最近は、作者不明の伝承の民話ー昔話に俄然興味が湧いてきています。
『児童文学論』リリアン・H・スミスの第4章「昔話」より
P58
《私の印象では、昔話のなかの人々は、実人生の人々とだいたい同じようにふるまう。ある者は高い理念に生き、ある者は悪の道にふける。ある者は天性心やさしく、ある者は利己的にふるまい、迫害を与える。またある者は冒険に出かけ、ある者は家に留まる。強気あり弱気あり、正直者に悪人、たいした知恵者や、知恵の足りないものや、全然ない者がある。そして昔話のなかでは、そのおのおののタイプが、タイプを表す行動によって、客観的に、躍動的に、終始一貫そのタイプとして、描かれる。昔話は道義に反するふるまいを容赦しない。ただ、そのようなふるまいがおこなわれるという事実は、ありのまま認める。
エニス・ダフ『つばさの贈り物』より
本文より抜粋
フィクションの一形式として、昔話は、いまはほとんど、おとなの読書の範囲に含まれていない。しかし、だれもみな、子どもの頃には、昔話を聞いたり読んだりしてきたし、また、昔話ほどあらゆる子どもの読書興味をそそるものは、見つけにくいだろう。あるストーリーが、何百年も生きつづけてきたとしたら、それは、不朽不変の生命力を持っていると思わなければならない。
伝承の文学がすべてそうであるように、昔話は元来、おとな子どもをとわず、すべての人の所有物だった。
アスピョルンセンとモー、グリム兄弟のような学者は、なぜに生涯をかけてこういう口伝えのままの昔話を探し求めたのか?
かれらの関心は、こういう話によって、古代の習慣や信仰を明らかにすること、また、同じ種類の物語の変形を比較することによって、アーリア族(インド・ゲルマン民族とも言う)の移動を明らかにすること、にあった。けれども、こういう伝承の物語が、子どもの読書に非常に重要な位置をしめるのは、学者に関心をもたれるようなことがらのためではなく、物語のなかにある文学としての質のためである。
「伝承」のということばを、私たちは、その起源が、時の霧にまぎれて消えている物語や詩の場合に使う。作者も、また初めて語られた時も所もわからない。人類そのものと同じくらい古いように思われる。
子どもは、おもしろいストーリーだから、『いばら姫』そのほかの昔話を読むのだが、昔話は、ストーリーとしてのおもしろさだけで子どもの心をうばうのではない。昔話を通じて、子どもは、別の世界ーーふしぎの世界にはいる。そこは、子どもの知っているこの世界と似ているものであり、しかもおどろくほどちがった世界でもある。そこでは、あらゆることが起こりうるし、また、起こる。
昔話のなかには、信じられないような出来事が起こるという調子があり、そういう気分がみなぎっている。自然な、平凡でさえある話し方で語られながら、昔話は、ふしぎな世界の、徹底的なドラマ性、心をおどらす事件、ユーモアやロマンスによって、子どもの心の空想力を満足させる。
昔話は、またちがった価値を持っている。こういうお話は、庶民から、大昔の人々から、何世紀も経て伝わってきた。そして昔話のなかには、そうした物語を生んだ国の、その後に作られた文学の特徴が、たくさんふくまれている。
グリムからは、きびしい生活に耐えるゲルマン気質や、家庭のこまごました事物と出来事によせる愛情や、徹頭徹尾実際的な生活態度や、また、工夫に富む精神を見出す。ペローの「おとぎ話」のなかには、明快さや、ほとんど無造作なといえる軽いタッチや、事件の論理的な運びや、フランス人特有の、困難にぶつかった時に見せる機敏な態度とすばやい機知がある。ジェーコブスの「イギリス昔話集」では、アングロ・サクソン族もちまえのコモンセンスと簡潔さ、それがとりもなおさずかれらのユーモアである控え目な言いまわしに気づき、また自由とフェアプレイを愛する心を見出す。ダセント訳の「北欧の昔話」のなかでは、訳者自身がその物語の性質を特徴づけて、「大胆で、本当の意味でユーモアをもっている。困難と危険のさなかに立つと、どんな事態にも最善をつくして、勇敢に敵とわたりあう、あの古代北欧人(ノルマン)の性質が現れてくる」という。
これらの昔話は、その源--昔話の生まれた国の性質と雰囲気を反映する。》
引用が、長くなってしまいました。ペロー(1628-1703)の童話集(岩波文庫)を読みました。「ろばの皮」「青ひげ」「赤ずきんちゃん」「眠れる森の美女」「サンドリヤンまたは小さなガラスの靴=シンデラ」「長靴をはいたネコ」などが、できるだけ、もとの伝承民話に近い形で書いてあり、単純で素朴な表現でありながら、その力強さに、私は、すっかり虜になってしまいました。後のきらびやかな再話とは、ずいぶん違う味わいです。たとえば「眠れる森の美女」では、眠りからちょうど百年経ち、タイミングよく城に訪れることが出来た王子が、いばら姫にキスをして目覚めさせ、二人は結婚をするというところで終わってはいないのです。その後の結婚生活にも触れており、王子の母親は人食い鬼の血を受け継いでいて、いばら姫が生んだ子どもたちを食べたくてしょうがない。王子が出陣しているあいだに、いばら姫ごと食べてしまおうとするのですが、危機一髪のところで、王子が戻ってきて、母親を殺す。が、王子は悲しかった。それは、母だったからだ。(フランスは、人食い鬼が好きですねー)ペローでは、一つ一つのお話に教訓がついています。「眠れる森の美女」の教訓は、以下の通り。
《金持ちの、姿形よく、親切な、やさしい夫欲しさに、
しばらく待つというのは、
まずもって当たり前の話。
だが、百年もの間待つ、それも眠ったまま待つとは、
それほど静かに待っていてくれる女は、
当節もはや見かけない。
この寓話はまたもや教えてくれるつもりらしい。
結婚のたのしい絆はたいてい、
延期になったところで幸せなことに変わりなく、
待つことで失うものなし、と。
しかし、女性は、熱い思いで、
結婚の誓いに憧れるものだから、
女性に向かってこの教えを説く、
力も勇気もわたしは持ち合わせない》
そう。昔話、民話は、その国の性質を一番よく現しているものかもしれません。
さっそく、『イギリスとアイルランドの昔話』『フランスの民話集』『日本の昔話』『太陽の木の枝・ジプシーの昔話』『語りつぐ人々・アフリカの昔話』『ロシアの昔話』『語り継ぐ人びと・インドの昔話』をゲットしました。
あとは、北欧の神話や昔話や、木下順二・赤羽末吉の『わらしべ長者』、『山東民話集―中国の口承文芸 3 』、『トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇』、『イスラム幻想世界―怪物・英雄・魔術の物語』を来月にでもゲットしたい。
ただいま、アンデルセンの4巻目のなかばで悪戦苦闘していますが、途中で『イソップ』を読まないとだめだと思い、並行読みしています。
集めた伝承民話の本を読める時間ができるのが、待ち遠しいです。ちなみに『フランス民話集』(岩波文庫)が「ふしぎな話」で始まっているので、第1番目の話が「美女と野獣」です。
「バンビ・森の生活の物語」の完訳と、デズニー絵本のオリジナル本もゲット済み。『みつばちマーヤの冒険」の完訳もゲット済み。フランス大統領選関係の仏週刊誌もゲット済み。イラクに自衛隊派遣2年延期も何を考えているのかと腹立たしいし、時間が足りないのが、苦しい。が、亀姫になって進むのみ。
『児童文学論』リリアン・H・スミスの第4章「昔話」より
P58
《私の印象では、昔話のなかの人々は、実人生の人々とだいたい同じようにふるまう。ある者は高い理念に生き、ある者は悪の道にふける。ある者は天性心やさしく、ある者は利己的にふるまい、迫害を与える。またある者は冒険に出かけ、ある者は家に留まる。強気あり弱気あり、正直者に悪人、たいした知恵者や、知恵の足りないものや、全然ない者がある。そして昔話のなかでは、そのおのおののタイプが、タイプを表す行動によって、客観的に、躍動的に、終始一貫そのタイプとして、描かれる。昔話は道義に反するふるまいを容赦しない。ただ、そのようなふるまいがおこなわれるという事実は、ありのまま認める。
エニス・ダフ『つばさの贈り物』より
本文より抜粋
フィクションの一形式として、昔話は、いまはほとんど、おとなの読書の範囲に含まれていない。しかし、だれもみな、子どもの頃には、昔話を聞いたり読んだりしてきたし、また、昔話ほどあらゆる子どもの読書興味をそそるものは、見つけにくいだろう。あるストーリーが、何百年も生きつづけてきたとしたら、それは、不朽不変の生命力を持っていると思わなければならない。
伝承の文学がすべてそうであるように、昔話は元来、おとな子どもをとわず、すべての人の所有物だった。
アスピョルンセンとモー、グリム兄弟のような学者は、なぜに生涯をかけてこういう口伝えのままの昔話を探し求めたのか?
かれらの関心は、こういう話によって、古代の習慣や信仰を明らかにすること、また、同じ種類の物語の変形を比較することによって、アーリア族(インド・ゲルマン民族とも言う)の移動を明らかにすること、にあった。けれども、こういう伝承の物語が、子どもの読書に非常に重要な位置をしめるのは、学者に関心をもたれるようなことがらのためではなく、物語のなかにある文学としての質のためである。
「伝承」のということばを、私たちは、その起源が、時の霧にまぎれて消えている物語や詩の場合に使う。作者も、また初めて語られた時も所もわからない。人類そのものと同じくらい古いように思われる。
子どもは、おもしろいストーリーだから、『いばら姫』そのほかの昔話を読むのだが、昔話は、ストーリーとしてのおもしろさだけで子どもの心をうばうのではない。昔話を通じて、子どもは、別の世界ーーふしぎの世界にはいる。そこは、子どもの知っているこの世界と似ているものであり、しかもおどろくほどちがった世界でもある。そこでは、あらゆることが起こりうるし、また、起こる。
昔話のなかには、信じられないような出来事が起こるという調子があり、そういう気分がみなぎっている。自然な、平凡でさえある話し方で語られながら、昔話は、ふしぎな世界の、徹底的なドラマ性、心をおどらす事件、ユーモアやロマンスによって、子どもの心の空想力を満足させる。
昔話は、またちがった価値を持っている。こういうお話は、庶民から、大昔の人々から、何世紀も経て伝わってきた。そして昔話のなかには、そうした物語を生んだ国の、その後に作られた文学の特徴が、たくさんふくまれている。
グリムからは、きびしい生活に耐えるゲルマン気質や、家庭のこまごました事物と出来事によせる愛情や、徹頭徹尾実際的な生活態度や、また、工夫に富む精神を見出す。ペローの「おとぎ話」のなかには、明快さや、ほとんど無造作なといえる軽いタッチや、事件の論理的な運びや、フランス人特有の、困難にぶつかった時に見せる機敏な態度とすばやい機知がある。ジェーコブスの「イギリス昔話集」では、アングロ・サクソン族もちまえのコモンセンスと簡潔さ、それがとりもなおさずかれらのユーモアである控え目な言いまわしに気づき、また自由とフェアプレイを愛する心を見出す。ダセント訳の「北欧の昔話」のなかでは、訳者自身がその物語の性質を特徴づけて、「大胆で、本当の意味でユーモアをもっている。困難と危険のさなかに立つと、どんな事態にも最善をつくして、勇敢に敵とわたりあう、あの古代北欧人(ノルマン)の性質が現れてくる」という。
これらの昔話は、その源--昔話の生まれた国の性質と雰囲気を反映する。》
引用が、長くなってしまいました。ペロー(1628-1703)の童話集(岩波文庫)を読みました。「ろばの皮」「青ひげ」「赤ずきんちゃん」「眠れる森の美女」「サンドリヤンまたは小さなガラスの靴=シンデラ」「長靴をはいたネコ」などが、できるだけ、もとの伝承民話に近い形で書いてあり、単純で素朴な表現でありながら、その力強さに、私は、すっかり虜になってしまいました。後のきらびやかな再話とは、ずいぶん違う味わいです。たとえば「眠れる森の美女」では、眠りからちょうど百年経ち、タイミングよく城に訪れることが出来た王子が、いばら姫にキスをして目覚めさせ、二人は結婚をするというところで終わってはいないのです。その後の結婚生活にも触れており、王子の母親は人食い鬼の血を受け継いでいて、いばら姫が生んだ子どもたちを食べたくてしょうがない。王子が出陣しているあいだに、いばら姫ごと食べてしまおうとするのですが、危機一髪のところで、王子が戻ってきて、母親を殺す。が、王子は悲しかった。それは、母だったからだ。(フランスは、人食い鬼が好きですねー)ペローでは、一つ一つのお話に教訓がついています。「眠れる森の美女」の教訓は、以下の通り。
《金持ちの、姿形よく、親切な、やさしい夫欲しさに、
しばらく待つというのは、
まずもって当たり前の話。
だが、百年もの間待つ、それも眠ったまま待つとは、
それほど静かに待っていてくれる女は、
当節もはや見かけない。
この寓話はまたもや教えてくれるつもりらしい。
結婚のたのしい絆はたいてい、
延期になったところで幸せなことに変わりなく、
待つことで失うものなし、と。
しかし、女性は、熱い思いで、
結婚の誓いに憧れるものだから、
女性に向かってこの教えを説く、
力も勇気もわたしは持ち合わせない》
そう。昔話、民話は、その国の性質を一番よく現しているものかもしれません。
さっそく、『イギリスとアイルランドの昔話』『フランスの民話集』『日本の昔話』『太陽の木の枝・ジプシーの昔話』『語りつぐ人々・アフリカの昔話』『ロシアの昔話』『語り継ぐ人びと・インドの昔話』をゲットしました。
あとは、北欧の神話や昔話や、木下順二・赤羽末吉の『わらしべ長者』、『山東民話集―中国の口承文芸 3 』、『トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇』、『イスラム幻想世界―怪物・英雄・魔術の物語』を来月にでもゲットしたい。
ただいま、アンデルセンの4巻目のなかばで悪戦苦闘していますが、途中で『イソップ』を読まないとだめだと思い、並行読みしています。
集めた伝承民話の本を読める時間ができるのが、待ち遠しいです。ちなみに『フランス民話集』(岩波文庫)が「ふしぎな話」で始まっているので、第1番目の話が「美女と野獣」です。
「バンビ・森の生活の物語」の完訳と、デズニー絵本のオリジナル本もゲット済み。『みつばちマーヤの冒険」の完訳もゲット済み。フランス大統領選関係の仏週刊誌もゲット済み。イラクに自衛隊派遣2年延期も何を考えているのかと腹立たしいし、時間が足りないのが、苦しい。が、亀姫になって進むのみ。