とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

菅氏、イチゴ畑から日本の頂点へ 2020 年 9 月 7 日 12:37 JST

2020年09月07日 18時27分03秒 | 選挙

菅氏、イチゴ畑から日本の頂点へ

次期首相の最有力候補は表に立たず敵を作らずに物事を成し遂げるという定評がある

 
 

菅義偉官房長官(8月27日)

PHOTO: AKIO KON/BLOOMBERG NEWS
<menu class="WSJTheme--article-tools-menu-2iXsF2hMQHUZjlHObzq-Pj WSJTheme--standard-1nVbjB_Th10W7Y_hKvdQkV ">

【秋田県湯沢市】大都会の横浜で市議会議員に立候補し、初めて選挙を戦ったとき、秋田県の人里離れた農村出身の菅義偉氏は無名の存在だった。自民党総裁選への出馬を表明した今月2日の記者会見では、「地縁も血縁もないところから、まさにゼロからのスタートでした」と振り返った。

</menu>

 しかし菅氏には粘り強さがあった。同僚の記憶によると、同氏は3万軒の家庭をまわり、靴を6足履きつぶしたのちに市議に当選した。それから30年以上たった今、イチゴ農家と教師の間に生まれた男は世界第3位の経済大国の首相になろうとしている。

 菅氏は既に党所属国会議員の過半数の支持を固めており、総裁に選出されて首相の座に就くことはほぼ確実だ。ただ中国の軍事的台頭などの問題をめぐって次期首相の手腕が問われることになるのは間違いないが、菅氏は世界の舞台でそうした問題に取り組んだ経験がほとんどない。

 日本では世襲政治家が好まれるため、菅氏の出世はなおさら信じがたい出来事だ。菅氏が8年近く仕えた安倍晋三首相は父親が外相で、祖父は首相だった。自民党の有力議員の大部分が政治家の息子か娘だ。

 

 71歳の菅氏は、支持層を熱狂させる力強い演説や変革のビジョンやイデオロギーで世襲のライバルを破ったわけではない。自分は表に出ず、敵を作らずに、物事を成し遂げるという評判が菅氏を後押しした。

 故郷にいたころの菅氏は相撲が強かった。幼なじみでラーメン店を営む藤原寛文さん(74)によると、菅氏は自分の強さをひけらかさず、対戦相手を持ち上げて土俵の外に出すときにはけがをさせないように気を付けていたという。

中学校3年生の時の菅氏(後列右端)

PHOTO: EIJI ITO

 今は空き家となった菅氏の実家――藤原さんは現在もその近所で暮らしている――は秋田県の山間部の農業集落、秋ノ宮にある。

 菅氏の同級生の由利昌司さんによると、1950年代から1960年代初めに育った2人は竹ざおと糸、餌にするために捕まえたミミズを持ってよく川に魚釣りに出掛けたという。野球のバットも丸太から作った。村で車を持っている人はおらず、高校はバスと電車を乗り継いで2時間かけて通学した。

 菅氏の父親がイチゴ農家だったおかげで一家は世間と比べて多少ながら豊かな暮らしをしていた。由利さんによると、菅氏は月刊の漫画雑誌「冒険王」を定期購読していて、最新回が読みたくて家に集まった数人の少年にいつも袋を開けさせてくれたという。

 「友達思いだった」と由利さんは言う。「たぶん自分は後で夜にでも読めばいいと思ってたんだと思う」

 父親は、4人きょうだいの3番目で長男の菅氏が畑を継ぐと考えていた。しかし狭い谷あいの集落で一生を過ごすことに菅氏は魅力を感じず、高校を卒業すると、一旗揚げるため東京に向かった。

 東京で最初に働いたのは段ボール工場だった。菅氏のウェブサイトによると、のちに築地市場での台車運びや新聞社の使い走りのアルバイトをして、その給料で法政大学の授業料を払った。26歳の時に横浜選出の国会議員の秘書の仕事に就いた。

 横浜市議を経て1996年に横浜の選挙区から国会議員に初当選し、今に至るまで議席を守り続けている。

 

首相官邸に到着した菅氏(1日)

PHOTO: JIJI PRESS/AGENCE FRANCE-PRESSE/GETTY IMAGES

 世に出るきっかけをつかんだのは2012年、安倍氏が首相に返り咲いたときだった。2006年から2007年までの第1次安倍内閣は、政策の混乱や、閣僚の失言を巡る悪評に見舞われた。安倍氏には与党勢力に足並みをそろえさせ、経済再生政策「アベノミクス」に集中させる人間が必要だった。

 「本当の意味で庶民の思い、生活感をわかっている」。秋田の佐竹敬久県知事は菅氏についてそう話した。佐竹氏は年に数回、東京の菅氏を訪ね、秋田弁で雑談をするという。

 菅氏は安倍政権の事実上のナンバー2として、首席補佐官と政府の首席報道官、舞台裏で経済政策の案を出すアイデアマンを合わせた役割を担った。昨年、米国を訪問してマイク・ペンス副大統領と会談し、「ポスト安倍」を狙っているとの臆測が出たときでも、野心を見せることはほとんどなかった。

 東京に戻った菅氏を故郷の友人である由利さんが訪ねた。総理大臣を目指せと言うと、菅氏は怒り、そんな話は聞きたくないと言ったという。

菅氏の家族が住んでいた家(秋田県湯沢市)

PHOTO: MIHO INADA/THE WALL STREET JOURNAL

 菅氏は注目を避けることに長(た)けている。1日2回、記者会見を行い、発言がメディアに頻繁に引用されながらも、あるときまで一般国民にほとんど知られていなかった。知名度が上がったのは、昨年4月1日に、徳仁天皇の即位に先立って、新元号「令和」を発表する様子がテレビ中継されてからだ。菅氏は日本で「令和おじさん」として知られるようになった。

 総裁選への出馬会見ではこれまでの功績を並べ、有権者への奉仕が政治家の本業だった時代を思い起こさせた。携帯電話料金の値下げ促進による家計負担の削減や、ダム規制を巡る縦割り行政の解消による洪水リスクの低減、横浜市議時代の保育スペースの拡大やビジネス街の発展への取り組みを挙げた。

 ただ、菅氏が国家の展望を語ることはなかった。安倍氏は8年前、経済を再生し、日本を世界で尊敬される強力なプレーヤーにすると語っていた。

 菅氏は大国との外交――米国のトランプ大統領やロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席などの名前――について、質問されたとき以外はほとんど言及しなかった。しかし首相に選出されれば、こうした国の指導者への対応は最重要課題になる。

 

 「多分、やり方はトランプさんと随分違う」と幼なじみの藤原さんは言う。安倍氏はトランプ大統領とゴルフを通じて絆を深めたが、菅氏はあまりゴルフはしない。

 藤原さんは菅氏が別の方法でトランプ氏と親しくなることに期待している。「釣りに誘われれば、本当に喜んで行くと思う」


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 菅氏が自民都議に支援要請 ... | トップ | 国際ニュース(2020/9/07月曜... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

選挙」カテゴリの最新記事