安芸の宮島は、周囲31キロの小島である。島の北側の小さな入り江に、平安時代から、きらびやかな姿を伝えてきた厳島神社がある
満潮時には、朱色のあざやかな大鳥居をはじめ、社殿や回廊が波静かな海面に浮かび、それが裏山の緑につつまれてよく映える。その風景には自然の美と人工の美を調和させた優雅さがある
しかし島の中央にそびえる弥山は高さが530メートルもあって険しく、山裾は海岸にまで迫っている
島の入り江は谷川の水の注ぐ所でもある。
厳島神社の裏手には、紅葉谷川と白糸川の2つの渓流が流れており、厳島神社よりやや南寄りにある大元神社には、大元川の渓流が海にそそいでいる
これらの谷川から同時に水が出て、山津波をもたらした。
社殿も回廊も床すれすれまで一面土砂が埋まっている。回廊の柱が折れて屋根が宙吊り、完全に潰れた小社屋、建物には無数の傷み、回廊から裏手紅葉谷方面に通じる32メートルの長橋は3つに折れて押し流されていた。痛々しいまでの災害の跡に平安貴族の邸を偲ばせる美しさは、もはやそこから消え失せていた
紅葉谷川から流れ出た土石流が神社を背面から襲った。いつも澄んだ水がチョロチョロと流れている小さな渓流は、大小の石と砂とで無惨にも埋めつくされていた
厳島神社社務所では、停電になる前のラジオニュースで台風が九州に近づいていると報じているのを聞いたので、夜になって風雨が強くなってきた時、台風のせいに違いないと思ったという。しかし社務所では、山津波が発生するとは誰一人想像もしていなかった。むしろ高潮を心配していたという。(厳島神社は広島気象台員聞き取り調査の中で、ラジオで台風の来襲を知り、台風に備えようとしていた唯一の例だった)
厳島神社は大部分が国宝と重要文化財であり、損失は計り知れないものがあった。とても神社の財力ではこの復旧は無理だと、宮司も心を痛めた。厳島とは神をいつきまつる、という意味です。「神社を守ることは、山の保護なくしてはありえない。」と昔から言われいたが、戦時中松根掘りをしたのが祟ったのか、、
原子爆弾災害で窮迫した広島県の財政では、とても修復の援助はできなかった。国宝であるからには国が復旧事業を行うべきだったが、終戦の混乱時では文化財のことなど二の次にされた、厳島神社は土砂に埋まったまま放置された
後日、広島県土木部調査
厳島神社を襲った山津波は、紅葉谷川上流の弥山七合目で発生した山の斜面の崩壊が原因となって土石流が流れ下ったものと、白糸川の弥山登山口付近で発生した土石流が流れ下ったものの2つが、神社裏で合流しおしよせたことが明らかになった
大元川で発生した山津波は大元公園を埋めつくし、大元神社を潰した
厳島神社の復旧工事は3年後の昭和23年春。きっかけはGHQのチャーチル・ギャラー美術記念物部長であった。ギャラー部長は全国の美術建造物視察の一環として、昭和21年11月26日厳島神社を訪れ参拝した。彼は、日本の古代文化を伝える美しい神社が、災害を受けたまま放置されているのを見て、「こんなことではいけない。日本政府は何をしているのか!」と言った
彼は東京に帰ってから、文部省に対し厳島神社の復旧事業を急ぐよう要請。このGHQからの叱咤によって、ようやく国の22年度予算に厳島神社の災害復旧費が組まれ、23年3月から工事が開始された。3年がかりで国、県、神社合わせて2415万円がつぎ込まれた。復旧工事完了したのは、災害から6年経た昭和26年3月