るるの日記

なんでも書きます

芭蕉・無能無才の一筋

2021-12-19 15:52:59 | 日記
芭蕉は1690年4月になって近江国分山の幻住庵に滞在した。
そこで【幻住庵の記】を書いた。


【自分はこの世から離れた世界をとくに求めているのではない。山野に身を隠そうというものでもない。ただ病身のため、人とのつきあいに飽きて世間を避けようとしているにすぎない】

【つらつら年月の移り来し、拙き身のとがを思うに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらくは生涯のはかりごととさえなれば、ついに無能無才にして、この一筋につながる】
自分の人生をふりかえると、仕官して立身出世の道を行く者をうらやんだり、一転して出家世界を思うこともあった。けれどもそのいずれも自分のものとはならなかった。ただ漂泊の中に我が身を追い込み、花鳥を詠むことにだけに生涯の精力を傾けてしまった
だから、そんな自分は、ただ無能無才の人間で、この一筋につながる。それにしがみつくほかに生きる道はなかったのだ

■一筋
この一筋が芭蕉にとっていかに大事な、切実な響きを持つ一筋であったのかがわかる


芭蕉・見るところ花にあらずということなし、思うところ月にあらずということなし

2021-12-19 15:27:53 | 日記
芭蕉は自分のことを
終生狂句を好んだ風羅坊(風来坊)だったと、俳諧への執着心から自由になることはできなかったと嘆いている。それは身軽になりきることができていないとの告白である

【しばらく学んで愚をさとらんことを思えども、これ(俳諧への執着心)のために破られ、ついに無能無芸にして、ただこの一筋につながる。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するものは一なり

しかも風雅におけるもの、造化にしたがいて四時(しいじ)を友とす
見るところ花にあらずということなし、思うところ月にあらずということなし】

俳諧の風雅は自然のままにある
これをおいて他にはない
源氏物語のもののあはれ
親鸞の自然法爾
と、同じことを言っている
★紫式部
★親鸞
★本居宣長
★芭蕉
が一線にならぶ
時空を越えた同時代人として並び立つ



軽みの人・松尾芭蕉【西行を筋とせよ】

2021-12-19 15:04:52 | 日記
■41歳の松尾芭蕉は1684年8月旅に出た
「野に行き倒れて髑髏(ドクロ)になってもかまわない。自分は首に頭陀袋をさげ、手に数珠を持って僧の姿に似せているが、実は世俗の塵にまみれている。まったくの俗人かといえばそうではない。髪を剃り落としているからだ。だから神前では仏徒と間違えられて、拝殿には入れてもらえなかった、、」と
【野ざらし紀行】に記している

ここで芭蕉は【僧にあらず、俗にあらず】と言っている。それとなく貧における乞食生活をほのめかしている
野ざらし紀行の野ざらしの言葉が、そのほのめかしを効かせている
そして芭蕉は神と仏の道に通じていることが浮かび上がる

■1692年2月18日に書かれた手紙を近江の弟子・菅沼曲水に送っている
芭蕉49歳。死の2年前である
【志を勧め、情を慰め、他の是非をとらず、これより実(まこと)の道にも入るべき器なりなど、はるかに定家の骨をさぐり
西行の筋をたどり
楽天が腸を洗い
杜子が方寸に入る
やからわずかに数えて十の指伏さず
君もこの十の指たるべし
よくよくつつしみ、修行ごもっともに存じ奉り候】
「志を立て、情を癒し、他人の是非善悪など気にしない。そうすれば誹諧の道から仏道に入ることができるでしょう
★定家の骨の境地をさぐり
★西行の筋をたどり
白楽天の腸(はらわた)にならい
杜甫の方寸から学ぶ
そうした者は10指に満たないが
君はその1人
十分に慎み、精進なさい」

★菅沼曲水
曲水は俳号
近江国膳所藩士
不正をはたらいた藩士を斬り捨て、自刃して果てている。藩主に非が及ばないように私闘にみせかけて相手を殺害した。息子も切腹。菅沼家は断絶したという

■定家の骨とは
定家は風骨、性骨という表現を好んで用いた。風骨、性骨とは歌詠みの性根のようなもの。後鳥羽院も定家を「骨すぐれた上手である」と言っている

■西行の筋とは
西行が筋だと判断した根拠は。その背後には芭蕉自身が「西行の筋の方だ」と思っていたからだ
世阿弥らのいう皮、肉、骨を持ちださず、1つの軸である「筋」を持ちだしたところに大きな意味がある
筋とは、贅肉をそぎおとしたあとの鋼である


親鸞・「ありのままの静けさ・弥陀仏の救い」を知っても再び迷う。それこそが転変することを止めない命の実相

2021-12-19 13:59:12 | 日記
老親鸞はやっと身軽な断章
【自然法爾】にたどりついた

■【自然というは
自は、おのずからという
行者のはからいにあらず
しからしむ、という言葉なり

然というは
しからしむという言葉
行者のはからいにあらず
如来の誓いにてあるがゆえに

法爾というは
如来の誓いなるがゆえに
しからしむるを法爾という
法爾はこの誓いなりけるゆえに
すべて行者のはからいの無きをもて
この法の徳のゆえに、しからしむというなり

すべて、人のはじめては、はからわざるなり。このゆえに他力には義無きを義とす、と知るべしなり

自然というは
もとより、しからしむ
という言葉なり
弥陀の誓いのもとより
行者のはからいにあらずして
南無阿弥陀仏とたのませ給いて
迎えんとはからせ給いたるによりて
行者のよからんとも、あしからんとも思わぬを、自然とは申す

誓いは、無上仏にならしめんと誓い給えるなり。無上仏と申すは形なくまします。形ましまさぬゆえに、自然と申すなり
形ましますと示すときには、無上涅槃とは申さず
形もましまさぬようを知らせんとて、はじめて弥陀仏とぞききならいてさふらふ
弥陀仏は自然のようを知らせんれうなり】
自然も法爾も人間の「はからい」のないこと。それを越える世界。如来の誓いは、おのずから実現されている
「はからい」のない人間の行為は、阿弥陀如来の誓いのはたらきによって運ばれている。それが他力のはたらき。「しからしむ」というはたらき

如来の誓いとは、われわれを無上仏にしてあげようというもの。無上仏は形のない自然の姿そのもの。無上涅槃そのもの

あなた方も、私も、結局は無上仏になる。姿形のない自然のままに。もう無上仏になっている。阿弥陀如来は最後になると、私たちの前から姿を消す。無上の涅槃はそこからはじまる、、そう考えた方がいいではないか?

■【よしあしの文字をも知らぬ人はみな、まことの心なりけるを
善悪の字知り顔は、大そら言の形なり】
はじめ善悪のことを、その文字さえ知らない人は、まことの心に恵まれているけれども、知ったかぶりの学者たちは、大うそのかたまり。自分もその一人にほかならない

■【是非知らず邪正もわからぬこの身なり。小慈小悲もなけれども、名利に人師を好むなり】
知ったかぶりの自分は、是非も邪正の区別もわからない。慈悲の心さえほとんどないのに、人の上に立って教えたがる。あぁなさけない

■命の終焉を間近にひかえて、やっと非僧非俗から無僧無俗へ転換したはずの舞台で、ふたたび悲嘆が首をもたげている。悲嘆に打ちのめされている老親鸞がそこにいる
右往左往
行きつ戻りつ
軽みの岸辺はここだ!の声が聞こえているのに、、、

それこそが
【転変することを止めない
命の実相】
知恵と不知恵、無知の間を揺れている。迷っている
自然法爾が離路に見えてくる
和讃のリズムは安楽椅子だった

親鸞はこのような揺れる迷いで
最後の日々を送っていた
存在の重さから、存在の軽さへの道は平坦な道のりではなかった



親鸞・深刻な苦悩のはてに訪れる「ありのままの静けさ」

2021-12-19 13:02:30 | 日記
■もしも非僧非俗ではなく
半僧半俗の生き方であったなら
親鸞はそれほど深刻に悩まなかったかもしれない
中途半端な遊びが、心の余裕をもたらすはずたから、、、

■西行はさらりと、そこをくぐり抜けていった。もっと明るい展開の中で生きていた。親鸞の旅よりも軽々とした旅を楽しんでいた。親鸞はまだ、西行の身軽さに追いついていない

■和讃は、重たい歌だった
非僧非俗の気分の重たい歌は
上昇気流にのった
急激な変容をとげ、輪は広がった
智者から名もなき民衆へ
漢文の重たい城から、軽やかな歌へ
しだいに身軽になっていく
親鸞も身軽になっていく
重い嘆きが変容していく

晩年の終末期を迎えて
親鸞は大きく変容し成熟するときが近づいてきた
時が熟してきた
親鸞88歳

■若い日からの怒気は終息にむかいつつある季節を迎えた。それに代わって【自然法爾】の気配が、老いの深まる心身に満ちてくる
非僧非俗の緊張の姿から徐々に自由になっていく

【脱僧脱俗】の意識が広がる
けれどもそれはもはや口にしない
口にしても雲の流れに消え
川の流れに沈むだけ
言葉は形を結ばない
結ぶ必要がない
、、
だが、そんなとき、水の一滴のように
「自然法爾、、」短い言葉が甦る
虚無のような、、
吐息のような、、

■親鸞の智は融解し、博士論文「教行信証」という重い荷物が荷崩れを起こしている。散文の破片が捨てられていく。不立文字、、
非智、無知の足音がきこえる

【非僧非俗】と自ら名のった時の親鸞は全身で怒っていた。悲嘆の中に自己を預けて
そして
【ありのままの無僧
ありのままの無俗】へ
怒りは去り、嘆きは消えた

非から無へ
新しい無の歌へ
ありのままの仏へ
裸のまま光に包まれたありのままが舞いおりた