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自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

なぜ「次の天皇」が女性ではいけないのか PRESIDENT Online 5/6(月) 17:15配信

2019年05月07日 10時02分31秒 | 時事問題(日本)

これはすばらしい記事です。コメントにも注目

 

なぜ「次の天皇」が女性ではいけないのか

5/6(月) 17:15配信    

    

プレジデントオンライン

■二度と戦争は起こしてはならないという強い決意
 平成から令和になったが、私には何の感慨もわかない。
 改元についての番組をNHKは3日間で33時間も放送したという。平成から令和へと変わる5月1日の午前0時、渋谷のスクランブル交差点を含めて、年明けのようなお祭り騒ぎが全国で繰り広げられた。
 アベノミクスが失敗して景気が落ち込み、北方領土返還もプーチン大統領に無視され、万策尽きた安倍政権が、改元をお祭りにするという策を弄(ろう)したのかもしれない。その目論見はひとまず功を奏したということだろうか。
 私は、明仁上皇が生前退位したことはよかったと思っている。第二次世界大戦で戦死した日本軍の激戦地を訪問する慰霊の旅を続けてこられたことに、尊敬の念を禁じ得ない。
 天皇皇后が激戦地跡にたたずみ、深く首を垂れる姿には、二度と戦争は起こしてはならないという強い決意がにじみ出ていた。
 長い旅を終えられ、体力の限界を感じた明仁上皇が、202年ぶりといわれる譲位を決断されたのは、よくよく考えてのことであったのだろう。
■「国民と共に憲法を守ることに努めていきたい」
 皇太子徳仁親王が126代天皇の位に就かれた。5月1日、新天皇が即位後の朝見の儀で述べる「おことば」に注目が集まった。
 昭和天皇が崩御して天皇に即位した明仁天皇は、そこでこう述べられた。
 「皇位を継承するに当たり、大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし、いかなるときも国民とともにあることを念願された御心を心としつつ、皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」
 また、その後の記者会見でも、陛下の憲法への思いをお聞かせくださいといわれて、「憲法は、国の最高法規ですので、国民と共に憲法を守ることに努めていきたいと思っています」と答えている。
 「憲法を順守する」という強い決意を表明したのである。

■「憲法を守る」と「憲法にのっとり」の大きな違い
 新天皇はどういわれたのか。
 「憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望いたします」
 毎日新聞(5月2日付)は社説で、「言葉遣いはやや変わっても、基本姿勢は同じとみられる」と書き、やや疑問を呈した。
 朝日新聞(5月2日付)は、おことばは、「内容は似ているが、異なる点もあった」とし、古川隆久日大教授は、「憲法を『守り』は、改憲しないとの意図が感じられる。『のっとり』にはそのニュアンスはなく、改憲もありうるという内閣の考え方が反映されたようにみえる」と語っている。
 さらに、天皇のおことばは、閣議決定を経ることになっていて、今回も閣議決定で決まったものだと、何らかのチェックが入ったのではないかとにおわせる。
 のっとりという言葉を辞書で引くと、基準やルールを基準にし、従うという意味だと出ている。
 われわれ国民も、憲法に定められていることに従って生活しているが、その憲法が改悪されたら、嫌でも、それに従わなければならない。
■天皇・皇族にとっての「自己実現」とは何か
 だが、現憲法を守るというと、そこには憲法の三原則である国民主権、平和主義、基本的人権を堅持していく、それを改悪することは許さないという積極的な意味を持つことになるはずだ。
 消極的な憲法護持と積極的に憲法を肯定し、それを遵守することの間には、かなりの隔たりがあると思うのは、私だけだろうか。
 「国政に関する機能を持たない天皇に、国民が多くを期待することは健全ではない」という成城大学森暢平教授(朝日新聞5月2日付)の考え方もわかるが、森教授もいっているように、「国家システムとして求めているのは、あくまで記号としての天皇」だが、実際には記号ではなく人間である。「天皇・皇族にとっても、自己実現とは何か、何を為して生きるべきかは、最大の難関だと思います」(森教授)
 新しい時代の天皇への国民の期待は大きい。平成の時代、天皇皇后が行動で示してきた平和を守るという意志を、どういう形で見せてくれるのか。国民の一人として見守りたい。

 

 

■週刊新潮は令和時代の「壬申の乱」を危惧
 一見、令和の幕開けは順調のように見えるが、多くの難問が前途に控えているといわれる。
 その一つは、皇位継承順位第1位の「皇嗣」となり、長男の悠仁さんが同第2位になられた弟君、秋篠宮文仁親王の最近の言動である。
 4月21日付の朝日新聞朝刊が、秋篠宮が「兄が80歳のとき、私は70代半ば。それからはできないです」といったと報じた。
 この発言が物議を醸している。週刊誌はいち早くこのことを取り上げ、週刊新潮(5/2・9号)は、秋篠宮は自分が天皇を継ぐことになるのなら、できるだけ早くやりたいと考えている。自分の代は短くてもいいから、早く悠仁に継がせたいという思いが出ているのではないかと報じている。
 しかし、兄が新天皇になる直前に、弟が皇位を早く譲ってほしいと急(せ)かせるような発言をするだろうか。もしそうだとしたら、新潮は令和時代の「壬申の乱」になるかもしれないと危惧している。
■「皇嗣としての自覚があるのか」と問うている
 週刊文春(5/2・9号)は、秋篠宮の発言の真意は「自分は天皇になるつもりはない」というもので、皇位継承順位第一位の秋篠宮が即位をしないためには、皇室典範の改正や特例法の制定が必要となるから、皇嗣になって同様の発言をすると、政治的な発言だと批判を浴びかねない。そのためギリギリのタイミングで自分の考えを朝日に書かせたのではないかと、河西秀哉名古屋大学大学院准教授の見解を掲載している。
 しかし、これが秋篠宮の即位拒否だとすれば、今後も退位が繰り返され、短期間での退位や新天皇の即位拒否が繰り返され、天皇が空位になる可能性もある、という保守派の八木秀次麗澤大教授のような意見もある。
 文春はその前の号で、皇太子(当時)が秋篠宮に対して、「もっと大きな志を持ってほしい」「(新天皇となる)自分の思いを理解してほしい」と知人に漏らしていたと報じていた。
 秋篠宮に皇嗣としての自覚があるのかと問うているのである。

 

■タイの新国王の戴冠式に出かけようとしていた秋篠宮
 たとえば、5月4日には新しい天皇皇后と秋篠宮夫妻が初めて国民と対面する一般参賀が行われたが、秋篠宮は2日か3日にしてほしいと希望していたそうだ。
 4日に、彼と親しいタイの新国王の戴冠式があり、それに出席したいと望んでいたからだという。結局、タイ側が、外国から賓客を招かないことになって事なきを得たそうだが。
 私は、自由奔放な秋篠宮らしいと思うのだが、皇室にいる人間たちはそうは考えないようだ。
 このたび皇太子が不在になるため、秋篠宮の役割はさらに重要になる。さらに、秋篠宮家は、長女眞子さんと小室圭さんとの結婚という深刻な問題を抱えている。
 次女の佳子さんは、大学を卒業するにあたり記者の質問に答えて、姉の眞子さんの結婚を望んでいると発言し、さらに、姉と小室圭に関するマスコミ報道を真っ向から批判した。
■雅子妃ほど「バッシング」を受けた皇太子妃はいなかった
 週刊誌報道によれば、姉と妹は母親の秋篠宮紀子さんと意思の疎通が行えない状態だといわれている。そうしたこともあって、秋篠宮はこの頃痩せて、薬を服用しているという報道まである。
 天皇を支える立場の秋篠宮との関係、秋篠宮家の問題が、何らかの形で波風が立つようにでもなれば、徳仁天皇の前途にやや不安が残るかもしれない。
 二つ目は雅子皇后の体調問題である。5月1日にティアラとローブデコルテを身につけて即位の儀式に臨む雅子皇后の晴れやかな笑顔を見て、私も含めて、かつて外交官として世界を舞台に活躍していた雅子妃のことを思い出した人は多かったのではないか。
 雅子妃ほど、皇太子妃になられて、メディアや宮内庁の人間からバッシングされた女性はいなかったであろう。
 初の平民出身の美智子皇太子妃(当時)も、お付きの人から厳しいことをいわれた、皇后との嫁姑戦争があったと報じられたことがあったが、雅子妃のそれは、その比ではなかった。

 

■「結婚に消極的な姿勢は一貫していた」
 ハーバード大学を出て東大法学部に入った小和田雅子さんが、国家公務員試験に受かり、中退して外務省入りしたのは24歳の時だった。
 父親は外交官で、旧ソ連でも過ごしたからロシア語も堪能だそうだ。皇太子・浩宮に誘われて御所で何度か会ったようだが、「陛下に好意は抱いていたようだが、『やりたいことがあって外務省に入ったのだから』と結婚に消極的な姿勢は一貫していた」と、当時親しく付き合っていた斎藤智子記者が朝日新聞デジタル(5月1日12時00分)に書いている。
 この頃、プロポーズまで発展しなかったのは、彼女の祖父が水俣病を出したチッソの社長・会長を歴任したことがあり、宮内庁の中からだろう、反対の声があったという。
 その後、イギリスのオックスフォード大学に留学したが、皇太子妃候補ということで留学先まで記者たちが追いかけてきた。
 だが、浩宮の熱い思いに打たれ、92年に雅子さんが結婚を承諾したのである。
■結婚8年でやっと授かったのは「女の子」だった
 婚約会見で、「皇太子殿下からプロポーズにあたり『雅子さんのことは僕が一生全力でお守りします』といわれたと、彼女が明かした。
 その言葉にウソはなかった。しかし、皇太子妃になった雅子妃を待ち受けていたのは、あまりにも苛烈な日々であった。
 宮内庁職員からの厳しい言葉もあったのだろう。だが彼女を一番苦しめたのは子どもをつくれ、男の子を産めというプレッシャーであったことは間違いない。
 結婚して8年、やっと授かった子どもは女の子であった。周囲は素直に喜んではくれず、彼女は深く傷ついた。
 その頃、宮内庁の人間から秋篠宮紀子さんに、男の子を産んでくださいという話があったといわれている。
 幸福感に満ちあふれていたはずの愛子さんの誕生会見の席で、「私の胸元に連れてこられる生まれたての子供の姿を見て、本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました」といいながら、絶句した雅子妃に、そっと手を差し伸べられた皇太子の姿が忘れられない。

■まるで公務を怠けているかのような情報操作
 2004年5月10日、皇太子が欧州歴訪前の会見で、「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と明言したのは、プロポーズの時、「あなたを全力で守る」といった言葉が真であったことを示す、皇太子の覚悟の現れであったのだろう。
 事の重大さに驚いた宮内庁は、雅子妃に説明に上がりたいと申し出たが、雅子妃は「それなら私は皇太子妃を辞めます」と答えたと、当時の週刊誌に報じられている。
 皇太子の深い愛に包まれていたものの、雅子妃の体調は次第に悪化していった。
 帯状疱疹、適応障害などで公務もままならない日々が続いた。メディア、特に週刊誌は、公務に行かないのに、家族とは会って食事をたびたびしていると、心無い報道を続けた。
 愛子さんの学校に付き添い、合宿にも一緒に行き、雅子妃だけがホテルをとって高額な部屋に泊まったことまで報じ、まるで公務を怠けているかのような印象を国民に流し続けたのである。
■「女性天皇を認めること」に賛成は79.6%、反対は13.3%
 だが、長い時間がかかったが、皇太子と並んで、公務や被災地を訪れる雅子妃の姿が見られるようになってきた。
 皇后陛下になられた雅子妃を見ていると、そんな苦労の日々はなかったかのような晴れやかな表情をしている。これだけの苦労をしてきた雅子皇后だからこそできることがあると思う。これからも無理をせず、公務に家族団欒にと有意義な時間を過ごしてほしいと思う。
 共同通信社の世論調査(5月1~2日実施)によると、新天皇陛下に「親しみを感じる」と回答した人は82.5%もいるという。それに皇室典範で「男系男子」に限るとしている皇位継承についても、女性天皇を認めることに賛成は79.6%、反対は13.3%しかなかった。
 新しい天皇即位によって、皇位継承権のある男系男子は3人だけになってしまった。再び、雅子妃のようなことがあってはならない。そのためには、愛子さんが天皇に即位できるよう皇室典範を改正すべきであろう。
 女系天皇にまで踏み込まずとも、歴史上、女性天皇はこれまで何人もいる。政権が、皇室の繁栄を本心から願うなら、すぐに手をつけるべきだと、私は思う。(文中敬称略)
 ※5月6日17時50分追記:文中の表記を一部改めました。
---------- 元木 昌彦(もとき・まさひこ) ジャーナリスト 1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)、『編集者の教室』(徳間書店)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)などがある。 ----------    

ジャーナリスト 元木 昌彦 写真=時事通信フォト

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