るるの日記

なんでも書きます

枕崎台風・厳島神社が山津波に遭う

2020-10-04 16:04:43 | 日記
安芸の宮島は、周囲31キロの小島である。島の北側の小さな入り江に、平安時代から、きらびやかな姿を伝えてきた厳島神社がある
満潮時には、朱色のあざやかな大鳥居をはじめ、社殿や回廊が波静かな海面に浮かび、それが裏山の緑につつまれてよく映える。その風景には自然の美と人工の美を調和させた優雅さがある

しかし島の中央にそびえる弥山は高さが530メートルもあって険しく、山裾は海岸にまで迫っている
島の入り江は谷川の水の注ぐ所でもある。
厳島神社の裏手には、紅葉谷川と白糸川の2つの渓流が流れており、厳島神社よりやや南寄りにある大元神社には、大元川の渓流が海にそそいでいる
これらの谷川から同時に水が出て、山津波をもたらした。

社殿も回廊も床すれすれまで一面土砂が埋まっている。回廊の柱が折れて屋根が宙吊り、完全に潰れた小社屋、建物には無数の傷み、回廊から裏手紅葉谷方面に通じる32メートルの長橋は3つに折れて押し流されていた。痛々しいまでの災害の跡に平安貴族の邸を偲ばせる美しさは、もはやそこから消え失せていた

紅葉谷川から流れ出た土石流が神社を背面から襲った。いつも澄んだ水がチョロチョロと流れている小さな渓流は、大小の石と砂とで無惨にも埋めつくされていた

厳島神社社務所では、停電になる前のラジオニュースで台風が九州に近づいていると報じているのを聞いたので、夜になって風雨が強くなってきた時、台風のせいに違いないと思ったという。しかし社務所では、山津波が発生するとは誰一人想像もしていなかった。むしろ高潮を心配していたという。(厳島神社は広島気象台員聞き取り調査の中で、ラジオで台風の来襲を知り、台風に備えようとしていた唯一の例だった)

厳島神社は大部分が国宝と重要文化財であり、損失は計り知れないものがあった。とても神社の財力ではこの復旧は無理だと、宮司も心を痛めた。厳島とは神をいつきまつる、という意味です。「神社を守ることは、山の保護なくしてはありえない。」と昔から言われいたが、戦時中松根掘りをしたのが祟ったのか、、
原子爆弾災害で窮迫した広島県の財政では、とても修復の援助はできなかった。国宝であるからには国が復旧事業を行うべきだったが、終戦の混乱時では文化財のことなど二の次にされた、厳島神社は土砂に埋まったまま放置された

後日、広島県土木部調査
厳島神社を襲った山津波は、紅葉谷川上流の弥山七合目で発生した山の斜面の崩壊が原因となって土石流が流れ下ったものと、白糸川の弥山登山口付近で発生した土石流が流れ下ったものの2つが、神社裏で合流しおしよせたことが明らかになった

大元川で発生した山津波は大元公園を埋めつくし、大元神社を潰した

厳島神社の復旧工事は3年後の昭和23年春。きっかけはGHQのチャーチル・ギャラー美術記念物部長であった。ギャラー部長は全国の美術建造物視察の一環として、昭和21年11月26日厳島神社を訪れ参拝した。彼は、日本の古代文化を伝える美しい神社が、災害を受けたまま放置されているのを見て、「こんなことではいけない。日本政府は何をしているのか!」と言った

彼は東京に帰ってから、文部省に対し厳島神社の復旧事業を急ぐよう要請。このGHQからの叱咤によって、ようやく国の22年度予算に厳島神社の災害復旧費が組まれ、23年3月から工事が開始された。3年がかりで国、県、神社合わせて2415万円がつぎ込まれた。復旧工事完了したのは、災害から6年経た昭和26年3月


枕崎台風災害

2020-10-04 14:59:29 | 日記
昭和20年9月19日
台風から2日たった。県もようやく体制を整えて災害の実態調査を始めた。県庁の土木部の職員が台風の気象データを調べていた。

呉市、広島の西の大野町、宮島町では大規模な山津波が発生し多数の犠牲者がでた。

鉄道
山陽線、呉線、芸備線、可部線、福塩線が各所で流出、埋没、崩壊などでズタズタになり復旧の見通しさえ立ってない。

通信線
ケーブル流出するなど無数の被害を受け、広島周辺では生きた回線は全く残っていなかった。

台風災害の全貌がおぼろげながらわかってきた

この日夕方、台風の夜以来2日ぶりに電灯がつき、ラジオを聞くことができるようになった。

広島地元紙・中国新聞

2020-10-04 11:16:05 | 日記
中国新聞の台風記事
「。。8月6日に原子爆弾という「火」の試練を受けた広島市民は、今度は「水」だ、、、
被害は県下一円に相当あるらしい。だが新しい日本建設にたくましく進む更正県民には、これしき何ぞ
苦難を乗り越えて起き上がるだろう。。」添えられた写真には広島市郊外温品村にある中国新聞の疎開工場付近の出水状況を撮影したものだった

疎開工場はこの記事と写真を掲載した18日付の朝刊の印刷が完了した直後、洪水の被害を受け、発刊不能に陥った

中国新聞は原爆で社屋が破壊され、温品村の疎開工場に本拠を移し、わずか一台の輪転機によって8月31日付紙面から再刊にこぎつけた

そこへ台風が襲来した。暴風雨の中で災害の詳しい情報が集まる筈がなかった。工場にいた記者がわずかな情報で台風の記事をまとめ深夜の〆切に間に合わせた

それは具体的な災害の事実こそとらえていなかったが、原爆を受けた直後の水害の雰囲気を精一杯記していた

朝刊が刷り上がった直後、水かさを増してきた工場脇の川が氾濫し、輪転機を泥水に巻き込み、必要な資材を押し流した

再刊後わずか2週間余りで中国新聞は再び発刊の見通しが立たなくなった

このとき工場の一隅で「これでいいんじゃ、これでいいんじゃ、これで中国新聞は本当の再建ができるんじゃ」とつぶやきながら、コップ酒を飲んでる男がいた。撮影課長の吉岡豊だ。社の百年の計を考えれば、今こそ市内の本社を再建すべき時がきたのだと思っていた
「祝酒じゃ」吉岡は、そうつぶやいて何度もコップ酒を飲み干した

本社での再刊は11月3日




枕崎台風・太田川氾濫

2020-10-04 10:37:49 | 日記
昭和20年9月17日

江波の町は水びたし
低い気圧で海面は吸い上げられ、南寄りの強風による波の吹き寄せが重なり、広島湾岸に高潮が発生
太田川の水位も上がり、河口では高潮の逆流とぶつかって氾濫。

夜が更けるにつれ太田川の水位は刻々と増す。広島市内で200ミリを越える雨量を記録したことは、上流の山岳部では300ミリに達する大雨になっているに違いない
太田川の堤防工事は戦争が激しくなった昭和17年以後放置、治山治水の施策は無に等かった

■午後9時30分
太田川上流・加計
警戒水域突破

■午後11時
太田川中流・可部
警戒水域突破

■支流
谷川、みさき川、安川
堤防決壊

■夜半前
太田川本流が湾曲している両岸から決壊。広島市郊外の農村地帯は水没。水の高さ2メートル越えた所もあり、流出した家屋続出

太田川による洪水は広島市でも至る所で氾濫を起こし街中を水びたしにした。太田川は広島市に入ると7つの川に分かれてデルタを形成していたが、川の分岐点付近の氾濫は凄まじく、焼け残った市北部の大芝や三條一帯の市街地は床上1メートルも浸水

太田川の激流は流木で橋を突き崩し、次々に橋を流失させた。流失した橋は20に及んだ(原爆で破壊された橋は8)

三角州の街広島にとって橋は生活に欠かせない。多数の橋が流失したことは大きな打撃

橋の流失とともに、水道本管も各所で流され、浄水場の取水口は土砂で埋まり、断水状態となって、水道施設は原爆以上の被害を受けた

暴風雨と洪水は、原爆で廃墟と化した広島の街を骨髄まで洗い流す感があった

これだけの水害でありながら、当時の新聞には災害の詳しい状況はほとんど報じられていない。辛うじて地元紙の中国新聞9月18日付に写真つき三段記事が掲載されている







台風の眼にとらえられたカモメ

2020-10-04 09:53:04 | 日記
広島管区気象台庁舎屋上にカモメ五羽が死んでいた。海鳥や小鳥は台風の眼にとらえられると抜け出せなくなって、台風の移動とともに移動するが、そのうち雨や風に打たれて墜落死することが多い。人間とてこのカモメとどれほど違うのだろうか

ともかく台風の眼が至近距離を通過しつつあることは、このカモメが証明している