田畑が広がる。
庭先に、「バビアナ」という名前の植物が。
南アフリカを中心に60種あまりが分布する球根植物ですがその大半がアフリカの中でもケープ地方に分布しています。
葉っぱの形はアヤメやグラジオラスに似て細長い剣状で直立し、縦方向に走る葉脈の部分が盛り上がっており葉の表面の凹凸がはっきりと筋のように見えるのが特徴です(葉っぱに光が当たったとき、影ができるのでさらにはっきり見えます)。
球根は繊維状の軟らかい皮にくるまれています。 開花期間は主に4月~5月で、花茎を伸ばして穂状に花を咲かせます。花色は青紫、紫、白など中心ですが、そのほかに黄色い花を咲かせる種もあります。
品種によっては耐寒性が劣るものもあるので、置き場所の移動ができる鉢やコンテナ植え向きですが、一般に出回っているストリクタとその園芸品種なら簡単な霜よけ程度で庭植えも可能です。
(この項、「」HPより)
にぎやかな通りに。
お店の向こうに旧道があるらしい。
長生村と一宮町との境界。
右に、小さな祠。
沿道には、道路整備で元の場所から移転された祠があるようです。
バス停「町田」。しかし、1日2便だけ。
「宮原」交差点。
ここに短いですが、旧道が残されています。
すぐ「国道128号」に合流します。
「いちのみやはし」。
上流方向。
下流(海側)。
橋を渡ったところ。「海抜5.0㍍」。
街中に入ります。
一宮町は平安時代頃に成立した上総国一之宮・玉前神社を中心に発展してきました。古くから多くの信仰を集めた玉前神社は、一宮町の町名の由来でもあり、今でも一宮町のシンボル的存在です。
※玉前神社の祭神は玉依姫命。神武天皇の母で、すぐ東に広がっている太平洋からこの地に上陸したという伝説も伝わっている。
現在の一宮町域には江戸時代、一宮本郷村、新笈村、東浪見村、綱田村、宮原村、船頭給村、新地村があり、合併や編入により昭和30年(1955)に現在の一宮町が誕生しました。
明治時代末期から昭和時代初期にかけて、一宮は別荘地として栄えた神奈川県大磯と比較して「東の大磯」と呼ばれるほどの別荘地として栄えました。首相をつとめた斎藤実・平沼騏一郎をはじめ政財界の著名人たちが軒をそろえ、多いときでは約100軒の別荘が並んでいたといいます。昭和恐慌の煽りを受けて衰退していきましたが、別荘地としての発展は町内の商工業の発展、観光地化に大きな影響を与えました。
また、綱田地区では明治時代初期に梨栽培が開始されています。今の町の特産品にもつながる礎が作られ始めた時代でもありました。
戦争末期の昭和19年(1944)から翌年にかけては、一宮海岸から陸軍の秘密兵器・風船爆弾が打ち上げられました。風船爆弾は和紙をこんにゃく糊で張り合わせて作った直径約10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばし、アメリカ本土への攻撃を企図した平気です。一宮の他茨城県の大津(北茨城市)、福島県の勿来(いわき市)の計3か所の基地より合計で約9,000個が打ち上げられたといいます。
(この項、「千葉県一宮町観光協会」HPより)