るるの日記

なんでも書きます

努力せずにただ行うこと。でなければしないこと。

2020-11-11 13:45:23 | 日記
苦しい努力が必要に思えるのは、ちっぽけな自己に囚われてしまった時だ。はたして成功できるのか?と疑っているのが、まさにその小さな私だ

広大無辺な私は、やり始めたことは、ただ行うのだ。ただ行う。さもなければやらない。何を選択してもそれを苦しい闘いにはしない。

私は「努力してみます」という言葉を聞くと、その人はまだ、自分にはできると思っていないのだと聞こえる。より真実に近い言葉は「私はこれをしたくない」「これをできるとは思えない」だろう

努力するということは、私たちより大きな力に、個人の力で対抗することを物語っている。大いなる力があなたの味方であれば、あなたにはできないことはない

努力をせずにただ行うこと。でなければしないことだ。結果を待つのでなく選択することだ。物事に反応するのではなく、物事を創り出すのだ。苦悩するのではなく、気を楽にするのだ

十字架から降りて下さい。その木を必要としている人がいるのだから

2020-11-11 13:02:23 | 日記
駐車場でトラックのウインカーの電球を取り替えるという簡単な作業をしながら、私はずっと不平を言っていた。そうして必死になっている真っ最中に通りかかった一人の女性が声をかけてきた

「あなた、見るからに大変そうね」

私は唖然として立ち上がった。単なる通りがかりの人にさえ、力んでいるのを見抜かれるとは!

私にかけられたその声は、単なる通りすがりの心ではなく、真理そのものだった。同じ日の少し前、私は人生をもっと気楽にいこうと決意していた。なのに今、宇宙は、私がまだ苦労という祭壇を崇拝していることを知らせてくれた。

肩に力を入れて奮闘するのは、行動でなく態度の問題だ。闘わないと欲しいものは得れないと信じているなら、何をするにも苦労しなくてはならない。しかし宇宙は私たちが気楽な心で近づけばより効果的に作用し、人生が私たちに仕えてくれるのだ

ある週末友人と山へハイキングに行った。長い道のり。小道は300メートルの断崖に沿って続いている。私は不安に襲われ体が硬直した。谷底は見ずに目前の小道だけを見るようにした。楽しむどころではなく、早く安全な大地に辿り着きたい一心だった。
丁度その時、一人のハイカーに遭遇した。その女性は私とは逆に楽しそうだった。彼女の足取りはゆっくりだが軽快で、見るからに楽しんでいる。そして時折足を止め、見事な眺めを満喫していた。彼女の休日は自分を豊かにするものだった。
これを見て、私の記文は変わった。彼女の気楽さは、明らかにこの状況に恐怖や不安を感じる必要がないことを物語っていた。(恐怖というのは実体ではないという。なぜなら、実体ならば誰もが同じものを恐れるはずだからだ)
私は試しに彼女のようにしてみることにした。深く呼吸し、肩の力を抜き、そこここで立ち止まり、眺めを楽しんだ。そうすると素晴らしいことに、谷を抜ける頃には、私の気分は高揚していた。

自動的にストレスを感じさせるものは何もない。ストレスは長い間自分を虜にしていた無意識の中の恐怖。自分が緊張してきたら恐怖の条件付けをし直すチャンスだ

私たちはどんな状況でも、自分の信条と先入観を通して見ている。私たちは状況を変えることはできないかもしれないが、自分の態度や接し方を変えることはできる。どんな時も苦悩ではなく、安らぎを選択することができる。

お願いだから自己を選びなさい

2020-11-11 12:08:26 | 日記
「自らがとる立場をハッキリさせておく方が、後にそれが間違いだとわかったとしても、何の選択もしないより得るものはある」

「自分自身でいて失敗する方が、他人の真似をして成功するよりもずっとましだ」

そこからまた次のレベルへと導かれるからだ。だが曖昧な立場をとり、煮え切らない態度で事を進めれば、あなたが何らかの声明を提示するまで宇宙はあなたのために何をすることもできない

間違いも、結局行きつくべき場所に行く過程の一部として、必要不可欠な場合がある。「いるべき場所」にいないように見えても、目指す場所へ向かうのであれば、それもあなたのいるべき場所だったのだ。全員にあてはまるルールはなく、自らの心が意図するところに真実があるということだ

気づきを避けているのかもしれない

2020-11-11 11:50:57 | 日記
気づかないうちに安らぎを奪い衰弱させる計画中毒というものがある。取り憑かれたようにスケジュールを詰め込みすぎてしまう。

その背後に隠されているものは、自分自身と向き合うのを避けることだ。ほんの少しでも暇になると、自分が日頃抑えてきた気持ちを思い出してしまうことがわかっている。計画中毒の人は、忙しい事柄を作り上げて、自分の内面を見つめずにすむよう気をそらそうとしているのだ。

計画中毒者は、生活が平和になりすぎると、新しい仕事、劇的な事件、危機や緊急事態を作り出してしまう。

計画中毒者のモットーは「やるべきことがありすぎて、自分の痛みに向き合わなくてもいいようにすること」だ。自分や愛する人たちと過ごす時間がないことを正当化したり、愚痴ったりさえする。しかし実際は、まさに自分や愛する人々と過ごさずすむように自分をひたすら忙しくしているのだ。

計画中毒者は一見、人生に必要なことをしているようだが、実は自分自身でそれらを作り出しているだけなのだ。実は他にも選択肢はあったのだ。

生活にゆとりができると、自分自身と向き合わなければいけなくなる。しかしそうして直面することによって、より大きな平和がやって来るということを知らないのだ。

気づきは癒しをもたらす。自らの悩みに直面する一瞬の不快感など、自分にはその悩みがすべてではなかったのだと気づくための小さな代償であり、痛みを感じる時間も、その目覚めによって手に入れられる生き生きとした人生に比べれば些細なことだ。

計画中毒者の転機は、劇的な出来事よりも安らぎに価値を見出だせるようになった時にやって来る。忙しさよりも気づきへ心を転換させれば外部の状況もそれについてくるものだ。宇宙はいつも私たちの心に決めた目的を聞き入れてくれる。

この瞬間の気づき(人生の答はいつもわたしの中にある)

2020-11-11 11:20:25 | 日記
すばらしい創造力はこの瞬間にあふれ出てくる。私は書くことで、自分自身に光をあて、勇気づけるような考えを引き出すことに喜びを感じている。ただ考えを紙に書くだけで、気持ちがいいのだ。私は書くのが好きだ。

ある仏教の経典の筆者は、前書きにこう記している
「私は自分自身を啓発する以外の目的でこれを書いてはいない」

私は書く時、すべてを今書いている言葉と文章に集中する。その気づきの一つ一つが、次の気づきへと私を運んでくれる。

私はすべて暗記しているわけではない。どれも書いたり話したりするその瞬間に、私の意識にポンと現れてくるのだ。私たちは宇宙のあらゆる叡知に触れることができ、知るべきことのすべてを知っている。

何かを記憶しようとすれば、かえって思考は混乱し緊張し、知るべき時に知るべき事を引き出せない。その記憶しようとする努力をあきらめれば、無限の知識の宝庫が開かれる。

現在という瞬間にふさわしく涌き出るものは、けっして枯れることはない。