るるの日記

なんでも書きます

気象台の原爆調査・黒い雨

2020-10-06 13:45:32 | 日記
気象台として取り組んでいた原爆災害調査の項目
※爆発当時の景況
※爆心の決定
※風の変化
※降雨現象
※飛散降下物の範囲
※爆風の強さと破壊現象
※火傷と火災の範囲
など

原爆投下直後は顕著な気象変化として、各地で熱旋風や豪雨が発生していた。黒ずんだ雨が避難する人々の群れにふりそそいだ。この黒い雨は局地的には激しい豪雨になっていた

爆心地付近では原爆炸裂後20分ほどして雨が降り始めた。降雨域は積乱雲の発達に伴い次第に広がっていった。

広島市の南部から東部にかけての地域は黒い雨は降らなかった。黒い雨が降ったのは広島市中心部から西及び北にかけての地域。夕方までには全て降り止んだ。

雨は爆撃による上昇気流と、その後の火災による上昇気流が重なって巨大な積乱雲が発生したため降ったもの

降り始めの小雨の雨粒に特に黒い泥分が多く、粘り気があり、当時は「油をまいた」とさわがれたが、臭いはなく油とは違っていた。しかし白い衣服は絣状になった。流れる川水は墨汁のように黒かった

雨粒は雹のように大粒で、裸の身体には痛いほどだった。気温も急に下がり寒くて震えあがるくらいだった。

雨水中の泥分は放射能が強大であった。池や川の魚類は黒い雨の流入によって斃死浮上した

稲田の害虫がいなくなり、稲は特別の肥料を与えられたかのように異常な生育を示した(豊作が期待されたが枕崎台風と阿久根台風によって無惨にも流失、冠水)

黒い雨に含まれた泥の成分は、原爆が爆発したとき黒煙として昇った泥塵と、火災による煤塵、さらに空中に撒かれた放射性物質を混合して含んだもの

降雨量は1~3時間の間に50ミリ~100ミリと推定

昭和20年9月17日・広島管区気象台による枕崎台風調査報告書

2020-10-06 13:01:07 | 日記
昭和20年10月末、広島市管区気象台は中央気象台に提出する「枕崎台風調査」がまとめられた

「。。。この台風の為に中国地方は災害を被ったが、ひがいの様相は主に水害であった。台風中心に最も近かった広島県は未曾有の水害を被り、山口県がこれに続いた
被爆者は原子爆弾被害の直接的の事であり、続いた水害の惨状は言語に尽くした。広島県の流出家屋1330、死者行方不明合計3066名という数字にこれは示されている。。。」

中央気象台では、編集者の中にルーズな者がいたため、全体をまとめた中央気象台彙報「枕崎・阿久根台風調査報告」が印刷製本されたのは、昭和24年3月になってからであった

枕崎台風・山津波で亡くなった原爆患者

2020-10-06 12:31:19 | 日記
昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が落とされたあと、大野陸軍病院と西国民学校に収容された負傷者は1500人はいた。毎日10人、20人と息絶えていった。300人は死んだか、、遺体は屋外で焼いた。身元不明者も4、50人いた。遺骨は今回の水害で流された。広島市から20キロも離れた村でこんなにも多くの被爆者が死んでいった。

村人は交代で勤労奉仕に出て、給食、看護、遺体の運搬、焼却などを手伝った。9月中頃になるお、重態の人はほとんど亡くなり、かいほかに向かった人は身内に引き取られ、患者の数も少なくなってきた。

そこで、西国民学校の臨時救護所は9月15日に閉鎖、残った患者50人は、大野陸軍病院に移した。
原爆患者は、中央並びの本館、試験室、娯楽質、中央病棟に収容。
ところが、山津波は病院の中央を突き抜ける形で襲ってきた。中にいた原爆患者は逃げる間もなく水に呑まれた。大野陸軍病院での水害の死者は職員と患者合わせて156人、このうち約100人は原爆患者だった。156人の他に、大学の調査班や患者の付き添い家族で亡くなった過多は約20人

原爆患者は、火傷や放射線障害で1ヶ月以上苦しんだあげく、水害で命をおとしました。何のため治療を受け、何のため闘病したのか

「俺は原爆で生き残ったのだ。」と言って自分を励ましていた患者もいましたが、その患者も海まで流され亡くなりました

枕崎台風・大野村の山津波の原因は戦時中の濫伐と松根掘り

2020-10-06 11:54:01 | 日記
広島県大野村は、宮島に面した海岸沿いに広がる村。山がかなりせまっている。この地方の山地は花崗岩質。地が痩せ、もともと赤松ぐらいしか生えていないところへ、戦時中の濫伐ではげ山になっているところが多かった。

大野村は小さな川がいくつも海にそそいでいるが、それがみんな洪水をおこした。洪水よりひどかったのは山崩れだ。山という山は抜けて山津波になって海岸までおしよせた
山肌には山崩れによる深いひっかき傷が無数にでき、大野浦駅付近は巨大な石が転がっていた。埋まったり流れたりした家は62戸。死亡者行方不明者44名

大野村丸石浜にある陸軍病院は山裾が海岸に迫る斜面に建っていたのだが、建物は病棟が流され150人以上死亡。辛うじて残った棟さえ、土石流がかけぬけて、壁も床も何もかもさらわれて、わずか数本の柱で二階が支えられている状態。広い病院の敷地内は土砂で埋まり、いたるところに直径1~2メートルもある石が転がっていた。病院の下手、海岸際を走っている山陽線と国道も土砂で埋没。
山津波は病院敷地中央を突き抜けて、海の中まで突進していた