るるの日記

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古事記 天武天皇 ここに天皇詔(の)りたまはく

2020-11-20 15:01:33 | 日記
ここに天皇詔(の)りたまはく
「朕(われ)聞く、諸家のもたる帝紀及び本辞、既に正実違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当たりてそのあやまりを改めずば、未だ幾年をも経ずして、その旨滅びなむとす。これ乃ち邦家の経緯、王化の鴻基(こうき)なり。故、これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽り削り実(まこと)を定めて、後世につたえむとおもふ」とのりたまひき。
時に舎人(とねり)有り、姓は稗田、名は阿礼、年はこれ廿八(二十八)。人と為り聡明にして、目に渡れば口に誦み、耳にふるれば心にしるす。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日継と先代の旧辞とを誦み習わしめたまひき。しかれども運(とき)移り世異(かわ)りて、未だ其の事を行ひたまはざりき。

【ここにおいて天皇は、「私が聞くところによると、諸家で伝え持っている帝紀と旧辞は、すでに真実と違い、偽りを多く加えているとのことである。今この時において、その誤りを改めないならば、幾年もたたないうちに、その本旨は滅びてしまうであろう。

この帝紀と旧辞はすなわち国家組織の根本となるものであり、天皇政治の基礎となるものである。そこで帝紀を書物として著わし、旧辞をよく調べて正し、偽りを除き真実を定めて、後世に伝えようと思う」と仰せられました。

この時、舎人がおりまして、その氏は稗田、名は阿礼と申し年は28歳でありました。生まれつき賢く、一度見た文章はよく暗誦し、一度聞いた話は心にとどめて忘れることがありません。

そこで天皇は阿礼に仰せ下されて、帝皇の日継と、先代の旧辞を誦み習わせたのです

しかしながら、天武天皇は崩御され、時勢が移り変わって、まだその撰録の事業を完成なさるまでには至りませんでした。】


★帝紀
歴代天皇の名、后妃、皇子女、重要な事跡、宝算、山陵に至るまでの系譜を中心にした記録

★本辞
神話・伝説・歌謡などを内容とした伝承。記録されたものと、口誦されてきたものがあった

★邦家ね経緯
国家組織の根本原理

★王化の鴻基
天皇政治の大本

★舎人
天皇・皇族の雑事をつかさどる

★稗田阿礼
天宇受売命(あめのうずめのみこと)の子孫の猿女君(さるめのきみ)の一族
猿女氏は女系相続の氏
本貫は伊勢・志摩で大和に移ってから稗田と称した

★誦み習わしめたまひき
古記録を見ながら、古語で節をつけ、繰り返し朗読する


古事記 天武天皇 歳大梁(ほし、たいりょう)にやどり

2020-11-20 12:35:47 | 日記
歳大梁(ほしたいりょう)に次(やど)り、月、侠鐘(けふしょう)に踵(あた)り、清原の大宮に昇りて天位(あまつくらい)に即(つ)きたまいき。道は軒后にすぎ、徳は周王をこえたまいき。乾符(けんぷ)を握(と)りて六合をすべ、天統を得て八荒をかねたまいき。二気の正しきに乗り、五行の序(つぎで)をととのえ、神理を設けて俗(ならはし)を奨め、英風を敷きて国を弘めたまひき。しかのみにあらず、知海浩汗(こうかん)として、深く上古を探り、心鏡るくわうとして、明に先代をみたまいき



【こうして酉(とり)の年の2月浄御原の大宮で御即位されました。その政道は中国の皇帝よりも優れ、その御聖徳は周の武王よりも勝っていました

三種の神器を承け継がれ天下を統治し、天つ日継の御位にましまして、遠い隅々の国をも残らず統合なさいました

天皇の政治は陰陽五行の連行が正しく行われ、わが国固有の神の道を復興して、良俗を奨め、優れた徳風を行き渡らせて、その及ぶ国の範囲を広められました

そればかりでなく、海のように広大な英知は上古の事跡を深くきわめ、鏡のように輝く御心は先代の事跡をご明察になりました】

★歳大梁(ほしたいりょう)
木星が28宿の1である昴星、すなわち西の方角に宿る年。酉年
西の方角は酉の方角

★月侠鐘(つきけふしょう)
12律の1
月に当てると2月
天武天皇は酉の年(673)2月27日に浄御原で即位した

★乾符をとりて
天子たることの印の意味
三種の神器を指す

★天統
皇統
天つ日継のこと

★八荒(はっこう)
国の八方の果て
八紘と同じ

★神理
神道
天武天皇は敬神の心あつく、神祇祭祀の復興に力を尽くした

★心鏡るくわうとして
心が鏡のように明るく輝くこと





古事記 天武天皇 未だ、せふ辰を移さずして~

2020-11-20 11:32:39 | 日記
未だせふ辰を移さずして、気滲(きれい)自ら清まりき。すなわち牛を放ち馬を息(いこ)へ、がい悌(てい)して華夏(くわか)に帰り、はたを巻き戈(ほこ)をおさめ、ぶえいして、都いふにとどまりたまいき

【まだ12日もたたないうちに、妖気は自から鎮まり、乱は平定されたのです。

戦いに用いた牛や馬をもとの山野に放って休息させ、皇太子と御軍は、心おごらず安らかに大和にお帰りになり、

旗を巻き武器を納め、歌い舞う喜びのうちに、飛鳥の都におとどまりになられました】

★せふ辰
十二支の一巡で12日間。実は壬申の乱は約1ヶ月続いている

★気滲(きれい)
邪悪の気
妖気

★がいてい
戦いをやめること
周の武王の故事による



古事記 天武天皇 くわうよ忽ち駕して~

2020-11-20 11:07:51 | 日記
皇輿忽(くわうよ、たちま)ち駕(が)して、山川を越え渡り、六師雷(ろくし、いかづち)のごとく震い、三軍稲妻のごとく逝きさき。杖矛威(ぢゃうぼう、いきおい)を挙げて、猛士けぶりのごとく起り、こう旗兵(つわもの)を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき

【皇太子の乗られた輿(こし)は、吉野の宮をたちまちのうちにお出ましになり、山を越え川を渡り、その御軍(みいくさ)は雷のように威を振るい、

御子の高市皇子(たけちのみこ)軍は稲妻のように進みました。御軍の武器が威力を現すと、勇猛な兵士は煙のように諸方から起こり、

御軍の印の赤い旗が兵を耀かすと、敵軍は瓦が一時に崩れるように敗れ散りました】

★皇輿忽ち駕して以下
壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の軍が大友皇子(弘文天皇)の軍を各地に破り、武威を発揮したことを記す

★六師
天子の軍隊。ここは大海人皇子の子、高市皇子の軍を指す

★杖矛
長い矛。武器を示す

★こう旗(糸へんに降みたいな漢字)赤い旗