以下の文は、毎日新聞の『「表現の不自由」考 肖像燃やす作品「天皇制批判の意図なし」 制作の大浦信行さん』と題した記事の一部を転載した文です。
『「不敬だ」「不快だ」――。国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止となった問題では、従軍慰安婦問題を象徴する「平和の少女像」だけでなく、昭和天皇の肖像を燃やしているように見える美術家の大浦信行さん(70)の映像作品「遠近を抱えて PartⅡ」にも批判が相次いだ。
ただ、大浦さん自身は「天皇制を批判する意図は全くない」という。制作の意図を聞いてみた』
転載終わり。
この記事はこの後が有料となっていますが、ここまでで充分です。
もう既に完成されていて公開されている作品は、その作品を鑑賞する人達にどのように評されても文句は言えません。
多くの人がその作品に感じる感想と自分の製作意図が本当に違うのであれば、それはただ単に制作能力が未熟であるだけです。
言い訳をしたところで意味はありません。
作品は公開された時点で作者の手を離れて独り歩きするのです。
その作品を鑑賞した人の感想が全てです。
作品外で釈明したところで意味はありません。
作品で勝負するとはそういうことなのです。
作品外で釈明することになったということは未熟な表現であることの証明となります。
優れた表現であるならば、そのようなことをする必要がないのですから。
さてさてそのような屑といってよい作品であっても、公開する自由はあるのですよ。
「表現の不自由」というわけではないのですよ。
その代わり、公開した作品は鑑賞した人に評価されるのです。どのように評価されるかは鑑賞した人それぞれに委ねられるのです。
その意味で、「表現の不自由展」と銘打って芸術の表現をテーマにしたにもかかわらず芸術における表現を粉砕した「表現の不自由展・その後」の主催者達は、愚かとしか言いようがありません。
どんな屑な作品であっても、公開することは出来るのです。
そして屑な作品には自由に「屑だ」と述べる自由は存在しているのです。
それと税金を投入した公共事業での税金の使い方に関しては、話が全く違うのです。
「表現の不自由展」と銘打って芸術の表現をテーマにしたにもかかわらず自分達の政治的な主張を喧伝し特定の政治勢力のプロパガンダの場として企画展を利用したことは、税金を投入した公共事業として問題が発生しているのです。
自分の作品を鑑賞してもらっておいて、鑑賞してくれた人の感想を受け止めることができない。
作品を言葉で説明しないと分かってもらえない。
これは芸術家として未熟であるとしか言いようがありません。
作者が意図したことを鑑賞した人が感じ取らなければならない。それ以外の感想は拒否する。そんなことはあり得ません。
鑑賞する人は、作者の意図とは全く違う感想を抱く自由があるのです。
そして、作者の表現が見事であるならば、作者が言葉で説明しなくても鑑賞する人は作者の製作意図は見抜きます。
作品外で釈明をするということは、ただ単に表現が下手ということなのですよ。
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