『日本を決定した百年』吉田茂(日本経済新聞)より、とびとびの引用を再掲載。細部は再検証の余地があるでしょうが、私にとってはこれが敗戦を考えるときのたたき台になっています。
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1945年8月15日、日本は完全に疲れきって戦闘行為を終えた。その歴史における最大の誤算が日本の国土とその国民にもたらした損害はまことに大きなものだった。日本がその日までにつくりあげてきた多くのものが、この誤算によって失われたのである。日本は68万平方キロメートルの領土、すなわち戦争前の領土の半分近くを失った。戦争で死んだ人は200万以上に達した。155万5308人が戦死し、66万8000人が空襲で死んだのである。京都と奈良を除いて、ほとんどすべての主要都市が空襲によって損害を受けたが、その結果、完全に破壊されたものだけで建物250万に達し、そのうち家屋は200万戸であった。
日本の首都であり最大の都会である東京は、戦時中の疎開と死傷で、1940年の人口670万から1945年8月には280万人に減っていた。
しかも東京に残った人々のかなりの数が満足な家に住むことができず、一時しのぎの掘立小屋に住んでいたのである。爆撃によって高い建物がなくなったので、首相官邸がある小高い丘からは、はるか向こうの東京湾を見渡すことができた。経済はほとんど完全な崩壊状態にあった。
しかし、なによりも大きな問題は生きるために必要な食料が不足していたことであった。
食糧不足に悩まされ、インフレーションが進行する悪い条件のなかで、悪賢く生きる国民は少なく、不平を言いながらもほとんどがまじめに働いた。
そして日本人は基本的に楽観的な国民であった。敗戦はたしかに大きな打撃を与えたが、国民は「文化国家」の建設とか、経済復興とか、あるいは自分たちの生活の復興とか、さまざまなことに自分たちの生きがいを見出し、将来を信じた。いくら努力をしてもだめだという悲観主義は日本人にとりつくことはできなかった。
まず、日本人は敗戦を素直に認めた。日本本土にあって最後まで戦う気持ちを持っていた軍隊や、アジアの各地に広く散らばっていた100万をこえる軍隊がなんの事故もなしに解散したのは、そのなによりの証拠であった。
また、アメリカが敵地に乗り込むようなつもりで、厳重、酷烈な占領計画を立てて日本に進駐したところが、懸念されたような不穏な状態がまったくおこらなかったのも、同じような日本人の態度のためであった。もちろん、そこには権威者には従うという日本人の伝統的性格も作用していたであろう。また、日本に進駐してきたアメリカ軍の将兵が、規律正しい、友好的な軍隊であったことも日本人に強い印象を与えた。たとえば日本の狭い道でアメリカ軍の兵士と日本人が鉢合わせしそうになったとき、「エクスキューズ・ミー」という言葉をアメリカ軍兵士の口から聞いて驚いた日本人はまれではなかった。
しかし、敗北を認めるいさぎよさがなければ、事情はまったく変わっていただろう。私は戦争が終わって1ヶ月後、外務大臣に任命されたとき、戦争が終わったとき総理大臣であった鈴木貫太郎氏に会った。そのとき鈴木氏は、「戦争は勝ちっぷりもよくなくてはいけないが、負けっぷりもよくないといけない。鯉はまな板の上に載せられてからは、包丁をあてられてもびくともしない。あの調子で負けっぷりをよくやってもらいたい」と言われた。この鈴木氏の言葉は、その後私が占領軍と交渉するにあたって私を導く原則となったが、考えてみるとそれは日本人が一般にもっていた考え方であったかもしれない。占領軍の政策について、それが思いちがいであったり、日本の実情に合わないときは、はっきりと意見を言うが、しかしそれでもなお占領軍の言い分どおりにことが決定してしまった以上は、これに順応し、時あって、その誤りや行き過ぎを是正することができるようになるのを待つ、というのが私の考え方であった。すなわち、言うべきことは言うが、あとはいさぎよくこれに従うという態度だったのである。
おそらく、同じような考え方に立った日本人が日本の各地で、同じような態度で占領軍との交渉にのぞんたことであろう。もちろん、いつの世にも権力者に媚びるいやな人たちは存在する。たとえば総司令部の人々にすがって、なにか利益を得ようとした日本人もあった。あるいは占領軍を崇拝し、その言うことは全て正しいとする人たちもいた。また、追放などのことで占領軍を利用して自分の対抗者を追放処分にし、自分の勢力を伸ばそうとした人もあった。しかし、全体としてみれば、日本人は占領軍に対してりっぱな態度を示したと思う。
また、同じようないさぎよさをもって、日本人は敗戦の厳しい現実を認め、不平を言うかわりに一心に働いた。きわめて悪い経済条件にもかかわらず社会秩序は保たれ、犯罪は少なく、腐敗と混乱が一部に限られたことは、そのためであった。
さらに、敗戦の混乱がきわめて限定されたものとなったことについて、天皇の果たされた役割を無視することはできない。天皇は戦争の最後の段階において、徹底抗戦を主張する軍部をおさえ、和をこうという苦しい決意を下された。
それに、日本人は敗北によって深刻な精神的打撃をこうむっていた。かなりの日本人が日本は不敗であるという神話を信じ、日本の戦争目的の正しさを確信して、多大の犠牲を払って戦争に協力した。ところ日本は敗北したし、しかも、その戦争目的はまったく正当性を欠くものであったといわれたのである。当然多くの日本人は激しく動揺した。それは、およそあらゆる権威のいちじるしい失墜を意味した。それに加えて、ヤミ市場とインフレーションに代表される戦後の混乱は、日本人の道徳を切りくずすことになった。
先々のことを考えて対策を建てるなどという生やさしい事態ではなかった。極端に言えば、その日暮らしの窮境にあった。そして政府と同じように国民もまた、その日の生活に追われて、生きるために奮闘しなくてはならなかったのである。
しかし、幸か不幸か、われわれはその日の生活のことだけでなく、日本の将来に関することも考えなくてはならなかった。占領軍が徹底的な改革を指令したからである。実際、第二次世界大戦後に日本を訪れた占領軍は、歴史にその例をみないものであった。すなわち、アメリカ軍はただ単に勝者としてではなく、改革者として、日本を「非軍事化」するために日本に進駐してきたのであった。戦争の原因を日本やドイツの軍国主義にみた彼らは、日本の軍国主義を生み出した社会構造を変革し、日本を軍事的に無能力化することこそ、平和な世界を建設するために最も基本的なことであると考えていた。彼らはそのための計画を日本に進駐する前からつくっており、そして日本に進駐してくるやいなや、その計画どおりに日本の非軍事化と民主化をおしすすめていた。
8月末に日本に進駐してきた占領軍は、9月11日に東条元首相などの戦争犯罪人を逮捕したのをはじめとして、日本軍隊の完全な武装解除と軍事機構の廃止、国家主義団体の解散などの非軍事化のための措置(1946年1月)、好ましからざる人物の公職追放、思想警察、政治警察の廃止(1945年10月)、婦人参政権の賦与(1945年12月)、労働組合の結成(1945年12月)などの民主化のための措置をやつぎばやにとった。そして教育改革、土地改革。財閥解体、新憲法制定などの
措置も、だいたい1,2年のうちに行われたのである。それは文句なしに「無血革命」と呼べるような大変化であった。
とくに、このためにアメリカ本国で組織され、準備をすすめてきた日本にきた人々は日本を改革するという情熱に燃えていた。彼らは典型的なアメリカ人として、精力にあふれ、楽天主義に満ちた人々であり、その本質的な善意のために日本人の尊敬と協力を得るのに成功した。しかしまた、彼らはいささか尊大であり、かつ苛酷でもあった。彼らは日本の経済復興の必要を認めていなかった。
また、彼らは、古い政治構造を破壊し、徹底的な社会改革を行うことが日本人の生活にどんな影響をあたえるかについても単純に楽観的であった。
こうした大きな改革は、だいたいのところ、多くの国民の支持を得た。たとえば新しく発布された憲法は国民によって支持された。しかし、その場合、憲法改正のイニシャティブが占領軍によってとられたことも否定しえない事実である。
したがって、それは日本人の発意によってつくられた憲法と同じように容易には日本の社会に根づかなかった。
また、憲法改正のような変革を人々はその好むようにうけとった。戦争を放棄した憲法第九条はその最もよい例で、それが自衛のための武装をも禁止しているのかどうかについて、初めから人々の意見は定まらなかった。一般の国民は詳しく考えず、ただ戦前の軍国主義への反動から憲法第九条を支持したよう思われる。要するに、法律を変え、政治体制を修正することはやさしいが、それを根づかすのはむずかしいのである。そして、結局戦後の改革で日本に根づいたものは、日本側になんらかの基礎があったものであり、それがなく、かつ、日本の実情にそわなかったものは独立回復後に変更されたように思われる。
どうもアメリカ人は理想に走り、相手方の感情を軽視しがちである。机上で理想的なプランをたて、それがよいと決まると、しゃにむにこれを相手に押しつける。相手がそれをこばんだり、よろこばなかったりすると怒る。善意ではあるが、同時に相手の気持ちとか歴史、伝統などというものをとかく無視してしまう。この
熱心な改革者との交渉は、日本人にとってユニークな交渉であった。もっとも、すべてのアメリカ人がこのような人々だけではなかったのであり、マッカーサー元帥といっしょに戦ってきた軍人たちは、ともかく占領を成功させることを考えていたようであって、一部の改革者たちの行き過ぎを多少制約する働きをした。
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今日、この文章を読むと、どういう気持ちになりますか?
個人的には、私には、戦争(?)をし続けるアメリカが狂っているように見えます。アメリカの暴力的行為にだけは加担したくない。それが一番の望みです。
もうひとつ、今日見たい動画は以下のものです。↓戦争と平和を考えたい。
加藤周一氏(1919年9月19日ー2008年12月5日)評論家
●映像ドキュメント 2006年12月8日東京大学駒場900番教室
加藤周一氏講演会 老人と学生の未来-戦争か平和か
↑(動画を無断でお借りしました。すみません)
「晴天とら日和」さまhttp://blog.livedoor.jp/hanatora53bann/archives/2009-05.html#20090516