とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

民主主義をめざさない社会 2020-03-26 jeudi 内田樹の研究室

2020年03月29日 11時37分25秒 | 時事問題(日本)
                        2020-03-26 jeudi     内田樹の研究室               
「サンデー毎日」に不定期連載という欄を持っている。三月に一度くらい思い立ったことを書く。5000字ほど頂いているので、わりとややこしい話が書ける。今回3月29日号に寄稿したのは民主制論である。「存在すべきもの(ゾルレン)」が「存在するもの(ザイン)」を律するという、宗教や武道では当たり前の話は政治にも当てはまるよという話である。
 統治機構が崩れ始めている。公人たちが私利や保身のために「公共の福祉」を配慮することを止めたせいで、日本は次第に「国としての体」をなさなくなりつつある。
 誰かの怠慢や不注意の帰結ではない。過去30年ほどの間、日本国民一人一人の孜々たる努力の成果である。
 私はこの現象をこれまでさまざまな言葉で言い表そうとして来た。「反知性主義」、「ポピュリズム」、「株式会社化」、「単純主義」などなど。そして、最近になって、それらの徴候が「民主主義をめざさない社会」に固有の病態ではないかと思い至った。その話をしたい。
 過日、「表現の自由」について講演を頼まれた。頼まれてから、「表現の自由」とはそもそも何のために存在するルールなのか考えた。
 たしかに、私たちの民主主義的な憲法は「表現の自由」を保証し、「公共の福祉」に反しない限りその自由を抑制することはできないとしている。でも、「表現の自由」を保証することでどのような「善きもの」がもたらされるのか? 人を憤激させるような表現や、人が大切にしているものを踏みにじるような攻撃的な表現にも自由は保証されるべきなのか? 表現してよいものといけないものを公的機関が判定することは許されるか? こういう問いに即答するのはむずかしい。
 なぜ「表現の自由」は守るに値するものなのか? 
 残念ながら、その問いに対する答えは憲法本文には書かれていない。書かれていないのは、それが自明だからではない(自明なら「表現の自由」をめぐって論争が起きるはずがない)。書かれていないのは、その答えは国民が自分の頭で考え、自分の言葉で語らなければならないことだからである。
 表現の自由にしろ、公共の福祉にしろ、民主主義にしろ、それにいかなる価値があるのかを自分の言葉で語ることができなければ、「そんなものは守るに値しない」と言い切る人たち(それはすでにわが国民の相当数に達している)を説得して翻意させることはできない。
 憲法の定める「表現の自由」はいかなる「善きもの」をもたらすのか? 
 それを語らない限り、民主主義を語ったことにはならないと私は思う。
 というのは、「民主主義とは何を目指した制度なのか?」を愚直に思量し、条理を尽くして語る努力そのものが民主主義の土台をかたちづくると私は考えているからである。だから、「民主主義とは何のためのものか?」という問い手離した人々はもう民主制国家を維持することはできない。
 民主主義というのはどこかに出来合いのものがあって、それを「おい、民主主義一丁おくれ」と言えば誰かが持って来てくれるというものではない。それは私たちが今ここで手作りする以外にないものなのである。いま日本の民主主義が崩れつつあるのは、私たちがそのことを忘れたからである。
 第二次世界大戦が終わった後に、ウィンストン・チャーチルは下院の演説において民主主義についてこう述べたことがある。
「この罪と悲しみの世界では、これまでに多くの政治体制が試みられてきたし、これからも試みられてゆくであろう。民主主義が完全で全能のもの(perfect and all-wise)だという人はいない。事実、民主主義は最悪の統治制度(the worst form of Government)だとこれまで言われてきた。これまで試みられてきたすべての統治制度を除けばだが。」
 広く人口に膾炙したフレーズであるが、この言葉を引用する人たちは「民主主義は最悪の制度だ」という点を強調し過ぎるように私には思われる。民主主義は「ろくでもない制度」である。だが、それ以外の政治体制は「さらにろくでもない制度」である。それゆえ、われわれは民主主義をいやいや採用している。多くの人はそういうふうに論を運ぶ。なんだかシニカルで頭よさそうである。だが、私はその解釈を採らない。チャーチルはこの時に「民主主義は最も実現することが困難な政体である」ということを言いたかったのではないかと思うからである。
 民主主義はまだ存在しない。私はそう思っている。「まだ」というか、たぶん永遠に存在しない。民主主義は「それをこの世界に実現しようとする遂行的努力」というかたちで、つまりつねに未完のものとしてしか存在しない。
 それでいいのだと思う。
 高い目標をめざす努力というのはどれも「そういうもの」だからだ。こちらの目の黒いうちに民主主義を実現することがかなわなくても、それを目指して前のめりに息絶えたということなら私の方には特段文句はない。
 この世界には一神教徒が25億人ほどいる。彼らは世界の終わりの時にわれわれを救うために現れる救世主(メシア)の到来を信じている。だが、預言者がそう説いてからそろそろ3000年ほど経つのに救世主はまだ来ない。これまで一度も起きたことがない出来事は、帰納法的に推論すれば、これからも起きない。だが、一神教の信者たちは彼らが生涯ついに出会うことのなさそうな救世主の到来を勘定に入れて今ここでの彼らの生活を律している。
 ある概念の持つ指南力はそれが現実化する蓋然性とは関係がない。メシアが永遠に到来しなくてもメシアニズムは今ここで機能する。それと同じである。「完全で全能の民主主義」が永遠に到来しなくても、その概念が今ここにおける政治的指南力を持つことはあり得る。「民主主義」は一神教における「メシア」に比すべき超越的な概念なのだ。というのが私の仮説である。そんな変ちきなことを言う人は他にいないと思うが、そう考えると現代日本における民主主義の空洞化の説明がつく。
 民主主義あるいは民主制(democracy)とはどういう制度なのか? 
 定義はそれほど難しくない。これは主権者が誰であるかによる政体の分類だからである。民主制の他には、君主制(monarchy)、貴族制(aristocracy)、寡頭制(oligarchy)、無政府(anarchy)などいくつかの政体が同列に並ぶ。チャーチルが「これまで試みられたすべての統治制度」と呼んだものがそれだ。だから、「私は民主主義に反対である」と言う人は、これらのうちのどれかの政体を選択したと見なされる。
 では、「主権者」とはどういう人間のことか。私はこれを「自分の個人的運命と国の運命の間に相関がある(と思っている)人間」と定義したいと思う。これもまた個人的な定義であり、一般性を要求するわけではない。とにかくこの定義で話を進めさせてもらう。
 帝政や王政においては皇帝や国王が主権者である。だから、明君賢帝であれば国は治まり、暗君愚帝であれば国は乱れる。貴族政や寡頭制でも話は変わらない。主権者の賢愚や善悪がそのまま国運を決する。それなら民主制でも話は同じはずである。民主制は国民が主権者である政体、すなわち国民ひとりひとりが「自分の個人的運命と国の運命の間には相関がある(と思っている)」政体である。そして、実際に国民ひとりひとりの賢愚や善悪が国運の帰趨を決するのである。
 アンドレ・ブルトンがどこかで「『世界を変える』とマルクスは言った。『生活を変える』とランボーは言った。この二つのスローガンはわれわれにとっては一つのものだ」と書いていたが、私はこれはそのまま民主制国家の主権者の条件として使えると思う。つまり、「自分の生活を変えることと国を変えることが一つのものであると信じられること」それが民主制国家における主権者の条件である。
 自分のただ一言ただ一つの行為によって国がそのかたちを変わることがあり得るという信憑を手離さない者、それが民主主義国家における主権者である。だから、主権者は「自分が道徳的に高潔であることが祖国が道徳的に高潔であるためには必要である」「自分が十分に知的な人間でないと祖国もまたその知的評価を減ずる」と信じている。遠慮なく言えば、一種の関係妄想である。だが、このような妄想を深く内面化した「主権者」を一定数含まない限り、民主制国家は成り立たない。
 そのことは「主権者のいない民主制国家」というものを想像してみれば分かる。
 主権者のいない民主制国家では、国民は自分の個人的な生き方と国の運命の間には相関がないと思っている。自分が何をしようとしまいと、国のかたちに影響はないと思っている。公共的圏域はあたかも自然物のように自分の外に存在しており、自分が汚そうと傷つけようと蹴とばそうと盗もうと、いささかも揺らぐことはないと思っている。今の日本人はまさにそれである。
 主権者であることを止めた国民というのは「高速道路が渋滞しているときに、路肩を走るドライバー」に似ている。彼以外のすべてのドライバーが遵法的にふるまい、彼一人が違法的である時に彼の利益は最大化する。しかし、それを見た他のドライバーたちが彼を真似て路肩を走り出すと、彼のアドバンテージはゼロになる。これが民主制国家の抱える根本的なジレンマである。
 公共の秩序が整っているときにこそ私利私欲の徒は大きな利益を得る。だが、私利私欲の徒が増え過ぎると秩序は崩壊する。だから、私利私欲の徒を根絶することはできないが、その人口比は「受忍限度」を超えてはならない。どうやって「公共の福祉を配慮する人」と「自己利益だけを追求する人」の比率をコントロールするか? それが民主制国家の直面する最大の現実的問題である。
 一定数の主権者(あるいはもっと平たく「大人」と言ってもよい)、つまり「自分の利害と国の利害は結びついていると思っている人」を民主制は含んでいなければ立ち行かない。それは上に申し上げた通りである。だが、社会の民主化が進み、「大人」の数が増えるにつれて、公共の福祉を顧みず利己的にふるまう人間(すなわち「子ども」)が得る利益は増大する。社会が民主化されるほど非主権者的=非民主主義的にふるまう者はより大きなアドバンテージを享受できることになる。つまり、民主制とは、その構成員たちに絶えず「他の連中には法と倫理を守らせ、常識に従わせ、公共の福祉に配慮させておいて、自分ひとりは抜け駆けして利己的・違法的・非民主的にふるまう」ように誘いかけるシステムなのである。
 ややこしい仕組みである。「最悪の統治制度」だとチャーチルが言うのも当然である。
 しかし、それでも民主制はそれ以外の政体よりも「まし」だと私は思う。
 民主制国家においてはとりあえず一定数の国民が、自助努力がそのまま国力の増大、国運の上昇に結びつくと信じているからである。自分がまず大人にならなければならないと信じているからである。
 史書によれば、名君である尭が五十年王位にあった後、自分の統治がうまくいっているかどうかを知るために変装して街を歩いたことがあった。子どもたちは「万民が幸福なのは皇帝の徳治のおかげだ」という童謡を歌っていたが、一人の老人は腹鼓を打ちながら「帝力なんぞ我にあらんや」とうそぶいていた。皇帝の資質といまの自分の生活の間には相関があることを子どもは信じており、老人は信じていない。いずれが現実を正しく見ているかということは別にして、このあと「公共の福祉」のために汗をかく気があるのはどちらかかは誰にも分かる。
 帝政王政の国では統治者一人が賢明であれば善政は行われた。でもそれは君主以外のすべての民が何の判断力も持たない愚鈍な幼児であっても機能する制度、むしろそうである方がよりよく機能する制度であった。だから、それらの制度は廃棄されたのだと思う。
 私が民主制を支持するのは、それが「できるだけ多くの国民が適切な判断力を具えた大人であることの方がそうでないよりよく機能する制度」だからである。民主制国家は一定数の国民が大人であることを要求する。それが民主制の手柄である。
 私が表現の適否を公的機関が判断することに反対するのは、その機関がつねに誤った判断を下すと思っているからではない(多くの場合、その判断は正しいだろう)。それが国民の適切な判断力の涵養に資するところがないからである。国民の市民的成熟を目指さないからである。それは「未成年者のために大人が決定を代替する」仕組みである。そして、そのような仕組みが整備された社会では子どもが大人になる動機づけは傷つけられる。「あなたが判断しなさい」と権限を委ねない限り、人は自分の判断力を育てようとはしない。「あなたが決めるのです」と負託しない限り、人は主権者としての自己形成を始めようとしない。
 民主制はそのような「賭け」なのである。今の日本で民主制が衰微しているのは、私たちにその覚悟がなくなったからである。
                                

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