鎌取駅前の賑やかな通り。
「房総東往還」(大網街道)は、駅の反対側を進みますが、当方は、この道を「誉田駅」に向かいます。
線路方向を望む。
「大木戸」。
※「木戸」=人間や物品の出入りを管理するのが目的で、城下や宿場内外の境界に設置された関所。
道の反対側に「都川防災調整池」が広がります。
直線道路をけっこう歩き、やっとここで「大網街道」に出会います。
野田十字路。
旧道に復帰。
大きなおうちが目立つ。
「中宿」バス停。
旧道らしい道筋。
土蔵。
左手に「五日堂」。
日浄上人他僧俗五名処刑殉難之霊跡。
日浄は折伏布教して家康に弾圧された日経の弟子で、日経亡き後、関東一円の法華経の普及に努めましたが、幕府の弾圧を受けて信徒と共に斬首に処されました。この五輪塔は、高田村の源右衛門が日浄の供養のために造り、当時幕府の目を恐れて土中に埋めていましたが、明治11年に掘り出されたものです。明治13年、信者が浄財を集めて精舎を建立し、日浄の命日である9月5日をもって五日堂と名づけました。なお、現在の五日堂は、公会堂として後年新たに建てられたものです。
(この項、「」HPより)
この先、GSのところから右手に入るのが旧道。
ですが、「大網街道」をそのまま進み、誉田(ほんだ)駅に向かいます。
左手に「千葉市立誉田小学校」。
来た道を振り返る。
「誉田駅」。
案内板。
右(西)から左(東)へ歩いてきたわけです。
大網駅方向を望む。
誉田(ほんだ)の由来
このあたりは古くから千葉氏の領地で、千葉郡山家郷といわれていたのではないかと言われています。天正年間になって徳川氏の領地になりました。
慶長・元和年間(約400年前)には幕府の支配領として代官を置いて治めました。
その後、藩の領地になったり、旗本の知行地になり、領主は変り、また村によって支配もちがっていました。明治の廃藩置県によって、葛飾県・曽我県・印旛県・木更津県となったのですが、明治六年に現在の千葉県になりました。その頃は、野田村・遍田村・高田村・平川村・平山村・東山科村の六村に分れていました。明治14年10月野田村他5か村が連合しました。戸町を石田権右門が努めました。
明治17年8月には戸町役場を野田村に置きました。明治22年町村制公布と共に合併して「誉田村」と改称しました。初代の村長に野田の三枝八十郎氏がなりました。
誉田の村名は野田村をはじめ各村にある八幡宮の祭神、誉田別命の名からとって、村名にしたと言うことです。
(この項、「」HPより)
※八幡神
清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。