ついに、読んだ!トミー・アンゲラーの風刺画集。(正確には”見た”)
coeur a coeur(率直に、胸襟を開いて) という男女の仲を風刺した、ピンクのハートだらけの文字なしの風刺画集。
笑い転がり、ぞっとし、よくもまあ、こんなにたくさん描いたものだ、思いついたものだと感心する。
どんなものかは、とても口では説明できないけれど、たとえば、ピンクのハートをたくさん獲得して、胸から出して、和風にいえばお手玉をして遊ぶ女のそばで、しょんぼりした男が、負けたというふうに頭をたれて座っている絵、あるいは逆に、ふんぞりかえった男のそばで、ピンクのハートが胴体になった女がまっさおになって自転車をこがされている絵。わはははと笑えるんだなあ。でも、男と女の姿にそそがれるアンゲラーの優しいまなざしを感じる。
アンゲラーには『ゼラルダと人食い鬼』という絵本がある。
ネットで調べると、小学校の読書本として結構とりあげられているようだが、ところで、ここでストーリーを書くべきか迷ったけれど、安全のために書きますね。
町には、子どもを朝食にする人食い鬼が出没して、親は必死になって子供を地下室などに隠しておびえている。学校はからっぽ。人食い鬼は子どもが隠れたので食料がなくって、腹ぺこだ。まずいジャガイモを食べて飢えをしのいでいる。
町から離れた農場に住むゼラルダには、そんな噂は届かない。ゼラルダは小さいけれど働き者で、すでに料理も上手に作れる。
ある日、体の具合が悪くなったお父さんの言いつけで、市場に出す品物を積んで町へ出かける。
ゼラルダを岩の上で見つけた人食い鬼は、子どもがでてきたので、大喜び。早くつかまて食べようと、あんまり焦ったので足をすべらせて岩から落ちて気絶する。
そこを通りかかったゼラルダは、血だらけで倒れている腹ペコの人食い鬼を見て、「まあ、かわいそうに」と、運んできた品物でおいしいお料理をつくって、鬼にたべさせてやる。鬼はあまりのおいしさに、自分のお城にきてお料理をつくってくれと頼む。「ええ、いいわよ」。ゼラルダはお城で、次々とおいしいお料理を作って食べさせるので、鬼は、ついに子ども食べることなんて忘れる。ゼラルダは、そのうち美しく成長した女になったので、鬼はうっとりしてゼラルダと結婚する。ゼラルダはたくさんの子どもを産む。ラストシーンは、今産んだばかりの赤ん坊を抱くゼラルダをたくさんのこどもが囲み、傍らで目を細め、恐い髭もそりおとした鬼がうれしそうに微笑んでいる。子どもたちのなかには、ゼラルダが産んだばかりの赤ん坊が遺伝的につい食べたくなった男の子の一人が、後ろでにナイフとフォークを握っている。
大人のあなたは、この絵本をどう読む?
裏に、男女の仲の風刺を感じて、 わははと笑える?(爽快に笑ってほしい)
今、春日武彦の『何をやっても癒されない』を読み途中なんですが、ある部分にわたしの関心がボンドでひっついた。
「心というものは噛みかけのガムみたいにねばねばしたもので、自分のガムと相手のガムとがくっつくと、いとも簡単に混ざり合ってしまい分離が難しくなり、むりに引き離そうと焦っているうちにますます混交してしまう―そんなイメージをわたしは持っている。つまり自他の区別なんてものは、世間で思っているほど明確なものとは考えていない。
だから一時期「お受験殺人事件」と称されていた春奈ちゃん殺人事件の犯人が「心と心のぶつかりあい」と語ったことが、非常に奇異に感じられたのである。心がぶつかりあう程にがっちりしていたら、それだけ自我が確立していることであろう。自他の区別がきちんと出来れば、安易に他人を恨んだり、つまらぬ嫉妬などはしない筈である。」P31
(中とび)
「誰もが「ぶつかりあえる」ほどにがっちりした精神を持っていたなら、世の中はビリヤードの試合のように単純明快なものとなることだろう」P32
「優しさに、さよならをしてみようか」と、北山修が唄のなかで言っていたが、本当だね。さよならしてみようか。
今までの自分の「優しさ」は、ただ自他の区別がつかなくて、自己満足ばかりを狙った、ただのネバネバだったような気がして、しょうがないんだ。(混乱のため、未完)
coeur a coeur(率直に、胸襟を開いて) という男女の仲を風刺した、ピンクのハートだらけの文字なしの風刺画集。
笑い転がり、ぞっとし、よくもまあ、こんなにたくさん描いたものだ、思いついたものだと感心する。
どんなものかは、とても口では説明できないけれど、たとえば、ピンクのハートをたくさん獲得して、胸から出して、和風にいえばお手玉をして遊ぶ女のそばで、しょんぼりした男が、負けたというふうに頭をたれて座っている絵、あるいは逆に、ふんぞりかえった男のそばで、ピンクのハートが胴体になった女がまっさおになって自転車をこがされている絵。わはははと笑えるんだなあ。でも、男と女の姿にそそがれるアンゲラーの優しいまなざしを感じる。
アンゲラーには『ゼラルダと人食い鬼』という絵本がある。
ネットで調べると、小学校の読書本として結構とりあげられているようだが、ところで、ここでストーリーを書くべきか迷ったけれど、安全のために書きますね。
町には、子どもを朝食にする人食い鬼が出没して、親は必死になって子供を地下室などに隠しておびえている。学校はからっぽ。人食い鬼は子どもが隠れたので食料がなくって、腹ぺこだ。まずいジャガイモを食べて飢えをしのいでいる。
町から離れた農場に住むゼラルダには、そんな噂は届かない。ゼラルダは小さいけれど働き者で、すでに料理も上手に作れる。
ある日、体の具合が悪くなったお父さんの言いつけで、市場に出す品物を積んで町へ出かける。
ゼラルダを岩の上で見つけた人食い鬼は、子どもがでてきたので、大喜び。早くつかまて食べようと、あんまり焦ったので足をすべらせて岩から落ちて気絶する。
そこを通りかかったゼラルダは、血だらけで倒れている腹ペコの人食い鬼を見て、「まあ、かわいそうに」と、運んできた品物でおいしいお料理をつくって、鬼にたべさせてやる。鬼はあまりのおいしさに、自分のお城にきてお料理をつくってくれと頼む。「ええ、いいわよ」。ゼラルダはお城で、次々とおいしいお料理を作って食べさせるので、鬼は、ついに子ども食べることなんて忘れる。ゼラルダは、そのうち美しく成長した女になったので、鬼はうっとりしてゼラルダと結婚する。ゼラルダはたくさんの子どもを産む。ラストシーンは、今産んだばかりの赤ん坊を抱くゼラルダをたくさんのこどもが囲み、傍らで目を細め、恐い髭もそりおとした鬼がうれしそうに微笑んでいる。子どもたちのなかには、ゼラルダが産んだばかりの赤ん坊が遺伝的につい食べたくなった男の子の一人が、後ろでにナイフとフォークを握っている。
大人のあなたは、この絵本をどう読む?
裏に、男女の仲の風刺を感じて、 わははと笑える?(爽快に笑ってほしい)
今、春日武彦の『何をやっても癒されない』を読み途中なんですが、ある部分にわたしの関心がボンドでひっついた。
「心というものは噛みかけのガムみたいにねばねばしたもので、自分のガムと相手のガムとがくっつくと、いとも簡単に混ざり合ってしまい分離が難しくなり、むりに引き離そうと焦っているうちにますます混交してしまう―そんなイメージをわたしは持っている。つまり自他の区別なんてものは、世間で思っているほど明確なものとは考えていない。
だから一時期「お受験殺人事件」と称されていた春奈ちゃん殺人事件の犯人が「心と心のぶつかりあい」と語ったことが、非常に奇異に感じられたのである。心がぶつかりあう程にがっちりしていたら、それだけ自我が確立していることであろう。自他の区別がきちんと出来れば、安易に他人を恨んだり、つまらぬ嫉妬などはしない筈である。」P31
(中とび)
「誰もが「ぶつかりあえる」ほどにがっちりした精神を持っていたなら、世の中はビリヤードの試合のように単純明快なものとなることだろう」P32
「優しさに、さよならをしてみようか」と、北山修が唄のなかで言っていたが、本当だね。さよならしてみようか。
今までの自分の「優しさ」は、ただ自他の区別がつかなくて、自己満足ばかりを狙った、ただのネバネバだったような気がして、しょうがないんだ。(混乱のため、未完)