るるの日記

なんでも書きます

西行と崇徳院の母・待賢門院

2021-12-17 17:03:05 | 日記
■待賢門院と西行
★待賢門院は1101年、藤原公実、末女として生まれた。やがて白河法皇の養女となり、異常な寵愛を受ける
のち鳥羽天皇の後宮に、そして女御から中宮へ。その間に崇徳天皇を産み国母となった

だが栄華は続かない
鳥羽上皇の後宮に得子が入り、上皇の寵愛をうけ、得子すなわち美福門院の時代がきたからだ

鳥羽上皇は崇徳を譲位させ、美福門院との間の近衛天皇を即位させる
待賢門院の失意の時代がくる
のち、仁和寺法金剛院で出家
3年後1145年に亡くなる
45歳
待賢門院は、保元・平治の乱の種をまく重要な遠因の一つだった

西行は、王権にしのびよる危うい風雨の縁を歩きつづけている。僧衣に身を隠して歩いている。待賢門院の死を悼み、崇徳の怨念を鎮める旅を重ねている。まさに林住の人だった、半僧半俗の歌人だった
僧衣が仮装だったのか
俗体が半僧の隠れみのだったのか

西行は待賢門院が世を去ってまもなく、法華経の経文に寄せて追悼の歌をつくるため、故人と縁ある人々の間を説いて廻る。それが【一品経の勧進】という仕事だった
西行がその先頭に立ったのは、待賢門院に対する思慕と愛恋の情が厚かったからだろう

軽みの人・西行という人

2021-12-17 16:37:04 | 日記
■西行(1118~1190)
生涯といっても、まとまった伝記のようなものは無い。断片的なものだけだ。しかし物語は情熱的にさまざまに語られてきた。実像をどれほど写しだしているのかは定かではない

★足跡
俗名・佐藤義清(のりきよ)
武門の家に生まれた
鳥羽院に北面の武士として仕えた
和歌・蹴鞠にすぐれ文武にわたる数奇の道を極めた

23歳(1140年)で妻子を捨て出家
和歌と仏道に励み、高野山や伊勢国に住む。一方、奥州や四国などを旅した

晩年、自選歌集編纂
のちに生涯に詠んだ歌が【山家集】にまとめられた

死後成立した【新古今集】には94首が選ばれ、歌人として声価を高めた

■23歳で妻子を捨てて出家(妻、男女2人の子がいた)。西行の出家とは「自由な家出」で、わがままを貫いた、ともいえる
西行の家出の跡をたどるには、あとに残された和歌しかない。そこにわずかに記された詞書(ことばがき)にたよる他ない

■西行にとって、和歌はまぎれもなく人生そのものだったし、西行の出家とは、【美と信仰の二股道、芸術と宗教の二本道】に入る決意だった。真に非凡なところは、23歳にして【林住期】のライフステージを選びとったところにある

■30歳
陸奥へ旅立つ
平泉へ行き、藤原秀衡のもとで年越し
羽前国(山形県)を通り、下野国(栃木県)に廻る

■32歳、高野山にて修行

〈出家間もない頃の二首〉
★【あはれ知る、涙の露ぞこぼれける、草の庵を結ぶ契りは】

「草庵の生活はさびしくて涙は露のように落ちる。だがその涙は、あはれ知る涙なんだ」

★【浮かれいづる心は、身にもかなはねば、いかなりとても、いかにかはせむ】

「わが身から抜けて、浮かれていく心は、思い通りにはならない。どうしよう、、」

■39歳
鳥羽院崩御
高野山から下って葬送にしたがう
終夜読経
崇徳院が京都仁和寺で剃髪、月明の夜、はせ参じる

■43歳
美福門院の御骨を、大雪の高野山で迎える

■51歳
四年前に崩御した崇徳院を葬る白峯陵に参拝するため四国へ
帰途弘法大師の生誕した善通寺を訪れ庵を結ぶ。年越し

この旅のときの二首
崇徳院への忘れ難い思いを詠む
★【あさましや、いかなる故の報いにて、かかることしも、ある世なるらむ】

弘法大師ゆかりの地にて
★【柴の庵(いお)の、しばし都へ帰らじと、おもはむだにも、あはれなるべし】

■55歳
平清盛に招かれ、摂津国に赴き、万灯会で歌を詠む

■58歳
比叡山無動寺の慈円と歌を詠みかわす

■63歳
居住地を高野山から伊勢国・二見の山寺に移す
福原遷都の噂をきく

■65歳
伊勢で神官たちと歌会を開く

■69歳
陸奥の平泉に旅をする
東大寺への寄付金を奈良で陣頭指揮をとる重源に頼まれ、平泉の藤原秀衡にたよる
途中、鎌倉では源頼朝と会い、弓馬の道について話し合った

■73歳
河内の弘川寺で寂

桜の花に寄せて

【吉野山、こずえの花を見し日より、心は身にも添わずなりにき】

「憧れの吉野山、、その地の桜を見上げた時から、わたしの魂は憧れ出て行って、私の身には戻らなくなりました」

出家前から縁あった名家、権力者がよく登場する。人々との出会いに触発され、つきあいの輪はひろがっていった。死者たちと結縁しようとの強い思いが、それに輪をかける

女人たちとの交流も絶えることはなかった。みな年上の女房たちだったが、、

存在の重い時代(もがき、さ迷い、自由なく、無我夢中)が過ぎた今

2021-12-17 15:05:40 | 日記
■自分が生まれて半世紀は
【存在の重さ】の中で
もがき、さ迷い、右往左往していた時間にあたる

存在の重さの濃霧に包まれながら、心身の中心も、自由も失ったまま、ただ時間が過ぎた

■古代インドでは「4つの人生段階(ライフステージ)を経て、この世を終えよ」と賢人は説いていた
【四住期】である


★学生期(がくしょうき)
親と師の言うことをきき、学問と修行にはげみ、禁欲生活を守る

★家住期
結婚し子どもをつくり、家の経済の責任を負う

【この2つのライフステージは世俗的な慣習と秩序にしたがい、世間的なつきあいのなかで暮らしを立てる】

★林住期
それまでの世間的な生活や、つきあいから離れ、それまでやりたいと思いながら実行できなかったことを、家を出てやってみる。自由、旅、きまま、遊び、林に入り瞑想、、、
の時間
【多くの人は、この林住期を楽しんだ後は、もとの家に帰っていく。金がつづかない、足腰を痛める、疲れて、、故郷へ足が向かう
元の木阿弥?
リフレッシュ時間?
自由を楽しんだだけ?
気ままに過ごしただけ?
しかし、それにも飽きた?
もとの生活が恋しい?】
存在の重さから軽さへ
心の変化の兆候
半僧半俗

★遊行期
一切の欲望から離脱する
現世放棄者のステージだ
ここまでくれば世俗の世界には戻らない。旅から旅の日常をおくる
(一万人に一人)
旅行く人々と出会い、彼らの魂に呼びかけ、語らい、看取る
現世放棄者、聖者の旅路

■半僧半俗
この言葉は
からだの緊張がゆっくり解ける
静かに安らかに呼吸ができる
心が踊る
僧でもない、俗でもない
自由を求めるライフステージ

日本
その中途半端な生き方に、平安時代の昔から近代にいたるまで、多くの人々は関心を持っていた
【僧でもない、俗でもない、遍歴と遊びの旅、自由な天地】

みえてくるのが
※西行(和歌・文芸)
※親鸞(漢学・仏教)
※芭蕉(連歌・俳諧)
※良寛(歌・書)
の4人である

老いても希望あり【存在の重さから、存在の軽さへ】

2021-12-17 14:12:31 | 日記
長い年月を経て
死が我が身にも近づいてきた今
なぜ自分は「重たいものから離れていきたい」と思うようになったのか
晩年になって「軽さ」を求めはじめた先人たちは、どのように生き、死んでいったのか
そんな問いにいつの間にか取り巻かれていた

【存在の重さから、存在の軽さへ】
眼前にうかびあがってきた主題である。それは、老いと死への
わずかな希望のしるしである

【軽みの世界】は背中からにじみでる

2021-12-17 13:58:05 | 日記
■存在の軽さを渇望したとき
松尾芭蕉の言う「軽み」という言葉の世界がフワッと浮かんできた
「奥の細道」の芭蕉の姿
その出家遍歴の風景である

背中を見せてとぼとぼ歩いていく後姿に、いかにも身軽な旅人を浮かびあがらせる。その芭蕉の先を歩いている西行の背中までが見えてくるようだ

■中世に描かれた西行法師の絵巻を見て心うたれるのは、背中を見せて歩く彼の姿である。正面を見せる西行の顔にはほとんど出会うことはない。顔はむしろ隠されて、背中が見えるように描かれている

ゆっくり歩いていく西行、一遍、芭蕉の背中を見ていると、彼らの前方にひろがる豊かな世界が見えてくるような気分に誘われ、背中からにじみでる【軽みの世界】に惹き付けられていく

■人混みの中に入ると、いろんな顔が歩いてくる。顔、顔、顔、、、
その人たちはあっという間に通りすぎていく、、だからその去り行く人の背中を見ている暇はない
すれ違い、急ぎ足で、自分の背中を見せずに走り去っていく

けれどもその人々の背中をじっと見つめてみる。するとそこにはずっしりした荷物が重々しく積み重なっている幻影が見えてくるようだ

■ゆっくり足を運んでいる人を見つけるとホッとする。気持ちが安らぐ。ああ背中が歩いている、と思う。身軽になった背中が歩いていると思い、なぜか安心する

■現在は背中などより正面を向いた顔こそ人間の本質である、という時代だ
「威厳のある顔が価値あるものだ」と主張している重たい顔などは、仮面という過去の重い荷物を背負わされ、疲れ、栄光の幻影を引きずって早足で歩き去る

身軽で自由の岸辺に、いったいどうしたらたどり着けるのだろう