ただいま、『きりのなかの はりねずみ』ショックから立ち直れず、混乱状態にある。
がんばって、アニメに簡単にふれると、生涯をふりかえるに「ミッキーマウス」「ダンボ」「白雪姫」「ポパイ」もちゃんと楽しんできたことに気がついた。(あれっ!、まんが映画とアニメの区別がつかなくなった)
ええい、無視して話を続けると、小学生のころ、まんがの人物の足を少しづつ変えて、たくさん書いて、それを束にしてバラバラとめくり、「歩いた 歩いた」と夢中になって遊んでもいた。
現代ではフィルム撮影の、いわゆる「映画」となっているものとちがって、どこか「コマ」が飛んだようなアニメーション映画に心をとらわれるのは、そういう「子どものあそび」、もっと言えば、太古人の静止画を歩かせてみたいという欲求が、映画の祖先という貫禄が、思いのほか、無意識に強く背後にあるからなのかもしれない。太古とは遠くにあるものではなく、最も自分の近くにあるものなのかもしれない。太古にもっとも近くにいるヒトは「子ども」ではないだろうか?しかも最も強い生命力を吹き込まれているヒトは「子ども」ではないだろうか?あとは、しなびていくだけだ。「子どものあそび」という強烈な自由奔放な夢、それも素朴でありながら、鋭く本質をつく「勘」の世界が、夢の世界が、アニメの背景に広々と横たわっているのかもしれない。アニメ独特の、ヒトをのびのびと開放感に浸らせ、猛烈な活気と楽しさを与える秘密が、もしかするとそこにありはしないだろうか?大人の大半は、歌と遊びを忘れたカナリヤだから。
と、ここで、「子ども」をだして「子どものくに」についての話にすりかえます。
ショックから冷めてから、アニメーション映画をムキになって再検討したいと思います。
(ああ、やっと不得意分野からのがれられた。こうして児童文学とアニメが、うまくドッキングすれば、大成功なのだが....一寸先は闇)
わたしは、正直に告白すると、大人の小説やノンフィクションの本を読んでいるほうが楽だ。というのは、私自身がすでに大人になってしまったからだ。児童文学を読むときには、意識的な努力が要る。
しかし、児童文学も読んでみようと思ったのは、山崎氏の『星の王子さまの秘密』のこの箇所を読んでからだ。
p81~83
《もしあなたたちが大人にたいして、ぼくはローズ色の煉瓦でできていて、窓にはジェラニュームがあり、屋根にはハトがいるきれいな家を見たよと言っても、大人はその家を思い描くことができません。ぼくは十万フランの家を見たよと言わなければなりません。すると大人は叫ぶのです。なんてきれいな家だろう!と。(二十ー二十二ページ)
大人たちは奇妙な世界に住んでいる。そこでは、人間と事物のあいだの接触は、けっして直接的ではなく、彼らが用いる言語は、事物を把握させるどころから、逆にそれを遠ざけてしまう。そのような距離や迂回の原因は金銭である。彼らは、事物の具体的な価値、ながめて美しいと思う価値、住んで素晴らしいと思う価値、つまり、美的価値や使用価値と、その商品としての価値、つまり交換価値とのあいだの剥離のなかに生きている。現在のような生産と流通のシステムを有する経済社会においては、金銭が表現するこの交換価値のみが重要なのであって、事物はまず商品として定義されるし、数字による抽象的表現を通じてしか人間相互における伝達手段はない。こう考えると、さきに述べた家にかんして、十万フランを根拠とする大人の発言には、それなりの意味がある。彼らの発言は、一定の社会的コードに則していて、合理的であるからである。しかし、子どもは、そのようなコードを知らないし、自分が感じた個人的印象をすなおに表現し、断定する。この意味で、子どもの発言は絶対的である。けっして理由を述べずに、事物の直接的価値を主張する詩人や芸術家の発言が絶対的であるのと同じように。
また、この家にたいする子どもの発言が如実に示しているように、家は家自体として語られているのではなく、「ローズ色」、「ジュラニーム」、「ハト」というように、事物の周辺部にあって、その輪郭をぼかし、それに光背のような輝きを与えるもの、つまり、事物をそれ自体より以上のもの、それを超える美へと送り返すように語られていることにも注目しなければならない。ときにいかに幼稚であっても、このような詩的な語り方も、大人が忘れてしまった子ども固有なものである。これとは逆に、大人の金銭や数字に依存する語り方はまさに散文である。それはいかにも合理的なのだが、読者が大人である場合にもこの種の発言にはある滑稽さを感じないではいられない。それは「十万フラン」が美しさを説明できず、美しさは別の次元に属するからであり、半分無意識ではあっても、彼ら読者のなかにひとりの子ども、永遠の詩人がめざめるからである。》
この指摘は、「子どもは、永遠に大人の教師である」と叫び続けるスージー・モーゲンスターンの声と共に、私の心に鳴り響いている。
どこまで、この指摘の意味を理解できているか?それは、また別問題にしてほしい。
心のなかでは、どうか、児童文学がアニメにつながりますようにと、祈っている(しつこい)。文学、絵画、映画、マンガ、音楽は当然連動しているものですから(しつこい)最近は、児童文学と大人の文学の堺がふっとんで、児童文学は子どもと大人の両者の糧になる文学ではなかろうかという疑問が湧いてきています。
がんばって、アニメに簡単にふれると、生涯をふりかえるに「ミッキーマウス」「ダンボ」「白雪姫」「ポパイ」もちゃんと楽しんできたことに気がついた。(あれっ!、まんが映画とアニメの区別がつかなくなった)
ええい、無視して話を続けると、小学生のころ、まんがの人物の足を少しづつ変えて、たくさん書いて、それを束にしてバラバラとめくり、「歩いた 歩いた」と夢中になって遊んでもいた。
現代ではフィルム撮影の、いわゆる「映画」となっているものとちがって、どこか「コマ」が飛んだようなアニメーション映画に心をとらわれるのは、そういう「子どものあそび」、もっと言えば、太古人の静止画を歩かせてみたいという欲求が、映画の祖先という貫禄が、思いのほか、無意識に強く背後にあるからなのかもしれない。太古とは遠くにあるものではなく、最も自分の近くにあるものなのかもしれない。太古にもっとも近くにいるヒトは「子ども」ではないだろうか?しかも最も強い生命力を吹き込まれているヒトは「子ども」ではないだろうか?あとは、しなびていくだけだ。「子どものあそび」という強烈な自由奔放な夢、それも素朴でありながら、鋭く本質をつく「勘」の世界が、夢の世界が、アニメの背景に広々と横たわっているのかもしれない。アニメ独特の、ヒトをのびのびと開放感に浸らせ、猛烈な活気と楽しさを与える秘密が、もしかするとそこにありはしないだろうか?大人の大半は、歌と遊びを忘れたカナリヤだから。
と、ここで、「子ども」をだして「子どものくに」についての話にすりかえます。
ショックから冷めてから、アニメーション映画をムキになって再検討したいと思います。
(ああ、やっと不得意分野からのがれられた。こうして児童文学とアニメが、うまくドッキングすれば、大成功なのだが....一寸先は闇)
わたしは、正直に告白すると、大人の小説やノンフィクションの本を読んでいるほうが楽だ。というのは、私自身がすでに大人になってしまったからだ。児童文学を読むときには、意識的な努力が要る。
しかし、児童文学も読んでみようと思ったのは、山崎氏の『星の王子さまの秘密』のこの箇所を読んでからだ。
p81~83
《もしあなたたちが大人にたいして、ぼくはローズ色の煉瓦でできていて、窓にはジェラニュームがあり、屋根にはハトがいるきれいな家を見たよと言っても、大人はその家を思い描くことができません。ぼくは十万フランの家を見たよと言わなければなりません。すると大人は叫ぶのです。なんてきれいな家だろう!と。(二十ー二十二ページ)
大人たちは奇妙な世界に住んでいる。そこでは、人間と事物のあいだの接触は、けっして直接的ではなく、彼らが用いる言語は、事物を把握させるどころから、逆にそれを遠ざけてしまう。そのような距離や迂回の原因は金銭である。彼らは、事物の具体的な価値、ながめて美しいと思う価値、住んで素晴らしいと思う価値、つまり、美的価値や使用価値と、その商品としての価値、つまり交換価値とのあいだの剥離のなかに生きている。現在のような生産と流通のシステムを有する経済社会においては、金銭が表現するこの交換価値のみが重要なのであって、事物はまず商品として定義されるし、数字による抽象的表現を通じてしか人間相互における伝達手段はない。こう考えると、さきに述べた家にかんして、十万フランを根拠とする大人の発言には、それなりの意味がある。彼らの発言は、一定の社会的コードに則していて、合理的であるからである。しかし、子どもは、そのようなコードを知らないし、自分が感じた個人的印象をすなおに表現し、断定する。この意味で、子どもの発言は絶対的である。けっして理由を述べずに、事物の直接的価値を主張する詩人や芸術家の発言が絶対的であるのと同じように。
また、この家にたいする子どもの発言が如実に示しているように、家は家自体として語られているのではなく、「ローズ色」、「ジュラニーム」、「ハト」というように、事物の周辺部にあって、その輪郭をぼかし、それに光背のような輝きを与えるもの、つまり、事物をそれ自体より以上のもの、それを超える美へと送り返すように語られていることにも注目しなければならない。ときにいかに幼稚であっても、このような詩的な語り方も、大人が忘れてしまった子ども固有なものである。これとは逆に、大人の金銭や数字に依存する語り方はまさに散文である。それはいかにも合理的なのだが、読者が大人である場合にもこの種の発言にはある滑稽さを感じないではいられない。それは「十万フラン」が美しさを説明できず、美しさは別の次元に属するからであり、半分無意識ではあっても、彼ら読者のなかにひとりの子ども、永遠の詩人がめざめるからである。》
この指摘は、「子どもは、永遠に大人の教師である」と叫び続けるスージー・モーゲンスターンの声と共に、私の心に鳴り響いている。
どこまで、この指摘の意味を理解できているか?それは、また別問題にしてほしい。
心のなかでは、どうか、児童文学がアニメにつながりますようにと、祈っている(しつこい)。文学、絵画、映画、マンガ、音楽は当然連動しているものですから(しつこい)最近は、児童文学と大人の文学の堺がふっとんで、児童文学は子どもと大人の両者の糧になる文学ではなかろうかという疑問が湧いてきています。