慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

「古事記=作品」「日本書記=史料集」「阿礼=女性」

2024年05月02日 | 歴史
🌸稗田阿礼は日本最初の女性作家2

⛳宣長は最先端の言語学者
 ☆『古事記』の編纂に乗り出した天武帝の意図
 *諸家に伝わる帝紀(天皇の系譜)と本辞(神話・伝説・歌物語)には
 *異同が多く、間違いも少なくない
 *これを正しくする事は、大事業の基礎となる
 *偽りを削り実を定めて、後世に伝えたいと考えた
 ☆諸家に伝わる帝紀と本辞にも、祭事等に欠かせない猿女君
 *朝廷ばかりでなく、他の諸豪族も抱えていた
 ☆猿女君の巫女の役割
 *神楽を舞うほか、多種多様の物語歌をうたい
 *主たる者は、憑依状態になり、神の託宣を伝えることも業とした
 ☆天武天皇『日本書紀』の編纂での「帝紀及上古諸事」の言葉
 *『古事記』の序文では「帝紀及本辞(=旧辞)」に変わっている
 *本居宣長はこの「辞」という字に注目した
 *宣長は、言語を事実や意思を伝達するための手段ではなく
 *言語を人間生活の中心をなす最も重要な精神の活動として捉えた
 ☆皇国史観の狂信を招いたりもした宣長の極論
 *物の見方も考え方も完全に古代人と一体化したところから生じた

『古事記』は「作家」の作品である
 ☆『古事記』は、神代史は皇室の尊厳を明らかにするために
 *或る時代に、或る人が思いを構えて作った物語である
 ☆日本書紀の神代の巻に相当するものは
 *古事記では、神話体系を構成しており、構成は立体的である
 *イザナキ・イザナミの男女二神の結婚による大八島国の生成
 *次いで天照大神を主宰者とする天上国家の成立
 *天上国家の地上への移行
 ☆天つ神の御子の降臨による日本国家の創建の事柄
 *極めて有機的に結びつけられており
 *「建国の由来」が見事に立体的に物語られている
 *局部的の神話や神統や歌謡等は、これを支えている
 *この事は「作家」の脳裡にしか起こり得ない
 ☆『古事記』と『日本書紀』の、最大の違いはここにある
 *『日本書紀』が極言すれば「史料集」である
 *『古事記』は一人の作家の、脳裡の構想で書かれた「作品」である

 *大和朝廷に伝わるはずのない出雲系の神話や歌謡
 *稗田阿礼が取材し蒐集してきたものを聞かなければ、知る由もなかった

「古事記」は、天武天皇と稗田阿礼は合作の作品である
 ☆諸家の巫女から集めた口承の伝説や歌謡の切片を
 *探っては嵌め込んで行く知的なジグソーパズルに
 *二人だけで熱中していたのでは……と想像される
 ☆天皇にたえず近侍するために、阿礼は男装の舎人で登用された
 *天武天皇は、自分の最大の遺産となるはずの『古事記』の完成
 *夢に見つつ、志半ばにしてこの世に遺して逝った
 ☆巫女はときに憑依状態になって神の言葉を告げる
 *稗田阿礼にとって天武天皇は神である
 *阿礼が天武天皇にに成り代わって
 *方針と制作の意義を反劉しながら
 *上代の神神と人人の「意」と「事」と「言」をめぐって
 *25年のあいだ来る日も来る夜も熟考に熟考を重ねつづけた
 ☆筆者は『古事記』を、天武天皇と稗田阿礼の共作と想定する
                      (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『「古事記」の真実』


「古事記=作品」「日本書記=史料集」「阿礼=女性」
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「金丸信」「佐川急便事件」「皇民党事件」最終回

2024年03月19日 | 歴史
🌸首相を操ったキングメーカー金丸信

⛳金丸信、陰から首相を動かす
 ☆所得税法違反の容疑で国会議員の金丸信が逮捕された
 *金丸は″政界のドン”と呼ばれるほどの大物だった
 *彼は昭和のキングメーカーして知られている

 ☆首相にこそならなかったものの
 *政界全体に呪みをきかせていた人物なのだ
 ☆金丸は調整能力に長けており、面倒見が良かった
 *野党議員からも慕われていた
 ☆党派を越えた強力な人脈を築いた
 *「金丸がいなければ政治は動かない」とまでいわれた
 ☆その権勢も逮捕の前年から翳りを見せ始める
 ☆金丸が逮捕の原因となったのは「佐川急便事件」である

金丸、佐川急便事件で追い詰められる
 ☆東京佐川急使の元社長が特別背任の容疑で逮捕された
 *不正に持ち出された金は投資などにも使われたが
 *かなりの額が政治家へも渡っていた
 ☆″政界のタニマチ″と噂された社長
 *政治家と深いつながりを持っていた
 ☆東京地検特捜部の調べによれば
 *自民党幹部も多数含まれていた
 ☆最大の大物は金丸
 *金丸が5億円もの金を受け取っていた
 ☆政治資金規正法で、定められた範囲内で政治献金は認められていた
 *5億円だと、最大で5年以下の懲役もありうる事態
 *金丸は断国として特捜部の事情聴取に応じないと突っぱねた
 *20万円の罰金を払うだけで済ませてしまった

金丸の暴力団との癒着疑惑と脱税事件
 ☆佐川急使事件の発覚は、皇民党事件という問題も引き起こした
 ☆金丸は竹下登を首相に担ぎ上げた立役者
 *竹下が、自民党総裁選に出馬しようとする直前
 *皇民党という団体が街宣車で街中を回り竹下を褒めまくった
 *しかし、大音声でがなり立てられては逆効果にしかならない
 ☆金丸が佐川急便社長に相談したところ
 *暴力団会長が仲介に入って収めてくれた
 *竹下も金丸も認める発言はしていないため真相は定かではない
 ☆佐川急使事件の発覚で自民党副総裁の座は退いたが
 *罰金刑で済ませてしまった金丸に世間からの批判の声は高まった
 ☆特捜部の成信をかけた調査によって巨額の脱税が発覚
 *逮捕されてしまい、不正な蓄財は数十億円にものぼった
 *その規模はケタ違いの大きさだった
                       (敬称略)
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⛳出典、『日本史の黒幕』


「金丸信」「佐川急便事件」「皇民党事件」最終回
(『日本史の黒幕』記事より画像引用)
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「田中角栄」「ロッキード事件」「昭和の院政」

2024年03月18日 | 歴史
🌸田中角栄、独特の魅力を持った男

光と闇を持った政治家田中角栄
 ☆田中角栄は、良くも悪くも昭和を代表する首相の一人
 *高等小学校しか出ていないが、首相の座にまで上り詰めた
 *サクセスストーリーを地で行った人物である
 ☆彼は国民から絶大な人気を集めた
 *「今太閤」「庶民宰相」などともてはやされた

 *田中は、一度も落選することなく約43年国会議員だった
 ☆田中ブームに沸いた就任当初とは違い
 *後年はダーティなイメージがつきまとう
 *巨額の金と強力な人脈を利用して、長い間日本の政治を操っていた

田中角栄、ロッキード事件で失脚する
 ☆田中に関する金銭問題は数々ある
 *最も注目を集めたのは「ロッキード事件」
 *戦後最大ともいわれる疑獄事件
 *事件の第一報はアメリカからもたらされた
 ☆ロッキード社のコーチャン副会長の証言によれば
 *多くの資金は、政府高官ヘの政治献金として使われた
 *政財界に影響力を持っていた政商の小佐野賢治
 *小佐野は田中の親友で、田中をバックアップしていた男
 ☆東京地検特捜部は田中の関与が濃厚だと見て捜査に乗り出した
 *全日空に働きかけを行い5億円の賄賂 を受け取つたとされた田中
 *前首相の逮捕という前代未聞の事態を招いた

田中角栄、事件の後も力をふるい続ける
 ☆どれほど大きなスキャングルにまみれても
 *つぶれないところが彼のしぶとさだ
 *権力への執着はさらに強くなったといえるかもしれない
 ☆彼自身は事件発覚後に自民党を離党していたものの
 *党内ではその後も田中派が大きく幅をきかせていた
 ☆田中はもう一度トップに返り咲くという野望を胸に秘め
 *彼らを裏から操り始めた
 *大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘と息がかかつた人物を
 *次々と首相に就かせた
 ☆田中のやり口はまさに昭和の院政ともいえる
 *地元の新潟県では事件後も根強い人気があり
 *晩年、病に倒れてからもトップで当選していた
                       (敬称略)
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「田中角栄」「ロッキード事件」「昭和の院政」
(『日本史の黒幕』記事より画像引用)
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「岡崎功」「松江騒擾事件」

2024年03月17日 | 歴史
🌸岡崎功、市庁舎を焼き払った男

終戦直後に起こったクーデター
 ☆松江騒擾事件 、「皇国義勇軍」を名乗る青年グループ
 *島根県庁を襲撃したために庁舎は全焼
 *付近の約3000平方メートルが火の海になった
 *事件の主役ともいえる人物が、岡崎功である
 ☆岡崎は、日本の敗戦と降伏に抵抗して
 *「降伏は死なり」「戦えば必ず勝つ―」と
 *本土決戦のための一斉決起を全国に呼びかける
 ☆岡崎は、20歳前後の男女50人あまりを集めた
 *彼らと共に手相弾や短銃などを準備して
 *島根県内の主要施設を襲った
 ☆岡崎はグループの中で
 *最も重い無期懲役の判決を受けたものの
 *一度の恩赦で刑が軽減され6年ほどで釈放されている.

執行猶予中の事件
 ☆岡崎功は、20歳の頃から革命運動に参加し始め
 *政府要人の暗殺計画に加わり、未遂に終わったが
 *執行猶予付きの判決を下されている
 ☆憲兵隊の間では要注意人物としてすでにマークされていた
 *松江騒擾事件 は、岡崎が執行猶予中に帰郷して起こした事件
 *日本が無条件降伏をしたことが国民に告げられたとき
 *岡崎は徹底抗戦の一斉蜂起があるものと信じて疑わなかった
 ☆岡崎は、以前から一部の海軍航空隊や陸軍飛行隊、憲兵隊などと
 *連携をとって、共に立ち上がるという計画を練っていた
 *玉音放送から一週間も経つと軍も憲兵隊も熱は冷めてしまい
 *蜂起当日にはどこからの協力も得られなかった
 ☆参加者は岡崎より年下の民間人ばかり
 *間に合わせの武器を手に事件は決行された
 *最後にメンバーが放送局に集結した頃
 *武装警察官と松江連隊に包囲されていた
 ☆事件は報道管制が敷かれ
 *岡崎らの蜂起が全国的に知られなかった

岡崎は、事件後は静かに過ごす
 ☆岡崎は取り押さえられてすぐに
 *「自分が死ぬ代わりに若者たちを釈放してほしい」と願い
 *隠し持っていた刃物を取り出すと、その場で自殺を図っている
 *病院に運ばれて命を取り留めた
 ☆その後は刑に服し間もなく出所、86歳で他界している
 ☆岡崎の大望だった日本国民による一斉蜂起
 *現実のものとはならなかったが、彼が起こした凶悪な事件
 *何の罪もない人の市民を死に追いやり
 *県庁舎の全焼という甚大な被害を出した
 ☆日本の敗戦をにわかに信じられないままに事件を起こした岡崎
 *戦争の傷跡から復興した日本を見ながら、何を思っていたことだろう
                       (敬称略)
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⛳出典、『日本史の黒幕』

「岡崎功」「松江騒擾事件」
(『日本史の黒幕』記事より画像引用)
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「甘粕正彦」「甘粕事件」「満州国建国」

2024年03月16日 | 歴史
🌸数多くの謎を抱えた人物甘粕正彦

謎のまま残る甘粕事件
 ☆甘粕正彦は元日本陸軍憲兵大尉にして満州国の実力者
 *彼は、玉音放送が流れた5日後、青酸カリを飲んで自決している
 *その死によって多くの謎は永遠のものとなってしまった
 ☆彼はなぜ死を選ばなければならなかったのだろうか
 *謎のひとつが、関東大震災直後に起きた甘粕事件
 *震災の混乱に乗じて軍内部に設置された憲兵隊
 *社会運動家たちを一斉検挙しようと躍起になっていた
 *運動家の中には捕えられてリンチを受け虐殺された者もいた
 ☆甘粕事件は、恐ろしい時代を象徴する殺人事件
 *当時東京憲兵隊の麹町分隊長甘粕正彦

甘粕正彦、生真面目さが事件の遠因か
 ☆殺害されたのは
 *作家で社会運動家の大杉栄・内縁の妻・大杉の甥の3人
 *遺体は憲兵隊本部裏の古井戸に投げ込まれていた
 ☆逮捕された甘粕は軍法会議で
 *「個人の考えでの犯行」と証言、禁固10年の判決を受けている
 *この証言は当時から「軍をかばっている」との見方が強かった

 ☆甘粕事件は、本来なら
 *震災のどさくさに紛れてうやむやになるはずだった
 *虐殺が子供にまで及んでいたことで新聞報道が過熱
 *事件は必要以上に明るみに出た
 ☆当時の新聞によれば
 *甘粕は温厚な性格で上司・部下からも信頼される模範的将校
 *生真面目さゆえに事件の責任を一手に引き受けたと記載された
 ☆軍法会議では無視されたが
 *甘粕とともに逮捕された部下からは
 *「上層部の指示で殺害した」という発言もあった

甘粕は、事件のあとも華やかな世界に住む
 ☆事件後、甘粕は3年足らずで出所
 *陸軍の経費でフランスヘの留学を果している
 ☆フランスから満洲へ渡り、満州国建国と同時に
 *警察庁長官クラスの役職に就いた
 *時の総務庁次長である岸信介らの尽力で
 *満州映画協会の理事長になってショービジネス界にも君臨する
 ☆その頃の甘粕は
 *満州映画の看板女優・李香蘭、画家の藤田嗣治などの
 *著名人との交流も盛んだった
 *湯水のように金を使い、華やかな人脈を築いていった
 ☆彼の資金源がどこにあったのかだけは明らかでない
 *彼の華やかな人脈は、軍にとり重要な情報源のひとつだった

 ☆満州事変の影にも、甘粕の存在は見え隠れしている
 *甘粕は裁判ではもちろん、その後の人生においても
 *一切の真相を明らかにすることはなかった
 ☆満州事変の黒幕のひとりともいわれる甘粕
 *かって起こした甘粕事件
 *彼の関わり方の詳細は結局わかっていない
 ☆終戦が告げられるとすぐに自殺した
 *あらゆる秘密を墓場まで持って行ってしまった
 ☆甘粕の辞世の句「大ばくち 身ぐるみ脱いで すつてんてん」
 *大胆に生き、多くの謎を残したままこの世から消えた
                       (敬称略)
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⛳出典、『日本史の黒幕』



「甘粕正彦」「甘粕事件」「満州国建国」
『日本史の黒幕』記事他より画像引用)
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「石原莞爾」「満州帝国」「柳条湖事件」

2024年03月15日 | 歴史
🌸満州帝国をつくった男、石原莞爾(かんじ)

石原莞爾、戦犯になるのを免れた男
 ☆関東軍の自作自演から始まった「満州事変」
 *その中心にいた石原莞爾
 *石原は関東軍参謀で、満州事変の首謀者だ

 ☆戦後の石原は戦犯にもならなかった
 *故郷の山形で静かに暮らし、60年の生涯を終えている
 ☆石原莞爾が、無罪放免になるになった理由

⛳石原莞爾は「帝国の異端児」と呼ばれる
 ☆陸軍士官学校や陸軍大学でも常にトップクラスの成績
 *変わり者だった、軍隊でのあだ名は「帝国陸軍の異端児」
 ☆石原は体こそ虚弱だったが
 *明晰な頭脳を活かして関東軍参謀として大いに力を発揮した
 ☆満州事変では「計画の石原、実行の板垣」といわれ
 *参謀の板垣征四郎と二人三脚で仕事に当たっている
 ☆南満州鉄道の路線を爆破し中国軍のしわざと称した
 *柳条湖事件も石原の完璧なシナリオによるもの

石原、柳条湖事件を演出する
 ☆満州で、関東軍と中国軍の関係はかなり緊迫していた
 *一触即発の状態で、石原はそれをたくみに利用した
 ☆石原は「一刻の猶予もすべきではありません」と
 *関東軍司令官の本庄繁中将に迫り
 *軍事行動を起こさせるよう決断させた
 *石原は、侵攻が決まるやいなや
 *満州鉄道沿線に駐屯する関東軍に次々と連絡を取り出動させた
 ☆電光石火の指示で、柳条湖で爆発があつた翌日
 *満州の主要都市のほとんどを関東軍が占領した
 *関東軍の兵力は1万、中国軍は20万~30万
 ☆柳条湖事件に端を発して満州事変は始まり
 *日中戦争、太平洋戦争へと進んでいった

石原、東條英機と衝突
 ☆石原は、上官関東軍参謀長官の東條英機とことごとく衝突
 *みずから予備役を願い出、軍人として一線を退いた
 *これが戦犯を免れた要因のきっかけになった
 ☆石原は、満州からも離れると執筆活動などをして過ごした
 *石原は、は日中戦争の拡大に反対したり、戦争放棄まで訴えた.
 ☆彼が戦犯となって満州事変の日本軍の正当性を語っていたら
 *東京裁判は成り立たなかったと囁かれたほど
 ☆満州事変のもう一人の首謀者である板垣は軍人を貫き
 *東京裁判によって死刑に処されている
 ☆石原莞爾は賢く立ち回ったといえる
 *彼が画策したこの満州事変が満州国の建国につながり
 *幻の理想郷が多くの悲劇を生み出したことは事実なのだ
                       (敬称略)
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「ゾルゲ事件」「スパイ尾崎秀実」

2024年03月14日 | 歴史
🌸日本を敗北に導いたスパイ尾崎秀実

 尾崎秀実、ソ連のスパイと結託
 ☆「ゾルゲ事件」は、日本の歴史で最大かつ最悪のスパイ事件
 *大平洋戦争開始直前に発党した衝撃的な事件
 ☆主犯のリヒャルト・ゾルゲ
 *ソ連赤軍参謀本部諜報総局から派遣された腕利きのスパイ
 *彼はドイツの新聞記者を装って日本に潜人
 *日本やドイツの機密情報を手に入れて本国へと送っていた
 *その諜報活動は8年もの長きにわたって行われた
 ☆ゾルゲは日本人の協力者を集めて
 *「ラムゼイ機関」というグループをつくった
 *ゾルゲの片腕として最も重要な働きをした人物が尾崎秀実
 ☆尾崎は朝日新聞の記者や満州鉄道調査室の嘱託などを歴任
 *中国情勢については第一人者として世間から認められていた
 *尾崎は、近衛文麿首相のブレーンも務めている
 *尾崎は、極秘情報を密かにゾルゲヘと横流ししていた

尾崎秀実、太平洋戦争の決定的な情報を流す
 ☆朝飯会では近衛の側近をはじめ、政治学者、ジャーナリストなど
 *多様なジャンルの人々が顔を合わせ、政治や外交で意見交換をする
 *近衛から提案された議題を話し合い
 *それが政策に用いられることもあった
 *国家機密に関する情報であっても
 *尾崎のことを気心が知れた仲間だと思い込んでいる彼ら
 *何も隠し立てはしなかった
 *尾崎はトップシークレツトを確実につかんでいった
 ☆彼が、漏らした機密事項のひとつ、日本の「南進」に関する情報
 *日本は中国から撤退するか、米英との開戦かの選択を迫られていた
 *日本が日ソ中立条約を破棄して「北進」するか
 *南へ向かうかは、ソ連にとつて重大な問題だった

 ☆尾崎は朝飯会のメンバーや記者時代の仲間などのネットワークから
 *日本は石炭などの資源を確保するために
 *「南進」し、東南アジアに侵攻するというものだった
 ☆この情報でソ連は日本の参戦はないと確信
 *ドイツとの戦いに注力することができた

尾崎秀実、謎を抱えたまま死ぬ
 ☆尾崎には、日本の南進
 *米英との開戦が避けられないことはわかっていた
 *マルクスやレーニンに影響を受け共産主義に傾倒していた彼
 *ソ連への攻撃だけは止めなければならなかった

 ☆近年ではゾルゲ事件の解釈が変わってきている
 *尾崎はソ連への侵攻は戸止めたかったが
 *米英との開戦もまた防ぎたかった
 *平和的に解決するため、日本の中国からの撤退を望んでいた
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「東條英機」「東條の性格」「日本国敗戦」

2024年03月13日 | 歴史
🌸太平洋戦争を始めた東條英機

東條英機開戦時の首相として罪を問われる
 ☆極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が行われた
 *「A級戦犯」として逮捕された28人
 *世界11力国の代表によって罪を裁かれた
 *裁判の結果、7人に絞首刑
 *残りの者には、終身刑や有期刑が言い渡された
 ☆極刑に処せられた東條英機
 *彼の独断で開戦が決められたわけではない
 *誰が首相でも同じ決断を下したともいわれている
 ☆彼だけに戦争責任を押しつけることはできない
 *対米英開戦での最高責任者の座にあったことは事実だ

ギリギリの交渉の末の開戦
 ☆東條は、メモ魔といわれるほど凡帳面な性格
 *些細なことでもメモをとらなければ気が済まない
 *キレ者で「カミソリ東條」と呼ばれて恐れられていた
 ☆東條がが首相になったのは、アメリカとの外交交渉を続けるか
 *開戦に踏み切るかというギリギリの決断を迫られる時期だった
 ☆この時期に東條英機が首相に選ばれた理由
 *軍部を自重させるには
 *軍人出身の彼こそがふさわしいのではと、期待されたから
 ☆一度狂い出した時代の歯車は誰にも止められなかった
 *アメリカとの交渉を続けながら平行して開戦準備も行い
 ☆交渉決裂したらすぐに開戦するという方針が決められた
 *日米間の交渉は両者一歩も譲らないまま決裂
 *東條は開戦にふみきった

東條英機の生真面目さがあだになる
 ☆日本が勝利を続けた開戦当初
 *東條は欧米列強からアジア諸国が独立することを奨励
 *大東亜共栄圏の構想を掲げた.
 ☆″アジアの共存共栄″とは名ばかり
 *実質上は資源の確保をしたい日本の占領続治だった

 ☆ミッドウェー海戦の敗北から、日本の戦況は悪くなる
 *東條への批判も高まり、東條内閣は崩壊した
 ☆戦中、アメリカと和平交渉に入る機会は何度もあった
 *勝利を収めている段階で交渉に臨むこともできた
 ☆「戦うからには勝たなければならない」を信条とした東條
 *あくまで戦いを続行した
 *彼の厳格な性格が時流に災いした結果
 *大平洋戦争という悲劇は起こってしまった
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「北一輝」「昭和維新断行・尊皇討奸」「統制派」

2024年03月12日 | 歴史
🌸北一輝、2・26事件に影響を与えた

北一輝、青年将校たちに多大な影響を与える
 ☆青年将校らが1、500人近い兵を率いて
 *内閣総理大臣をはじめとした重臣らを襲う
 *首都中枢部を4日間占拠した
 *首都・東京に戒厳令が敷かれた「二・二六事件」
 ☆彼らが掲げた「昭和維新断行・尊皇討奸」の言葉
 *天皇による政治を実現するため
 *悪政を続ける政治家を討ち
 *世の中を変えなければならないという信念を表したもの
 ☆北一輝は、彼らに多大な影響を与えていた人物
 *北は、首謀者の一人として事件の翌年に死刑になった
 *彼は、実質的に関与したわけではなく
 *先走る将校らを「時期早尚だ」と諌めたりもしている
 *彼が、極刑を下されたのにはそれ相応の黒い背景があった

⛳北は、資金を得て暗躍した
 ☆北は、新潟の名家で生まれた思想家であり革命家である
 *北は、頭脳はすこぶる明晰だった
 *北は『日本改造法案大綱』を書き上げている
 ☆「日本改造法案大綱』
 *華族制の廃止や男子普通選挙の実施から
 *日本の領土間題まで触れた具体的な国家改造プログラムだった
 ☆この頃から北の黒い人脈が築かれていく
 *北は事件屋・恐喝屋の様相を帯び始めたのだ
 *北は、集まってくるさまざまな情報をネタに
 *いくつもの事件を引き起こしては逮捕された
 *怪文書をばら撒いて銀行を恐喝したり
 *生命保険会社に嫌がらせをしたりもしている
 ☆北に一目置いた三井財閥
 *三井財閥は、彼に年額2万円(現在の1億円相当)の資金提供をした
 *社会運動家や青年将校らの動きを報告させていた
 ☆北は、その資金で政治活動を行っていた
 *「日本改造法案大綱』では財閥を批判しながら
 *裏ではその財閥から資金提供を受けていた

⛳北は、重要な機密を握ったまま死ぬ
 ☆北自身の事件への関与は薄かったが、軍の上層部は懸念していた
 *事件屋として暗躍した彼が軍の内部を知りすぎている

 ☆軍法会議では青年将校に次々と有罪判決が下されている
 *北と彼の右腕西田税は、不起訴か執行猶予付き刑が検討された
 ☆陸軍幹部「両人は証拠の有無にかかわらず黒幕である」と
 *極刑の判決を示唆すると状況は一変した
 ☆公判が非公開のうえに異例の早さで処刑が決行されたのも
 *何を言われるかわからないと考えた軍側の恐れの表れだろう
 ☆二・二六事件は日本に大きな影響を及ぼした
 *事件によって日本陸軍にあった二大派閥のうち
 *財閥やエリートが率いる「統制派」が実権を握る
 *北の影響を受けた庶民中心の「皇道派」は排除される
 ☆統制派の軍人たちは広田弘毅内閣を成立させ
 *軍部大臣現役武官制を復活させた
 *軍が政治を直接動かす仕組みをつくり上げた
 ☆5・15事件によって日本の政党政治が終わり
 *2・26事件によって新たに軍が政治を掌握する体制が完成した
 *2・26事件で、日本が一気に軍国主義へと傾斜していく
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
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⛳出典、『日本史の黒幕』





「北一輝」「昭和維新断行・尊皇討奸」「統制派」
(『日本史の黒幕』記事他より画像引用)
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「五・一五事件」「三上卓」「犬養毅」

2024年03月11日 | 歴史
🌸現役の首相を銃殺した三上卓
 
官邸に押し入り犬養毅を暗殺する
 ☆「五・一五事件」昭和7に発生したクーデター
 *4年後に起きた「二・二六事件」
 *どちらの事件も青年将校らが昭和維新の旗の下に
 *政治家や官僚を襲つた事件
 ☆二・二六事件では1000人以上の兵が動いた
 *五・一五事件に関与したのはほんの30人ほど
 *五・一五事件がなかったら二・二六事件は起こらなかった
 ☆主犯の一人三上卓
 ☆三上は当時27歳の海軍中尉だった
 *右翼団体に影響を受けて国家改造という思想に傾倒していった
 *五・一五事件では首相官邸の襲撃のリーダーとして
 *当時の首相である大養毅に銃を向け殺害している
 ☆軍法会議では禁固15年の判決に止まったうえ
 *実際には4年ほどで仮出所した
 *首相を殺害するという大罪を犯した彼が
 ☆4年あまりで仮出所できた理由
 *一般公開になった軍法会議にあった
 *三上はそこで多くの傍聴人の同情を集めた

話し合いに応じず「問答無用」で殺す
 ☆三上は軍法会議で述べた
 *覚悟のうえで行ったことで罰せられることに異論はない
 *今の支配階級は皇国を危うくするの言葉に人々が共鳴した
 *黒岩がいなければ三上は大養に言いくるめられていただろう
 ☆三上は詩的センスがあった
 *軍歌のひとつ「昭和維新の歌」の作詞を手掛けている
 *そのセンスがなかったら三上の運命は違ったものになっていた

三上の行動は、のちのクーデターに影響を与えた
 ☆殺害されたのは犬養一人だった
 *世界恐慌の直撃を受けて困窮していた世相や
 *雄弁な三上の陳述によって
 *五・一五事件の犯人グループで
 *死刑になった者は一人もいなかった
 ☆寛大すぎる処置がのちに二・二六事件を起こす
 *青年将校らに、誤解を与えてしまった
 *二・二六事件に加わった反乱将校たち
 *五・一五事件の前例があり
 *自分たちに対する量刑もそれほど重くはならないと信じていた
 ☆二・二六事件ののちに開かれた軍法会議は非公開になった
 *事件の首謀者は全員死刑判決を言い渡された
 *そう考えると、昭和の動乱の引き金を引いた元凶は三上卓だった
                       (敬称略)
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「難波大助」「皇太子テロ」「事件の波及」

2024年03月10日 | 歴史
🌸難波大助、皇太子を撃ったテロ犯
 
⛳難波大助「虎ノ門事件」判決後2日で死刑
 ☆昭和天皇となる当時の皇太子を乗せた車
 *皇居から赤坂の虎ノ門辺りに差しかかった
 * 一人の男がその車に近づき発砲した
 ☆事件の主役は、24歳の青年、難波大助
 *弾丸は窓ガラスに当たってその破片が侍従の顔をかすめた
 *皇太子は無傷でその日の公務をこなし、暗殺は未遂
 ☆難波大助は、逮捕後も皇室への批判を改めなかった
 *翌年、判決から2日後という異例のスピードで死刑となった
 ☆彼が犯行に至った背景には意外な埋由があった
 
⛳難波大助、アナキストからテロリストに変貌
 ☆難波大助の父は県会議員
 *一家は皇室を重んじて彼自身もその思想を強く受けて育った
 ☆10代後半から多くの書物と出会い思想に変化が芽生える
 ☆明治天皇の暗殺を企んだ社会主義者やアナキスト(無政府主義者)
 *彼らが、処刑された幸徳事件に憤慨していた
 *労働運動や社会主義運動に積極的に参加する
 *父親から教え込まれた彼の思想は大きく揺らいだ
 ☆軍隊による社会主義者たちの虐殺も頻発した
 *難波は市民運動の無力さを痛感した
 *難波は、暴力に訴えるテロリストヘと変貌していった
 ☆テロは未遂に終わったもののその影響は大きかった
 *内閣は総辞職、警視総監や警務部長らも懲戒免職の処分
 
難波の事件の背景にあった劣等感
 ☆難波は、高校受験に失敗している
 *2人の兄は東大と京大に進んだというエリートだった
 ☆父親は倹約家で、難波が上京したときには仕送りも渋った
 *彼は働きながら予備校に通うしかなかった
 *合格した高校も1年で辞めて日雇い労働者になっている
 ☆学業不振や兄への劣等感、父親ヘの恨みから
 *父や兄を貶めたいという短絡的な理由が犯行の裏にあった
 ☆衆議院議員になっていた難波の父、事件を聞くと
 *辞職願を出し、息子の処刑後みずから食を絶って死んだ
 *エリートだった兄たちも辞職を余儀なくされている

 ☆事件は、当時の政界に大きな混乱を招いた
 *首相は事態の大きさにおののき、全閣僚の辞表を集め総辞職
 *警視総監や警視庁の警務部長が懲戒免職になった
 *難波大助が通った小学校の校長や担任教師が辞職
 *郷里山口県の県知事が減俸になるなど大きな波紋を広げた
 ☆難波の父の選挙地盤を継いだのは
 *外務大臣で、日独伊三国同盟や日ソ中立条約を締結した松岡洋右
 *松岡の跡を内閣総理大臣の座に就いた、岸信介、佐藤栄作の兄弟が継いだ
 *難波大助の恐ろしい事件、数々の人物政治家を排出した
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「津田三蔵」「大津事件」「政府VS司法」

2024年03月09日 | 歴史

🌸ロシア皇太子に斬りかっかた津田三蔵

 

津田三蔵、海外の要人めがけて斬りかかる

 ☆来日中のロシア皇太子ニコライが襲われて負傷する事件

 *「大津事件」で犯人は津田三蔵

 *ニコライ一行が通過する沿道を警備していた巡査の一人
 ☆津田の胸中にはロシアへのどす黒い思いが渦巻いていた
 *ロシアの皇太子、天皇に謁見する前に各地を見物したり

 *誇りある西南戦争の記念碑に目もくれないなど

 *皇太子らは礼儀を欠いていると思っていた

 *ロシア、日本侵略をもくろんでいるのではとの
 *彼が疑心暗鬼に陥っていた

 ☆西南戦争に官軍側で参加した津田は勲七等を受けていた

 *西郷の帰還で勲章を取り上げられることに脅えていた
 *不安や恐怖が津田を突き動かし、テロ行為に走らせた
 ☆ニコライに斬りかかった津田はその場で取り押さえられた

 *事件の首謀者が逮捕されたことで一件落着でなかった

 ☆ここから大津事件のクライマックスが始まる

 *彼の量刑をめぐって政府と司法界が

 *全面対決をするという、事態に発展していった

 

「大津事件」は、外交問題と司法の問題を起こす

 ☆国賓に深手を負わせたことで政府内は騒然とした
 *ロシアは世界最強と謳われる陸軍を有する大国だ

 *怒りに任せて攻め込まれたら日本は太刀打ちできない
 ☆政府は津田に、皇族に危害を加えた場合に適用される

 *皇室罪を用いることを決定する

 *未遂であっても極刑を宣告できるので
 *猛反発したのが大審院院長の児島惟謙

 (皇室罪の場合大審院でしか裁くことができない)
 *児島は「普通の殺人未遂罪として扱うべきだ」と主張
 ☆政府は「国家と法律のどちらが大事か」と児島に強く迫った

 *彼は「司法は独立した存在であり」と突っぱねた
 ☆実際に判決を下すのは裁判官だ

 *政府と児島はそれぞれ彼らの説得に奔走した

 *結局、津田は司法で、謀殺未遂の罪で無期懲役の判決

 

「政府VS司法」は、法治国家の基礎をつくる

 ☆大津事件の裁判は日本の裁判史上で大きな意味を持つ
 *日本は列強諸国から未熟な存在だと見なされ

 *政治的圧力に屈しない判決を出したことで

 *れきっとした法治国家だと証明することができた
 ☆懸念していたロシアの反応も

 *日本の法律に則って裁かれたので満足とのこと
 *事件から3年後に不平等条約の改正にも成功している

 ☆かたくなに政治の介入を拒んだ児島

 *のちに″護法の神″と呼ばれるようになった
 ☆事件を起こした津田は北海道の釧路に収監された

 *判決から約4ヵ月後に肺炎で死亡した
 ☆彼が起こした事件は許されるものではないが

 *津田は法治国家の礎を築く影の立役者になった

                       (敬称略)
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「津田三蔵」「大津事件」「政府VS司法」

(『日本史の黒幕』記事より画像引用)

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「島田一郎」「暗殺」「大久保利通」

2024年03月08日 | 歴史

🌸大久保利通を暗殺した島田一郎

 

大久保に50以上の傷を負わせる

 ☆大久保利通が乗った馬車が紀尾井町の清水谷を通過した
 *道の傍らでは2人の男が花を眺めている
 *刀を手にした4人の男が現れ、馬を斬り馬車を足止めた
 *花を眺めていた2人も刀を抜きながら駆け寄ってきた
 *大久保が馬車を降りようとしたとし刀が振り下ろされる
 *6人が大久保目がけて襲いかかる
 ☆絶大な権力を振るった大久保49年の生涯を閉じた
 *「紀尾井坂の変」と呼ばれる人久保利通暗殺事件だ
 ☆彼の体に残された50以上もの傷

 *暗殺劇は、確実に大久保の息の根を止めるための計画だった
 ☆中心的な役割は、島田一郎という石川県出身の士族である

 

島田らは周到に暗殺計画を練る

 ☆島田は徹底的に大久保の身辺を探ることから始めた
 *内務省に出勤する日や自宅を出る時刻

 *内務省へ向かうルートなどを入念に調べあげた

 *外出時に護衛をつけないことが判明した
 ☆暗殺場所に紀尾井坂を選んだ理由

 *道幅が狭く、屋敷が建ち並び逃げ込める場所がない

 *坂道にさしかかれば馬車の速度も落ちる
 *大久保が出勤する時間帯には、人通りが少ない

 *襲撃するには絶好のポイントだったのだ

⛳島田ら西郷に心酔した末の殺害

 ☆島田はこれほど大久保を憎んでいた理由
 *不平士族のカリスマ的な存在だった西郷隆盛の死

 *島田も彼に心酔する一人だった 
 ☆島田一郎大久保を斬る理由として

 *政治を私物化していること、民権を抑圧している等

 *5つの理由が書かれている

 ☆島田らは、西南戦争が勃発した折には挙兵も試みた

 *メンバー集めに苦労している間に、西郷軍は敗れる

 *島田は政府の要人暗殺へと方針を変えた
 ☆士族の味方西郷

 *大久保の追討軍によって死に追いやられた

 *島田らは、ゆえに鉄槌を下したというわけだ
 ☆目的を果たした島田は逃亡する気は毛頭なく

 *大久保の罪を告発した斬奸状を手にして自首する

 *その後、暗殺グループ全員が極刑に処せられた

 ☆取り調べの最中、島田は大久保以外にも

 *大隈重信や伊藤博文らの罪も並べ立て

 *自分のあとに続く暗殺者が出ることを期待していた
 ☆その大隈や伊藤こそが大久保の遺志を継いで

 *その後の日本を動かしていくことになる
 ☆島田は、元武士である士族が

 *政治に関わることができるような国家を夢見ていた
 *島田は、西郷隆盛の死によって大久保暗殺を企んだ
 *大久保利通暗殺の成功により、自分が思い描いた

 *新時代の到来を夢見た島田
 *現実は残念ながらそうはならなかった

                       (敬称略)
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(『日本史の黒幕』記事より画像引用)
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「井上馨」「尾去沢銅山」「三井の番頭さん」

2024年03月07日 | 歴史

🌸汚職に手を染めた政治家井上馨

 

「汚職政治の権化」とまで言われた男

 ☆井上馨は長州藩の上士出身だが、身分の上下は拘らなかった
 *下士出身の伊藤博文と親友だった
 *青年時代に同志としてイギリス公使館を焼き打ちにしたり

 *密航留学をするうちに2人の間に友情が芽生えた
 ☆伊藤に比べると井上の評価は驚くほど低い

 *井上には、金にまつわるダーティなイメージが強烈だ
 ☆井上は「汚職政治の権化」「貪官汚史の代表」と表現された

 

井上馨は、有望な銅山を奪う

 ☆秋田県の尾去沢銅山は南部藩の所有だった

 *経営は藩の御用商人・村井茂兵衛に任されていた

 *南部藩は、銅山の経営費等を、村井から借りていた
 ☆廃藩置県が断行された

 *藩の負債は明治政府が肩代わりすることになった
 ☆村井は、「藩からの借金を返せ」と要求された
 *村井は真相を主張したものの聞き人れられず

 *「尾去沢銅山を返上するなら借金をチャラ」の

 *政府の申し出を受け入れざるを得なかった
 ☆強引な差し押さえを裏で操っていたのが井上だった

 *国有になった尾去沢銅山を

 *井上は懇意にしていた商人に無利息で払い下げた

 *銅山の入り口に「井上馨所有」の立て札まで立てた

 *井上は、最初から銅山を私物化することを企んでいた
 ☆司法は井上を裁こうとした

 *本来なら懲役刑に処せられるところを

 *30円の罰金を払うだけで済んでしまった

 

⛳井上薫は、あらゆる手を使って大もうけする

 ☆政府を離れた井上「先収会社」の商社を設立する
 *政治家時代の絆を最大限に活用し

 *陸軍の山県有朋から受注した軍事用品を扱った

 *これが大もうけにつながっていく
 ☆この会社は井上が政界に復帰する際、

 *三井が後ろ盾となった三井物産へと生まれ変わる
 *その後も井上はあからさまに三井を擁護した
 ☆西郷隆盛からは「右手で商売、左手で政治を行う」

 *「三井の番頭さん」などと蔑まれた
 *井上は政界・財界の両方と密接な関わりを持つ 

 ☆井上は、汚職政治家の先がけともいえる存在だった

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「山県有朋」「徴兵制」「教育勅語」「派閥」

2024年03月05日 | 歴史

🌸派閥で政治を支配した山県有朋

 

山県有朋は、軍国主義の基礎を築いた

 ☆明治政府の近代化を推し進めていくなかで

 *スローガンに掲げたのが「富国強兵」だ
 *強兵の部分に力を入れた中心人物が山県有朋

 *彼は二度の首相経験を持ち

 *政界で大きな力を有した長州出身の政治家だ
 ☆奇兵隊にも参加していた山県

 *武芸で身を立てようと考えていたようだ
 *政治に身を投じてからもその体質は変わらず

 *軍備の強化に心血を注いでいる

 ☆四国艦隊に占拠された長州軍の下関砲台事件

 *山県は必要以上に軍部の力を増大させ支配した

 

山県は軍部を意のままにした

 ☆山県が強力に推し進め、実現させたのが徴兵令
 *彼は満20歳以上の男子全員に徴兵の義務を課した
 *新たな負担を強いられる国民や

 *仕事を失う士族から反発の声が上がった

 *山県は反抗する者を弾圧して新しい日本の軍隊を作った
 ☆山県は、明治15年には「軍人勅諭」を発布させる
 *軍隊を天皇の直属とし、政府を介さずに

 *天皇から直接軍人に命令を下すことができる内容

 *天皇から参謀本部へと指令が出されるシステムが完成した
 ☆軍人勅諭は天皇の名で出されていたが

 *草案は山県の指示で彼のブレーンである西周らが作成した
 ☆勅諭では、名目上は天皇が軍隊の最高司令官

 *実際は山県が権威をかさに着て

 *軍部を自分の意のままに牛耳ろうとした

 ☆天皇は軍部の人事でさえ口をはさめなかった

 

山県は、派閥をつくり自分の勢力を伸ばす

 ☆山県は容易に人を信用しない性格だった

 ☆政党政治を嫌っていた彼は、官僚制度の拡充を図る

 *門閥や私的なつながりに左右されずに

 *試験で、官僚に取り立てるシステムを構築した
 ☆山県は、育成した官僚で周りを固め

 *自分の思い通りに政治を動かしていく

 

⛳山県は、武力と政治力の両方を手に入れる

 ☆山県は軍人政治家としては初めて首相の座についた
 *軍隊と政治の両方を掌中に収めた

 ☆伊藤博文と山県同じ長州出身で年齢も近かった
 *伊藤に比べると山県の評判は良くない

 *現代に至るまで山県の人気は低い
 ☆山県は、国葬になったにもかかわらず

 *彼の葬儀に訪れた一般人はほとんどいなかった
 ☆山県は、官僚や軍人を中心にして

 *自分の息がかかった者を重用し

 *「山県閥」ともいわれる一大派閥をつくり上げた

 *政界に対し大きな影響力を持ち続けた
 *表面的には大きな求心力を持った偉大な政治家だった

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