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比叡山延暦寺散策(11/11/18)

2011年11月18日 | 観光

根本中堂




根本中堂への道


文殊楼

誰もが知っている、日本仏教の原点、最澄により開かれた日本天台宗の本山寺院である
延暦寺は6度目の参拝で、今回初めて2人で参拝しました

概要
最澄の開創以来、平安仏教の中心で、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持ちました
 密教は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を争いました
「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔、西塔、横川の、三塔十六谷の堂塔の総称です

歴史
最澄
*最澄は法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智の著述になる「法華三大部」を研究しました
*桓武天皇は最澄に帰依し、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようなりました
*最澄は遣唐使船で唐に渡り、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝え(四宗相承)ました
 この事が、延暦寺は総合大学としての性格を持ち、後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあります
*大乗戒壇の設立
 最澄の説く天台の思想は、すべての者が菩薩であり、成仏することができるとの教えでした
 (当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う寺=大乗戒壇が決められていました)
 (比叡山の大乗戒壇の設立は、最澄の死後7日目認められました)

名僧を輩出
比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
 •良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
 •源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者
 •良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖
 •法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
 •栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
 •慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者
 •道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
 •親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
 •日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖

武装化
*比叡山の武力は強まり、強大な権力の白河法皇でも「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っています
*延暦寺は、武力・物資の流通を握ることにより、財力をも持ち一種の独立国のような状態でした

武家との確執
*室町幕府六代将軍足利義教は、延暦寺の有力僧を斬首し、それに絶望した僧侶たちは、根本中堂に火を放って焼身自殺しました
 義教は延暦寺の制圧に成功しましたが、義教の死後延暦寺は再び武装し、数千人の僧兵軍を持つ独立国状態に戻りました
*戦国時代細川政元が、延暦寺を攻め、再び根本中堂は灰燼に帰しました
*戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、延暦寺は反信長の行動を起こ為、信長は延暦寺を取り囲み焼き討ちし
 これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されました

*信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建されました
 根本中堂は三代将軍徳川家光が再建しました


戒壇院


大講堂

東塔
延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。
 •根本中堂(国宝) - 現在の建物は織田信長焼き討ちの後、徳川家光によって再建されました
   最澄の時代から続く「不滅の法灯」であります
 •文殊楼 二階建ての門で、階上に文殊菩薩を安置し、根本中堂の真東に位置し、他の寺院における山門にあたります
 •大講堂(重文) - 本尊は大日如来、本尊の両脇には日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されています
   若い頃延暦寺で修行した高僧で、これらの肖像は関係各宗派から寄進されたものです
  •戒壇院(重文) - 1678年に再建されました
  •国宝殿 - 山内諸堂の本尊以外の仏像や絵画、工芸品、文書などを収蔵展示してます





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