霊感弁連の言うように、マインド・コントロールつまり自由な意思が阻害されて家庭連合信者が被害被ることなんかないよ、って思っている。
そう書いたら、いや、私は自由な意思阻害されてましたよ、例えば
- 朝8時まで寝てたいのに親に朝6時に起こされた
- 朝パンが食べたいのにご飯だけだった
- お小遣いが少ないから好きなアイドルのCDが買えなかった
的に、日々の区々たる日常生活における「自由な意思の阻害」を指摘する方がいらっしゃる。
そういうことではない。
子どもが玄関の靴を揃えない。親に窘められて靴を揃え直す。こういう躾を、いちいち「子どもの自由な意思を阻害」と言わない。
家庭連合の文脈で問われる「自由な意思の阻害」は、信仰する、入信するという文脈の「自由な意思の阻害」である。
かつてこれは書いた。過去記事
人が宗教に入信するときには、
- 心に響く教化
- 啓示的な導き
- 普遍的な真理
- 霊的な感化
への感動があるから入信するのだと。その「人生最大の決断」において自由な意思が阻害されることはあり得ない、と。
改めて考えると、人が家庭連合に入信するには、以下の2つの「大きなハードル」がある。
1 入信する
宗教は必要ではない。生きるのに宗教は不要。日本人で、「特定宗教を信じていますか」と訊かれ、言下に「YES」と答える人は1割もいないだろう。
9割の人は宗教の助けを借りずに生きている。これは世界も似たような風潮だ。
宗教は要らない。なくても生きていける。
※ 結婚とか就職とかと比較すると分かりやすい。
多くの人が結婚し、就職する。
そのため、結婚とか就職しないと、肩身が狭いと感じる(人が多い)。
宗教は違う。宗教を信じていなくても肩身は狭くない。
宗教がなくても生きていけるはずなのに、宗教を信じる。
それは、その宗教に、必要性、しかも強い必要性、ほとんど「必然性」(Inevitability)を感じたから。
必然性は英語のInevitableを考えると分かりやすい。オレにはこの宗教が不可欠なんだ、この教えがなきゃ生きていけないんだ的な、切迫感。強い使命感。
単なる必要性とは違う。
例えば。
私は、この5年くらい、聖書を勉強している。
このブログで「宗教」カテゴリーの昔の記事(2022.7の安倍暗殺事件前)とか、「聖書」とかのKEYWORDで検索していただければ、私がどれだけ聖書とキリスト教を高く評価しているか、おわかりになるだろう。
牧師(ちなみにアメリカ人)からは、洗礼を何度も勧められている。
でもまだ私は洗礼を受けない。たぶん一生洗礼を受けないかも?
それは、私にとって、キリスト教への入信が「必然」「絶対必要」とは思われないから。
よく生きるために、キリスト教の考えが、「必要」に近い、とても「重要」なものとは理解してる。
でも「必然」でも「絶対必要」だとは思っていない。
だから入信しない。(すでに入信していると言えるかもしれないが)洗礼を受けない。
「重要」で、「必要」かもしれないが、「絶対必要」でも、「必然」でもない。
だから洗礼を受けない。
家庭連合その他(特に新興)宗教に入信する人は、単に「重要」だから入信するのではない。「必要」だから入信するのでもなかろう。
「絶対に必要」だ、私にとってこの宗教との出会いは「必然」なんだ、って思うから入信する。
その思考過程、心理的変化、霊的な動き、精神的な振幅において、「自由な意思が阻害される」ことは、絶対にないはずだ。
2 「カルト」宗教
しかも、家庭連合・統一教会は、昔から、カルト・邪教扱いされてきた。最も評判が悪い宗教の一つだ。
それに入信するってことは、それなりの、いや、それなり以上の、とてつもない、大きな、大胆な、決心が必要だった。
浄土真宗とか日蓮宗とかキリスト教のような、伝統宗教に入信するのとは理由が違う。
新興宗教、しかもカルト視されている新興宗教に入るってことは、もっのすごいハードルが高い。
その「悪い評判を乗り越えてでも私はこの新興宗教を信じます」っていう心理的・精神的過程において、大きな葛藤があるはずだ。
親は何と言うかな、、、
友達はどう思うかな、、、
職場には明かせないな、、、
そういう、とってつもない大きい葛藤を乗り越えて、人は家庭連合信者になる。
そのプロセスにおいて、「自由な意思が阻害」されていたなんてことは、あり得ない。
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以上2点の「ものすごい高いハードル」を超えた家庭連合信者が、その入信過程で、マインド・コントロールされていたとか、「自由な意思が阻害されていた」なんてことは、絶対にあり得ない。
と思うのですがいかがでしょうか。
自分は、55年の信仰になりますが、マインドコントロールされていると言われるのは心外です。他人を馬鹿にしていると思います。
右に行くか左に行くかは自分の意志で選択しています
原体験は、やはり自分が変わったという経験があったからです。大いなるものの存在を確信してから人生観が変わりました。
マインドコントロールを主張するのは、自分の仕事や活動を正当化するためだと思います。