、過去の金融危機で彼らが押し付けた緊縮政策が、社会的保護と労働者保護の仕組みを弱体化させたことを認めるべきだ」と批判。「人々の権利と福祉が最優先される新しい経済・社会モデルをわれわれは要求する」と宣言しています。
 
イタリア スペイン 元凶は緊縮政策
医療崩壊に直面 新たな社会モデルへ
 イタリアとスペインが直面する医療崩壊の主要な原因の一つが、緊縮政策による医療の切り捨てです。
 両国とも1990年代には欧州単一通貨ユーロに参加するうえで課せられた基準を満たすために緊縮政策を実施し、公共支出を削減。さらに2007年の世界金融危機、10年のユーロ危機以後は欧州連合(EU)や国際通貨基金(IMF)から緊縮政策を要求され、社会保障や医療の分野が犠牲にされました。

 イタリアの民間機関の分析によると、10年以降だけを見ても370億ユーロ(約4兆3000億円)の財源が国民保健サービスから削減されました。1000人あたりの病床数は1990年に7・2だったのが、2000年には4・7、12年には3・4と減ってきました。国会のまとめによると、08年から17年の間に医療従事者は約4万3000人減りました。

 同国メディアでは「(新型コロナの)大流行はシステムの欠陥を浮き彫りにしている。少なくともこの10年間、民間の医療を利するために公共の保健分野で行われた財政削減が影響している」という指摘が出ています。
 高齢化も医療崩壊に拍車をかけています。緊縮政策のもと、18年に国外移住したイタリア国民は16万人に上り、2008年以降に国外に出た若者の累計は約200万人となりました。英紙フィナンシャル・タイムズは、技能を持った若い人材が失われ、人口の約23%が65歳以上という高齢社会になっていったと指摘しています。
 スペインのプブリコ紙は3月20日付で「新自由主義の右派が医療を壊した」と題する記事を掲載。新自由主義と右派の研究を10年続けた研究者の話として、緊縮政策による予算削減の結果、約18万人が予防医療へのアクセスを失い、公共の医療機関で働く28万人が解雇され、約60万人が無収入の状態に追いやられたと指摘しました。
 右派政権下でとられた緊縮政策でマドリード州では全体の5分の1にあたる3000の病床が削られ、3200人の医療従事者が解雇されたとしています。

 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは18年にスペインについて「緊縮政策で追い詰められる患者」と題した報告書を発表。緊縮政策によって、医療関連の人件費、設備費、インフラ費用の予算削減などが進み、患者の負担増や受診抑制、医療従事者の労働環境悪化による医療の質の低下につながったとしています。医療保健制度の下で働く従業員数は12年から3年間で2万8500人も減少しました。

 コロナ危機を契機に、従来のグローバル化や緊縮政策について問い直す声も出ています。
 フランスのマクロン大統領は新自由主義の政策を強行し、国民生活を追い詰めてきました。そのマクロン氏さえも17日付のフィナンシャル・タイムズ紙のインタビューで、10年の金融危機後にイタリアやスペインが教育や医療分野の支出削減を強いられたことに関し、「(緊縮を)要求したのはだれかを考えなければならない」と強調。コロナ危機でドイツやオランダなどが欧州の連帯に背を向けるならば、ポピュリスト(大衆迎合主義者)が勝利すると危機感を示しました。
 またこれまで「グローバル化はより速い循環と蓄積がすべてだった」が、コロナ危機は「その性質を変える」との認識も示しました。グローバル化について「特に近年、先進国で不平等が増大している。この種のグローバル化がサイクルの終わりに到達しつつあることは明瞭だ。それは民主主義の土台を掘り崩している」と述べました。

 今月13日には、ミラノ、アムステルダム、バルセロナ、パリの4市の市長が、ユーロ圏やEUなどに対して、コロナ危機対応にあたって緊縮政策を押し付ける誤りを繰り返してはならないと訴える共同アピールを欧州主要紙に発表しました。
 共同アピールは、世界金融危機とその後に行われた緊縮政策が公共サービスの力を弱め、経済成長を遅らせ、社会的な不平等をつくりだしたと強調。「われわれはその代償を今も払い続けている」と批判しました。新型コロナへの対応では社会的サービスが極めて不足しており、それは世界金融危機の時に切り捨てられたものだと指摘。「失敗に終わった処方箋に再び気を取られてはならない」と強調しました。新型コロナの支援策を実施する際に「緊縮政策の条件付きとしないことを求める」としています。
 ベルギー労働党の欧州議会議員マルク・ボテンガ氏は論文(4月3日発表)で、コロナ危機の前から欧州諸国では緊縮政策で医療が切り捨てられてきたと批判。欧州委員会が支持していたモデルは「米国のリベラルな医療モデル」であり、EUが「サービス指令」で利益優先の市場論理を医療にも持ち込んできたとし、「緊縮政策は証明済みの深刻な健康被害」だと述べました。「公共サービスは利益志向であってはならない」「健康は商品であってはならない」と強調し、公的医療制度の再建を取り組みの中心に置くよう訴えました。

■新自由主義脱却めざす
 新型コロナが欧州各国に甚大な被害をもたらす中、この危機を深刻化させた新自由主義や緊縮路線など、これまでの経済・社会モデルを脱却し、社会福祉を最優先する新たなモデルを模索する声も広がっています。
 仏メディアRFI(電子版)3月30日付は、新型コロナによる世界的危機に関して、公共政策や医療の専門家が「現代の経済・政治モデルに責任があると指摘している」とする特集記事を掲載。フランスの社会学者エドガー・モリン氏は「今回の危機によって、われわれがあらゆるレベルで新自由主義から脱却することを可能にしなければならない」と強調しています。

■緊急基金の設立を合意
 欧州連合(EU)は23日のテレビ首脳会議で、新型コロナウイルスの危機収束後の経済再建策を協議し、深刻な打撃を受けた加盟国への融資や企業支援のため1兆ユーロ(約116兆円)規模の緊急基金を設立することで合意しました。一方、資金調達の方法などをめぐり各国の意見が分かれ、詳細は持ち越しとなりました。
 ウイルスの感染拡大で深刻な被害を受け、欧州の連帯の必要性を強く訴えてきたスペインやイタリアは一定の成果があったとの見方を示しました。ドイツのメルケル首相も記者会見で「誰もが必要としていた基金だ」と強調しました。
 一方、資金を返済の必要がない助成金とすると主張するスペインやイタリアと、貸付金での給付を主張するオーストリアやオランダで意見が分かれました。フランスのマクロン大統領は「各国の溝は埋まっていない」と認め、この危機に結束できなければ「欧州全体が失敗する」と強調しました。
 欧州委員会は5月上旬に基金の概要を示す予定です。


NHKの障害者バラエティ『バリバラ』に伊藤詩織さんが出演! ヘイトに声を上げた水原希子を称賛、コロナに乗じた差別に警鐘!

2020年04月26日 | 社会・経済

   リテラ 2020.04.24 


    23日放送のNHK『バリバラ』(Eテレ)が、「バリバラ桜を見る会~バリアフリーと多様性の宴~」と題して、“攻めまくった放送”をおこなったと話題になっている。『バリバラ』といえば、「生きづらさを抱えるすべてのマイノリティの人たちのバリアをなくすために考える」情報バラエティ。障害者やマイノリティの当事者たちが出演し、彼・彼女らを取り巻く社会に鋭く切り込んできた番組だ。

 今回の「バリバラ桜を見る会」では「2019年度に多様性の推進に功績のあった方々」が「社会を動かした当事者とともに、社会の多様性を考える」という趣旨でスタジオに集結。民族差別撤廃の声を上げ、川崎市の差別禁止条例の制定に尽力している在日コリアン三世の崔江以子さん、不妊手術を強制した旧優生保護法裁判を戦う小林寶二さん・喜美子さん夫妻のほか、さらに、山口敬之氏からの被害を告発、地裁民事で勝訴し性暴力をなくす活動に取り組むジャーナリスト・伊藤詩織さんがスタジオ出演したのだ。

 “地上波ゴールデンのバラエティ番組”に伊藤詩織さんが登場するだけでも画期的と言えるが、たしかに『バリバラ』は最初から最後まで飛ばしていた。
 冒頭では、安倍首相主催の「桜を見る会」を模しながら「公文書 地理ゆく桜と ともに消え」なる俳句。また、交通事故によって高次脳機能障害や右手麻痺などの後遺症を残すアーティスト・TASKEさん(「地元枠として招待」という設定)が、「オレ地元枠なの? じゃあ名簿はさっさと廃棄しなきゃ!」と言って「招待客名簿」を手動のシュレッダーで廃棄するなど、疑惑と隠蔽にまみれた「桜を見る会」に皮肉を込め、安倍首相と麻生太郎副総理のものまね風刺コントも披露された。

 本サイトがとりわけ紹介したいのは、伊藤さんと崔さんの言葉だ。番組では「多様性功労者」のひとりとして、人種差別に正面から反対のメッセージを発信している女優の水原希子を取り上げたのだが、伊藤さんはそのことに触れて、スタジオでこう話した。
「彼女はヘイトスピーチに対して声を上げたというんですけど、日本の芸能界という場で、なかなか政治の話をするというのはすごく勇気のいることだったと思うんですけど、そうやってオピニオンリーダーとしてどんどん自分の思ったことを発言していく、声を上げるというところは、本当に水原さん、素晴らしかったなと思って。もっといろんなそんな人が出てくれたらいいなと」

 さらに、TASKEさんが昨年の参院選で当選した重度障害者の舩後靖彦議員、木村英子議員をあげ、「舩後さんと木村さんの、れいわ新選組のバリアフリーの風を巷間に巻き起こしたというのが、これこそ実績というのかな、本当に」と述べると、崔さんが続けて、日本におけるマイノリティの政治参加をこのように語った。
「たくさんある課題を解決したりとか、あるいはより豊かな社会をつくっていくための議論する場である国会の、構成員のバランスの悪さというか、当事者性のなさというか。もっともっと、たとえばアイヌとか、とか、女性とか、障害のある人とか、マイノリティが活躍できる、参画できていったらより豊かだというふうに思います」

Aマッソの大坂なおみ選手差別漫才と「そんなつもりじゃなかった」弁明をめぐる論議も

 他にも昨年、お笑いコンビのAマッソがテニスプレーヤーの大坂なおみ選手を「(あの人に必要なのは)漂白剤。あの人日焼けしすぎやろ」と言った問題について、スタジオでは時事漫才コンビの三拍子が「本当に差別するために言うとかそういうなんの気もなしにサラっと言ってしまったこと、面白いだろうと思って言ってしまったことなので、我々も気づかずに漫才中に言ってしまってるかもしれないなと、初めてニュースに出たときに考えさせられましたね」と発言したのだが、これに関して、崔さんはこのように返していた。
「『そんなつもりじゃなかった』というのは、いつもそう言われるんですよ。するほうは『そんなつもり』じゃなくても、受ける側、されるほうの側は、『そんなつもりじゃなかった』って言葉にいつも心を刺されていて。するほうがどんなつもりかじゃなく、受ける側がどういう被害が生じるのかということを想像していくことが大切だと思います」

 伊藤さんと崔さんは、新型コロナウイルスに乗じた差別についても言及。政治家や行政がヘイトを扇動していることに強い危機感を表した。
 伊藤さん「コロナウイルスのせいでアジア人差別につながっているというのは、本当にアメリカに住む友人からもすごく聞いていて。トランプ大統領も『China Virus』、“中国ウイルス”って言っていたんですね。発信力のある人のその言葉遣いで拡がってしまう偏見、差別というのは、本当にいま、気をつけなくてはいけない。そこをどういうふうに止めていけるのかというのが、いまの本当の課題だと思いますね」
 崔さん「私も伊藤さんと同じで、コロナウイルスが差別につながっていることが、とても胸が痛いです。たとえば感染拡大防止のために行政機関が子どもたちが集う場所、教育機関にマスクを配布したんですけど、その際に朝鮮学校がその対象から外されてしまったり、あるいは横浜中華街の中華料理屋さんのいくつかの店舗に本当にひどい差別的な手紙が届いたりということが生じてしまっています」
 たとえば麻生太郎副総理はこれまで何度も差別発言を繰り返してきたが、まさに「そういうつもりではなかった」「誤解を生んだなら撤回する」というような形だけのポーズで野放しにされている。また、自民党には杉田水脈衆院議員のように性的マイノリティ差別を公然と言い放ったり、小野田紀美参院議員のような「在日外国人は現金給付から外すべき」というような差別的主張を繰り出す政治家たちが、何事もなかったかのように議員であり続けている。

 こういった安倍政権の政治家たちの言動が、行政による差別にお墨付きを与えているのではないのか。いわば“官製ヘイト”だ。崔さんが話していたように、新型コロナウイルスに関連したマスク配布では、さいたま市が朝鮮初中級学校の付属幼稚園などを対象外にした。多くの抗議の声があがり、結果的に、さいたま市は配布するよう変更したが、これに限らず、行政による差別は当然のように横行しているのだ。そして、これが反射するかたちで、ネット上のヘイトスピーチに勢いを与える。

在日コリアン三世の崔江以子さんが受けたヘイト体験に伊藤詩織さんは強く共感

 崔さんと伊藤さんは、ネットでのヘイトや誹謗中傷についても自らの経験をこのように語っていた。
 崔さん「今日、実は弁護士さんに調べてもらったら、検索ウェブサイトで私の名前を検索すると、千数百万件の書き込みがヒットします。『出ていけとか』『国に帰れ』とかそういうヘイトがほとんどですね。数が多く書かれるからといって、決して慣れたりすることではないです。一件一件、本当にしっかり怖いですし、しっかり傷つきます」
 詩織さん「いま自分の受けたことも思い返していたんですけど、どんどん手足が冷たくなって、身体が冷たくなって、いま(崔さんのお話を)聞いているだけでも冷たくなってしまったんですけど……やっぱり命の危険を感じるような書き込みだったりとか、誹謗中傷を受けたときは、どういうふうに生活を続けていいのか、この人たちが本当に命を狙ってくるんじゃないかと思うと、普通に生活ができなくなってしまったし、家族に迷惑をかけてはいけないと思って家族とも距離ができたし、それを考えると、そういうことがあってイギリスに身を移しているんですけど」
「女性から『女性として恥ずかしい』と。『あなたの受けたことが本当であっても、日本人女性としてそれはやるべきではない』というメールが来たので、(私は)できたらそう思われる背景をぜひお聞かせしてほしいということをメールで書いたことがありましたね。でも、どんなに丁寧に返信をしても一度も返ってきたことがなくて。だから、できればもうちょっと対話できる場所はほしいなと思っています」

 崔さん「インターネット上のヘイトスピーチが禁止されたりするルールがないなかでは、個人の力でひとつひとつ取り組むしか策がありません。法務局に申告して、それが人権侵害にあたるかどうかを審査してもらって、あたるということであれば、国、法務局がその運営会社に削除要請をお願いをする。そのかかる時間と二次被害と、本当に個人の力では限界があるなと」
 伊藤さん「やっぱりヘイトの問題につながるんですけど、アメリカでもいままでヘイト、メキシコ系の方にだったりとかLGBTQの方への銃乱射事件があったりとか、本当に、もしかしたら知らないうちに大きくなってしまっているオンラインのヘイトが、そうした大変な事件につながりかねないということを考えると、本当にヘイトスピーチに対して今一度考えていかないといけないんじゃないかと思いますね」

 こうした差別問題、とりわけ政治主導の“官製ヘイト”については、本サイトでも何度も取り上げてきたが、地上波のゴールデン番組である『バリバラ』に伊藤さんや崔さんら当事者が出演し、踏み込んだ発言をする意義は大きい。「バリバラ桜を見る会」の後編(第二部)は、来週4月30日午後8時から放送される。コロナに乗じてヘイトが勢いづき、多様性を否定する動きが活発化するなか、真っ向から対峙する『バリバラ』を今後も注目したい。
(編集部)


*  *   *

NHK「バリバラ」再放送が直前差し替え 伊藤詩織さんら出演分が別の回に


毎日新聞 4/26(日) 1:22配信 
 

NHK「バリバラ」再放送が直前差し替え 伊藤詩織さんら出演分が別の回に


放送30分前に番組の差し替えを発表したNHK「バリバラ」のホームページ 

   
 NHKの障害者をテーマにした情報バラエティー番組「バリバラ」で、23日夜放送の「バリバラ桜を見る会~バリアフリーと多様性の宴(うたげ)第1部」の再放送が、26日午前0時から放送予定だったのが、放送直前に急きょ差し替えられた。

 この回は、昨年度にバリアフリーや多様性に携わった人を招き、お花見形式でトークするという内容。顔と実名を公表して性暴力被害を訴えた、ジャーナリストの伊藤詩織さんらが出演した。放送後、ネット上では、この企画に賛同する意見の一方で、反対する意見も上がっていた。

  突然の差し替えに、ネット上では「なんで(放送)中止になったのか」「圧力ではないのか」などの声が上がっている。

  バリバラのサイトには、25日午後11時半に『「バリバラ」Eテレ4/26(日)午前0時からは予定を変更して新型コロナ関連の「“自粛”検討会議」をアンコール放送します』と説明が掲載されている。

  なお、「バリバラ桜を見る会 第1部」はNHKプラスとTVerで30日午後8時29分まで見逃し配信で見ることができる。また、「第2部」(30日午後8時)は、今のところ放送予定となっている。【油井雅和】


「バリバラ桜を見る会」の後編(第二部)は、来週4月30日午後8時から放送される。
超ご期待!
残念、TV観れない。

代わりに観てね。(放送されればのおはなしだけど)


予想される食糧難、今求められること。

2020年04月25日 | 食・レシピ

種苗法改正 農業崩壊にならないか

「東京新聞」社説2020年4月25日
 
 国の登録品種から農家が種取りや株分けをすることを禁ずる改正種苗法案が、大型連休明けにも国会の審議に入る。国民の命を育む食料の問題だ。コロナ禍のどさくさ紛れの通過は、許されない。
 現行の種苗法により、農産物の新しい品種を生み出した人や企業は、国に品種登録をすれば、「育成者権」が認められ、著作権同様、保護される。
 ただし、農家が種取りや株分けをしながら繰り返し作物を育てる自家増殖は、「農民の権利」として例外的に容認されてきた。
 それを一律禁止にするのが「改正」の趣旨である。原則容認から百八十度の大転換だ。優良なブドウやイチゴの登録品種が、海外に持ち出されにくくするためだ、と農林水産省は主張する。果たして有効な手段だろうか。

 もとより現政権は、農業に市場原理を持ち込むことに熱心だ。
 米や麦などの優良品種の作出を都道府県に義務付けた主要農作物種子法は一昨年、「民間の開発意欲を阻害する」という理由で廃止。軌を一にして農業競争力強化支援法が施行され、国や都道府県の試験研究機関が保有する種苗に関する知見を、海外企業も含む民間企業へ提供するよう求めている。そこへ追い打ちをかけるのが、種苗法の改正だ。

 対象となる登録品種は、今のところ国内で売られている種子の5%にすぎず、農家への影響は限定的だと農水省は言う。だが、そんなことはない。
 すでに種子法廃止などにより、公共種子の開発が後退し、民間種子の台頭が進んでいる。その上、自家増殖が禁止になれば、農家は許諾料を支払うか、ゲノム編集品種を含む民間の高価な種を毎年、購入せざるを得なくなる。死活問題だ。小農の離農は進み、田畑は荒れる。自給率のさらなる低下に拍車をかけることになるだろう。
 在来種だと思って育てていたものが実は登録品種だったというのも、よくあることだ。在来種を育てる農家は絶えて、農産物の多様性は失われ、消費者は選択肢を奪われる。そもそも、優良品種の流出防止なら、海外でも品種登録をした方が有効なのではないか。何のための「改正」なのか。
 種子法は、衆参合わせてわずか十二時間の審議で廃止になった。種苗法改正も国民の命をつなぐ食料供給の根幹にかかわる問題だ。
 今度こそ、十二分に議論を尽くしてもらいたい。

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食料入手に苦しむ人、コロナで倍増か。「飢餓パンデミックの瀬戸際にいる」とWFPが警鐘。
東アフリカ諸国では作物が食い荒らされる被害も広がり、食料問題の深刻化にさらに拍車がかかる可能性がある。
  朝日新聞社 2020年04月23日

 新型コロナウイルスの感染拡大に先駆け、同国には過去70年で最大規模のバッタの大群が襲来。第2波も発生しており、その規模は前回の20倍になっているという

食料入手に苦しむ人、コロナで倍増か WFPが警鐘
 新型コロナウイルスの感染拡大により、最低限の食料の入手さえ困難になる人が今年は世界で倍増し、2億6500万人に上る可能性がある。国連世界食糧計画(WFP)が21日、そんな推計を発表した。ビーズリーWFP事務局長は「飢餓パンデミック(世界的大流行)の瀬戸際にいる」と警鐘を鳴らす。
 
 WFPなどが公表した「食料危機に関するグローバル報告書」によると、2019年は、55カ国・地域の1億3500万人が深刻な食料危機に陥っていた。主な理由は紛争(7700万人)や天候(3400万人)、経済危機(2400万人)だった。地域別ではアフリカ(7300万人)、中東・アジア(4300万人)が特に多かった。
 今年は新型コロナの感染拡大によって各地で経済活動が停滞しており、深刻な食料危機に苦しむ人の激増につながることが懸念されているという。
 エチオピアやソマリア、ケニアなどの東アフリカ諸国では最近、サバクトビバッタの大量発生により、作物が食い荒らされる被害も広がり、食料問題の深刻化にさらに拍車がかかる可能性がある。

 21日に国連安全保障理事会のオンラインでの会合に出席したビーズリー氏は「我々が直面しているのは世界規模の健康被害だけでなく、人道的な大惨事だ。ウイルスそのものよりも、経済的影響によって多くの人が死ぬという現実的な危険性がある」と指摘。安保理がリードする形での停戦の実現のほか、世界各地で1億人に食料や個人用防護具を配布しているWFPへの支援を訴えた。(ニューヨーク=藤原学思)
(朝日新聞デジタル 2020年04月23日 12時53分)


 これが安倍政権である。目の前にある「国難」を顧みず、どさくさに紛れ不急・不要な法案を次々と提出、成立を狙っている。
だから、「安倍を倒せ」と言っている。「こんな時だからアベ批判をやめ一致団結してコロナに立ち向かおう」という意見はもっともな話である。でも、この政権を倒さなければコロナにも太刀打ちできず、国民の命が無残にも失われている現実を直視するべきである。


雨宮処凛がゆく! 第519回:いのちとくらしを守るなんでも相談会〜全国から上がる悲鳴〜の巻

2020年04月25日 | 社会・経済

マガジン9 2020年4月22日 
  https://maga9.jp/200422-1/

 受話器を置いた瞬間、呼び出し音が鳴り響く。会場にいる間中、ずーっとその繰り返しだった。
 それはコロナ経済危機を受けて開催された「コロナ災害を乗り越える いのちとくらしを守るなんでも相談会〜住まい・生活保護・労働・借金etc.〜」の電話対応の場でのこと。

 今、新型コロナ感染拡大によって収入が減少し、生活資金が尽きる事態が全国で起きている。それだけではない。コロナによる営業不振を理由に雇い止めされた、家賃が払えない、さまざまな支払いができない、使える制度を教えてほしいなど、多くの悲鳴が上がっている。そんな人たちの不安に応えるため、4月18日、19日の午前10時から午後10時まで、大阪や東京など全国にいる相談員が電話を受けたのだ。2日間で、全国から5000件以上の相談が寄せられた。これは相談員が電話をとれた数だけで、2日間でフリーダイヤルには42万件のアクセスがあったという。電話をとった瞬間、「やっと、つながった!」と言われることもあった。
 このホットラインで2日間、短時間だが相談員をした(感染防止のため、相談員は短時間の入れ替わり制が推進されていた)。相談員をつとめたのは、全国の弁護士、司法書士、労働組合、諸団体。全国25都道府県に会場が設置され、125回線で対応した。このホットラインに参加した相談員はのべ468人。もちろん全員がボランティアだ。

 電話に出て、さまざまな声を聞いた。どれもすぐに対応が必要なほどに深刻なものだった。また、相談してくる人があまりにも多岐にわたっていることに驚いた。
 フリーランス、居酒屋店主、派遣などの非正規、アルバイト、正社員、生活保護を受ける人、無職などなど。自分が電話を受けたケースについて、自分の知識では対応できないときは、事務所に待機している弁護士さんや司法書士さんに代わってもらった。
 全体の集計を見ると、相談してきた中でもっとも多かったのは「無職」の874件(以下の数字は、4月20日時点での集計をもとにした。今後、集計が進むと増える可能性がある)。ついで「自営業」459件、「業務請負・個人事業主」325件、「パート・アルバイト」220件、「正社員」163件、「派遣社員」110件、「他」134件となっている。

 相談の中で一番多かったのは、「生活費問題」で2091件、ついで「労働問題」で505件、そこから住宅問題、健康問題、債務問題と続く。
 相談してきた人たちの月収を見ると、もっとも多いのは10万円以下で484件、ついで20万円以下。10万円以下であれば、一刻も早く生活保護を利用した方がいいだろう。私が電話を受けた中にも、すでに残金が2万円、あるいはほとんど0円という人もいた。

 そんなホットラインに参加して改めて驚いたのは、窮地に立たされている自営業やフリーランスの多さだ。
 特に痛感したのは、多くのフリーランスがなんの補償もないままに放り出されているということだ。例えば何件か対応したり他の相談員から聞いたりしたのは、ジムのインストラクターなどのフリーランスの人たちが、コロナ不況を受けてあっという間に仕事を失い、会社から「持続化給付金」というものがあるのでそれを使ったらというアドバイスを受けた、それについて教えてほしいと電話してきたケースだった。
 持続化給付金とは、経産省が新型コロナウイルス感染拡大を受けて作った制度で、コロナによって売り上げが前年同月比で50%以上減っている中小企業やフリーランスを含む個人事業主などに支給されるお金だ。法人には200万円、個人事業主には100万円支給される(昨年の売り上げからの減少分が上限)。
 つまり、フリーランスを使っていた会社側は、本人に「こういうのがあるから自分で手続きして」とアドバイスするだけで放り出しているのだ。
 本人も、フリーランスだから仕方ない、会社が親切に教えてくれたけれどどうやって使ったらいいのかわからないから電話している、と語るのだった。
 話を聞きながら、フリーランスという立場の弱さにため息が出そうになった。同時に、リーマンショックや派遣村の教訓が全然生かされていない、と悲しくなった。

 リーマンショックで大量の人が派遣切りされ、寮を追い出されて住む場所も失い一気にホームレス化してしまったことについて、私たち反貧困運動をする側は、ずーっと「働く人を保護する方向での法改正」を求めて、さまざまな取り組みをしてきた。しかし、あれから12年。それは遅々として進まず、非正規で働く人は2008年の1737万人から19年には2165万人へと、428万人も増えた。それだけではない。「働き方改革」の名の下に、副業・兼業が推進されてきただけでなく、フリーランスで働く人も増えたし、政府もそれを推進する方向で来た。内閣府の19年の推計によると、フリーランスで働く人は300万人以上。この12年間は、いわば、「ひとつの企業が責任を持たなくていい人」が増やされてきた年月でもあったのだ。
 が、フリーランスが推進されてきたわりには、そのような形態で働く人たちの「保証」に関する制度はまったく作られてこなかった。それが今回のコロナ不況で、最悪の形で露呈してしまったのである。

 コロナがいつ収束するかわからない中、100万円程度の持続化給付金は「ないよりマシ」程度で、多くのフリーランスにとってはおそらく「焼け石に水」だ。日々のランニングコストもかかる中で、持続化給付金がいつ、手元に来るのかもわからない。現在、役所の様々な融資の手続きに人が殺到しているが、役所の3割が感染予防のために在宅ワークを推進されている中、面談の予約が「5月、6月にならないととれない」なんて話もザラに聞く。その間に生活費が尽きる人も多く出るだろう。

 フリーランスも自営業者も非正規も、そして多くの正規も、このままでは生活が破綻するのは時間の問題だと思う。貯蓄額によって多少の差はあれど、今現在、すでに貯金を切り崩して生活をしているという人は、生活保護制度を視野に入れておいた方がいい。ざっくり言うと、今、残金が6万円以下で収入のあてがない、他の資産もない状態であれば受けられる。年金をもらっていても、ホームレス状態でも受けられる。働いていても収入が少なければ受けられる。車があるとダメ、持ち家があるとダメと思っている人も多いが、一律ダメというわけでは決してない。
 コロナが落ち着き、また仕事ができるようになって収入が生活保護費を上回ったら生活保護利用をやめればいいだけの話だ。今まで頑張って働いて税金を納めてきたのだ。こんな時の「安心」のために税金を払っているのだ。

 ちなみに役所に行ったものの、生活保護申請ができなかったなどのことがあったら、「首都圏生活保護支援法律家ネットワーク」【048-866-5040】まで連絡するといいだろう。また、生活保護だけでなく仕事を切られた、休業補償は? などの相談には、日弁連が5月19日まで無料相談をしている。【0570-073-567】まで電話してほしい。

 さて、そんなふうに相談員として電話を受けた私も、2月から講演やイベントの中止で収入が半減しているフリーランスの一人である。そして収入半減がいつまで続くのかは闇の中。当初思っていたよりかなり長い間、収入半減で暮らすことになりそうだ。
 しかし、私にはあまり不安はない。それは14年間、反貧困運動に関わってきたおかげで、「貧困」に対するノウハウがやたらとあるからだ。使える制度のことは一通り頭に入っているし、それでもわからなかったら周りの人に聞けばいい。私の周りには、生活保護をはじめとして、労働、債務、各種社会保障制度やそれにまつわる法律などなど各分野で日本一くらいの知識のプロが揃っているのである。これほど心強いことはない。
 そんな安心感を、ぜひみんなにもお分けしたい。ということで、この連載でも生活保護制度などについていろいろ書いてきたが、これからも書いていきたいと思っている。また、生活保護問対策全国会議のサイトでは、「コロナ災害を乗り越える いのちとくらしを守るQ&A」も公開されているのでぜひチェックしてみてほしい。
 この機会に、何がどうなっても生きていけるノウハウを、一人でも多くの人に習得してほしい。あなたが制度や支援団体に詳しくなれば、自分のみならず、周りの人を助けられる。そしてその知識を生かして、ゆくゆくはホットラインのボランティアなんかに参加してくれると、もっともっと多くの人を助けられる。
 あとになって「コロナも悪いことばかりじゃなかった」と言い合えるような、そんな機会にできたらと、今、心から思っている。
 とにかく、生存ノウハウを習得して、生き延びていこう。お金のことだったら、絶対になんとかなる。


「救急崩壊が始まっている状態」

2020年04月24日 | 健康・病気

新型コロナの影響で「救急崩壊が始まっている状態」
 
日本救急医学会などが警鐘
    Huffpost Japan 2020年04月24日
       安藤健二

    日本救急医学会と日本臨床救急医学会は4月24日、日本記者クラブでオンライン会見を開き、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、救急医療が危機的な状態にあると警鐘を鳴らした。
両学会は9日に「新型コロナウイルス感染症に対応する学会員、救急医療関係者の皆様へ」という共同声明を発表していた。
 
■「新型コロナ感染を否定できないと患者を受け入れられない」という病院も
    日本救急医学会代表理事の嶋津岳士さんは、高齢者の肺炎は非常にたくさん発生しているが、現在は「新型コロナウイルス感染症を否定できないと患者を受け入れられない」という病院も出てきて、受け入れに困難が生じていると指摘した。
 
同学会で取った会員アンケートによると以下のような意見が届いたという。
✅ 脳卒中患者でも体温が37°C以上の場合は受入れ拒否している病院がある
✅ 一時的に受け入れた患者が入院が必要となった場合に、転院先を探すのに3時間以上かかるようになり 救急受入れをストップせざるをえない状況となった 
✅ 指定医療機関ではないが、発熱患者を受入れると、30km離れた病院からも日中に肺炎患者の紹介が増えた

 さらに「新型コロナウイルス感染症ではないと思って受け入れた患者が陽性だった」という報道を紹介しながら、感染が未確定の場合も「陽性の人と同じ扱いをしないといけないので、医療機関への負担が大きい」とした。「最終的には、最後の砦として救急救命センターが受け入れざるを得ない」と話した。

    PCR検査などの迅速な検査の一層の実施が必要とした上で、以下のように訴えた。
「新型コロナウイルス感染症の患者の受け入れが増えると、それ以外の重症患者を受け入れる使命を持つ救急救命センターの負担が大きくなります。通常の救急医体制が維持できないという点では救急崩壊が始まっている状態にあると言っていいんじゃないかと考えています」
 
■「新型コロナ患者を集中して治療できる医療機関を」
 この会見には日本臨床救急医学会代表理事の坂本哲也さんも同席。「新型コロナ患者を集中して治療できる医療機関が必要」として、「臨時の病院や入院施設も考えなければいけない」と訴えた。
また、医療用に使われる高性能マスク「N95マスク」が現場に足りてないとして「国から産業界に呼びかけて国産のN95マスクの増産を呼びかけて欲しい」と話していた。

*   *   *   *

医療崩壊を止める緊急の財政出動を
    志位委員長が提起 与野党が協力して
「しんぶん赤旗」2020年4月24日
 日本共産党の志位和夫委員長は23日、国会内で記者会見し、新型コロナウイルスの市中感染、院内感染が広がり、医療崩壊が始まりつつある極めて深刻な状況だとして、PCR検査センターの設置や病院への財政的補償など、医療崩壊を止めるために、「与野党協力して、政府に緊急の財政出動を求めていきたい」と表明しました。
 志位氏は、自身が16日の記者会見で発表した「感染爆発・医療崩壊を止める緊急提案」で求めた「PCR検査センター」の設置に言及。
 「政府が“検査をやりすぎると医療崩壊が起こる”としてクラスター(集団感染)を追跡する検査に限定し対象を絞ってきた結果、市中感染がどんどん広がり、院内感染が広がり、医療崩壊が始まっている。この状況を直視して、大量検査にかじを切り替える必要がある」と主張しました。
 安倍晋三首相が17日の記者会見で「各地の医師会の協力を得て検査センターを設置する」と表明しながら、「政府の補正予算案のどこを見ても、PCR検査センターを整備するための予算は、1円もついていない」と指摘しました。(以下省略)


 昨夜確認した予報では一日中曇りか雨。でも、目が覚めるとやけに明るい。きれいに晴れ渡っているのだ。まずい!ハウスの換気だ。なにせ、ここからハウスまで20分はかかる。その後の天氣は、☀たり☁ったり☂だったり⛄だったりとせわしない。

晴れれば花も開くだろうに。


仁藤夢乃氏「ひどい態度」少女支援活動視察の議員ら

2020年04月24日 | 社会・経済

  日刊スポーツ新聞社 2020/04/23 


    ドメスティックバイオレンス(DV)や虐待等で居場所のない10代女性たちの自立支援を行う一般社団法人Colaboの仁藤夢乃代表が、支援活動を視察に来た自民党議員らの振る舞いを明かし、10代女性たちが「精神的なショックを受けています」と訴えた。
 
    仁藤氏は23日、ツイッターを更新。「一昨日、自民党議員から、バスカフェに国会議員で視察に行きたいと連絡がありました。若年女性の置かれた現状を知ってもらえるならと、5人までなら受け入れられることを伝えていました」と、改装したバスを利用したカフェで少女たちに食事や飲み物などを無料提供する支援活動について、議員らの視察を受け入れたことを報告。しかし、訪問予定者は3~4人と事前に連絡を受けていたにも関わらず、秘書や新宿区議などもあわせて15人ほどが訪れたという。

    「挨拶をしない人もいて、挨拶を求めても『秘書です』としか名乗らない人もいて、誰か誰なのかわからないまま、許可していないのに、写真を撮影する人もいました。活動を一緒にしているメンバーには、居場所がわかると身の危険がある10代の子たちもいるのにです」とし、「写真が何に使われるのかもわかりません。使用しないようにお願いしますが、事前の約束と違うことをされるような方々が守ってくれると思えず、みんな不安でいます。普段から、活動や女の子たちの安全を守るためにも、視察の方も、必ず事前にお名前を確認しているので、こんなことは初めてです」とつづった。

    議員らはカフェの設営に参加したが、「男性国会議員が大きな声で秘書を呼びつけて、荷物を運ばせようとする態度などから、10代のメンバー(虐待や性暴力被害に遭うなどして)もその関係性や偉そうな態度に驚き、怖がっていました」という。「さらに、設営中、10代のメンバーの後ろを通った男性国会議員が、『ちょっと退いて』と言いながら、10代のメンバーの腰を触りました。セクハラです。性暴力です。彼女は、性暴力被害に遭ったこともあり、精神的なショックを受けています」と訴えた。

    また、「バスカフェについて、女の子たちの場であることを何度も説明し、視察はカフェが始まる前、利用者の女の子たちが来る前までとしているのに、設営後、女の子たちが使うための席に偉そうに座っている議員も。あまりにひどい態度でした」と仁藤氏。「10代のメンバーは怖がり、逃げて隠れていました」と少女たちの様子を明かし、「女の子たちや活動への尊重は感じられませんでした」とした。

    一連のツイートを受け、立憲民主党の蓮舫副代表(52)が、「仁藤夢乃さんのTwitterを見て、心底驚いたのでご本人に確認をしたところ、『視察』で自民党の国会議員、区議会議員、秘書らが訪れ、約束と違うこともあったので驚いています、とのことでした」と言及。「来られた国会議員のSNSを確認したところ『ボランティア活動で参加してきました』と書いてあって、それにも驚きました、と。最初3~4人なら視察対応できるとしたのに、大勢での視察、カメラでの撮影等の対応、三密そのものでは。必要なのは予算措置です」とした。


香山リカ 常識を疑え 新型コロナウイルス感染症拡大による「心の死」を防げ!

2020年04月23日 | 健康・病気

Imidas 連載コラム 2020/04/21
   香山リカ(精神科医・立教大学現代心理学部教授)

    新型コロナウイルス感染症の拡大が、世界にそして日本に、あまりにも大きな影響を与えている。
 私自身、この2020年3月から生活がすっかり変わってしまった。勤務している立教大学は卒業式、入学式などすべての行事が中止。4月30日からはオンライン授業が始まり、7月末まで前期いっぱい続く予定だ。

 3月18日からは厚生労働省がオンラインで、チャット形式の「新型コロナウイルス感染症関連SNS心の相談」を始めることになり、コーディネーターのひとりとして相談員の募集やスーパーバイズにかかわることになった。相談は4月21日現在も続いていて、私もできる限り、相談者と相談員たちのやり取りを目視し、困難そうなケースには助言を行っている。

 また、数年前から、「精神科を受診する患者さんの身体疾患を見逃したくない」という思いがあり、大学病院の総合診療科で週に1回、外来診療を通して内科の基礎を学び直していたのだが、その外来が4月から突然、コロナ感染が疑われる患者の専用窓口となった。もちろん感染可能性が濃厚なケースは専門医が診察するのだが、度合いによっては私もヘルプ役としてかかわることがある。いまは立教大学の授業がないこともあって、週に2~3回のペースでこのコロナ検査用外来で診察の補助にあたっている。

 コロナ以前と比較すると、変わらない業務は週に2回の診療所精神科の外来診療だけ。そのほかはほとんどすべての時間を「コロナ感染症」と「コロナ感染症に関する心の不安」と向き合ってすごす、という状態になっている。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 もちろん、心身ともに疲れる日々であることはたしかだ。「心の相談」の業務は毎晩10時まで続くので、スーパーバイズ用のオフィスで業務を終え、帰宅して軽食を摂って寝て、翌朝、大学病院で朝8時半から外来を始める日はとくに早起きがしんどい。
 しかし、「心の相談」でいろいろな人の悩みを垣間見たり、SNSで多くの人たちの発言を見たりしてつくづく思うのは、「私はこのコロナ禍にあって、やれることがあるだけ恵まれている」ということだ。

「心の相談」には多種多様な相談が寄せられるが、それを無理やりひとことで集約すると、「やることがない、やりたいのに何もできない」に尽きるのではないか。もう少し言葉を足せば、「この大きな災いの中で、自分には何もできることがない。なすすべがない」ということこそが、多くの人にとっての最大の苦痛となっているのだ。
 誤解しないでほしいのだが、これは「コロナウイルスの威力があまりに強大なので、もはや人類にはなすすべがない」という意味とは少し違う。

 哲学者の東浩紀氏は3月28日、自身の主催する、漫画家の小林よしのり氏らとのトークイベントで、コロナウイルスを「重い風邪」「雑魚キャラ」などと称したとして話題になった。
 東氏は、世界の人口の2割が死亡したとされる14世紀のペストや、2012年に発生した致死率35%の中東呼吸器症候群(MERS)と微生物学的な見地だけから比べれば、致死率の面で新型コロナウイルスそのものの威力は「弱い」と考えてしまったのかもしれない。
 しかし、現時点でそんなことを口にするのは、もし東氏が微生物学者だとしても、あまりにナイーブというか世間知らずと言われるだろう。まして、東氏は科学者ではなく哲学者、評論家なのである。その見地から考えれば、世界をこれだけ混乱に陥れている新型コロナウイルスは、あらゆる意味で「弱くない」どころか「非常に強い」と言えるのではないだろうか。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 新型コロナウイルスは、なぜこれほどまでに人びとの生活や心理に影響を与えているのか。最大の理由は言うまでもなく、経済活動の停滞だ。先の東氏のトークイベントに出演して「(コロナは)ふつうの風邪」と発言した小林よしのり氏は、自身の4月11日付のブログでも、日本は「コロナの死者数が世界一少ない」と言い、「どうせ感染者は増え続ける。自宅療養しておけばいい」と続ける。そして、この日のブログを「自粛を止めて、経済を回す!それしかない!/『集団免疫』で必ず感染も止まる!」と結ぶのである。

小林氏の主張には、「感染もやむなしと考えて経済活動を続けろ」という、いわば“玉砕精神”のようなものも含まれているようだ。そして、ネットを見ていると、この感染覚悟の極論には一定の支持が集まっている。裏を返せば、それほど現在の経済の停滞で逼迫した状況になっている人がいる、ということなのだろう。

 たしかに、政府が非常事態を宣言し、それぞれの自治体が飲食店やスポーツジムなど特定の業種、施設に休業や営業時間短縮などを要請する中、収入が激減したり途絶えたりし、経済苦に陥る事業所や労働者が急速に増えている。国や自治体は現金給付や休業補償を検討しているが、「とても間に合わない」と倒産を決めた会社もある。

 先にあげた「心の相談」でも、実は経済苦に関する悩みが非常に多い。パートで勤めていた店から突然「明日から来なくてよい」と言われた、夫の経営するレストランの売り上げが激減して家賃も払えない、転職が決まっていたが急に内定を取り消されたなどなど、あらゆる業種、あらゆる働き方をしている人が深刻な状態に陥っているのを実感する。

精神科の診察室にも、コロナとは別に、仕事ができず経済的に苦しんでいる人は多くやって来るが、彼らには「うつ病のため、夜眠れず朝起きられない」「対人関係に自信がないから働く勇気がない」などの“働けない理由”がそれなりにある。しかし、今回のコロナの影響を受けている人たちには、それがない。ほとんどが「働く気はおおいにある」「これまで精力的に働いてきた」という人たちだ。それなのに突如として仕事がなくなった。あるいは仕事ができなくなったのである。
 働きたいのに働けない。働く意欲も体力もスキルもあるのに、働かせてもらえない。そんな理不尽なことがあろうか。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 前半で、私はこのコロナ禍により生活が一変し、これまで以上に忙しくなってしまったが、「やれることがあるだけ恵まれている」と述べた。しかも、私の「やれること」は、コロナ検査用外来のヘルプやコロナ関連の「心の相談」など、直接この感染症にかかわることである。コロナ外来では感染のリスクもあり、まわりの医師たちの疲弊が激しいのを目の当たりにして気持ちが暗くなることもあるが、それでも「私はコロナに対し、ただ手をこまねいているわけではない」というささやかな手ごたえを感じることはできる。

ところが、今回の事態で、ほとんどの人はその正反対の状況に置かれることになっている。世界の合言葉が、「Stay Home(お家にいよう)」なのだ。
 先の「仕事がなくなった」という人はもちろん、幸いにしてすぐには解雇されていない企業の従業員でも、テレワーク、自宅待機などで出勤を止められているパターンが多い。テレワークでこれまで通りの作業をしているという人もいるようだが、できることが限られ、労働量が減ったという人の方が多いはずだ。その人たちは、最初は「通勤しなくてよいから助かる」「自宅待機でも給料が出るからありがたい」と思うだろうが、次第にその状況にも飽きてきて、不安が大きくなってくるのではないか。

 ――いつまでこの状況が続くのか、いつまで会社に行かずにいればいいのか、テレビをつけてもコロナのニュースばかりだが、自分はただ家でそれを見ていることしかできないのか、そもそも自分は社会の役に立っていたのか……。

 現代人の多くは、毎日、自分を奮い立たせ、厳しい社会の中に身を投じ、たゆまぬ努力を続けながら、自己啓発を怠らず、成長と自己実現を目指して生きてきた。簡単に言えば、「とてつもないがんばり」がほぼ「生きること」と同義になっていたのだ。私は10年ほど前から、繰り返し「がんばらないで」というテーマの本を書いてきたが、そのニーズが絶えないということは、「がんばらないで」と言われても言われても、ほとんどの人が「とてつもないがんばり」をやめられないということを意味する。
 それが新型コロナウイルス感染症の広がりによって、突然、「がんばって外で働いたり学校に行ったりすることこそが感染の元凶」と言われ、それらをすべて禁じられることになった。

「とてつもないがんばり」は、現代人にとっての普遍的な善から、突然、最大の悪へとその価値を変えられてしまったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 イギリスのボリス・ジョンソン首相は、自身の新型コロナウイルス感染が判明する直前、3月23日のテレビ演説で国民にこう呼びかけた。
「みなさん、家にいなくてはなりません。みなさんが家にいるだけで稼いでくださる時間を活用し、器具の備蓄を増やし、治療法の研究を加速させられるのです」(筆者訳)
 どうだろう。「みなさんもこのコロナウイルスと闘うために、器具の製造や、治療法の研究のための文献探索に協力してください」と言われたら、多くの人はわれ先にと手を挙げ、製造現場に駆けつけたり、手分けして文献を探したりするのではないか。
ところが、ジョンソン首相は、国民ができるのは、「家でじっとしていて、時間稼ぎをすることだけ」と言っているのだ。「首相の呼びかけに応えよう!」と奮い立ったとしても、次の瞬間には家に入ってドアを閉じ、そこから出ないようにして動画を見たりオンライン講座でヨガをやってみたりすることくらいしかできないのだ。
――私にできることは何もないのか。この災禍の中で私の価値は、いったいどこにあるのか……。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「自分は社会や他人にとって役に立つ人間だという感覚」を心理学で「自己有用感(self efficacy)」と言うが、新型コロナウイルス感染症のもっとも深刻な“症状”のひとつは、現代人がこの自己有用感を奪われることではないかと思うのである。
「何もするな。出てくるな。それがあなたにできる唯一のことだ」と言われ、それでも「私は社会や他人の役に立っている」という自己有用感を失わずにいるのはきわめて困難である。誰かが「いえ、あなたは立派に社会の役に立っているのだ」と伝えなければならないのではないだろうか。

 精神科医として私は、今後、多くの人が「自己有用感の喪失」という恐ろしい病を発症するのではないかと危惧している。ウイルスそのものには感染しなくても、また国の補償などによって生活の危機をとりあえず回避できたとしても、「私にできることは何もない。他人や社会の役にも立っていないし、ウイルスとの積極的な闘いにも加われていない」という思いから、うつ病やアルコール依存症、希死念慮など、メンタルヘルス上の疾患を発症する人が世界で激増するのではないか。そしてそのことにより、離婚、家庭内暴力や子どもの虐待、自殺未遂あるいは既遂といった深刻な問題も増加するかもしれない。

「Stay Home」が長引くことにより起きる自己有用感の低下や喪失は、大げさではなく致死的な病だと私は考えている。マスクを求めて早朝からドラッグストアの前で行列を作るシニアたちが批判されているが、彼らはマスクよりも、「私はやれることをやっている。家族の役にも立っている。コロナウイルスから身を守るために闘っている」という自己有用感が欲しいのではないだろうか。高齢者たちは自分の心が死なないようにするために毎日、朝から並んでマスクを集め続けているのかもしれないのである。そう考えれば、彼らを軽々しくとがめたり嘲笑したりできない、と思えてくる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 しかし、だからと言って私は、小林よしのり氏のように、「だから自粛を止めて働こう!」とはとても言えない。大学病院のコロナ検査用外来で目にするこの感染症の威力は、たしかにペストなどよりは小さいかもしれないが、決して東氏が言うような「雑魚キャラ」では片づけられないほどには強力だからだ。実際に軽症と思われた人が突然、自宅で呼吸困難に陥ったり、完全防御で感染者に接したはずの医療従事者が感染したり、という事例を私も目撃した。一度は回復した人が再び陽性に転じた例もある。このウイルスの振る舞いは、いまだによくわからないのだ。

 だとしたら、私たちは「Stay Home」を続けながらも、社会の中での自分の価値や、他人にとって自分が役に立っている手ごたえ、そして、この感染症と積極的に闘っているという実感を持てるような、何らかの仕組みを作らなければならない。ただ、それは「SNSでつながろう」とか「オンラインでひとを励ます動画を投稿しよう」といった方法では限界があるだろう。
 家にとどまり、仕事にはいつものように行けなくても、「私は社会の中で十分に生かされている」と自分を自分で認められるためには、何をすればよいのか。どんな手段が使えるのか。
 それを考え、そのシステムの構築を行うのが、精神科医としての私が“いまやるべきこと”だ。もちろん、私ひとりでは何もできない。この記事を読んで何かアイディアが浮かんだ人は、ぜひ教えてほしい。新型コロナウイルスからひとりひとりの身体を守ると同時に、私たちは「心の死」をなんとしても防がなければならないのである。


またまた雪が積もってしまいました。

 先ほど、夕方5時過ぎの写真です。朝起きたらうっすらと積もっていましたが、さらにひどい状況です。今も降り続いています。まだ夏タイヤに交換はしてません。


4月22日は「地球の日(アースデイ)」

2020年04月22日 | 自然・農業・環境問題

新型コロナ対策が環境悪化にブレーキ?
 世界的に感染が拡大した新型コロナウイルスが、地球環境の悪化にブレーキをかけてくれる可能性があります。

ウェザーニュース 
 
2020/04/22 05:28 ウェザーニュース

 4月22日は「地球の日(アースデイ)」です。米国の上院議員のゲイロード・ネルソンが環境問題についての討論集会を呼びかけ、1970年4月22日に討論集会を開催し、以来4月22日のアースデイ集会は世界各地に広まりました。50年の節目を迎えた今年、新型コロナウイルス感染防止のための外出制限や生産活動の停止などが、地球環境改善に寄与しているかもしれないのです。

新型コロナ対策が環境悪化にブレーキ?
 地球環境が年々悪化してきましたが、今年になって世界的に感染が拡大した新型コロナウイルスが、地球環境の悪化にブレーキをかけてくれる可能性があります。

  図は今年3月2日にNASA(米航空宇宙局)とアースオブザバトリーが公開した衛星画像で、二酸化窒素(NO2)の濃度を示しています。左が1月1〜20日、右が2月10〜25日になります。中国の武漢から始まった感染拡大で全国的に移動制限や生産活動の制限を行った結果、色が濃い500μmol/m2といった高濃度地域が消えて、大半が100μmol/m2以下に下がったのです。
 二酸化窒素は、自動車や航空機の排気ガスや工場の排煙など高温燃焼に伴って発生する有害ガスです。二酸化窒素の濃度が低下したということは、地球温暖化の主因とされる二酸化炭素(CO2)や微小粒子状物質(PM2.5)なども減少したと思われます。つまり、大気がきれいになったのです。

欧米も生産活動の低下で大気が改善
 新型コロナウイルスの感染が蔓延したイタリアでも二酸化窒素排出量が激減しました。欧州宇宙機関(ESA)が二酸化窒素排出量変化(10日間における移動平均値)の動画をホームページ上で公開しています。1月の平常時(図1)と感染が拡大して移動制限と工場操業停止が行われた3月(図2)を比較すると、特にイタリア北部地域で二酸化窒素排出量が顕著に減少していることがわかります。
 


  アメリカでも、同じような現象がみられます。NASAの人工衛星の測定データによると、車の通行量が減ったことなどにより、アメリカ北東部では窒素酸化物が30%も減少したそうです。

日本の大気汚染物質も減少

  黄砂やPM2.5などの大気汚染物質の監視や予測を行っている、ウェザーニュース予報センターの解析によると、日本でも3月の大気がきれいになっていることが分かりました。
 大気汚染物質の少なさを表す指数(CII:Clear aIr Index〈※〉)をみると、2019年3月の全国平均は0.78だったのに対し、2020年3月は0.81前後と、0.03ポイント高い結果に。中国大陸で大気汚染物質が減少し、越境汚染が低下したことなどが原因として考えられます。
 新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、外出制限や生産活動が縮小・停止されたことで、一時的とはいえ地球環境の改善につながったと言えそうです。人間の活動と地球環境は切っても切れない関係にあることをいみじくも証明してくれました。新型コロナウイルスが収束した後も、地球環境の悪化を防いで、持続可能な社会を目指していきましょう。

※CIIは、オゾンやPM2.5などの大気汚染物質の少なさを表す指数で、NICT-情報通信研究機構による計算式をもとにウェザーニュースが独自で算出しています。値が高いほど空気がきれいなことを表しています


竹中平蔵パソナ会長「世界は数年痛い目を見る」 いやあなたのせいですでに散々痛い目を見ています

2020年04月21日 | 社会・経済

藤田孝典  | NPO法人ほっとプラス理事 聖学院大学心理福祉学部客員准教授 

  4/20(月) (写真は見たくない顔なのでカットしました。)


竹中平蔵元経済財政担当相の雇用改革は今でも甚大な効果を発揮している

4月18日、19日に弁護士、司法書士、社会福祉士、労働組合員などが企画し、全国一斉なんでも電話相談会が開催された。 
新型コロナウイルスの影響により、生活困窮する人たちが多いため、全国の専門職などの有志が立ち上がった。 
私も埼玉県で活動する仲間たちと電話相談を受け、経済危機の実態が深刻であることを改めて実感するに至った。 
朝10時から夜10時まで、埼玉会場の5回線は受話器を置けばすぐに着信がある状態が2日間続いた。 
2日間合計で、埼玉会場には、全産業から雇用形態に関係なく420件を超える相談が寄せられている。 
他にも、中小企業の社長、自営業者やフリーランスの方たちからも生活苦が語られた。 
そして、なかでも立場の弱い派遣労働者、非正規労働者は、休業補償も受けられず自宅待機を命じられたり、所定の有給休暇を取得後に欠勤扱いされているという相談が相次いだ。 
新型コロナ禍は全ての人々に襲いかかっているが、派遣労働を含む非正規労働など立場が弱い人々へのダメージはより深刻だった。 

このような派遣労働、非正規雇用を増やす政策を推進してきた張本人といえば、竹中平蔵氏であることは自明である。 
いわゆる小泉・竹中改革という雇用の流動化政策は「就職氷河期世代」(私は「棄民世代」と呼んでいる)を生み出し、ワーキングプアと呼ばれる低賃金労働者を大量に作り出すことに貢献したと言ってもいい。 
彼らが権限を行使して進めてきた雇用政策では一貫して、非正規雇用が増え続けた。 
近年はようやく増加が止まったが、まさに彼らの政策で不安定雇用が急増したことは間違いない。 

今後は自己中心的な経済人に振り回されないことが日本の教訓

リーマンショックの際には、その影響が「派遣切り」という形態で可視化されて、竹中平蔵氏らの雇用政策の失敗が生活困窮者を大量に生み出すことを明らかにした。 
そして、今回の新型コロナウイルス禍でも、同様に竹中平蔵氏の改革の失敗による効果は甚大だった。 
派遣労働者や非正規労働者は、貯金を形成する余裕もなく懸命に働いてきたが、またリーマンショック時と同様に、雇い止めや一方的な解雇などの犠牲になっている。 
リーマンショックの際も「雇用の調整弁」という言葉で表現されたが、真っ先に解雇や「休業補償なき自宅待機」で影響を受けていたのは今回も非正規労働者だった。 
それにもかかわらず、竹中平蔵氏は日本経済新聞の取材に対し、現在と未来の日本を以下のように語っている。 

今の時代は世界的に保護貿易主義が主流です。 
その上最近では新型コロナウイルスの流行も相まって、人の移動について報復合戦も見られました。 
この根本は社会の分断にあると思いますが、10年後にはその解消に向け、様々な工夫が見られる時代になっているでしょう。 
世界はこれから数年、痛い目を見たあとに、少なくとも5年後には、解消に向けた議論が真剣にされているはずです。 
新しい技術が世間に行き渡るイノベーションも、次々と起きることになるでしょう。 
次世代通信規格「5G」は、技術的にはすでに確立していますが、遠隔医療などに見られるように、規制が障壁になり実用化が遅れているものもあります。 
今後10年は先端技術が民間で実用化されるために、一つ一つ議論する時代になるのだと思います。 
ですが、それに伴って今ある職業が急になくなるような状況もあるかもしれません。 
そこで必要なのが、最低所得を保障する「ベーシックインカム」です。 
人が生きていくために最低限必要な所得を保証することができれば、一度失敗しても、積極果敢に再びチャレンジできる環境になるはずです。
 〈出典:「社会の分断 正す10年に」 竹中平蔵氏 4月18日 日本経済新聞〉

あなたのせいでどれほどの痛い目を見てきて、現在の経済危機でもどれほどの被害を受けている人がいることか。極めて無責任である。 
また、最低限必要な所得を保証してきた雇用を不安定化させてきたのは竹中平蔵氏らである。 
「ベーシックインカム」などを語る以前に政治・政策の失敗を振り返るべきだろう。 
過去の失敗を振り返れない人間が未来を展望できるはずがないし、その資格はない。 
そして竹中平蔵氏は、どの口が言うのか、と思うが「人への投資」を平然と推奨する。 
その一方で安定していた終身雇用や年功序列制度が悪いことだといういつも通りの主張を展開してインタビューは終わる。 
もはや呆れ果てて言葉を失いそうになる。 

派遣労働者、非正規労働者の多くは、人的投資としての教育や職業訓練、企業内の研修機会に十分恵まれず、ひたすら正社員やコアスタッフの周辺で働くことを余儀なくされてきた。 
高度な専門性を有した派遣労働者はごくごく一部であり、大半は非熟練の地位に置かれた労働者である。 
そして、給与が低いこと、非正規雇用であることは能力が低い、自己責任ということにされ、まともな待遇が保証されないまま現在に至る。 
相変わらず、同じ仕事内容でも正社員との給与格差は大きい。非正規雇用というのは差別処遇と言っても差し支えない働かせ方だろう。 
だからこそ、経済危機のたびに最初に悲鳴を上げるのは非正規労働者である。 
今後、非正規労働者は生活困窮者と変化して、苦しい立場に置かれることとなっていく。 

新型コロナウイルスが収束した後の日本社会を展望する際には、少なくとも彼のような「過去の経済人」による雇用政策の失敗を繰り返してはならない。 
取り返しがつかない被害を社会に与え、現在も免責されるのであれば、将来の日本に禍根を残すこととなる。 
もう昔の人を知識人、経済人と尊重するのではなく、きちんと責任を問いただし、二度と政策決定の中枢に関与できないように監視するべき時だろう。


 今日も暴風雨、一時雹まで降ってきた。たまに日も漏れるのでハウス内の温度はめまぐるしい。明日はもっとひどくなりそうな予報。風の音が地球の叫びのように感じる。


新型コロナでも“はずれくじ”。ロスジェネが“人生を取り戻す”ためにできることとは?

2020年04月20日 | 本と雑誌

 

非正規雇用に“ネット難民”...。パンデミックのもとで苦境に追いやられているのは、またもロスジェネ世代だ。

 ハフポスト 2020年04月20日  Suzumi Sakakibara 
 

人生は、やり直せるものなのだろうか? 年齢は巻き戻せるわけでもないのにーー。
氷河期世代、ロスジェネを思う時、いつもこの言葉が浮かんでくる。
 
新型コロナウイルスの影響で、社員は認められるテレワークが非正規雇用の人は認められなかったり、ネットカフェの営業自粛要請でいわゆる“ネット難民”が行き場を失ったり……。
 
そんな暗いニュースが世間を賑わせているが、非正規雇用の人たちもネット難民も、少なくない数が“ロスジェネ世代”だと言われている。
どうしてこれほどまでにロスジェネ世代は、苦境に追いやられるのかーー。
 
「失われた世代」「就職氷河期世代」「貧乏くじ世代」「非正規第一世代」「自己責任呪縛世代」……、などさまざまな呼ばれ方をしているロスジェネ。
彼らをめぐり4人の専門家と語り合った『ロスジェネのすべて 格差、貧困、「戦争論」』を上梓した作家で、活動家の雨宮処凛さんに話を聞いた。
 
ロスジェネの約400万人が現在でも非正規、フリーター、無職
――雨宮さんは「氷河期世代」ではなく、「ロスジェネ世代」という言葉を使いますよね?そこには、どんな意味を込めているんですか?

 就職氷河期を入り口にして、正規雇用や安定した収入、結婚・出産、子育ての機会を奪われた、失った=ロストですよね。氷河期をきっかけに、人生のさまざまなものが奪われたという意味を込めて、私は氷河期よりも、ロスジェネを使うことが多いです。
 
――長らくロスジェネというテーマを追いかけている理由は?

 私は1975年生まれ。ロストジェネレーションの中でも上の方の世代です。本にも書きましたが、美大受験を諦めて、世の中に出た時には頑張っても報われないどころか、就職すらできない世の中になっていました。その結果、19歳から25歳までフリーターをしていた経験があります。バイトは何度もクビになり、「自分はいらない人間なのだ」と手首を切り、薬を大量に飲むなんてしたことも……。
 私は団塊ジュニアでもあります。中高生のころから、第3次ベビーブームの担い手として「少子高齢化が進んでいるけれど、あなたたちはボリュームゾーン(人口が多い)だから、この層が出産すれば、日本の少子高齢化は解決する」というような期待をされているのを感じていました。
 でも、バブルが崩壊し、経済的な停滞がはじまって20年以上経ち、私自身45歳になって、自分の周りの同世代を見てみると、高校、大学を卒業してから、ずっと経済的に不安定、ひいては人生そのものが不安定な人たちがすごく多い。1700万人のロスジェネのうち約400万人が現在でも非正規、フリーター、無職なのですが、そんな状況ではなかなか、安心して結婚も出産もできません。
 30代、40代になっても正規の雇用につけず、結婚・出産をしていない人がこれだけ多い世代というのは戦後日本ではこれまで存在しなかった。
だから2019年になって政府は、「人生再設計第一世代」と私たちを名付け、「大変だから、支援しなくちゃいけないね」となった。でも正直、40代になってからそんなことを言われても、もう手遅れだし、「え?今更ですか?」と強く思いましたよね。
 支援のひとつとして兵庫県の宝塚市で、氷河期世代限定で人事採用が行われたわけですが、3人の採用枠に1800人も応募が殺到しました。結局4人が採用されましたが、月収20万円代の仕事に北海道から沖縄まで、1800人が応募をするくらい、ロスジェネの人たちにとっては、この機会がラストチャンスに思えたというわけです。
 
――やはりそこは「正規雇用である」ということがポイントなわけですよね?

 そうですね。それほど高収入でなくても、クビにならない、毎月安定したお給料がもらえる……。それを求めて応募者が殺到するなんて、どれだけ大変な思いをしてきた人が多いのか。でもそれがリアル。
 しかも、同じロスジェネ世代の中でも、1700万人のロスジェネのうち約400万人が非正規やフリーターということは、正規雇用の人たちの方が多いわけです。マンションを買い、子供が2人くらいいて、共稼ぎで世帯年収も高い「勝ち組ロスジェネ」の人たちから見れば、同世代で今も非正規という人たちは、すごく甘えているように見えてしまうんですよね。だから時に同世代からも非難されたりする。
けれど、そうではなくて「構造の問題」と知ってほしい。非正規雇用の人が悪いんじゃないって。
 そして親世代は親世代で、「隣の○○さんや同級生の△△ちゃんはきちんと正社員で働いているじゃないか。結婚もして、二世帯住宅も建てている」と言ったりするんですよ。まわりと比較されるキツさもあるんです、ロスジェネには。
 そんないろいろな事情があって、私はずっと、このロスジェネ問題にこだわってきました。
 
「夢」という言葉で社会に搾取されていた
 
――私自身もロスジェネなので、政府がいろいろと言っているけれど、「じゃあ、本当にやり直せるの?私たち?」という話を友人たちとよくするんですよ。
 で、その結果、どういう結論になるんですか?
 
――「いや、やり直せないよね。どこで折り合いをつけていくか」という話になりますね。ある人は、これまでずっと非正規で、あまりにお金がなくて国民年金を払えていない時期がある。だから同年代の正規雇用で働いていた人と同じくらい年金をもらえるというのなら、やり直せないけれど、なんとなく折り合いがついたって感じるかもしれないと言っていました。

 その年金の話、いいですね。ロスジェネ補償金みたいなもの、欲しいですものね。あなたたちは、ひどい目に遭いましたね、って。人生において20代、30代はライフイベントもたくさんあり、大体の人はその時期に就職したり仕事を覚えたり結婚したり出産したりローンを組んで家を買ったりする。でも、それをすべてできなかった40代が今、多くいる。
 
――自分が女性だからでしょうか、本のなかで関西学院大学社会学部准教授の貴戸理恵さんとの妊娠、出産のお話、とても興味深かったです。

 政府の中でも雇用の話は出てくるけれど、出産の話はなかなか出てきませんからね。
ロスジェネ女性の出産については10年くらい前から、実はよく聞いていたんです。自分たちの出産のタイムリミットについてですね。でも、とてもデリケートな問題だから、本や記事に出すのが難しい部分もあって。不用意に話を出すと傷つく人がいるというので、触れてこなかったんですけれど。
 今回、貴戸さんの知人の話で出てきていますが、ロスジェネ女性で20代の頃、中絶という選択を選んだ人も多くいるわけです。私の周りでも、妊娠したけれどフリーター同士のカップルで、とても子どもを育てるなんてできないと中絶をした人がいます。そういう人たちがその後、安定雇用を得て、20年たった今不妊治療をしているという話も出ましたが、なかなか授かれないこともある。
「少子化」とこれほど騒ぐなら、なぜ、ロスジェネが20代だった頃、安定雇用につけるような支援がなかったのか。なぜ、フリーター同士のカップルが妊娠したりするとバッシングするような空気があれほどあったのか、いろんなことが納得いきません。
 
一一あの時代、「やりたいことを実現するためにフリーター」「あなたらしく働くために派遣」というような働き方を推奨する、まるでそれが自由の象徴のような風潮を社会的に煽っていた部分もあると思うんです。「たしかに今は不景気で、やりたいことはできないけれど、そういう夢の実現の仕方があるんだ」と希望を持たされてしまったという印象が個人的にはあるのですが。

 すごく、ありましたね。やりたいことを実現するための選択肢が増えることはいいことだと思うんですけど、「やりたいことは別にあるんだ」と思うことで、今の自分のフリーター生活を肯定するような部分はあったと思いますね。社会もそれを利用していたわけでしょう? 「いまは仮の姿だから、権利主張はしないでね」とうまく使われてしまったなという気はします。「夢」という言葉で搾取されていたというか。
 今思うと、どこかに正規雇用されて普通に働いていたら、そんな自分探しなんてしなくていいのに、一生懸命に自分探しをして、傷ついたり、彷徨ったりした世代ですよね、ロスジェネは。
資格地獄に陥っている人もいました。とにかく非正規から抜け出すため、履歴書に書ける資格をとろうって。
私の弟もロスジェネで、就職氷河期だったのでフリーターになり、ブラック企業に入って、そこから税理士の資格を10年くらいかけてとったんですね。弟の場合、資格をとれたからよかったけれど、とれた人の後ろにはたくさんのとれなかった人たちの存在があるわけです。ロスジェネの中には、ものすごく時間と資金と労力をつかって、今でも資格を目指している人がいると思います。
 
――そこまでに費やしたお金や労力が、仮に40代をすぎて実ったとして、どれくらい戻ってくるのかと考えると……。

取り戻すのは難しいですよね。そして結局、資格を取れなかったら、自分で選んだのだから自己責任だろうと言われてしまうんですよね。ロスジェネの人は、そういうのを繰り返してきている。
 
現実問題としてロスジェネ全員を正規化するのは難しい
 
――年を重ねるごとに、ロスジェネが人生をやり直す、取り戻すのは、どんどん難しくなっていくのが現実です。これから私たちはどうなっていくんでしょう。

 35〜45歳で親と同居している未婚のロスジェネは300万人います。実家を出られないのはかなりの部分が低賃金ゆえだと思うのですが、今後、この層は「親の介護問題」に直面するでしょう。
 仮に実家を出ていたとしても、ロスジェネ非正規は介護要員として呼び戻される確率が高い。私は実家が北海道なんですが、親に何かあった場合、地元に呼び戻される確率が一番高いのは「非正規の単身女性」だと思います。
順番としては、①非正規独身女性、②非正規独身男性。私には弟が二人いますが、二人とも仕事と家庭があり、子どもも小さいので、そうなると介護要員にはカウントされない。
でも、介護で仕事をやめてはいけないというのは鉄則ですね。やめてしまったら、親の年金で食べていくしかなくなり、親が死んだらアウト、となりますから。
 今のところ、ロスジェネが使える制度は、困窮した時の生活保護くらいしかないですが、親の介護に使える制度は多くありますから、知っておくことが大切です。
 
――政府は400万人いる、ロスジェネの非正規雇用の人のうち30万人の正社員化を3年で実現すると言っていますが。

 30万人は少ないですよね。あと370万人はどうするんだって話になりますからね。
でも、現実問題として全員を正規化するのは難しいので、非正規でも自立した生活を送れて、実家を出られる、望んだら結婚、子育てできるような仕組みが必要です。そのためには最低賃金の大幅引き上げや教育費の自己負担を減らすことなどが重要ですが、なかなか実現にはほど遠い。
 そしてロスジェネに限らずですけど、家賃問題が一番大きいんです。神奈川県がロスジェネ世代も公営住宅を入居できるよう、入居条件を緩和すると発表しました。これは、すごくいい政策だと思いました。
貧困問題で最も重要なのが住宅です。家さえあれば、ホームレスにならず、失業しても仕事が見つかりやすい。また、家賃がなくなるとか、半分になれば、例えば10万円しか収入がなくても、使えるお金が増える。それだけで全然違うと思います。家賃がない、家賃が補助される制度ができればロスジェネの生活はだいぶ楽になるのではないでしょうか。
 
――若い世代はどこか諦めているような部分を感じるんですけど、私たちの世代はどうも諦められないというか、奇跡的に何か起きるんじゃないかと思ってしまっている気がするんですよね。

 ロスジェネより下の世代は、「生まれた時から右肩下がり」の日本を生きていますよね。そんな下の世代に「ロスジェネの人たちは、どうして怒っているんですか? 自分たちは日本のいい時をそもそも知らないから、怒りもわいてこない」と言われたことがあります。私はまだ、少し上のバブル世代を見ていたので、怒りがある。彼らが企業から大歓迎されて社会に出ていった光景を知っているので、自分たちの番になって突然はしごを外されたことに対する理不尽な思いがある。でも、若い世代はそういう経験もないので剥奪感もなかったりする。
 
40歳のひとは65歳まであと25年も時間がある
 
――今回この『ロスジェネのすべて 格差 貧困、「戦争論」』を読んで、ロスジェネ対策として、雇用だけではなく、新しい制度など具体的なものを作ってほしいなと改めて感じました。

 ロスジェネ自ら要求することが大事ですよね。さきほど話に出た「年金」はすごく大事な要求ですね。そういうことを具体的に、「月にいくらだったら私たちは生活できる」と訴えていくことも重要だと思います。
また、老後はシェアハウスで生き延びたいと考えるロスジェネは多いですが、家賃がいくらで、食費は、光熱費は……と具体的な額を出して、そこにこれくらいの支援がほしいと要求することもできますよね。
いま40歳のひとは65歳まであと25年も時間があるので、25年訴え続ければ、獲得できる可能性はゼロじゃない。
 
――25年も時間がある! なるほど。

 なぜ65歳かというと、今のところ、65歳になると生活保護を受けやすくなるという実態があるからです。だから、いかに65歳まで生き延びるかがひとつの目標ですね。
でも、ロスジェネが65歳になる頃には、生活保護利用者が増えることを見越して、生活保護を受けるための条件が厳しくなっているかもしれない。実際、第二次安倍政権以降、生活保護費の引き下げが続いています。私はそれに反対の声を上げているのですが、それはロスジェネ対策のためでもあるんです。自分たちが少しでも安心して老後を迎えられるような制度を、守っていくことが重要だと思うので。
 なので、ロスジェネ同士で要求をすり合わせて、1テーマでもいいから、たとえば、非正規で国民年金を払えない時期があっても「年金20万」くらいもらえるようにしてほしいと訴えるとかも有効ですね。あるいは、ロスジェネが一斉に生活保護をうけたときにかかるお金を試算して、政府に現実をつきつけて、「だからこそ、今もっと有効な支援を」と訴えるとか。
今、「勝ち組ロスジェネ」でも、コロナ禍の中、本当にこの先どうなるかわかりません。生き延びるために、ロスジェネの声を政治に突きつけていくことが大事だと思います。それは必ず、下の世代を助けることにもつながると思います。
 


『ロスジェネのすべて―格差、貧困、「戦争論」』
雨宮処凛著


 強風が吹き荒れています。隣の農家のビニールトンネルもスッ飛んでいました。小さな雨がポツポツと降ってきました。これから本格的な雨となる予報で、明日、明後日と雨、ここ1週間晴れマークがありません。

オカワカメ(雲南百薬)。2鉢を室内で越冬させ、春にその枝を挿し木したものです。
非常に簡単に増やすことができます。


室内で桜の枝を活けておいたのが咲き始めました。白くてあまり目立ちませんが。

 

 


「無策な安倍政権」をいまだに支持し続ける人がいる理由――内田樹の緊急提言

2020年04月19日 | 社会・経済

文春オンライン
  2020年04月19日 

  新型コロナウィルス禍への日本政府の対応は「サル化」の一例にすぎない。「今さえよければ」と考える「サル」から脱却し長い目で考える時間意識を取り戻さなければ明日はない。
◆ ◆ ◆
 [サル化する世界』という本を書きました。こういうタイトルにしたのは、この四半世紀ほどで日本人の考え方がはっきり変わったように思えたからです。といっても、人間が別のものに生まれ変わったとか、新しい段階に至ったということではありません。人間を取り巻く環境が変化し、それを取り込んで人間の意識も変化したということです。最も変化したのは時間意識です。
 僕が生まれた1950年の日本の労働人口の50%は農業従事者でした。人々はそれと気づかずに「農業的な時間」「農事暦」を呼吸して生きていた。朝日とともに起きて、陽が落ちたら眠る。春に種を蒔き、日照りや冷夏や風水害や病虫害を恐れ、無事に秋を迎えたら収穫をことほぐ……。そういう「農業的な時間」の中で生きていました。それが日本人の時間意識の土台をかたちづくっていた。

会社の「あるべき姿」より当期の数字が優先する

 しかし、それから70年経って、産業構造が高次化してゆくにつれて、日本人の時間意識もその時代に支配的な産業構造に適応して変化していった。そして、今はグローバルスケールで展開する金融資本主義の「取引の時間」に人間の方が適応馴化させられている。

 今金融商品の取引は1000分の1秒単位でアルゴリズムが行っています。だから、経営者たちは当期より先のことは考えなくなりました。考えても仕方がないからです。収益が悪化して株価が下がれば先がない。10年後、20年後の会社の「あるべき姿」より当期の数字が優先する。わが社の設立意図は何であったかというようなことは誰も覚えてさえいない。今の企業には過去も未来もないということです。このせわしない時間になじんだ人からは、長いタイムスパンの中でおのれの行動の適否を思量するという習慣そのものが失われた。別に頭が悪くなったとか、人間性が劣化したという話ではありません。時間意識が環境に適応して変わっただけです。1000分の1秒の世界にリアリティーを感じる人間は、もう「農業的な時間」をことの良否を考量する「ものさし」には使わなくなったということです。

「今さえよければ、未来の自分がどうなろうと知ったことか」

 しかし、ごく短いタイムスパンでしかものを考えられないという縮減された時間意識になじんでしまうと、もう人間的成熟ということそのものが望めなくなる。

「自己陶冶(とうや)」というのは、長い時間をかけてじっくりと己を熟成させることです。過去を振り返り、未来を遠く望み、今ここで自分は何をなすべきかを熟慮する。もっと成熟した人は「世界の始まり」から「世界の終わり」に至る広漠たる宇宙的な時間の中に身を置くことさえできる。己の一生が一瞬に過ぎないこと、己が踏破できる空間がけし粒ほどのものに過ぎないことを覚知して、そのはかなさ、卑小さの覚知を通じて、自分は今ここで何をなすべきかを考える。それは時間意識が四半期にまで縮減した人には無理な話です。「農業的な時間」さえ実感できない人たちに「宇宙的時間」が実感できるはずもない。ですから、「自己陶冶」という言葉そのものが死語になってしまった。陶器を焼き、金属を鋳造するようなゆったりした時間を経て、しだいに形成されてゆくものとして自分をとらえることがなくなった。

「朝三暮四」の故事が教えるように、縮減した時間意識のうちに生きる人は、「朝方の自分」が「夕方の自分」と同一であるという実感さえない。「今さえよければ、未来の自分がどうなろうと知ったことか」という刹那主義に陥り、「こんなことをいつまでも続けていたらいつかたいへんなことになる」とわかっていても「いつか」にリアリティーを感じられないので「こんなこと」をだらだらと続ける。そういう傾向のことを僕は「サル化」と呼んだのです。

コロナ禍に見る「最悪の事態」を想定しない日本人

 日本の新型コロナウィルス禍への対策のどたばたぶりは「サル化」の好個の例です。危機管理に必要なのは、過去の出来事を記憶する力と未来のリスクを想像する力です。過去の事例を振り返って、同じ失敗を繰り返さないように改めるべき点を改める。未来については「最悪の事態」を想定して、その被害を最小化する手立てを工夫する。「もう過ぎてしまったこと」と「まだ起きていないこと」にありありとしたリアリティーを感じる感受性がないと危機管理はできない。

 しかし、今の日本人はそれができません。過去の失敗のことは忘れて、そこから何も学ばない。不測の事態には備えない。プランAが失敗した場合のプランB、プランCを考えておくということをしない。「参謀本部の立案した作戦がすべて成功したら皇軍大勝利」というノモンハン、インパール以来のメンタリティから何も変わっていません。

 「最悪の事態」を想定して、どの場合にどうやって被害を最小化するかという議論を始めると「縁起でもないことをするな」と遮(さえぎ)られる。そんなことを考えると、悲観的になり、意気阻喪するというのです。そして、最悪の事態に備えるという発想そのものが「敗北主義」として退けられる。「敗北主義者が敗北を呼び込むのだ」と嫌われる。僕は武道家ですから最悪の事態に備えるのが習い性ですが、日本社会ではそれが通りません。

コロナは世界各国に配布された「センター試験」

 今回の新型コロナウィルスによるパンデミックは「センター試験」のようなものだと僕は思っています。コロナウィルス禍にどう適切に対応すべきかという「問題」が世界各国に同時に配布された。まだ誰も正解を知らない。条件は同じです。他の問題でしたら、外交でも財政でも教育や医療でも、国ごとに抱える問題は違います。だから、簡単に比較することはできません。でも、このパンデミックは違う。すべての国が同じ条件で適切な対応を求められている。

 そして、アジアでは、今のところ台湾、韓国、中国が感染拡大を阻止することに成功しているらしい。そして、「こうすれば感染拡大は防げる」という教訓を開示した。都市封鎖、感染者の完全隔離、個人情報の開示と徹底的な検査……とそれぞれにやり方は違いますが、とにかくほぼ抑え込んだ。

 でも、日本は何一つ成功していません。世界に「こうすれば、抑えられる」と報告できる成果が一つもない。さいわい日本は深刻な感染爆発に至っていませんけれど、それがどのような防疫政策の「成果」なのかは誰も知らない。検査数を抑えているだけで、実は感染の実態を政府も把握していないのではないかという疑念が海外メディアから呈示されていますが、政府はそれに対して説得力のある説明をしていません。

中韓に学ぶことができない安倍政権

 日韓はほぼ同じ時期に感染が始まりました。韓国は終息に向かっており、「こうすれば大丈夫」という経験知を積み上げています。日本では深刻な感染爆発はまだ起きていないけれど、それを抑止する手立てを講じたからではありません。朝令暮改的な指示を出して「やっている感」を演出しているだけです。国内メディアはそれでもごまかせるでしょうけれども、海外メディアは容赦ありません。

 諸国は先行する成功事例に学ぼうとしています。どこも中国の都市封鎖策に、韓国、台湾が実施した完全隔離・検査体制の充実という成功例を組み合わせた「解答」を真似し始めた。パンデミックについては「カンニング」はありです。真似できる成功事例は何でも真似すればいい。それが人類のためなんですから。
 でも、日本はそれができない。安倍政権のコアな支持層は嫌韓・嫌中言説をまき散らしてきた人たちです。韓国、中国の成功例を真似することは「中韓の風下に立つ」ことであり、安倍政権の支持層にとっては耐え難い屈辱だからです。だから、政府はその支持層に配慮して、「日本独自」の感染防止策を実施しているように見せかけることに懸命になっている。しかし、そんな独創的なアイディアを立てられるような能力は日本政府にはありません。

コロナ対応で明暗分かれたアメリカと中国

 パンデミックという「最悪の事態」に備えて、感染症対策に予算を注ぎ込んでいれば、「日本独自」の防疫策を提言できる体制ができていたかも知れません。しかし、日本社会では「最悪の事態に備える」ことは敗北主義なので、日本版CDC(疾病管理予防センター)もついに作られないままこの事態を迎えてしまったのでした。ですから、コロナウィルス禍が終息した時に、日本は防疫対策では「先進国で最低点」に近い評価を覚悟しなければならないでしょう。でも、それは偶然の不運ではなく、日本人の「最悪の事態に備えない」傾向がもたらした必然的な帰結なのです。

 コロナウィルス禍でトランプ大統領もその危機管理能力の低さを露呈しました。「アメリカ・ファースト」政策によって国際協調に背を向けて来たアメリカですが、今回のコロナ禍でもトランプは「アメリカさえよければそれでいい」という自国第一主義を剥き出しにし、秋の大統領選に備えて支持者へのアピールを優先させ、国際社会に対して指導的メッセージを発信するミッションを放棄しました。

 その一方で、感染対策について経験知を積んだ中国は医療資源を世界各国に送り出しています。感染症が終息した時に、世界の多くの国が「アメリカやヨーロッパの国々が自国第一主義的にふるまっている中で、中国だけが支援の手を差し伸べてくれた」という印象を持つことになると思います。習近平はコロナ禍を通じて「中国は寛大で友好的な大国」だというイメージを世界に宣布することを目指しています。ロシアも積極的に他国に支援を送ることで国際的地位の向上を図っています。政治的意図はクールですが、行為そのものは人道的です。トランプは自分の目先だけのコロナ対応でアメリカがどれほど国際的威信を失ったかに気がついていない。

 それにしても、どうしてこれほど無能無策な政権が40%を超える支持率を維持し続けているのでしょうか。イデオロギー的に安倍政権を支持しているという人は自民党支持層の半分以下だと思います。では、あとの支持者たちは何を支持しているのか。

自分より「上位」の人を批判してはいけないという風潮

 世論調査ではしばしば「他にいないから」というのが支持理由の第1位に挙げられます。それは言い換えると「安倍晋三が総理大臣に適格なのは現に総理大臣だから」というトートロジーに他なりません。
 コラムニストの小田嶋隆さんが、前にツイッターで麻生太郎を批判したことがありました。すると「そういうことは自分が財務大臣になってから言え」というリプライが飛んできたそうです。財務大臣以外に財務大臣の政策や資質の適否について論じる資格はない、と。このロジックは実はこの10年ほど日本社会に広く蔓延しているものです。僕も政治について意見を言うと「だったら自分が国会議員に立候補しろ」というふうに絡んでくる人がいます。国会議員以外は国政について議する資格はないらしい。同じロジックをあちこちで聴きます。ユーチューバーが他の人のコンテンツを批判したら「フォロワーが同じくらいになってから言え」と言われ、ネットで富豪の言動を批判したら「あれくらい金持ちになってから言え」と言われる。権力者や富裕者を批判することは、同レベルの権力者や富裕者だけにしか許されないという不思議な論法が行き交っているのです。自分より「上位」の人間を批判する動機は嫉妬であり、羨望である。そうなりたくてもなれない人間のひがみである。見苦しいから止めろ、と。それは要するに「絶対的な現状肯定」ということです。貧乏人や弱者は「身の程を知れ」「分際をわきまえろ」ということです。

「桜を見る会」のどこが悪いのかと不思議がる人もいる

 そういう言葉を口にするのが、実際にはお金もない、地位もない、社会的弱者であるというのが不可解です。

「桜を見る会」の問題でも、総理大臣が自分の支持者を呼んで税金で接待することのどこが悪いのか、と本気で不思議がっている人がいます。別にいいじゃないか、何が悪いのか? 権力者というのは「何をしても罰されない人」のことではないのか? 法の支配に服しない人のことではないのか? 安倍晋三は権力者なのだから、何をしても罰されないし、法の支配に服さないでいいはずだ。そういうポストに就くために久しく努力してきて、その甲斐あって権力者になったのだから、下々の者にそれを批判する権利はない。批判したかったら自分が安倍晋三のポストに就いてみろ、と。そういうロジックがリアリズムだと本気で信じている。

「身の程を知れ」という“死語”が甦ってきた日本

 僕の少年時代には「身の程を知れ」と言って叱りつける大人がまだあちこちにいました。でも、高度成長期を境にそんなことを言う大人はきれいにいなくなった。当然です。高度成長というのは、国民全員が「身の程知らず」の欲望に焼かれ、「分際を知らず」に枠をはみ出し、「身の丈に合わない」仕事を引き受けて、それによって経済大国に成り上がった時代だからです。国力が向上し、国運に勢いがある時には誰も「身の程」なんか考えやしません。真空管を作っていた町工場がハリウッドの映画会社を買収し、神戸の薬局が世界的スーパーになり、宇部の紳士服店が世界的な衣料メーカーになる時代に「身の程を知れ」というのは死語でした。でも、その死語がまた甦ってきた。それは日本の国力が低下し、国運が衰微してきたことの徴(しるし)です。

現政権が支持されているのは「日本が落ち目だから」

 人間はパイが大きくなっている時には、分配比率を気にしません。自分のパイが前より増えていればそれで満足している。でも、一度パイが縮み始めると態度が一変する。隣の人間の取り分が気になる。いったいどういう基準で分配しているのか、査定基準を開示せよ、格付けのエビデンスを出せというようなことを言い出す。生産性がどうの社会的有用性がどうの成果がどうのとうるさく言い出すのはすべて「貧乏くささ」「けちくささ」の徴候です。「落ち目になった国」に固有の現象です。

 現政権が支持されているのは端的に日本が落ち目だからです。貧乏くさい国では、人々は隣人の「身の程知らず」のふるまいを規制することにはずいぶん熱心だけれども、創意工夫には何の関心も示さなくなる。隣の人間の箸の上げ下ろしにまでうるさく口を出すのは、限られた資源を奪い合うためです。国を豊かにするためではない。

 今は船が沈みかかっている時です。積み荷の分配で議論している暇はありません。この船の船底のどこかに大穴が空いている。それを見つけて、穴を塞ぐのが最優先です。そのための時間はもうあまり残されていません。
(内田 樹/週刊文春 2020年4月9日号)