キリスト教の歴史
【序論】
キリスト教は世界三大宗教の一つであるが,仏教とイスラム教に比して,歴史的宗教かつ伝道宗教という著しい特徴をそなえている。それはパレスティナの一隅に生まれてまもなく地中海世界に広がり,ついで西ヨーロッパに入り,17 世紀には海を越えてアメリカに渡った。本格的に東洋に伝来したのは 16 世紀のイエズス会が最初であるが, 19 世紀後半にアメリカ人宣教師による大がかりな活動があって広く行きわたるようになった。こんにちキリスト教は世界のほぼ全地域におよび,信徒数は 10 億を超えるに至っている。この進展はむろん一本の直線ではなく,からみ合う複数の線から成り,また停滞と飛躍の両方をもっているが,全体として見て,民族・文化・時代等の制約を引きうけつつもそれを越えて行く大きな運動となっている。さらに,この宗教を形づくっている教会・教派についていうと, 1 世紀の原始キリスト教は 2 世紀に入ってローマ帝国内の制度的教会 (古カトリック教会) となり,これがのちに東方正教会とローマ・カトリック教会とに分かれて各自展開をとげていった。ローマ・カトリック教会からは,宗教改革によってプロテスタント教会が分かれ出た。これはルター派教会と改革派教会,およびスコットランドの長老派教会をもっている。イングランドでは国民教会に変わったアングリカン・チャーチに対してさらにピューリタン革命があり,そのあと多くの教派が興るようになった。
こうして,キリスト教はこんにち三大教会とプロテスタント内諸教派とから成っている。教派の数はきわめて多く,一見して四分五裂の感すらなくはないが,ここでも全体として見るなら,内的発展を伴った歴史的運動があることを否定しえない。そこで以下の叙述は,たんに教会の歴史的変遷を追うのではなく,キリスト教を歴史的かつ世界的宗教として成立させ,これを保持し展開させる固有のダイナミズムが何であるかを明らかにする課題をもっている。そのダイナミズムは,たんなる進歩や有機体的成長のそれではなく,むしろ統一と多様,正統と異端,中心と周縁,連続と非連続,停滞と前進などの対極形式の下にある。歴史的にはキリスト教の展開は環境世界を離れてはないので,大きく分けると,古代のヘレニズム化,中世のゲルマン化,近世の世俗化があり,そのなかで信仰の決断がどのような一貫性と偶然性をもって行われたかに注目する必要がある。
【原始キリスト教】
〈原始キリスト教〉という用語は 19 世紀の半ばに規範的・理念的意味をこめて用いられたもので,あまり適切ではないが,他方〈初期キリスト教〉〈初代教会〉という語も定着しているとはいえないので,暫定的にこれを用いておく。こんにちの批判的研究からすると,キリスト教はイエスに始まるとか,その内容は〈愛の教え〉であるということは単純には支持できない。イエスは自分をメシア (旧約聖書にいう終末的な救済王) と称したことはなく,教会の建設を命じたり,洗礼・聖餐というサクラメントを設定したことはない。これらは福音書に書かれているとしても,イエス以後の教会の自己理解のなかで書かれたものである。すると教会の創始者は,ペテロやヤコブのようなイエスの弟子たちであったか。たしかにそうである。しかしキリスト教をユダヤ教からはっきりと区別したという点で,いっそう創始者にふさわしいのはパウロである。だがこのパウロについても,宗教史的にみればヘレニズムの神秘宗教の混入がなかったわけではなく,ここにも純粋な起源をおくことはできない。これらのことは,〈キリスト教〉という名称が,最初の 1 世紀にはキリスト教徒の間からは発生せず,むしろ他から与えられた軽蔑的な語であったという事実と対応している。それゆえキリスト教の出発は,キリスト復活の信仰のなかで,旧約聖書の預言を介してキリストの意義を反省していった過程に求められる。地上のイエスはこれを基礎づけたが創始したのではない,というべきである。
イエスの誕生は前 7 年から後 4 年の間で,十字架刑に処せられて死んだのは 30 年から 32 年の間である。その公的活動は数年の短いものであった。イエスはバプテスマのヨハネの悔い改めの説教を受けつぐ形で活動を始めたが,それは当時ユダヤ教の内部改革を意図していたパリサイ派,エッセネ派,熱心党 (ゼーロータイ) と共通する姿勢であった。しかし決定的な点でユダヤ教との相違が現れてくる。それは,ユダヤ教の重視する煩瑣な律法をしりぞけ,律法に現れた神の意志そのものに従うことを人々に教えたときである。バプテスマのヨハネは悔い改めを要求したが,イエスは人が彼自身に従う限り悔い改めが起こることを示した。旧約聖書によれば,悔い改めは終末論的な新しい存在を与えるという重い意味をもつ, 預言者の最後の言葉であり,実際それは《ヨナ書》のような預言の最後の段階になってはじめて語られたのである。さらに,神のあわれみが貧しい者に注がれることは旧約聖書でつねにいわれ,ことにバビロン捕囚後の預言者によって強調されていて,イエスはこれに従って社会の貧困層に無条件の救いを告げることを使命とした。しかしその救いは,人間の〈業 (わざ) の義〉すなわちヒューマニズムに基づくものではないことを徹底的に主張した点でユダヤ教を超えていた。 〈心の貧しい者は幸いである〉 (《マタイによる福音書》5 : 3) という言葉は,貧しい者への神のあわれみが同時に存在の転換にほかならないことを意味している。このようにイエスは創造 (存在) と救済の一致のうちに行動し,それゆえイエスにおいては言葉と霊は少しも分離しない。このことは,好んで語られた譬えが奇跡の業と実質的に同じ事態をさしていることからも知られる。イエスはユダヤ人に憎まれ,ローマの総督ピラトに反乱者と疑われて十字架刑に処せられたが,その死につづく復活は,彼における創造と救済の,また神と人との最も確かな一致を示すものとして人々にうけとられた。
エルサレムで最初に成立した教団について歴史的詳細は与えられていない。その始まりは弟子たちの復活信仰の成立と同時である。これがガリラヤで (《マタイによる福音書》),またエルサレムで (《ルカによる福音書》) 幻のうちに示されたことは,たしかにそれぞれの福音書の編集意図の相違を示すにちがいないが,事柄としていえば,預言者エゼキエルがバビロンとエルサレムとで同時に幻を見,預言したという二重性と同様であり,また《ダニエル書》のような黙示文学に見られる事後預言の重ね合せと同様である。これによって,二つの異なる場所での運動が歴史的には一つの預言とその成就のなかで見られることになる。すなわち,最初の教団はエルサレムに生じたが,ここにとどまらないでガリラヤという異邦人との境界地域に向かう運動をもっていて,この運動がイエスの復活の目撃と,その第 2 の復活たる再臨の希望とのあいだの中間時としてとらえられたのである。もちろんエルサレムの原始教団が実際にガリラヤを越えて異邦人世界に入って行くことはほとんどなかった。それが起こるためには,さらにユダヤ教からの攻撃という外的条件が出現しなければならなかった。エルサレムの人々はむしろ教会の歴史的条件を自覚し,その範囲内で終末論的な霊の秩序を保持することに心がけた。ここに最初の教会的自覚の誕生があるといえる。地上のイエスとのつながりは,〈最後の晩餐〉を宗教的生の象徴としての愛餐 (アガペー) という共同食事に結びつけることで保たれた。この象徴化は精神化と物質化とを同時にもっているが,サクラメントの制定という法的なものではない。
しかしエルサレム教団は,拡大し伝道を進めるにつれてユダヤ教の攻撃にあい,シリアのアンティオキアに新しい拠点をもつようになった。この教会はヘレニズム化したユダヤ人と異邦人とから成っている。彼らはキリスト者となることによってユダヤ教からの拘束を完全に逃れたのではないが,より多くヘレニズムの宇宙図式をもって信仰告白を形成した。そこでイエスはひたすら来るべきメシア=キリストとされ,これに〈キュリオス (主) 〉や〈先在する神の子〉というヘレニズム的,オリエント的称号が与えられた。その結果,イエスの最初の弟子たちがもった黙示的未来観は失われ,終末が現在化されるという傾向を示すようになる。だがこの傾向はキリスト教にとっては必ずしも好ましいものではない。この危険を察知し,しかしパレスティナのキリスト教と結びつけるなかでキリスト教信仰の型を作り上げたのはパウロである。地上のイエスを知らない彼は,ユダヤ人としてキリスト教徒を迫害していたが,その最中に黙示的な幻のうちに〈十字架につけられたキリスト〉に接し,異邦人への使徒となった。その初期の活動は明らかでないが,晩年になって 50 年前後に,アンティオキアから出て小アジアとギリシア本土に活発な伝道を行った。新約聖書に見る彼の手紙はすべてその時のものである。パウロによれば,〈信仰のみ〉の信仰が神の無条件の恩恵にこたえる唯一の道であり,キリスト者となった人はだれでもユダヤ教の律法と儀礼に従う必要はない。しかしこれは単純な意味での解放ではなく,古い律法に死んで新しく生きるもの,それゆえ希望に生きるとともにキリストの戒めに従う倫理をつくるのである。パウロの終末論は現在化されているが倫理的緊張を失わず,各人の復活はなお未来のできごとであるとした。このことは特にコリント教会で,熱狂的自由主義者を前に主張された。最後に書いた《ローマ人への手紙》では,旧約と新約とを一つとする神の計画と選びを強調して,キリスト教の歴史性を神学的に掘り下げている。
パウロは 64 年ころローマで殉教したとされるが,原始キリスト教の舞台はふたたびパレスティナに近い地域にもどってくる。四つの福音書は 65 年ころから 95 年ころにかけて書かれ,それらはみなパレスティナとシリアとの境界地域の教会のものである。 《ペテロの第 1 の手紙》《ヘブル人への手紙》《ヨハネの黙示録》もみなそうした境界性をもっている。 《テモテへの手紙》や《テトスへの手紙》はその境界を出て初期カトリシズムに近づくというのが従来の通説であるが,最近の社会学的研究からして若干の訂正を要しよう。パウロ以後の文書はみな何ほどかパウロを前提していて, 《ヨハネによる福音書》もまた啓示と信仰の問いに集中している。しかしこの書は,70 年のエルサレム陥落後に起こったユダヤ人の再結集を強く意識して,ユダヤ教との対立を強めている。またそれと比例して,かの境界域に住むマンダ教徒のグノーシス主義の影響をうけ,光と闇の二元論が入っている。だがこれに対しては,神から離れたこの世に到来するイエスの救いは同時にこの世の危機であることを示し,それによってグノーシスの自然主義を克服した。 ヨハネはまたキリスト仮現論にも対抗して,この世ははじめからキリストのものであると語る。神と世界がヨハネにおいては対立したり分離したりしないのは,原始キリスト教に固有な終末論的思惟によるもので,ここにキリスト教の世界主義が基礎づけられている。 ⇒イエス・キリスト∥原始キリスト教
泉 治典
【序論】
キリスト教は世界三大宗教の一つであるが,仏教とイスラム教に比して,歴史的宗教かつ伝道宗教という著しい特徴をそなえている。それはパレスティナの一隅に生まれてまもなく地中海世界に広がり,ついで西ヨーロッパに入り,17 世紀には海を越えてアメリカに渡った。本格的に東洋に伝来したのは 16 世紀のイエズス会が最初であるが, 19 世紀後半にアメリカ人宣教師による大がかりな活動があって広く行きわたるようになった。こんにちキリスト教は世界のほぼ全地域におよび,信徒数は 10 億を超えるに至っている。この進展はむろん一本の直線ではなく,からみ合う複数の線から成り,また停滞と飛躍の両方をもっているが,全体として見て,民族・文化・時代等の制約を引きうけつつもそれを越えて行く大きな運動となっている。さらに,この宗教を形づくっている教会・教派についていうと, 1 世紀の原始キリスト教は 2 世紀に入ってローマ帝国内の制度的教会 (古カトリック教会) となり,これがのちに東方正教会とローマ・カトリック教会とに分かれて各自展開をとげていった。ローマ・カトリック教会からは,宗教改革によってプロテスタント教会が分かれ出た。これはルター派教会と改革派教会,およびスコットランドの長老派教会をもっている。イングランドでは国民教会に変わったアングリカン・チャーチに対してさらにピューリタン革命があり,そのあと多くの教派が興るようになった。
こうして,キリスト教はこんにち三大教会とプロテスタント内諸教派とから成っている。教派の数はきわめて多く,一見して四分五裂の感すらなくはないが,ここでも全体として見るなら,内的発展を伴った歴史的運動があることを否定しえない。そこで以下の叙述は,たんに教会の歴史的変遷を追うのではなく,キリスト教を歴史的かつ世界的宗教として成立させ,これを保持し展開させる固有のダイナミズムが何であるかを明らかにする課題をもっている。そのダイナミズムは,たんなる進歩や有機体的成長のそれではなく,むしろ統一と多様,正統と異端,中心と周縁,連続と非連続,停滞と前進などの対極形式の下にある。歴史的にはキリスト教の展開は環境世界を離れてはないので,大きく分けると,古代のヘレニズム化,中世のゲルマン化,近世の世俗化があり,そのなかで信仰の決断がどのような一貫性と偶然性をもって行われたかに注目する必要がある。
【原始キリスト教】
〈原始キリスト教〉という用語は 19 世紀の半ばに規範的・理念的意味をこめて用いられたもので,あまり適切ではないが,他方〈初期キリスト教〉〈初代教会〉という語も定着しているとはいえないので,暫定的にこれを用いておく。こんにちの批判的研究からすると,キリスト教はイエスに始まるとか,その内容は〈愛の教え〉であるということは単純には支持できない。イエスは自分をメシア (旧約聖書にいう終末的な救済王) と称したことはなく,教会の建設を命じたり,洗礼・聖餐というサクラメントを設定したことはない。これらは福音書に書かれているとしても,イエス以後の教会の自己理解のなかで書かれたものである。すると教会の創始者は,ペテロやヤコブのようなイエスの弟子たちであったか。たしかにそうである。しかしキリスト教をユダヤ教からはっきりと区別したという点で,いっそう創始者にふさわしいのはパウロである。だがこのパウロについても,宗教史的にみればヘレニズムの神秘宗教の混入がなかったわけではなく,ここにも純粋な起源をおくことはできない。これらのことは,〈キリスト教〉という名称が,最初の 1 世紀にはキリスト教徒の間からは発生せず,むしろ他から与えられた軽蔑的な語であったという事実と対応している。それゆえキリスト教の出発は,キリスト復活の信仰のなかで,旧約聖書の預言を介してキリストの意義を反省していった過程に求められる。地上のイエスはこれを基礎づけたが創始したのではない,というべきである。
イエスの誕生は前 7 年から後 4 年の間で,十字架刑に処せられて死んだのは 30 年から 32 年の間である。その公的活動は数年の短いものであった。イエスはバプテスマのヨハネの悔い改めの説教を受けつぐ形で活動を始めたが,それは当時ユダヤ教の内部改革を意図していたパリサイ派,エッセネ派,熱心党 (ゼーロータイ) と共通する姿勢であった。しかし決定的な点でユダヤ教との相違が現れてくる。それは,ユダヤ教の重視する煩瑣な律法をしりぞけ,律法に現れた神の意志そのものに従うことを人々に教えたときである。バプテスマのヨハネは悔い改めを要求したが,イエスは人が彼自身に従う限り悔い改めが起こることを示した。旧約聖書によれば,悔い改めは終末論的な新しい存在を与えるという重い意味をもつ, 預言者の最後の言葉であり,実際それは《ヨナ書》のような預言の最後の段階になってはじめて語られたのである。さらに,神のあわれみが貧しい者に注がれることは旧約聖書でつねにいわれ,ことにバビロン捕囚後の預言者によって強調されていて,イエスはこれに従って社会の貧困層に無条件の救いを告げることを使命とした。しかしその救いは,人間の〈業 (わざ) の義〉すなわちヒューマニズムに基づくものではないことを徹底的に主張した点でユダヤ教を超えていた。 〈心の貧しい者は幸いである〉 (《マタイによる福音書》5 : 3) という言葉は,貧しい者への神のあわれみが同時に存在の転換にほかならないことを意味している。このようにイエスは創造 (存在) と救済の一致のうちに行動し,それゆえイエスにおいては言葉と霊は少しも分離しない。このことは,好んで語られた譬えが奇跡の業と実質的に同じ事態をさしていることからも知られる。イエスはユダヤ人に憎まれ,ローマの総督ピラトに反乱者と疑われて十字架刑に処せられたが,その死につづく復活は,彼における創造と救済の,また神と人との最も確かな一致を示すものとして人々にうけとられた。
エルサレムで最初に成立した教団について歴史的詳細は与えられていない。その始まりは弟子たちの復活信仰の成立と同時である。これがガリラヤで (《マタイによる福音書》),またエルサレムで (《ルカによる福音書》) 幻のうちに示されたことは,たしかにそれぞれの福音書の編集意図の相違を示すにちがいないが,事柄としていえば,預言者エゼキエルがバビロンとエルサレムとで同時に幻を見,預言したという二重性と同様であり,また《ダニエル書》のような黙示文学に見られる事後預言の重ね合せと同様である。これによって,二つの異なる場所での運動が歴史的には一つの預言とその成就のなかで見られることになる。すなわち,最初の教団はエルサレムに生じたが,ここにとどまらないでガリラヤという異邦人との境界地域に向かう運動をもっていて,この運動がイエスの復活の目撃と,その第 2 の復活たる再臨の希望とのあいだの中間時としてとらえられたのである。もちろんエルサレムの原始教団が実際にガリラヤを越えて異邦人世界に入って行くことはほとんどなかった。それが起こるためには,さらにユダヤ教からの攻撃という外的条件が出現しなければならなかった。エルサレムの人々はむしろ教会の歴史的条件を自覚し,その範囲内で終末論的な霊の秩序を保持することに心がけた。ここに最初の教会的自覚の誕生があるといえる。地上のイエスとのつながりは,〈最後の晩餐〉を宗教的生の象徴としての愛餐 (アガペー) という共同食事に結びつけることで保たれた。この象徴化は精神化と物質化とを同時にもっているが,サクラメントの制定という法的なものではない。
しかしエルサレム教団は,拡大し伝道を進めるにつれてユダヤ教の攻撃にあい,シリアのアンティオキアに新しい拠点をもつようになった。この教会はヘレニズム化したユダヤ人と異邦人とから成っている。彼らはキリスト者となることによってユダヤ教からの拘束を完全に逃れたのではないが,より多くヘレニズムの宇宙図式をもって信仰告白を形成した。そこでイエスはひたすら来るべきメシア=キリストとされ,これに〈キュリオス (主) 〉や〈先在する神の子〉というヘレニズム的,オリエント的称号が与えられた。その結果,イエスの最初の弟子たちがもった黙示的未来観は失われ,終末が現在化されるという傾向を示すようになる。だがこの傾向はキリスト教にとっては必ずしも好ましいものではない。この危険を察知し,しかしパレスティナのキリスト教と結びつけるなかでキリスト教信仰の型を作り上げたのはパウロである。地上のイエスを知らない彼は,ユダヤ人としてキリスト教徒を迫害していたが,その最中に黙示的な幻のうちに〈十字架につけられたキリスト〉に接し,異邦人への使徒となった。その初期の活動は明らかでないが,晩年になって 50 年前後に,アンティオキアから出て小アジアとギリシア本土に活発な伝道を行った。新約聖書に見る彼の手紙はすべてその時のものである。パウロによれば,〈信仰のみ〉の信仰が神の無条件の恩恵にこたえる唯一の道であり,キリスト者となった人はだれでもユダヤ教の律法と儀礼に従う必要はない。しかしこれは単純な意味での解放ではなく,古い律法に死んで新しく生きるもの,それゆえ希望に生きるとともにキリストの戒めに従う倫理をつくるのである。パウロの終末論は現在化されているが倫理的緊張を失わず,各人の復活はなお未来のできごとであるとした。このことは特にコリント教会で,熱狂的自由主義者を前に主張された。最後に書いた《ローマ人への手紙》では,旧約と新約とを一つとする神の計画と選びを強調して,キリスト教の歴史性を神学的に掘り下げている。
パウロは 64 年ころローマで殉教したとされるが,原始キリスト教の舞台はふたたびパレスティナに近い地域にもどってくる。四つの福音書は 65 年ころから 95 年ころにかけて書かれ,それらはみなパレスティナとシリアとの境界地域の教会のものである。 《ペテロの第 1 の手紙》《ヘブル人への手紙》《ヨハネの黙示録》もみなそうした境界性をもっている。 《テモテへの手紙》や《テトスへの手紙》はその境界を出て初期カトリシズムに近づくというのが従来の通説であるが,最近の社会学的研究からして若干の訂正を要しよう。パウロ以後の文書はみな何ほどかパウロを前提していて, 《ヨハネによる福音書》もまた啓示と信仰の問いに集中している。しかしこの書は,70 年のエルサレム陥落後に起こったユダヤ人の再結集を強く意識して,ユダヤ教との対立を強めている。またそれと比例して,かの境界域に住むマンダ教徒のグノーシス主義の影響をうけ,光と闇の二元論が入っている。だがこれに対しては,神から離れたこの世に到来するイエスの救いは同時にこの世の危機であることを示し,それによってグノーシスの自然主義を克服した。 ヨハネはまたキリスト仮現論にも対抗して,この世ははじめからキリストのものであると語る。神と世界がヨハネにおいては対立したり分離したりしないのは,原始キリスト教に固有な終末論的思惟によるもので,ここにキリスト教の世界主義が基礎づけられている。 ⇒イエス・キリスト∥原始キリスト教
泉 治典