坂道を振り返る。
旧家の雰囲気。
一方でモダンなおうちも。
落ち着いた家並み。
「北生実上宿」信号。
この付近は、「北小弓城」下の町ということに。
生実城(おゆみじょう)は、千葉市中央区生実町にあった日本の城。北生実城・北小弓城(きたおゆみじょう)とも言われる。近世以降は生実藩の陣屋(生実陣屋)がおかれた。
千葉氏は、上総国との境界付近の守りとして、南生実町に小弓城(南生実城)を築き、重臣原氏に守らせていたが、1517年(永正14年)に足利義明(小弓公方)にこれを奪われた。その後、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦に勝利した後北条氏方の原氏は、敗死した足利義明から領地を取り戻し、新たに北に2キロメートルほど離れた生実町(北生実)に城を築いて、ここを本拠地とした。同時に「おゆみ」の表記を「小弓」から「生実」に変えたものと考えられていた。
しかし、近年の発掘調査で、北生実の城も室町時代には既に存在していた事が確実となり、実態としては2つの城を併せて「小弓城」または「生実城」と書き表していた可能性も出てきた。・・・
16世紀に中頃に原氏は臼井城に進出して拠点を移すが、生実城は依然として原氏の重要な支城であり、千葉氏・後北条氏の勢力にとって里見氏に対抗する最前線の城であった。永禄4年(1561年)と元亀2年(1571年)の2度、里見氏によって攻め落とされているが、そのたびに原氏が奪い返している。
1590年(天正18年)に後北条氏が滅亡し、関東に徳川家康が入部すると、生実城にも徳川家の家臣が入った。最初に城主となったのは西郷家員である。その後、1627年(寛永4年)に生浜地区を中心とする地域の大名となった森川重俊は、生実城の一角に陣屋を築き、生実藩の藩庁とした。以後11代240年にわたって森川氏の支配が続いた。
城の西側には曹洞宗寺院の重俊院があり、森川氏累代の墓碑がある。
《規模》
(京成千原線)「学園前駅」入口から蘇我インターチェンジに抜ける県道沿いに位置する。標高20メートル前後の台地上に広がり、700-800メートル四方の規模である。
城の東部には、南北に掘られた空堀によって区画された大手口があり、県道の傍らに石碑が立っている。主郭は、北西部の角栄団地と呼ばれる住宅街の中にあったが、昭和40年代(1966年-1975年)の宅地開発により破壊されており、遺構は残っていない。角栄団地内にある本城公園にかつての小字名が残り、千葉市の案内板が立てられている。
城内には、かつて御霊神社と呼ばれた生実神社があり、その西側に空堀が残っている。神社に隣接する飲食店のあたりが、近世に生実陣屋が置かれた郭である。
北生実上宿の交差点から南に入る道がかつてのバス通りで、森川藩の陣屋前に当たる。近世には町場が形成されており「町並」の小字がある。
通りの向こう、左手奥の森には「生実陣屋跡(森川陣屋跡)」、「生実城空堀・土塁」等がある。
また、通りの向こう正面には、「北小弓城 大手口跡」碑がある。
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/63/fca88aae6c679004c73a3a2eb24c5f72.jpg">(「Wikipedia」より)
大通りの右に旧道が残されています。
旧道から通りの向こうに続く旧道を望む。
外房線に近づきます。
この付近手前で半地下化した「京成千原線」を越えます。
(「ジョルダン」より)
この付近では、「おゆみ(台)」とひらがな表示が目立ちます。たしかに「生実」では読めませんから。
しばらく線路沿いに進みます。
変わった建物が。
広いアンダーパスと交差。
線路をくぐり反対側に。
旧(らしき)道へ出ます。
住宅地の中の道。
「大網街道」に出会います。
「房総東往還」道はしばらく鎌取駅の北側を進みますが、鎌取駅南口に向かい、小休止します。
とあるおうちの門の横には、愛らしいフクロウ?