【反論】
関東大震災朝鮮人犠牲者への追悼文取りやめ 小池知事
朝日新聞 http://www.huffingtonpost.jp/2017/08/24/koike-yuriko_a_23159494/
では、このYoutubeや
TOKYO MEGA QUAKE 1923
この、千田是也の芸名の由来に見る関東大震災後の朝鮮人への集団暴行の事実はどうなるのか?
震災(1923年)後の復興に絡めた規制緩和によって築地小劇場の設立が実現するが、その記述のなかに千田是也の芸名に関するエピソードがある。
【参考】
「作品」で読む関東大震災
(2)千田是也=築地小劇場と芸名の由来
安藤 紀典より引用 http://www014.upp.so-net.ne.jp/senku/sk11-10ando.html
築地小劇場の誕生
震災の翌年、1924(大正13)年の東京について、劇作家の秋田雨雀(1883~1962)は自伝の中で次のように描いている
(中略)
遂に開場の日迎えるドラと葡萄と労働帽
1924(大正13)年6月13日、築地小劇場は遂に開場した。第一回公演の出し物は、ラインハルト・ゲーリンク『海戦』、アントン・チエェホフ『白鳥の歌』、エミイル・マゾオ『休みの日』、の各一幕物であった。「築地」の第三年度に文芸部に席を置き、のちに優れた劇作家・演出者となる久保栄は、この日の舞台の模様を次のように描写している。
「とにかく実際の仕事を見てほしいという意味の、小山内の短い挨拶があって、さて(『海戦』の)幕が上がると、砲台一つを飾りつけた裸か舞台の後ろの、日本の観客が始めて見るホリゾントへ、汐見洋の扮する水兵が、“前兆だ! 前兆だ!”という最初のセリフを響かせ、以下、水兵たちの急テンポの動作と叫喚が、砲台の砕け飛ぶまで続いた」
「やがて最期の演目(『休みの日』)に移ると、ホリゾントは照明の効果で透きとおるような青空をあらわし、水兵たちのわめき声とは似ても似つかない伸びやかな対話が、フランスの田舎町の気分を醸しだした」
ところで、開幕を告げるの音、葡萄(ぶどう)のマーク、労働帽、「築地小劇場を知る程の者は誰しも、この三つに云うべからざる親しみを感じるであろう」(水品)。
初演の日、開幕の銅鑼を打ち鳴らしたのは、のちに原爆の犠牲となって広島の地で亡くなった名優・丸山定夫であった。
マークに葡萄が選ばれた理由について、研究生だった山本安英が河竹登志夫に語ったところによると、「ギリシャのバッカスの神の葡萄祭――その年にとれた葡萄で葡萄酒をつくり、民衆が踊って楽しむ、その形から演劇的要素が生まれた、それで葡萄が大衆演劇に関係がふかいということ、もうひとつは、土方先生から直接うかがいましたのは、日本のお神楽、三番叟、そういうものはみんな鈴を使いますが、あれは葡萄を形づくってあるそうで、そういう日本的意味も入っているんだそうです」
「帽子は、土方与志がドイツから持って帰ったバンドつきの労働者のかぶる帽子が、すこぶる事務的でありかつ軽快でシャレているというところから、劇場の皆が被り出すようになった。当時この帽子が巷間にも非常に流行して、葡萄のマークと共に青少年の憧憬の的になったものである」(水品)
千駄ヶ谷で自警団に囲まれ「千田是也」
俳優・演出家の千田是也(1904~1994)は本名を伊藤夫といい、長兄の道郎は舞踏家、次兄の熹朔は舞台美術家であった。圀夫は東京府立一中[現在の都立日比谷高校]在学中から土方与志の舞台美術研究所に通っており、震災当時は19歳で早稲田大学独文科の聴講生であった。
土方が欧州に遊学に発ったあと、圀夫は兄の熹朔とやっていた人形劇をもう少し本格的にやろうと、メーテルリンクの『アグラヴェーヌとセリセット』を選んで準備をしていた。二人で人形の製作を終え、仲間を集め、それを操る練習をしようと材木町に小さな家を借りた。さあ明日からと、人形の最後の仕上げをしていた時に、震災が襲ってきた。
「熹朔はなにかの買物に出かけ、私と河村君とは鴨居にずらりとぶらさげた人形の糸の具合を調べていた。すると、急に家が上下、左右にものすごく揺れだした。から瓦がガラガラ落ちてくるので、うっかり外へも出られず、二人とも縁側の柱につかまって、いつ崩れるかと天井をにらんでいた」
そのうちだいぶ揺れが納まってきたようなので、ともかく近所の様子を見てこようと、材木町の大通りに出た。そこで熹朔と出会い、「家のほうを頼む」と言われたので、「よしきたと私は勇みたち、余震のたびに墓石がゴロゴロ倒れてくる青山墓地を駆け抜け、白い雲だか煙だかがモクモクしている四谷から赤坂にかけての空をはすに見上げ、これはただごとではないぞとあわてながら、青山練兵場を千駄ヶ谷に抜け、やっと家[現在の都体育館の辺り]にたどりついた。さいわい、この辺は大した被害はなく、わが家も塀が倒れたり、瓦が落ちたりしただけで、みんな無事に裏の空地に避難していた」
「そのころの僕はまだはたち前の体を動かすのがやたらに嬉しい年頃なもんで、親類のお見舞いに生かされたり、頼まれた米や野菜を買い集めてあちこちに運んだりしていた。隅田川にいっぱい黄色い死骸が浮かんでいたり、焼け焦げてサルぐらいに縮まった焼死体が道に転がっているのをやたらに見たり、風が川越しに運んでくる両国の陸軍被服で焼け死んだ何万人もの臭い……いやもう世間知らずの弱虫の文学青年にはたいへんなショックでした」
そして震災第二日目の晩、「千田是也」という芸名の由来である事件が起きる。街々の炎が夜空を真っ赤にそめ、ときどきガソリンや火薬の爆発する不気味な音がきこえて、余震がくりかえされ、通りには怪我人をのせた担架や荷車をかこむ疲れはてた人たちの行列が続くという状況の中で、朝鮮人が日頃のうらみで大挙して日本人を襲撃してくるとか、無政府主義者や共産主義者が井戸に劇薬を投げ込んでいるとかのデマが伝わってきた。「おまけに鉄衛がそのころ近衛の連隊長をしていた古荘[幹郎、姉の夫]のところに見舞いにいって姉からきいてきた情報によれば、軍は多摩川べりに散開して、神奈川方面より大挙北上中の〈鮮人集団〉と目下交戦中だという。そこで私もじっとしていられなくなり、お向かいの勝ちゃんの従兄の大学生といっしょに、家のまえの夜警についた」
「そんなわけで、ご苦労にも千駄ヶ谷の駅のすぐわきの土手に上がって、そのへんにいないかなあと探してみたが誰もいない。降りてくると、向こうから提灯が30くらいこっちに走ってくる。それきたと私も提灯のほうへ一生懸命駆けていくと、いきなりうしろから太い棍棒で背中をぶん殴られた。こんな雲をつくようなでっかい外国人でね。あのころは羅紗(ルビ・らしゃ)売りをやる白系ロシア人がたくさんこの辺にも住んでいましたからね。二人ぐらいだったかな、うしろから『こっちだ、こっちだ』と怒鳴るんですよ」
「まさか自分とは思えないので、一生懸命駆け続けていると、提灯がみんな僕のまわりに集まってきて、たちまち薪割りだの棍棒だのの輪のまんなかに囲まれてしまった。一生懸命『ちがいます、ちがいます』と言っても、こっちは見るからに芸術青年で、頭の毛は長いし、早稲田の制服の下に青いルバシカを着ちゃったりしているもんでね。いくら学生証を見せても、命令どおり教育勅語や歴代天皇の名を暗誦してきかせても、勘弁してくれない。まあ幸いなことに、出入りの酒屋の小僧さんが、『いけねえ、これ伊藤さんの坊ちゃんだ』と言ってくれたもんでね。あとは青年団のひとりが千駄ヶ谷の教会に通っていたときの友達だったりもしたので、やっと釈放された」
千駄ヶ谷で自警団に朝鮮人と間違えられたこの体験が、「千田是也」という芸名となった。「築地」の研究生として、「いよいよ役者として舞台に出なければならなくなったとき、やっぱり芸名をつけた方がいいということになって、みんなでワイワイいろんな名を出しているとき、土方先生が『震災記念に千駄ヶ谷のコレヤはどう?』と言われたので、圧縮して“千田是也”」
「まあはじめは面白半分につけた芸名なんですが、私も自警団に出ていたわけですからね、下手すればこっちが加害者になったかもしれない。それを思うと震災のたんびにその話をさせられるのがつらくなってきてね。左翼の運動に加わってからは朝鮮人の仲間も多くなりましたしね。できるだけ被害者ではなく、加害者になったかもしれない点を強調して話すようにはしているけれど、どうも後味がよくない」
なお、このエピソードから「千田是也」は一般には「せんだ・これや」と読まれているが、本人は「せんだ・これなり」だと強調していたそうである。
※編集部注:上記の「本人は『せんだ・これなり』だと強調していたそうである」という記述は、誤りである――と親族から訂正の要求がありました。したがって、「せんだ・これや」以外の読み方はありません、とします。
(後略)