突き当たりで右折し、すぐ左折します。
草むらの向こうの道は、かつての貨物線の跡になっています。
(現在)○が上の写真のところ。
破線の緑道がかつての貨物線跡。
「三井東圧(当時)」からの貨物線があります。(「今昔マップ」より)
この付近の今昔。「三井化学」の敷地がかつての海軍基地の中心。東西にかなり広がっています。
○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。 (「今昔マップ」より)
※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。
「千葉県立茂原樟陽高等学校」。この学校も敷地もかつての基地の敷地。
※農業学科と工業学科を併置する専門高等学校。
来た道を振り返る。「文教通り」。
道の両側には、茂原市立茂原中学校や住宅地が続きます。
「萩原東公園」。
茂原海軍航空基地
1941年(昭和16年)07月に建設決定し、同年09月に着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転。(旧東郷小学校跡記念碑がある)
1942年12月に「第五五二航空隊」が茂原に開隊。しかし翌年昭和18年にマーシャルに進出し、茂原に戻ることなくテニアンにて解隊。
1943年9月に佐伯空艦爆隊を主体とする「第五〇二航空隊」が茂原海軍航空基地の管理部隊となる(現駐は松島基地)。同隊は1944年2月に北海道に転進し、1944年10月に解隊。
1943年10月に夜戦部隊を主体とする「第三二一航空隊 (鵄)」が茂原に開隊。1944年2月にマーシャルに進出し、7月に解隊。
1943年11月に第三〇一航空隊 (艦戦)が、茂原基地を原駐として横須賀基地で開隊。1944年7月に硫黄島にて解隊。
1942年に館山で開隊した第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) はマーシャルで壊滅状態となり、1944年2月に館山基地にて再建。本部は館山基地に置かれ、1944年(昭和19年)8月以降、茂原基地に転進している。
「二五二空」は本土防空の迎撃に従事。1945年(昭和20年)5月28日、米軍が茂原飛行場を強襲。「二五二空」は郡山飛行場に退避。そのまま終戦を迎えた。
戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議し、跡地の大部分は工業地帯と学校用地、農地、住宅地となった。
(この項、「近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 戦跡紀行ネット -日本の近代と慰霊の地を巡る‐ https://senseki-kikou.net/」HPより拝借)