【聖書の正典化】
〈正典 (カノン) 〉とは信仰,生活,教義に基準を与える権威が教団によって公認された特別の書物のことであり,その他の書物との区別がなされる。ユダヤ教およびキリスト教はこのような正典概念を形成し,また維持した。ユダヤ教団では最も重要な〈律法〉は前 4 世紀中に,続いて〈預言者〉が前 3 世紀中ごろまでに正典化され, 〈諸書〉は一部の書物についての議論を残しつつ前 2 世紀中にはだいたい公認されたと思われる。ヘブライ原典に属する書物がすべて最終的に正典として公認されたのは,後 70 ~ 90 年にヤムニア (ヤブネ) で開かれたラビたちの会議においてであったと思われる。ローマに対するユダヤ人の反乱 (第 1 次ユダヤ戦争,66‐73) は鎮圧され,ユダヤ教団の拠点であったエルサレムとその神殿は破壊されたばかりでなく,ユダヤ人の立入りが禁止された。このような状況に置かれたユダヤ教徒の指導者たちは,唯一依拠すべき正典の最終決定を迫られたのであった。ラビたちはこの会議での正典の決定に伴い,当時キリスト者が使用していた《七十人訳》に含まれている他の文書 (アポクリファ) を正典から排除した。キリスト教会ではアポクリファは排除されず,むしろ聖人の功徳などの教義の典拠づけに用いられた。ローマ教会は対抗改革時代にアポクリファを〈第 2 正典〉として認めた (トリエント公会議,1546)。ギリシア正教会は《トビト書》など一部の書物の正典性を認めていたが (エルサレム主教会議,1672),近年アポクリファの全体を認めた (ギリシア教会会議,1950)。ロシア正教会は未決定である。プロテスタント教会はアポクリファの正典性を認めていないが,その教化的役割は認めてきた。
新約文書では,まず〈パウロの手紙〉や〈福音書〉が 2 世紀前半には旧約聖書に近い権威をもつようになり,次いで正典化された。 〈パウロの手紙〉以外の書簡もしだいに公認されるようになったが,問題とされた文書もいくつか存した。西方教会ではことに《ヘブル人への手紙》が,東方教会では《ヨハネの黙示録》が認められず,西方教会でこの問題に一応の決着がついたのは, 4 世紀末になってからであった (ヒッポ会議, 393。カルタゴ会議,397)。東方教会が新約文書の全体を公認するまでには,その後も数世紀を要した (コンスタンティノープル会議,692)。新約文書の正典化を促進した重要な動機として挙げられるのは,グノーシス主義者やマルキオンがイエスとパウロの独特な解釈を行い,とくにマルキオンが旧約聖書を排斥して簡略福音書を作成し,独自の排他的な正典を制定したことであった。
【本文と写本】
旧約聖書は一部 (《ダニエル書》2 : 4 ~ 7 : 28, 《エズラ記》4 : 8 ~ 6 : 18,7 : 12 ~ 7 : 26, 《創世記》31 : 47,《エレミヤ書》10 : 11) のアラム語で書かれた個所を除いて,ヘブライ語で書かれている。新約聖書はヘレニズム世界の共通語であった民衆のギリシア語 (コイネー) で書かれている。旧約聖書の本文はセム語の通例で子音字だけで書かれていたので,ヘブライ語が死語になってからは正しい読み方を示すくふうがなされ, 6 世紀ごろから 10 世紀にかけて,マソラ (伝承) 学者によって母音を指示する字外音標つきの校訂本文が作成された。字外音標の方式は複雑に発達したが,その後に継承された〈マソラ本文〉はパレスティナのティベリアスを中心とする西方マソラ学派のものであり,中でもベン・アシェル家の作業による本文 (〈ベン・アシェル本〉) が優位を占めた。その系統の完全な本文である〈レニングラード写本〉 (1008) およびその 4 分の 1 が失われた〈アレッポ写本〉 (930 ころ) が最近の学問的校訂本の底本として使用されている。なお今日では各種の古代語訳とともに, 1947 年以後の数年間に死海北西岸のクムラン洞穴などから発見された,前 2 世紀から後 2 世紀にさかのぼる〈死海写本〉の読みが本文の校訂や批評のために参照されている。近年の完結したすぐれた学問的校訂本は,キッテル=カーレ編集の《ビブリア・ヘブライカ》(第 3 版 1937,第 7 版 1951) およびこれに代わるエリガー=ルドルフ編集の《ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア》(1967‐77) である。
新約聖書のギリシア語写本のうち,パピルス写本は大部分が断片的ではあるが, 3 ~ 4 世紀のものが最も多く,最古の写本断片は 125 年と推定される。そのうち〈チェスター・ビーティ・パピリ〉と〈ボードマー・パピリ〉は相当の分量があり,ことに前者はパウロなどの手紙 10 通の写本 (200 ころ) を含んでいる。近年の学問的校訂本のウェストコット=ホート版 (1881),ネストレ版 (1898,第 24 版 1960 以降はアーラントの校訂) などの底本として用いられているのは〈大文字写本〉と呼ばれ,アレクサンドリア本文型に属する 4 世紀の〈シナイ写本〉および〈バチカン写本〉が最も重視されている。 〈小文字写本〉は 9 世紀以降のものである。なお聖書本文の最初の刊本は,ヘブライ原典が《ソンチノ完全聖書》(1488),新約原典がエラスムスの校訂本 (1516) である。 聖書の各書に対する現在のような章節づけは, 16 世紀にエティエンヌ (エティエンヌ父子) によってパリで印刷されたギリシア語・ラテン語新約聖書 (1551) に始まり,フランス語訳聖書 (1553) で旧約聖書にも及び,やがてヘブライ原典にも適用された (1571)。しかしヘブライ原典の章節と近代語訳聖書の章節は一部にずれがある。
並木 浩一
〈正典 (カノン) 〉とは信仰,生活,教義に基準を与える権威が教団によって公認された特別の書物のことであり,その他の書物との区別がなされる。ユダヤ教およびキリスト教はこのような正典概念を形成し,また維持した。ユダヤ教団では最も重要な〈律法〉は前 4 世紀中に,続いて〈預言者〉が前 3 世紀中ごろまでに正典化され, 〈諸書〉は一部の書物についての議論を残しつつ前 2 世紀中にはだいたい公認されたと思われる。ヘブライ原典に属する書物がすべて最終的に正典として公認されたのは,後 70 ~ 90 年にヤムニア (ヤブネ) で開かれたラビたちの会議においてであったと思われる。ローマに対するユダヤ人の反乱 (第 1 次ユダヤ戦争,66‐73) は鎮圧され,ユダヤ教団の拠点であったエルサレムとその神殿は破壊されたばかりでなく,ユダヤ人の立入りが禁止された。このような状況に置かれたユダヤ教徒の指導者たちは,唯一依拠すべき正典の最終決定を迫られたのであった。ラビたちはこの会議での正典の決定に伴い,当時キリスト者が使用していた《七十人訳》に含まれている他の文書 (アポクリファ) を正典から排除した。キリスト教会ではアポクリファは排除されず,むしろ聖人の功徳などの教義の典拠づけに用いられた。ローマ教会は対抗改革時代にアポクリファを〈第 2 正典〉として認めた (トリエント公会議,1546)。ギリシア正教会は《トビト書》など一部の書物の正典性を認めていたが (エルサレム主教会議,1672),近年アポクリファの全体を認めた (ギリシア教会会議,1950)。ロシア正教会は未決定である。プロテスタント教会はアポクリファの正典性を認めていないが,その教化的役割は認めてきた。
新約文書では,まず〈パウロの手紙〉や〈福音書〉が 2 世紀前半には旧約聖書に近い権威をもつようになり,次いで正典化された。 〈パウロの手紙〉以外の書簡もしだいに公認されるようになったが,問題とされた文書もいくつか存した。西方教会ではことに《ヘブル人への手紙》が,東方教会では《ヨハネの黙示録》が認められず,西方教会でこの問題に一応の決着がついたのは, 4 世紀末になってからであった (ヒッポ会議, 393。カルタゴ会議,397)。東方教会が新約文書の全体を公認するまでには,その後も数世紀を要した (コンスタンティノープル会議,692)。新約文書の正典化を促進した重要な動機として挙げられるのは,グノーシス主義者やマルキオンがイエスとパウロの独特な解釈を行い,とくにマルキオンが旧約聖書を排斥して簡略福音書を作成し,独自の排他的な正典を制定したことであった。
【本文と写本】
旧約聖書は一部 (《ダニエル書》2 : 4 ~ 7 : 28, 《エズラ記》4 : 8 ~ 6 : 18,7 : 12 ~ 7 : 26, 《創世記》31 : 47,《エレミヤ書》10 : 11) のアラム語で書かれた個所を除いて,ヘブライ語で書かれている。新約聖書はヘレニズム世界の共通語であった民衆のギリシア語 (コイネー) で書かれている。旧約聖書の本文はセム語の通例で子音字だけで書かれていたので,ヘブライ語が死語になってからは正しい読み方を示すくふうがなされ, 6 世紀ごろから 10 世紀にかけて,マソラ (伝承) 学者によって母音を指示する字外音標つきの校訂本文が作成された。字外音標の方式は複雑に発達したが,その後に継承された〈マソラ本文〉はパレスティナのティベリアスを中心とする西方マソラ学派のものであり,中でもベン・アシェル家の作業による本文 (〈ベン・アシェル本〉) が優位を占めた。その系統の完全な本文である〈レニングラード写本〉 (1008) およびその 4 分の 1 が失われた〈アレッポ写本〉 (930 ころ) が最近の学問的校訂本の底本として使用されている。なお今日では各種の古代語訳とともに, 1947 年以後の数年間に死海北西岸のクムラン洞穴などから発見された,前 2 世紀から後 2 世紀にさかのぼる〈死海写本〉の読みが本文の校訂や批評のために参照されている。近年の完結したすぐれた学問的校訂本は,キッテル=カーレ編集の《ビブリア・ヘブライカ》(第 3 版 1937,第 7 版 1951) およびこれに代わるエリガー=ルドルフ編集の《ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア》(1967‐77) である。
新約聖書のギリシア語写本のうち,パピルス写本は大部分が断片的ではあるが, 3 ~ 4 世紀のものが最も多く,最古の写本断片は 125 年と推定される。そのうち〈チェスター・ビーティ・パピリ〉と〈ボードマー・パピリ〉は相当の分量があり,ことに前者はパウロなどの手紙 10 通の写本 (200 ころ) を含んでいる。近年の学問的校訂本のウェストコット=ホート版 (1881),ネストレ版 (1898,第 24 版 1960 以降はアーラントの校訂) などの底本として用いられているのは〈大文字写本〉と呼ばれ,アレクサンドリア本文型に属する 4 世紀の〈シナイ写本〉および〈バチカン写本〉が最も重視されている。 〈小文字写本〉は 9 世紀以降のものである。なお聖書本文の最初の刊本は,ヘブライ原典が《ソンチノ完全聖書》(1488),新約原典がエラスムスの校訂本 (1516) である。 聖書の各書に対する現在のような章節づけは, 16 世紀にエティエンヌ (エティエンヌ父子) によってパリで印刷されたギリシア語・ラテン語新約聖書 (1551) に始まり,フランス語訳聖書 (1553) で旧約聖書にも及び,やがてヘブライ原典にも適用された (1571)。しかしヘブライ原典の章節と近代語訳聖書の章節は一部にずれがある。
並木 浩一