老子の言葉に「和光同塵(わこうどうじん)」 があります。
輝く才能を見せびらかすよりも、それを隠し、世間の中に同化して交じり合うという意味です。
一人だけ脚光を浴びるよりも、どこにでもいる凡人として生きることを和光同塵といいます。
老子は「人望のある人」とは、「俺が俺が」と自己主張などしない。
常に控えめな態度でいる。
未熟者だと思って謙虚に振る舞うので、かえって信頼されるのだ。
そんな人は功績を自慢しないし、他人を見下すこともしないので、いつしか人望が集まり、尊敬されて知らないうちに上に立つ人になっていると述べています。
自己主張しないと生きていけない外国では分からないかも知れませんね。
聖書の中には「喜びなさい」という言葉が800回出てくるといいます。「いつも喜んでいなさい」と命令形で書かれています。
考えると喜びが見えてくるからと。
英語think(考える)
thank(喜ぶ)
ドイツ語
danken(考える)
denken(喜ぶ)
一字違いで違う意味を見つけました。
失敗したり、落ち込むことがあっても、考えて見てください。そうすると喜びが見えてくると思いませんか。
失敗しても体は元気だからまたチャレンジできる。ミスをしたが次は気をつければいい。コロナで好きな旅行ができないが、家でできる物を見つけた。
常に前向きに考えれば喜びが見えてくるものです。気づきになれば。
朝日新聞に樹木希林さんの会話集が掲載されていました。
「死ぬときぐらい好きにさせてよ」
「生きるのも日常、死んでいくのも日常」
晩年の希林さんがたどり着いた境地に
「うらを見せ おもてを見せてちるもみぢ」
(良寛)
「裏から始まるところがすごい。
年や経験を重ねても、人間は表裏を持ち続けているという本質を見抜いた人の句ね。
こうありたい」
(希林)
また、良寛の次の句も好んだ。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
誰にも等しく訪れる死に、人は一喜一憂するが、終わりが決まらないのに、そこに至る生き方が定まるわけがない。
という意味に
「そう考えると心強いわね。
でも、死ぬことは誰かの心の中で行き続けることなんじゃないかしら」
(希林)
お釈迦様の弟子の一人に提婆逹多(だいばだった)がいる。
釈迦にたてつき、困らせるので、みんなが彼を遠ざけた。
だが釈迦は「役立つ人だけがいいのではない。
困らせる人は己を磨く上で必要だ」と説いた。
すると、希林さんは
「くっくっ」と笑いながら言ったという。
「そういえば提婆逹多は私にとっての裕也ね」と。
死ぬことは
誰かの心の中で生きること。
素敵な言葉です。
辛い時を経験してきた人には、共鳴できる和歌があります。
『ながらへば
またこの頃や
しのばれむ
憂(う)しと見し世ぞ 今は恋しき』
(新古今集・藤原清輔)
「ながらへば」とはこの世に生き永らえたらということ。
「憂し」とは嫌なこと。
嫌で、つらくて、どうしようもないこの頃だけれども、このまま生き永らえていたら、いつか懐かしく思う日が来るだろうな。
辛かった昔のあの頃が、今は恋しく感じられるように。
私もそう感じます。
古代の人も同じなんだと親しみを感じます。 さあ、今日も辛いこと あるかもしれませんが、懐かしく、恋しくなる思い出だと気楽に行きましょう!
『ながらへば』を思い出して乗りきりましょう!
今日の力になれば。