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ウォーキング (^ω^)

2011年10月27日 | 日記
今月の安来シルバー講座ウォーキングは2007年に世界遺産に認定をされ、
山間の静かな町が一躍脚光を浴び多くの観光客が訪れるようになりました
大田市の大森・石見銀山に10月21日(金)に行きました。

前回(10/14)は雨だったそうですが、今回のウォーキングは降らなくて良かったで~す  

地図「B」石見銀山公園でバスを下車地図の下側の遊歩道のおもに寺院めぐり
清水谷精錬所跡・清水寺迄散策対岸の山吹城登山口より今度は下がって
(地図では上に)行って「銀の里・渡辺家」で昼食・休憩して、 
午後は神社・寺院・街並みを見ながら地図「A」の上の城上神社まで、 
Uターンしてバス発着場まで散策ウォーキング頑張って歩きました。 
クターべました、つ・か・れ・ました!!  

この地は、鎌倉時代末期に周防の大内弘幸がお告により銀を発見したという
伝説で始まり、でも、この頃には露頭掘りで銀の採掘が始まっていたとも
言われています。  そして
本格的な採掘が始まったのは室町時代末期に博多の商人神屋寿禎が出雲へ
銅の仕入れに行く途中、大田沖で仙山(山名)に光るものを発見し、大内氏や
地元銅山主の力を借りて、地下に眠る銀鉱を発掘したからでした。
さらに渡来の「灰吹法」を日本で初めて導入して、銀を効率的に生産することに
成功し、これで石見銀山は江戸時代の終わりまで多くの銀を産出して来ました。

しかし、やっぱり金の集まるところに争いは付きものですね。1530年に小笠原氏が
銀山を奪取してから、大内氏や尼子経久が銀の争奪戦を繰り広げ、その後も毛利元就と
尼子によっても、度々激しい争いが起こりました。最後には毛利の手中に収まりました。

その後、石見銀山は朝廷の御料所となったり、豊臣秀吉や江戸幕府の管理下に
置かれるなど時の権力者の重要な資金源として活用をされるようになります。
そして、石見銀山のすごい所は「生産量と品質」にあり当時、世界の銀の
産出量の三分の一にも及ぶとも言われ【ソーマ銀】(大森地区「佐摩」に由来?と
言われている)と呼ばれ、高品質銀(純度97.6%)と認知をされ、各国から船団が
やってきて世界に流通をしていきたそうです。

それを生産する石見銀山の地元は大変に栄え、一時は二十万人もの人がおり、
昼夜を問わず馬車が通り、家は家の上に建て、軒は軒の下に連ね・・・・と
多少の誇張はあるにせよ、かなり繁栄・賑わっていたことが伺えますよね。

ご存知の通り銀山の仕事はそう軽いものではなく、佐渡金山のように罪を
犯して働かせられるものはいなかったものの、24時間操業5交替制で働いていたそうで、
鉱夫は30歳を迎えれば尾頭付きで祝ってもらえるほど短命が多く、そのため各宗派の
寺院も多く存在し、家族構成も独身か夫婦のみがほとんどだったそうです。

次回、当地に行ったら「間歩見学」をしたいと思っています。
(明治以前は間歩(まぶ)・明治以後は坑道と明治を境に呼び名が変わりました)

【参考】
「B」点から「C」点方向は登り坂です。(特に清水製錬所)
貸自転車をもしも借りになられるなら普通500円・電動は700円です
200円高い電動自転車を私はお薦め致します。(遊歩道は不可)
※健脚のお方・ゆっくり散策のお方はウォーキングをお薦めいたします。

この辺で、町並み?寺院?めぐりツアーのお話は終わりと言うことで、
失礼を致しま~す    
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