野中や木陰を流れる、誰にも気づかれないような水の流れを忘れ水といいます。 草陰に見え隠れして、 途切れ途切れに流れているささやかな流れ。 和歌の世界では今にも途切れそうな恋のたとえに使われている。 存在すらも知られてはいないけれど、 心のよりどころになったりもする。 このような人がきっとどこかにいるのでしょう。 「あづま路の 道の冬草 茂りあひて あとだに見えぬ 忘れ水かな」 (新古今集) 「はるばると 野中に見ゆる 忘れ水 絶え間絶え間を 嘆くころかな」 (後拾遺集) 野中にはるかに見える 忘れ水のように、 あなたの訪れが 絶え間がちなのを 嘆いています。 途切れそうな恋の 忘れ水 素敵な言葉です。 合掌
梅雨明けの夏空に湧き立つ入道雲は、まるで山の峰のように見えるので「雲の峰」と表現されています。 入道雲(積乱雲)は勇壮に見えるため日本では男性の名前をつけています。 関東では坂東太郎、大阪では丹波太郎、九州では比古太郎と呼ばれています。 雲を山の峰に例えるのは大いなる自然への賛美が込められているのでしょう。 私は母が亡くなった時、峰を登っていく姿が見えた気がしてずっと眺めていました。 合掌
心の栄養不足になっていませんか? 年をとると失うものが多い。 両親、兄弟、友人、同僚、視力、聴力、腕力、記憶…。 全ての財産を喪失していく。 その不安や淋しさに負け心とじる人もいます。 人は木石にあらず。 人は枯れ木や石ではない、喜びも悲しみも持つ感情ある生き物です。 失うと言う考えでなく、生きる栄養となって『消化』したと思えばよい。 失ったものをいつまでもくよくよする事なく、新たな喜び感動する栄養をとりましょう。 「小さな喜びを生き甲斐にしたっていいじゃない。」 「生きるて心の栄養いっぱいとることだから。」 心の栄養に 合掌
いま苦しい人いますか。 もう少し頑張ってみましょう。 私は以前仕事でグアム、サイパンの南東の島々まで船で行った事がありました。 日本の軍艦がたくさん沈没した辺りに来た時、全員で合掌しました。 花束やおにぎりをたくさん海に投げました。 私も仕事先の嘱託の初老の男性から話を聞いていました。 彼は東北大学から学徒出陣で海軍少尉となって軍艦に乗って南方に来た時、アメリカの潜水艦に被弾して沈没したそうです。 体中火傷をおい、丸太に捕まっていたそうです。 仲間の兵隊は力つきて次々に海に消えて行ったそうです。 何日も漂っていたら小さな島に流れ着いたそうです。 何人かの日本兵がいたそうです。 一隻の日本の駆逐艦がやって来て救われたそうです。 その仲間の霊に花をたむけて欲しいと頼まれたのでした。 その海に花束を投げました。 こんな何もない大海原に浮かんでいたら、さぞ寂しかったに違いない。 孤独と恐怖と怪我の痛みと絶望にどうして生き延びたのだろうかと考えていました。 とてもできない事です。 誰かの為に、先の楽しみの為に頑張ったのでしょうか。 それから考えたら、あなたの今の苦しみはどうでしょうか。 私は苦しい時、この海原を思い出します。 今は亡くなったあの方の話を思い出します。 諦めたら終わり。 神がみんながくれた丸太を離す分けにはいかないと。 今のあなたにもみんなからがんばれのエールを込めた丸太が届くはず。 しっかり掴んで耐えて下さい。 命の丸太を掴むのです。 合掌
相撲の解説者が相撲界には、「三年先の稽古」という言葉があると 述べていました。 日々の稽古は、すぐに 結果は出なくとも三年先に結果が出るものだと。 白鵬はその言葉で日々努力し記録を塗り替えて来たという。 私達も三年先のために 稽古に励みましょう! 合掌