「宗教的特色]
釈梼在世時のインドでは,正統派の宗教家たるバラモン (婆羅門) と並んで, 沙門(しやもん) (シュラマナ) と呼ばれる多種多様な宗教家,思想家がおり,なんらかの方法で輪廻(りんね) からの解脱を求めて修行し,またその道を説いていた。釈梼もまた,この出家遊行して乞食によって生活する沙門の道を選び,また修行方法として,身心を苦しめ鍛えて超能力を得る苦行の代りに,精神の統一,安定によって真理を直観する禅定 (ヨーガと同じ) を採用した。真理の直観とは真実をありのままにみること,すなわち悟りで,それによって生死輪廻の苦から解脱するという。これが苦の滅,涅槃と呼ばれる究極の目標である。釈梼の方法は,一方で自然的欲望に身をまかせる快楽主義を否定し,他面,苦行を捨てる点で,苦楽の両極端を離れた中道と称される。
また,釈梼は人生問題の解決に直接役だたない形而上学的問題 (たとえば世界の有限・無限とか,創造因とか) については質問されても解答せず (無記),判断を中止している。この点,釈梼は実務的で,自らの立場を病いに応じて薬を施す医者にたとえている。すなわち,苦悩を観察し,その由来するところをつきとめて,これを断つべく,その方法を教えるのがその任務であるとする。これは,(1) 苦,(2) 苦を集めるもの (原因), (3) 苦の滅,(4) 苦の滅に至る道という四つの項目 (四諦(したい) )にまとめられ, 仏教の基本とされる。
この知的・合理的方法の行き着くところ, 仏教では真理を悟ることに直接の目標が移行し,悟りの完成者たるブッダ (仏陀,仏,覚者) がその理想像となった。同時に真理こそ永遠不変の絶対的価値で,釈梼はただそれを発見し,人々にそれに至る道を教えた仲介者にすぎない。人はその教えに従って,覚者となるべく修行する。真理が絶対で,ブッダを通じて開顕されるということは,真理がキリスト教などの〈神〉の地位に代わるものであることを示す。しかし,仲介者,教主としてのブッダはキリスト同様一人であるとしても,覚者たることが万人に開かれているのは, 絶対者が非人格的な真理である点とともに, 仏教の特色である。ここでいう釈梼が悟った真理を仏教ではダルマ (法) と呼び,仏の教えはその真理を内容とするので,同じくダルマ,あるいは法と呼ばれる。
以上は釈梼の宗教の特色であるが,釈梼入滅の後,事情は少し変化した。第一は教祖ブッダすなわち釈梼の神格化 (超人化) である。ブッダ (仏) に対する崇拝はもともと在家 (ざいけ) の信者の間に強かったが,入滅後は,仏塔をまつることを通じて高まった。この傾向は後に仏塔を中心とする在家信者の運動を出発点とする大乗仏教を生み出した。そこでは過去仏や未来仏と並んで,この世界の周囲十方に無数の諸仏とその世界 (仏国土,浄土) の存在を認めた。それらの諸仏は,衆生済度 (しゆじようさいど) の誓願をもって修行して仏となり,その誓いどおり衆生を救うべく,その姿を現したものとして崇拝された (たとえば西方極楽世界の阿弥陀)。しかしその場合でも,法 (真理) の絶対性は失われず,仏は真理の体現者 (如来,すなわち如=真理に来至し,また如より来至する者) とされている。仏の本質は法そのもので (法身),諸仏はその具体的顕現である (色身)。一方,修行の目標としての悟りを,絶対者たる法との合一に求めるのは,バラモン正統派のベーダーンタ学派が主張する〈梵我一如〉とも共通する神秘主義であるが,ことにこれは後期に発達した密教において著しい。
仏教はインド外の諸地域に発展するにつれて,それぞれの地域,民族の信仰や儀礼などと習合し,それらを仏道の方便と認めたため,かなり大きく変質した。これは一つには,ヒンドゥー教とも共通するインド思想の宗教的寛容性によるが, 仏教が本質的に非人格的な真理を絶対とし,万象にその具現を見いだす,いわゆる汎神論的宗教であることにも由来する。
[基本的教理]
釈梼が悟り,人に説いたところの法 (真理=教え) とは何か。 仏教の教理の基本は,しばしば〈諸行無常 (しよぎようむじよう)〉〈一切皆苦 (いつさいかいく)〉〈諸法無我 (しよほうむが)〉〈涅槃寂静 (ねはんじやくじよう)〉の四句に要約される (これを一般に四法印と呼ぶ。ときには〈一切皆苦〉を除いて三法印という)。このうち前三句はわれわれが日常経験している世界の諸現象に関する真理で, (1) 諸現象は無常で変化してやまず,(2) そのために苦をもたらす (たとえば最大の苦として死。死は無常の代表),(3) 諸現象はすべて,自我でも自己の所有物でもなく,したがって自由にはならない。苦悩は実は,この自由にならないもの,無常なものを,われ,わがものと思い,執着をこすところに生ずる。 〈無我〉について後には,無常と直接結びつけて,永遠不変な実体 (=我) のないことと解釈され, 〈空〉 (中身のないこと) と同義とされた (無我説)。理論的には,無常であり,無我であるのがものの真実の姿で,それを認めぬところに苦が生じるということになろう (悟れば苦はなくなるが,無常であり,無我である事実に変りはない)。この苦の滅が第四句の〈涅槃寂静〉の表すところで, 涅槃は具体的には苦悩を起こす根源たる欲望,執着の炎が鎮火し寂静,清涼となった状態と説明される。
同じ内容を組織的に説いたのが,前述の〈四諦〉である (諦は真実,真理の意)。教理上の説明を加えると,(1)苦諦 (くたい) 人生には生老病死の四苦のほか,愛 (いと) しい人に別れ,怨み憎しみある者に出会い,求めるものは得られず,この身は無常な諸要素 (五蘊(ごうん) ――肉体 (色) と感覚 (受),表象 (想),意思 (行),認識 (識) の諸心理作用) の集合にすぎない,という合計 8 種の苦悩がある。 (2)集諦 (じつたい) この苦を集め起こすもの,つまり苦の原因としては, 煩悩と総称される心のけがれ (むさぼり,にくしみ,無知など) がある。無知とは無常,無我といった真実を知らないこと (無明(むみよう) )で,ときにはこれが悪の根源とみなされる。欲望や執着はすべてこの無知の結果おこるとみるのである。 (3)滅諦 (めつたい) 苦の滅,涅槃寂静が理想であること。これは無知がなくなったとき,つまり真実を知ったとき,悟ったときに実現する。 (4)道諦 (どうたい) この,苦の滅を達成するために実践すべき正しい道で, 8 項ある (八正道(はつしようどう) )。すなわち,(a) 正しい物の見方 (正見), (b) 正しい心のもち方 (正思),(c) 正しい言葉遣い (正語), (d) 正しい行動――不殺生,不偸盗などの戒を守る (正業), (e) 正しい生活 (正命),(f) 正しい努力精進 (正精進), (g) 正しく教えを憶念する (正念),(h) 正しい禅定の修習 (正定)。
以上の四諦は苦因→苦,道の実践による苦因の滅→苦の滅という 2 種の互いに相反する方向の因果関係を含む。前者は迷いの生ずる方向の因果で,後者は悟りに至る因果である。この因果関係が広く〈縁起〉と呼ばれる理 (ことわり) で,総じていえば〈A があれば B がある。 A が生ずるから B が生ずる。 A がなければ B はない。 A が滅するから B が滅する〉という形式になる。これを苦因→苦という視点で具体的に説いたのが,いわゆる十二支よりなる縁起 (十二因縁) である。その次第は,(1)無明 (むみよう)(根源的無知) → (2)行 (ぎよう)(身・口・意による三業) → (3)識 (しき)(心。分別的な認識) → (4)名色 (みようしき)(精神的要素と物質的要素。認識の対象) → (5)六入 (ろくにゆう)(眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の感官) → (6)触 (そく)(認識,感官,対象の接触) → (7)受 (じゆ)(苦楽などの感受) → (8)愛 (渇愛 (かつあい)。本能的欲望) → (9)取 (しゆ)(執着。物,物の見方,まちがった行為軌範,自我に対する固執) → (10)有 (う)(欲界,色界,無色界という三界の生存状態。総じていえば輪廻の世界) → (11)生 (しよう)→ (12)老死 (ろうし)などの苦悩の集積,となる。釈梼はこの無明から順次に生・老死が生起する次第と,無明が滅すれば順次に老死に至るまでが滅する次第という両方向にわたって縁起を観じて,悟りを得たと伝えられている。
縁起説は業説 (業は身・口・意の三業だが,それが果をひく力を重視する。総じて,輪廻を引き起こすのは業の力であるが,その業はさらに無知などの惑 (わく) すなわち煩悩に基づいているとみる説) と結びつき,十二支を三世にわたる二重の惑・業・苦の関係として説明するようになった。これと並んで,縁起を広くすべての現象の間における種々な関係の理論と解する立場も生まれた。その場合,因果を成立させる条件として,すべての現象になんらかの形で果を生む力があるとみて,これを〈行〉 (サンスカーラsaksk´ra) と呼び,その働きによって作られたものを〈有為 (うい) 法〉 (サンスクリタ・ダルマsaksknta‐dharma) と名づけた (ここで〈法〉とは一定の性質をもった現象の意)。しかも,すべて有為法は同時に因となって他の現象を生む力をもっているものと考えた (すなわち〈諸行〉=〈諸有為法〉)。そして,それらの行=有為法は刹那ごとに生じては滅するものと考え,それが無常ということの意味とされた。たとえば個人存在 (我) なども,五蘊が心 (識) を中心に刹那生滅を繰り返しながら,一定期間相続すること (心相続) だと説明する。そして,刹那生滅を繰り返す諸法 (諸現象) には永続的な実体はない,それが〈無我〉の意味であると解する。これら有為法に対し,理論上生滅のない存在として,空間 (虚空) などが想定されるが,宗教的要請たる涅槃もまた,生滅を超えた常住のものとみなされた。これらを有為でないものという意味で〈無為法〉 (アサンスクリタ・ダルマasaksknta‐dharma) と呼ぶ。ただし,これも決して実体あるものではない。つまり,有為法同様,無為法もまた無我である (諸法無我の諸法は有為法と無為法を含む,と解する)。
有為法と無為法と合わせて〈一切 (いつさい) 法〉であるが, 法 (ダルマ) は別様に分類すると,五蘊, 十二処 (十二入ともいう。眼・耳・鼻・舌・身・意とその対象としての色・声・香・味・触・法。触は身体で触れられて認識されるものの意。法は意識の対象となるすべての概念,無為法もその点で,法の仲間に入る),十八界 (十二処と同じ内外の対応に,眼識などの六識を加えたもの) になるとされて,相互の包括関係が決められた (ただし五蘊は行=有為法だけに相当し無為法を含まない)。このような理論化・組織化は,アビダルマ (法の研究) の名でまとめられた。
さらに,縁起説の理解をめぐって,仏教内に種々の学説が現れた。代表的なものとしては,(1) 一定の性質をもって実在する諸法相互の関係を縁起とみる説一切有部(せついつさいうぶ) の学説と, (2) これに反対し,諸法がその自体をもたず (無自性),空であることが縁起の意義であるとする大乗 (中観派(ちゆうがんは) )の立場がある。同じ大乗の中でも唯識 (ゆいしき) 説では,諸法も自我 (我) も観念的存在 (仮) にすぎないが,それらを実有とみる迷妄の世界が事実としてあることを認め,それをあらしめる根拠たるものとして,われわれの認識構造 (識) が,過去無数の諸業によって縁起したものであり,したがって実有であると主張した (ただし実有といっても,縁起したものであるから有為法であり,刹那滅であり,空であり,また価値的には迷妄の存在であるから否定されるべきものである。ただ,否定を通じて悟りを実現させる意味で,悟りにとって不可欠な依処 (えしよ) (土台) であると説明される)。唯識説ではまた,すべてが縁起したものであるという真理,空であるということ (空性),識のみであるということ (唯識性) などを,真如,法界の名で実有であるという。仏もまた,真如と一体となったもの,法身として実有である。この実有は,永遠不変の真理として絶対であることと,到達すべき宗教上の目標であることの二点を含んでいる。
釈梼在世時のインドでは,正統派の宗教家たるバラモン (婆羅門) と並んで, 沙門(しやもん) (シュラマナ) と呼ばれる多種多様な宗教家,思想家がおり,なんらかの方法で輪廻(りんね) からの解脱を求めて修行し,またその道を説いていた。釈梼もまた,この出家遊行して乞食によって生活する沙門の道を選び,また修行方法として,身心を苦しめ鍛えて超能力を得る苦行の代りに,精神の統一,安定によって真理を直観する禅定 (ヨーガと同じ) を採用した。真理の直観とは真実をありのままにみること,すなわち悟りで,それによって生死輪廻の苦から解脱するという。これが苦の滅,涅槃と呼ばれる究極の目標である。釈梼の方法は,一方で自然的欲望に身をまかせる快楽主義を否定し,他面,苦行を捨てる点で,苦楽の両極端を離れた中道と称される。
また,釈梼は人生問題の解決に直接役だたない形而上学的問題 (たとえば世界の有限・無限とか,創造因とか) については質問されても解答せず (無記),判断を中止している。この点,釈梼は実務的で,自らの立場を病いに応じて薬を施す医者にたとえている。すなわち,苦悩を観察し,その由来するところをつきとめて,これを断つべく,その方法を教えるのがその任務であるとする。これは,(1) 苦,(2) 苦を集めるもの (原因), (3) 苦の滅,(4) 苦の滅に至る道という四つの項目 (四諦(したい) )にまとめられ, 仏教の基本とされる。
この知的・合理的方法の行き着くところ, 仏教では真理を悟ることに直接の目標が移行し,悟りの完成者たるブッダ (仏陀,仏,覚者) がその理想像となった。同時に真理こそ永遠不変の絶対的価値で,釈梼はただそれを発見し,人々にそれに至る道を教えた仲介者にすぎない。人はその教えに従って,覚者となるべく修行する。真理が絶対で,ブッダを通じて開顕されるということは,真理がキリスト教などの〈神〉の地位に代わるものであることを示す。しかし,仲介者,教主としてのブッダはキリスト同様一人であるとしても,覚者たることが万人に開かれているのは, 絶対者が非人格的な真理である点とともに, 仏教の特色である。ここでいう釈梼が悟った真理を仏教ではダルマ (法) と呼び,仏の教えはその真理を内容とするので,同じくダルマ,あるいは法と呼ばれる。
以上は釈梼の宗教の特色であるが,釈梼入滅の後,事情は少し変化した。第一は教祖ブッダすなわち釈梼の神格化 (超人化) である。ブッダ (仏) に対する崇拝はもともと在家 (ざいけ) の信者の間に強かったが,入滅後は,仏塔をまつることを通じて高まった。この傾向は後に仏塔を中心とする在家信者の運動を出発点とする大乗仏教を生み出した。そこでは過去仏や未来仏と並んで,この世界の周囲十方に無数の諸仏とその世界 (仏国土,浄土) の存在を認めた。それらの諸仏は,衆生済度 (しゆじようさいど) の誓願をもって修行して仏となり,その誓いどおり衆生を救うべく,その姿を現したものとして崇拝された (たとえば西方極楽世界の阿弥陀)。しかしその場合でも,法 (真理) の絶対性は失われず,仏は真理の体現者 (如来,すなわち如=真理に来至し,また如より来至する者) とされている。仏の本質は法そのもので (法身),諸仏はその具体的顕現である (色身)。一方,修行の目標としての悟りを,絶対者たる法との合一に求めるのは,バラモン正統派のベーダーンタ学派が主張する〈梵我一如〉とも共通する神秘主義であるが,ことにこれは後期に発達した密教において著しい。
仏教はインド外の諸地域に発展するにつれて,それぞれの地域,民族の信仰や儀礼などと習合し,それらを仏道の方便と認めたため,かなり大きく変質した。これは一つには,ヒンドゥー教とも共通するインド思想の宗教的寛容性によるが, 仏教が本質的に非人格的な真理を絶対とし,万象にその具現を見いだす,いわゆる汎神論的宗教であることにも由来する。
[基本的教理]
釈梼が悟り,人に説いたところの法 (真理=教え) とは何か。 仏教の教理の基本は,しばしば〈諸行無常 (しよぎようむじよう)〉〈一切皆苦 (いつさいかいく)〉〈諸法無我 (しよほうむが)〉〈涅槃寂静 (ねはんじやくじよう)〉の四句に要約される (これを一般に四法印と呼ぶ。ときには〈一切皆苦〉を除いて三法印という)。このうち前三句はわれわれが日常経験している世界の諸現象に関する真理で, (1) 諸現象は無常で変化してやまず,(2) そのために苦をもたらす (たとえば最大の苦として死。死は無常の代表),(3) 諸現象はすべて,自我でも自己の所有物でもなく,したがって自由にはならない。苦悩は実は,この自由にならないもの,無常なものを,われ,わがものと思い,執着をこすところに生ずる。 〈無我〉について後には,無常と直接結びつけて,永遠不変な実体 (=我) のないことと解釈され, 〈空〉 (中身のないこと) と同義とされた (無我説)。理論的には,無常であり,無我であるのがものの真実の姿で,それを認めぬところに苦が生じるということになろう (悟れば苦はなくなるが,無常であり,無我である事実に変りはない)。この苦の滅が第四句の〈涅槃寂静〉の表すところで, 涅槃は具体的には苦悩を起こす根源たる欲望,執着の炎が鎮火し寂静,清涼となった状態と説明される。
同じ内容を組織的に説いたのが,前述の〈四諦〉である (諦は真実,真理の意)。教理上の説明を加えると,(1)苦諦 (くたい) 人生には生老病死の四苦のほか,愛 (いと) しい人に別れ,怨み憎しみある者に出会い,求めるものは得られず,この身は無常な諸要素 (五蘊(ごうん) ――肉体 (色) と感覚 (受),表象 (想),意思 (行),認識 (識) の諸心理作用) の集合にすぎない,という合計 8 種の苦悩がある。 (2)集諦 (じつたい) この苦を集め起こすもの,つまり苦の原因としては, 煩悩と総称される心のけがれ (むさぼり,にくしみ,無知など) がある。無知とは無常,無我といった真実を知らないこと (無明(むみよう) )で,ときにはこれが悪の根源とみなされる。欲望や執着はすべてこの無知の結果おこるとみるのである。 (3)滅諦 (めつたい) 苦の滅,涅槃寂静が理想であること。これは無知がなくなったとき,つまり真実を知ったとき,悟ったときに実現する。 (4)道諦 (どうたい) この,苦の滅を達成するために実践すべき正しい道で, 8 項ある (八正道(はつしようどう) )。すなわち,(a) 正しい物の見方 (正見), (b) 正しい心のもち方 (正思),(c) 正しい言葉遣い (正語), (d) 正しい行動――不殺生,不偸盗などの戒を守る (正業), (e) 正しい生活 (正命),(f) 正しい努力精進 (正精進), (g) 正しく教えを憶念する (正念),(h) 正しい禅定の修習 (正定)。
以上の四諦は苦因→苦,道の実践による苦因の滅→苦の滅という 2 種の互いに相反する方向の因果関係を含む。前者は迷いの生ずる方向の因果で,後者は悟りに至る因果である。この因果関係が広く〈縁起〉と呼ばれる理 (ことわり) で,総じていえば〈A があれば B がある。 A が生ずるから B が生ずる。 A がなければ B はない。 A が滅するから B が滅する〉という形式になる。これを苦因→苦という視点で具体的に説いたのが,いわゆる十二支よりなる縁起 (十二因縁) である。その次第は,(1)無明 (むみよう)(根源的無知) → (2)行 (ぎよう)(身・口・意による三業) → (3)識 (しき)(心。分別的な認識) → (4)名色 (みようしき)(精神的要素と物質的要素。認識の対象) → (5)六入 (ろくにゆう)(眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の感官) → (6)触 (そく)(認識,感官,対象の接触) → (7)受 (じゆ)(苦楽などの感受) → (8)愛 (渇愛 (かつあい)。本能的欲望) → (9)取 (しゆ)(執着。物,物の見方,まちがった行為軌範,自我に対する固執) → (10)有 (う)(欲界,色界,無色界という三界の生存状態。総じていえば輪廻の世界) → (11)生 (しよう)→ (12)老死 (ろうし)などの苦悩の集積,となる。釈梼はこの無明から順次に生・老死が生起する次第と,無明が滅すれば順次に老死に至るまでが滅する次第という両方向にわたって縁起を観じて,悟りを得たと伝えられている。
縁起説は業説 (業は身・口・意の三業だが,それが果をひく力を重視する。総じて,輪廻を引き起こすのは業の力であるが,その業はさらに無知などの惑 (わく) すなわち煩悩に基づいているとみる説) と結びつき,十二支を三世にわたる二重の惑・業・苦の関係として説明するようになった。これと並んで,縁起を広くすべての現象の間における種々な関係の理論と解する立場も生まれた。その場合,因果を成立させる条件として,すべての現象になんらかの形で果を生む力があるとみて,これを〈行〉 (サンスカーラsaksk´ra) と呼び,その働きによって作られたものを〈有為 (うい) 法〉 (サンスクリタ・ダルマsaksknta‐dharma) と名づけた (ここで〈法〉とは一定の性質をもった現象の意)。しかも,すべて有為法は同時に因となって他の現象を生む力をもっているものと考えた (すなわち〈諸行〉=〈諸有為法〉)。そして,それらの行=有為法は刹那ごとに生じては滅するものと考え,それが無常ということの意味とされた。たとえば個人存在 (我) なども,五蘊が心 (識) を中心に刹那生滅を繰り返しながら,一定期間相続すること (心相続) だと説明する。そして,刹那生滅を繰り返す諸法 (諸現象) には永続的な実体はない,それが〈無我〉の意味であると解する。これら有為法に対し,理論上生滅のない存在として,空間 (虚空) などが想定されるが,宗教的要請たる涅槃もまた,生滅を超えた常住のものとみなされた。これらを有為でないものという意味で〈無為法〉 (アサンスクリタ・ダルマasaksknta‐dharma) と呼ぶ。ただし,これも決して実体あるものではない。つまり,有為法同様,無為法もまた無我である (諸法無我の諸法は有為法と無為法を含む,と解する)。
有為法と無為法と合わせて〈一切 (いつさい) 法〉であるが, 法 (ダルマ) は別様に分類すると,五蘊, 十二処 (十二入ともいう。眼・耳・鼻・舌・身・意とその対象としての色・声・香・味・触・法。触は身体で触れられて認識されるものの意。法は意識の対象となるすべての概念,無為法もその点で,法の仲間に入る),十八界 (十二処と同じ内外の対応に,眼識などの六識を加えたもの) になるとされて,相互の包括関係が決められた (ただし五蘊は行=有為法だけに相当し無為法を含まない)。このような理論化・組織化は,アビダルマ (法の研究) の名でまとめられた。
さらに,縁起説の理解をめぐって,仏教内に種々の学説が現れた。代表的なものとしては,(1) 一定の性質をもって実在する諸法相互の関係を縁起とみる説一切有部(せついつさいうぶ) の学説と, (2) これに反対し,諸法がその自体をもたず (無自性),空であることが縁起の意義であるとする大乗 (中観派(ちゆうがんは) )の立場がある。同じ大乗の中でも唯識 (ゆいしき) 説では,諸法も自我 (我) も観念的存在 (仮) にすぎないが,それらを実有とみる迷妄の世界が事実としてあることを認め,それをあらしめる根拠たるものとして,われわれの認識構造 (識) が,過去無数の諸業によって縁起したものであり,したがって実有であると主張した (ただし実有といっても,縁起したものであるから有為法であり,刹那滅であり,空であり,また価値的には迷妄の存在であるから否定されるべきものである。ただ,否定を通じて悟りを実現させる意味で,悟りにとって不可欠な依処 (えしよ) (土台) であると説明される)。唯識説ではまた,すべてが縁起したものであるという真理,空であるということ (空性),識のみであるということ (唯識性) などを,真如,法界の名で実有であるという。仏もまた,真如と一体となったもの,法身として実有である。この実有は,永遠不変の真理として絶対であることと,到達すべき宗教上の目標であることの二点を含んでいる。