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るるの日記

なんでも書きます

親鸞や芭蕉に欠けていたものは「ユーモア」。だから軽みへいけなかった

2021-12-20 16:19:40 | 日記
■仙厓(せんがい)
40歳で博多の聖福寺住職に
以後88歳でこの世を去るまで博多に住み、禅画もどきの戯画にあそび、俳句を書きなぐり、寓話や寓画をつくり笑いこけていた

★仙厓の戯画にはカエルがよく登場する。芭蕉の「古池や、蛙飛びこむ、水の音」を下敷きにしている

それらの戯画の中で大きなカエルが一匹うずくまっているのがある。尻と両手を大地につけ、体を上に向け、背をそらしている。表情はどこかを眺めてニンマリ笑っている
愛嬌があるが、どこか油断がならない不気味な面構えでもある
その脇に
「座禅して人が仏になるならば」
と書いてある

禅僧が座って悟るならば、カエルだって座っているから仏になる。仙厓がカエルにのりうつって芭蕉と格闘しているようだ

★バショウの葉が大きく描かれ、そばに小さく旅姿の芭蕉本人が立っている。
バショウの葉の下にはカエルが天を仰ぎ、飛び立とうとしている。白い腹には心臓の鼓動のピクピクが伝わってくる。前足を宙に浮かし後足を地につけている。
カエルの目線を上にたどると
「古池や芭蕉飛びこむ水の音」
という文字がサラッと書かれている

「芭蕉さん、さあ飛んでみな」
誘いをかけるカエルにのりうつった仙厓和尚の軽やかな声がきこえてくる

そこには非僧か?非俗か?の緊張が消えていく。ほどけていく。そんなもんあるものか、である。
これこそ【軽みの世界】。
この世界の中に芭蕉の本領が浮かび上がる。

日本の根っこに流れつづける太い地下水脈。大地から吹き出す固有のリズム。。ユーモア。アニメ。コンカフェ。オタク、、、


芭蕉、西行、親鸞に共通するのは乞食願望

2021-12-20 15:33:44 | 日記
■1689年3月、芭蕉46歳、奥州に旅立つ。【奥の細道】である。丹念に仏の道、神の道をたどっていた

江戸→白河→松島→平泉→山形廻り日本海を南下→越後路→金沢→白山

江戸を発って数日
日光山のふもとの宿に泊まる
宿の主人は「仏の五左衛門」と名のり、朴訥無垢な態度で親切にもてなしてくれた
芭蕉は言う「仏がこの世にあらわれ、自分のような【乞食】巡礼にすぎない者にまで、助力の手をさしのべてくれた」、、と

■乞食〈こつじき=托鉢〉と乞食〈こじき〉
★こつじきは、僧であれば誰でもできる(身軽になった僧)
★こじきは、僧であっても容易にできることではない(さらにもっと身軽な世界へ、軽みの天地に抜ける)

乞食を徹底させると断食に行きつく。食を乞うことの徹底は、食を断つことを決断させるからだ

※食を乞うことは、他者の憐れみを乞うて命をつなぐこと
〈まだ人文化の領域に踏みとどまっている〉

※食を断つことは他者の憐れみを拒絶して命を断つこと
〈自然の中で緩やかな歩みから、永続的な自然状態への移行を決意〉

※乞食と断食の間に、木食(木の葉、草の根だけを食べる)という段階を置くこともできる
〈自然の領域に入り込んだ状態〉

文化から自然へ、自然から死へ

■修行僧たちが死を予感して断食の行に入る場合
乞食(こつじき=托鉢)生活の中で経を読む。体を屈して礼拝する。山林を歩きつづける。そのような行を積み重ねやがて臨終の時が近づく。彼らは自然に自分を断食の状態に運ぶ。食を断って死の場面における奇跡と愉悦を手に入れようとする。その前に霊的な夢告、トランス状態、恍惚、浮揚感、、そして往生
むろん一瞬の混沌に見舞われることがある。パラドックス(受け入れ難い結果)、、
恍惚→恍惚の消滅→苦痛の浮上
そして往生を約束するものも無い

■芭蕉には乞食願望があった。西行にも親鸞にも乞食願望があったように。芭蕉の旅は乞食願望と関係がある
11681年、芭蕉38歳
門人たちが「芭蕉の翁」という尊称を奉っていたのに対して芭蕉は「自分は乞食の翁である」と応じた。門人たちに対する反論

■なぜ乞食か?
杜甫の句
「遠く、山には雪がかかり
近く、海には船が浮かんでいる」

杜甫の句について芭蕉は記す
「杜甫(とほ・中国の詩人)の句は知っている。けれどもその心の内は見えない。〈侘〉の方は推測がつくが、〈楽〉の方はまったく見当がつかない。ただ杜甫より自分が勝っているところは、病弱な点である。だから静かなぼろ家の中に身を隠し、自分の姿を乞食の翁と呼ぶしかない」
自分を乞食の孤独の中に突き放し自嘲する

芭蕉49歳
「風雅の道もこれまで。口を閉じてもいつも騒ぐ心が沸き立ってくる。ああこれこそ風雅の道を語る魔心のしわざにちがいない。仕方がないから自分を突き放して棲みかを去り、わずかな銭を腰にぶらさげて旅に出るほかない。一本の杖と一個の鉢に命を託して。乞食の一本道だ!
と身をのりだしてはみたものの、、風情ついにこもをかぶる」





芭蕉・原始流動の無秩序・時空間をはね飛ばす混沌・この2つがあれば一瞬にして言葉の珠がわきあがる

2021-12-20 13:48:59 | 日記
■芭蕉の旅には神の道と、仏の道があった。
神と仏の霊感に触れて、かりたてられる狂句に、身も心も奪われた風来坊の旅だった。それが【無能無芸のこの一筋】につながっていた。
身軽な足腰のリズムが生まれる。
西行の足音に重なる。
晩年の親鸞の和讃の調べを浮き立たせる。

■芭蕉は長谷の観音、箕面の勝尾寺、和歌浦の紀三井寺に立ち寄っている。どれも西国三十三観音の霊場で、庶民の心を引きつける巡礼の拠点だった。
その三年前の「野ざらし紀行」に記された野ざらしの旅では、熱田と伊勢を結ぶ一本筋の神の道だった。
こちら仏の道では、長谷、和歌浦、箕面の三角点を結ぶルートが浮かび上がってくる。

■「野ざらし紀行」の
【僧に似て塵あり、俗に似て髪なし】。この言葉の背後に中国古典の空気が伝わる。日本の神仏の道から見ればどこかが違う。

老子「足るを知る者は富む」
孔子「中庸の徳たる、其れ到れるかな」
老子、孔子は、言語明瞭・意味不明の人格者、、そんな中国古典をふまえて発せられた教養人・芭蕉のつぶやき【僧に似て塵あり、俗に似て髪なし】

■芭蕉の真意は「おのれの旅の快楽を〈知足〉なんかにまかせられはしない。旅の醍醐味を窮屈な〈中庸の徳〉に閉じ込めることはできない」であった

芭蕉の旅は、中国古典から離れる企てでもあった。旅のなかで俳諧の芯を探し、それと一体化しようと「そぞろ神(人の心に取り憑いて、なんとなく誘惑する神)」に取り憑かれて心を狂わせていたからだ

■そんな芭蕉の目の前にぶらさがっていたのは、カオスの奔流、、
混沌、、
混沌とは知の破壊
混沌の前では知足も中庸も形なし
微塵に砕け散るのだ

人間の真似はするな
人間の尻馬に乗って秩序のあとを追うことなどあきらめろ

原始流動の無秩序
時間と空間をはね飛ばすカオス
その2つさえ手に入れば、土に埋もれた珠の言葉が一瞬にして心にのる
この魅力、快感、、

旅は混沌にみちている
知足の旅、中庸の旅など無い
句はその混沌の中から生まれる
句は混沌の中で迷走し、そぞろ神に取り憑かれて、狂気の思いにのたうつ中で出現する

ここで【僧に似て塵あり、俗に似て髪なし】は中国古典風から離れ、混沌の中から出現したことに変換される。同じ句であっても、、である