とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

古代教会 4

2006年12月07日 09時50分01秒 | 宗教・哲学・イズム
【古代教会】
 新約聖書のなかの史書《使徒行伝》はパウロのローマ到着で終わり,ローマにおける使徒たちの活動や教会の組織については何も触れていない。それは《使徒行伝》の筆者 (ルカとされる) の意図として,宣教が帝国の首都ローマに及んだことを強調したかったからであろう。パウロとペテロが 64 年のネロ帝の迫害に際し殉教の死をとげたことはほぼ確実とされるが, ペテロをローマの初代司教とするのは後代の伝説にすぎない。キリスト教徒の迫害についてはタキトゥスなどの史家も触れているので,われわれは初代教会の歴史をある程度は知っていると思いがちであるが,実際には,教義,典礼,教会組織に関する確実な史料はきわめて乏しい。 1 世紀末の使徒教父クレメンスがコリント教会にあてた《クレメンスの第 1 の手紙》を見ると,すでにローマの教会がコリント教会の内紛に対し使徒の権威を主張している点が注目される。
 キリスト教は都市型の宗教で,都市を中心に教会を築いていった。 2 世紀前半には教会の組織もだいたい固まり,使徒の権能を継承するエピスコポス episkopos (〈監督〉の意から〈司教〉または〈主教〉と訳す) が教会の代表となり,司祭が信者の司牧と典礼の執行に当たり,司祭の補助者として助祭がいた。以上は聖職であるが,そのほかに教会の管理や運営にあたる人々もいた。こうした役職は信者団の選挙で選ぶのがたてまえであった。さらに教会はローマ帝国の行政区分に準じて管轄の範囲を定めた。したがってこの原則によると帝国の首都と属州の首都のエピスコポスは他の都市の教会にも管轄を及ぼすことになった。典礼の中心は聖餐の式で,これはキリストの体と血をかたどったパンとブドウ酒を,参集した信者がともに食べるという秘儀であったから,信者以外は参加を許されなかった。なおふつうの集会で使徒の伝えた文書を読んで,祈裳を行うといった習慣は,ユダヤ教の慣行を受け継ぐものである。
 キリスト教は 1 世紀中葉から 4 世紀初頭まで断続的に国家の迫害にさらされた。その原因と実際の経過は不明な点が多い。ローマでは東方からの外来宗教は当初は多少とも迫害されたし,キリスト教徒が皇帝崇拝の風潮になじまなかったことも一因であろう。だが,タキトゥスが言及しているように,帝国内の異質の分子として憎まれた,換言すればユダヤ人迫害の一環として弾圧されたと考えると,初期の迫害の事情がよく理解できる。なお迫害は法的根拠に立つ一貫した政策ではなく,皇帝の懲罰権の行使であって,時代的にも地域的にも大きな差があった。迫害による〈殉教の血〉はかえってキリスト教徒の抵抗を強め,迫害のない時代には教会組織が拡大した。 2 世紀末までにはローマ帝国のほぼ全域とメソポタミアまで組織を固め,帝国の主要都市ローマ,エジプトのアレクサンドリア,シリアのアンティオキアがキリスト教の中心地でもあった。 3 世紀には国家宗教の祭儀を拒んだキリスト教徒に迫害が加えられ, 40 年ほどの間隔をおいた 303 年,晩年のディオクレティアヌス帝が大迫害を開始した。それまでの迫害がおもに聖職者や信者個人に向けられていたのに対し,この大迫害は教会堂の破壊や聖典の焚書をともない,物理的にキリスト教の撲滅をはかるものであったが,結果としては失敗した。この時代のキリスト教徒の勢力は,ある推計によると,人口の 1 割に達していたとされ,もはや撲滅できるものではなかった。なお,大迫害の原因は不明である。 ⇒キリスト教徒迫害
  313 年,コンスタンティヌス大帝とリキニウス帝が出した〈ミラノ勅令〉によって,キリスト教は帝国内の公認宗教の地位を得た。これをキリスト教の勝利とするのは早計に過ぎる。キリスト教はローマ帝国の枠内で成長する宿命にあったから,前述の教会管轄区にしても帝国の制度をとりいれたし,さらにローマ帝国を〈地上の王国〉と同一視する傾向があったから,帝国の版図の外に拡大してからも,教義の確定などの重要問題を帝国内部で解決することに少しも矛盾を感じなかった。公認宗教となった教会は,没収財産を返還され,聖職者には租税負担免除の特権が与えられ,さらに信者間の争いに司教裁判権が認められた。こうした措置は教会が帝国の統治機構に組みこまれたことを意味する。すなわちキリスト教は公認とともに変質を遂げ,俗権の支配にもっとも有効に適応しうる体質を作り上げた。これこそキリスト教がさまざまの異端を克服し,世界宗教となった要因である。しかし公認の代償は,教会制度はもとより,教義,典礼にも及ぶ俗権,具体的には皇帝の干渉であった。皇帝としては,国家機構のなかの公認宗教を有効に機能させるために,その内紛に干渉するのはむしろ当然の義務と考えた。かくしてコンスタンティヌス大帝はドナトゥス派問題とアリウス問題に介入したが,その方法は,各地の教会の代表である司教を招き, 公会議と呼ばれる大規模な会議を催すことである。もちろん公会議は教会内部の問題を解決するための最高の機関であるが,少なくとも第 7 回公会議 (第 2 ニカエア公会議,787) までは皇帝が召集し,経費はすべて国庫で負担した。そして公会議によって異端とされた者の処分は教会内部で行うのではなく,国家権力の手にゆだねられることになった。 392 年にテオドシウス帝の勅令でキリスト教が唯一の国家宗教となると,俗権の介入はさらに強化されたが,皇帝といえども教会全体の意向に逆らう政策は困難であった。
 公認前後の教会はまだ教義を完成させていなかった。四福音書の権威が確立したのは 2 世紀末で,新約聖書の正典が今日に伝わる形をとったのは 4 世紀のことである。もとより教義は聖典に立脚するが,聖書が教義の微妙な問題を規定しているわけではない。当時のキリスト教徒は信仰のあかしとして,自分が信じる教えを要約した〈信条〉を唱え,受洗の場合にもそれが必要であった。そして信条は地域と教会によってさまざまな形式と内容があった。ギリシア哲学の素養をつんだ知識人が改宗しだすと,当然,信条の内容を哲学的に解釈しようとした。そこで問題となったのが三位一体論とキリスト論で,前者に対する疑問はキリスト従属論として現れた。アリウスがその代表で,ニカエア公会議 (325) はアリウスを異端としたが,この問題は 4 世紀の教会を計り知れぬ混乱に陥れ,最終的にはコンスタンティノープル公会議 (381) で三位一体論が確定した (〈ニカエア・コンスタンティノポリス信条〉)。これにはアレクサンドリア主教アタナシオスの超人的な努力とカッパドキア教父の調停が必要であった。続いて,キリストが完全なる神であると同時に完全なる人間であるとのキリスト論に対する疑念が現れ,ネストリウス派と単性論派という対照的な異端を生んだ。この問題はカルケドン公会議 (451) で決着がつき, 〈カルケドン信条〉がキリストの完全な両性を規定した。しかし単性論派問題は尾を引き,エジプトとシリアの教会がしだいに離反した。教会政治の面では,教義論争を通じて,新しい首都コンスタンティノープルの教会の地位向上がめざましく,ローマの教会と並ぶことになった。
 このように古代教会において組織・典礼・教義がいち早く整えられたのは東方においてであり,ローマとカルタゴを中心とする西方教会においてではない。しかし西方ラテン教会は早くから一つの性格をもっていた。東方教会がキリスト教を知的体系と理解してギリシア思想を援用し,組織だった信条をつくり,また神秘体験を宗教的生の頂点におくのに対し,西方教会は法的社会のなかでの実践を重んじ,聖書の伝統にもとづいて実際的な法と慣習をつくり,教会を形成しその権威を確立することを課題とした。聖書は思弁的な解釈の対象ではなく,使徒的伝承に従って具体的な生活のなかで証言されるべきものとされた。 1 世紀の終りにローマのクレメンスは,監督・長老職を教会における権威として立てたが,これはパウロ的伝統の延長とみなされる。また 3 世紀のテルトゥリアヌスは,赦罪に関する倫理的法の体系を立てたほか,ローマにおけるペテロ伝承に従ってローマ教皇の首位権を主張し,のちにカルタゴの司教キプリアヌスがこれを固定化した。教皇カリストゥス 1 世 Callistus I (在位 217‐222) がローマとビザンティンの政治的対立を和らげようとしたのに対し,キプリアヌスはローマ教会の優位にもとづく教会の一致こそ第一のものだとして, 普遍的教会 (エクレシア・カトリケekkl^sia katholik^) の理念を示した。これが東方の〈皇帝教皇主義〉に対する西方の〈教皇制〉の始まりである。なお,〈教皇 papa〉の呼称がローマ司教に対して用いられるようになったのは,レオ 1 世 (在位 440‐461) のころ以後であるといわれている。
 東方教会で形成された神学はアウグスティヌスによって西方のものに作り変えられた。アウグスティヌスは最初アンブロシウスとともにキリスト教的プラトン主義の圏内にあったが, 《告白》にみるような救済の体験を通じて西方的伝統に立つ教会形成につとめ,ペラギウスとの論争に際してはパウロにもとづく信仰義認と恩恵の教えを明らかにして宗教改革に結ばれる線を生み,また《神の国》では国家と教会の闘争および教会の最後の勝利を示して,歴史のなかでの教会の目標を明らかにした。この書の執筆直前の 410 年,ローマは西ゴート族の侵攻にあって混乱に陥ったが,教会は消滅することなく続いて次の時代を準備した。
森安 達也
泉 治典
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