まず全体を見てみましょう。
面白い散らし方ですよね。
そして墨継ぎ無しで書かれています。
この二つが書き手の、この句に対する解釈なのかもしれません。
白扇の上にゆらゆらと流れてゆく墨、、、
そんな絵が浮かんできました。
墨継ぎを『かな』で行わずに書く事を前提に解説を進めてまいりましょう。
『白扇尓たけ』まで、そこそこの太さの連綿線で繋げています。
少し鬱陶しさを感じるぐらいの連綿です。
これも、白扇上を流れる墨をイメージしているのではないかとおもいます。
実際白扇にたっぷりと墨を含ませた筆で書いてみると、如何に左手で扇部分を広げてみても、やはり骨組みの段差が邪魔をして、書きにくいのです。
白扇の紙も、墨を染み込むと思わせておいて、意外に染み込まない、、、
書道用の白扇以外は、防水加工されているのかもしれませんね。
自由にならない。
コントロールできない。
そんな自制できないエネルギーの軽い暴走を、この句から感じ取った書き手が、この様な散らしと連綿線を用いて表現した様な気がするのです。
最初の墨はたっぷりとつけておかねば、一号の小筆では最後までもちません。
かといって、半分以上おろしてしまっては、途中でかすれさせることはできません。
絶妙な筆のおろし方と墨つけの勉強になりますね。
墨が足りずに墨継ぎするのであれば、『か』からほんの少し墨継ぎして、『墨』までは確実にもたせてください。
『能』は少し早く書いて滑筆にしましょう。
『堂』でゆっくりと書けば、毛に染み込んだ墨がおりてくるので、再度潤筆に近い雰囲氣を出せます。
『万』は筆先を使って繊細に、そして『り』は再度速度を上げて滑筆にし、その勢いを『可』の一画目まで続け、二画目以降『奈』までは、筆先に墨をおろさせながらゆっくりと書いていきます。
緩急の使い方で、潤滑の対比を細かく行っています。
『白扇尓たけ』と『能堂万り可奈』の対比が美しいですね。
潤滑の差を出す時、潤筆時は小ぶりに、滑筆時は大きめに文字を書くのが、その存在感の差を無くすのに良いとされていますが、この作品ではあえてその逆を使っていると思われます。
一文字一文字ではその存在感で潤筆に押されてしまいますが、塊とその動き、そして儚げで感傷的な終わり方で、対等な存在感を出しているとおもいます。
コントロールできない暴走気味のエネルギーでさえ、いつかは終息の時を迎える。
そうであるならば、終息ギリギリまでコントロールすることを試みてみよう。
試みる中で、何か見えるものがあるのかもしれない。
だったらそれを見ない選択はないだろう。
なぜなら、それを私の魂が求めているのだから。
そんな解釈も感じ取れる作品ですね。
深読みしすぎかな(^○^)
でも、それもまた、高橋先生のかな作品の深くて面白いところであります。
これにて、今回の競書課題の私的解説はおしまいです。
締め切りは10月14日です!
ラストスパートしていきましょう〰
面白い散らし方ですよね。
そして墨継ぎ無しで書かれています。
この二つが書き手の、この句に対する解釈なのかもしれません。
白扇の上にゆらゆらと流れてゆく墨、、、
そんな絵が浮かんできました。
墨継ぎを『かな』で行わずに書く事を前提に解説を進めてまいりましょう。
『白扇尓たけ』まで、そこそこの太さの連綿線で繋げています。
少し鬱陶しさを感じるぐらいの連綿です。
これも、白扇上を流れる墨をイメージしているのではないかとおもいます。
実際白扇にたっぷりと墨を含ませた筆で書いてみると、如何に左手で扇部分を広げてみても、やはり骨組みの段差が邪魔をして、書きにくいのです。
白扇の紙も、墨を染み込むと思わせておいて、意外に染み込まない、、、
書道用の白扇以外は、防水加工されているのかもしれませんね。
自由にならない。
コントロールできない。
そんな自制できないエネルギーの軽い暴走を、この句から感じ取った書き手が、この様な散らしと連綿線を用いて表現した様な気がするのです。
最初の墨はたっぷりとつけておかねば、一号の小筆では最後までもちません。
かといって、半分以上おろしてしまっては、途中でかすれさせることはできません。
絶妙な筆のおろし方と墨つけの勉強になりますね。
墨が足りずに墨継ぎするのであれば、『か』からほんの少し墨継ぎして、『墨』までは確実にもたせてください。
『能』は少し早く書いて滑筆にしましょう。
『堂』でゆっくりと書けば、毛に染み込んだ墨がおりてくるので、再度潤筆に近い雰囲氣を出せます。
『万』は筆先を使って繊細に、そして『り』は再度速度を上げて滑筆にし、その勢いを『可』の一画目まで続け、二画目以降『奈』までは、筆先に墨をおろさせながらゆっくりと書いていきます。
緩急の使い方で、潤滑の対比を細かく行っています。
『白扇尓たけ』と『能堂万り可奈』の対比が美しいですね。
潤滑の差を出す時、潤筆時は小ぶりに、滑筆時は大きめに文字を書くのが、その存在感の差を無くすのに良いとされていますが、この作品ではあえてその逆を使っていると思われます。
一文字一文字ではその存在感で潤筆に押されてしまいますが、塊とその動き、そして儚げで感傷的な終わり方で、対等な存在感を出しているとおもいます。
コントロールできない暴走気味のエネルギーでさえ、いつかは終息の時を迎える。
そうであるならば、終息ギリギリまでコントロールすることを試みてみよう。
試みる中で、何か見えるものがあるのかもしれない。
だったらそれを見ない選択はないだろう。
なぜなら、それを私の魂が求めているのだから。
そんな解釈も感じ取れる作品ですね。
深読みしすぎかな(^○^)
でも、それもまた、高橋先生のかな作品の深くて面白いところであります。
これにて、今回の競書課題の私的解説はおしまいです。
締め切りは10月14日です!
ラストスパートしていきましょう〰