親鸞・墜落意識と法悦のはざまで機が熟した 2021-12-19 12:01:27 | 日記 卑下自慢とそしられても仕方ないような自己滅却の嘆き節は、七五調の墜落意識からつむぎだされていった、、和讃の世界の通奏低音、、それは、阿弥陀如来を回路にする救済願望であった救いの岸辺にたどりつくための和讃の底に流れる墜落意識と法悦の感覚機は熟した❗️【無慙無愧(むざんむぎ)のこの身にて、まことの心はなけれども弥陀の回向の御名なれば功徳は十方に充ちたまふ】「そもそも天地に恥じる心が私にはない。そんな自分である。けれど、、功徳が全世界にひろがる阿弥陀如来のおかげ、、それで何とか生きている」
親鸞・非僧非俗の怒り【自己滅却の嘆き節時代】 2021-12-19 11:44:50 | 日記 ■「禿とは罪人のように坊主頭にすることだ。その愚かな男、それが俺、愚禿親鸞以外なにものでもない」💢💢💢親鸞の心を抑圧していた怒り一度口に出したら、その怒気の勢いはとどまることを知らなかった長い間、内にこもり続けていた言葉を外部に放出した■その怒りは最晩期の【自然法爾】に転入されたそして、、その怒りは一気に終息に向かった【非僧非俗】の生き方が衰え【ありのままの静けさ】に向かうそれまでの重圧からの解放身軽な浮揚へ脱出世間の垣根を越える、と同時に世間への真の歩み寄りだった■長く続いた非僧非俗の怒気長く続いた自問自答嘆きの自問自答非僧非俗と二人三脚で歩きつづけた旅【悪性さらにやめがたし心は蛇蠍(じゃかつ)のごとくなり修繕も雑毒なるゆえに虚仮の行とぞ名づけたる】「ひねくれた性格で、どこまでもドグロを巻き、心のなかは蛇か蠍か善行をつんでも、毒が体中にまわるすべては嘘、偽り」自己滅却の嘆き節時代、、卑下自慢時代、、
親鸞「それがし閉眼せば、賀茂川に入れて魚に与ふべし」究極な身軽感は死の直前にしか味わえないのかもしれない、、 2021-12-19 11:13:03 | 日記 ■親鸞の70~80代は歌と和讃に憑かれる長期にわたる成熟の時代だった歌と和讃に明け暮れる民衆と、地つづきだったその成熟のはてに親鸞の晩期が訪れる。それはほとんど死の直前だった念仏と和讃の重なり合うリズムの流れにのって、最後の瞬間がやってきた。徐々に、そしてあっというまにそれが、法語【自然法爾】の世界だった「なんじ、すでに、そのままの姿で仏なり。往生なり。浄土往生なり。」ありのままをめぐる法の語りである■こんどは和讃からの脱出その脱出を後押ししたのが愚禿親鸞の深い嘆き愚禿の悲嘆を回路にし和讃から法語へ、、歌から語りへの最終の旅最後の自然の語り、ありのままの語りが、はたして泥水カオスのなかの蓮華なのか、恍惚そのままの花園なのか、、もはや愚禿の親鸞の問うところではなかった【それがし閉眼せば、賀茂川に入れて魚に与うべし】自己の居場所は非僧非俗