■西行(1118~1190)
生涯といっても、まとまった伝記のようなものは無い。断片的なものだけだ。しかし物語は情熱的にさまざまに語られてきた。実像をどれほど写しだしているのかは定かではない
★足跡
俗名・佐藤義清(のりきよ)
武門の家に生まれた
鳥羽院に北面の武士として仕えた
和歌・蹴鞠にすぐれ文武にわたる数奇の道を極めた
23歳(1140年)で妻子を捨て出家
和歌と仏道に励み、高野山や伊勢国に住む。一方、奥州や四国などを旅した
晩年、自選歌集編纂
のちに生涯に詠んだ歌が【山家集】にまとめられた
死後成立した【新古今集】には94首が選ばれ、歌人として声価を高めた
■23歳で妻子を捨てて出家(妻、男女2人の子がいた)。西行の出家とは「自由な家出」で、わがままを貫いた、ともいえる
西行の家出の跡をたどるには、あとに残された和歌しかない。そこにわずかに記された詞書(ことばがき)にたよる他ない
■西行にとって、和歌はまぎれもなく人生そのものだったし、西行の出家とは、【美と信仰の二股道、芸術と宗教の二本道】に入る決意だった。真に非凡なところは、23歳にして【林住期】のライフステージを選びとったところにある
■30歳
陸奥へ旅立つ
平泉へ行き、藤原秀衡のもとで年越し
羽前国(山形県)を通り、下野国(栃木県)に廻る
■32歳、高野山にて修行
〈出家間もない頃の二首〉
★【あはれ知る、涙の露ぞこぼれける、草の庵を結ぶ契りは】
「草庵の生活はさびしくて涙は露のように落ちる。だがその涙は、あはれ知る涙なんだ」
★【浮かれいづる心は、身にもかなはねば、いかなりとても、いかにかはせむ】
「わが身から抜けて、浮かれていく心は、思い通りにはならない。どうしよう、、」
■39歳
鳥羽院崩御
高野山から下って葬送にしたがう
終夜読経
崇徳院が京都仁和寺で剃髪、月明の夜、はせ参じる
■43歳
美福門院の御骨を、大雪の高野山で迎える
■51歳
四年前に崩御した崇徳院を葬る白峯陵に参拝するため四国へ
帰途弘法大師の生誕した善通寺を訪れ庵を結ぶ。年越し
この旅のときの二首
崇徳院への忘れ難い思いを詠む
★【あさましや、いかなる故の報いにて、かかることしも、ある世なるらむ】
弘法大師ゆかりの地にて
★【柴の庵(いお)の、しばし都へ帰らじと、おもはむだにも、あはれなるべし】
■55歳
平清盛に招かれ、摂津国に赴き、万灯会で歌を詠む
■58歳
比叡山無動寺の慈円と歌を詠みかわす
■63歳
居住地を高野山から伊勢国・二見の山寺に移す
福原遷都の噂をきく
■65歳
伊勢で神官たちと歌会を開く
■69歳
陸奥の平泉に旅をする
東大寺への寄付金を奈良で陣頭指揮をとる重源に頼まれ、平泉の藤原秀衡にたよる
途中、鎌倉では源頼朝と会い、弓馬の道について話し合った
■73歳
河内の弘川寺で寂
桜の花に寄せて
【吉野山、こずえの花を見し日より、心は身にも添わずなりにき】
「憧れの吉野山、、その地の桜を見上げた時から、わたしの魂は憧れ出て行って、私の身には戻らなくなりました」
■出家前から縁あった名家、権力者がよく登場する。人々との出会いに触発され、つきあいの輪はひろがっていった。死者たちと結縁しようとの強い思いが、それに輪をかける
女人たちとの交流も絶えることはなかった。みな年上の女房たちだったが、、