タカちゃんの絵日記Ⅱ

日々の何気ない感動を、好きな絵や音楽、写真や動画などで綴ります。

   竹 久 夢 二~~「恋多き男」

2022-09-04 20:36:59 | その他

 

竹 久 夢 二

竹久夢二

竹久夢二の美人画

竹久夢二の画像 に対する画像結果

 

 

 

 
 
 
 
宵待草:待宵草
 
 
 
 
 
 
倍賞千恵子:宵待草
 
 
 
 
 
待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬそうな
 
この歌の原詩
遣る瀬ない
 釣り鐘草の夕の歌が 
 あれあれ風に吹かれて来る
 待てど暮らせど来ぬ人を 
宵待草の心もとなき
 思ふまいとは思へども 
我としもなきため涙 
今宵は月も出ぬさうな
 
「竹久夢二」
 

       竹久夢二は、数多くの叙情的な美人画と共に、多くの詩や短歌や小唄

       などを作りました。  『宵待草』は、明治45年6月に作った小唄で、大正2年発行の

          彼の処女詩集に掲載されました。 大正6年・東京音楽学校にてバイオリンを学んでいた多忠亮が、

       この詩に 感動 し、曲を付けました。

        その楽譜が出版されると『宵待草』は、またたく間に全国に広がり多くの人々に愛唱されるように

   なりました。 

     夢二が亡くなってから4年後の昭和13年、夢二人気に便乗して   

   『宵待草』という映画が企画されました。  その際、3行詩だけでは映画の主題歌としては

     短すぎるということで、 夢二と 親しかった西條八十が2番の歌詞を作ることになりました。

       いきさつを知らなければ、夢二が2番とも作ったと言われても、疑う人はあまりいないでしょう。  

しかし、どう云う訳か、今日まで2番が歌われることはほとんどありません。

 さて、夢二の3行詩ですが、この成立には

一つのエピソードが残っています。

    明治43年、夢二は千葉県・銚子の海鹿島海岸で一夏を過ごしました。 その時、成田町から避暑に

    きていた長谷川カタ と恋に落ち、ふたりは逢瀬を重ねます。 カタはつぶらな瞳の美しい女性だったといいます。
 まもなく夏は終わり、二人はそれぞれの住所に帰りますが、文通が続きました。
    カタから夢二への手紙には、月の下にそぞろ歩きし真砂路、涼風に相語りし松原、忘れがたうのみ過ごし居候。

ことしはおもひもかけず御陰様にてたのしき夏をおくり申し候・・・・

 (追 伸)おひまもおはし候はば、御手紙いただき度候。
  成田町成田十九(現在の田町)長谷川賢子(カタコ)

 とあり、夢二の片思いでなかったことは、はっきりしています。
  夢二の日記には、彼がその後何度か成田を訪れたことが記されています。

 翌年の夏、夢二は再び海鹿島を訪れます。 しかし、そこにカタの姿はありませんでした。 

彼女はすでに作曲家の須川政太郎に嫁いで鹿児島へと去っていたのです。
 それを知ったときの夢二のやるせない気持ちが凝縮されたのが、この3行詩というわけです。

 夢二は実に「恋多き男」でしたが、カタも「恋多き女」だったかもしれません。 当時、夢二には岸たまき

  という内妻がおり、カタは、醜聞を恐れた親の意向で嫁いだとも考えられます。 その一方で、突然現れた魅力的な相手にカタが惹かれてしまったという可能性も否定できません。いずれにしろ

カタ亡き今、真実を知るすべはありません。

蛇 足

竹久夢二の、如何にも幸薄い、線の細い美人画・・・モデルは内妻や愛人ではなかったでしょうか???

夢二の美人画は好きです。