おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

JR外房線「大網」~「茂原」。その5。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

2023-11-19 13:57:28 | 房総東往還

静かな落ち着いた家並みが続きます。

      

土蔵。

来た道を振り返る。

                                  右は、宗延寺。

「新茂原駅」に向かう途中に「掩体壕」が残っているので、探してみます。

竹藪の向こう?

付近を歩き回り、見つけることができました。

農家の一角に。

            

森の中に隠れるようにあります。

住宅の裏手。

掩体壕(えんたいごう)は、防御設備である掩体の1種で、軍用機などの装備・物資や人員を、敵の攻撃から守るためにコンクリートなどで造った横穴状の施設。欧米ではHAS(Hardened Aircraft Shelter)と呼ばれる

                                       (「Wikipedia」より)

・・・

掩体壕について

掩体壕の写真

太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始まりました。

司令部跡は現萩原小学校、兵舎跡は現茂原中学校、滑走路跡は三井化学(株)東側の約1,000mの道路で、基地の東端は東郷保育所前を通る通称海軍道路と呼ばれている辺りです。基地の北側には誘導路が巡らされ、戦闘機を敵襲から守るための格納施設である掩体壕が造られました。

この写真の掩体壕(3号掩体壕)は土砂を壕の形に盛って転圧して筵(むしろ)や板を並べ、その上に鉄網等を張ってセメントを流して造られており、総面積365平方メートル、壕の中の面積286平方メートル、高さは最大6m70cmあります。築城は、主に横須賀鎮守府から派遣されてきた海軍設営隊が行っておりましたが、長生中学校や茂原農学校(現長生高校・茂原樟陽高校)の生徒、近隣住民等も動員されたことが確認されております。

戦争の記憶が薄れていく中、当時の様子を物語る貴重な戦争遺跡です。

(この項、「」HPより)

茂原市内には数多く「掩体壕」が残されています。

※中央が「茂原海軍航空基地跡」。

(「近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝
 戦跡紀行ネット ‐日本の近代と慰霊の地を巡る‐URL: https://senseki-kikou.net/」HPより)

このうち、一ヶ所しか見て回ることが出来ませんでした。

掩体壕の築造方法は,完成後空間となる部分に土砂を盛って転圧し,その上に「むしろ」や板を並べ,さらに金網や鉄筋を張ってコンクリートを流して固めた後に,土砂を掘り出したものである。コンクリートの厚さは30から50cm程度と均等ではなく,また築造された時代を反映してか,かなり荒い骨材が用いられていることが確認でき,コンクリートに写し取られた型枠板の模様とともに,築造当時の様子を垣間見ることができる。

大きさは格納する機種によって異なった4種類のものが築造されたが,茂原市が管理しているものはその中では最大の規模であり,総面積は356㎡,壕の内部の面積は286㎡あり,零戦2機を格納することができた。

完成した掩体壕には盛り土をして芝を張ったり,木や竹を植えて偽装をしていたが,上空から見ると一目瞭然であったという。

終戦後,掩体壕は土地と共に返還されたが,取り壊しは行われなかった。そのため個人で壊すには多くの経費が掛かるために農業倉庫や物置として使用されており,その多くが現存している。

そして1995(平成7)年7月,戦後50周年事業の一環として茂原市は掩体壕の保存を決定,風化していく戦争の記憶をとどめ,平和への新たな願いを市民に対して訴えていくことにし,現存する中で最大規模の掩体壕を選び,土地を地主から借り上げるという形で管理することとなった。

「新茂原駅」。

駅前。現在はこぢんまりとしている。

「房総東往還」に戻ります。

洒落たお店。

左手に「阿久川遊水池」。

     沢井製薬 関東工場。

この建物の南側一帯に「茂原海軍航空基地」がありました。現在は、「三井化学」の広大な工場等になっています。

この先、歩く道筋の両側はかつての基地の跡になります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする