パルコン旅行記

☆マイホーム建築への道のりとパルコンでの生活
(番外編を含む第1章~第5章)
☆寄り道日記

人生会議

2024-10-28 10:14:13 | 高齢の親
 遺言やら、エンディングノートやら、終活やら、
時代によって色々登場していますが、
最近は「人生会議」というものが進められている様ですね。

要は、「もしも」に備えて、
将来の医療やケアの希望、大切にしてほしいことなどを、
家族や親しい友人、かかりつけ医やケアマネジャーなど、
医療や介護専門職と一緒に考え、話し合い、記録に残しておく。
という、会議。

 会議などと仰々しいものにしなくても良いから、
せめて色々と聞き取りをして欲しいと、長男嫁として願っています。

だけど以前、
「エンディングノートに書いて貰ったら?」と言った時も、
「そんなの無理だよ(老いた親に聞けないし、縁起でもないし、そもそもなるようにしかならないし)」
と義妹に一蹴されたことがあります。

義父が元気だったころ、義父自身にも、
「遺言とか相続とか、希望があれば書き出しておいて下さいね~」
と言ったことがありますが、
「わしは書かない。お前たちの争いを見たくないから」
と言って、そういった事には消極的でした。

それは捉え方によっては好都合かもしれませんが、
当の本人の意思や希望が不明のまま、「その時」になってから、
「あ~しろ」「こ~しろ」「あ~しよう」「こ~しよう」といさかいが起こるだけですので、
それなりの道筋はつけておいて欲しいです。

   だけど、もう言わないよ
   実子じゃないから

でも、人生会議は死んだ後の話ではなく、「どう生きるか」という内容なので、
聞く必要もありますが、おそらく義両親も伝えたいだろうと思います。


 まぁ伝えているのかな・・・娘(義妹)に。

だけど垣間見る限り、
思い通りに周囲を動かしたい義妹は、親の希望に対し
「それは誰の動きの元で出来る事なの? 私だよね?」
と詰め寄って、手のかからない所へ行かせようとするんですよね・・・。

義妹の気持ちはわかるし、反論はしないけれど、
それは「自分にとって良い策」なだけで、
義両親や我が家のことなど「お構いなし」というのが透けて見えて・・・。

「みんなに幸せになって欲しい」とか何とか言って、泣きべそをかいていたけれど、
自分が幸せなだけで、みんなって他に誰よ?
息子の家に追いやられる義母の気持ちを含め、受け入れる私達の状況と現実問題。
同居したことの無い人に、分かるもんですか。

自分は病院の送迎や買い物をして、それで自画自賛かもしれませんが、
「(お婆さん自分のこと何でも出来るから)、大丈夫!大丈夫!」
と親を押し付けるなら、自分が同居してみなさいよ!
高齢の叔父や叔母にまで面倒を看させておきながら、娘である自分は同居拒否って有り得る?

義両親の行き場が無いのであれば、我が家で受け入れるけれど、
受け入れない訳にはいかないけれど、
義妹だけは、もう受け入れ難いわ。
私の中で、こじれにこじれて、本当に嫌!


 少し前に、義妹から夫へ
「お婆さんが障害者手帳を取りました」と連絡があった様です。
糖尿病で目が見えなくなっているからね・・・。
全盲で要介護3なら、ほんの少し見える義母は要介護2以上かな。

障害者手帳もケアマネさんが導いて下さったんだろうな・・・。
そもそも統合失調症だっから、19年前に取得出来たんだけどね。

自宅でそこそこ元気でやっている義両親は、
夫が見に行くと、以前の様に喧嘩ばかりしているそうです。
でも、それが二人にとっての日常で、活力になっているのは間違いありません。
在宅を望む本人たちの希望が通り、今は幸せにやっているのが伺えます。


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海老アレルギー

2024-10-26 05:47:28 | 病気
 昨晩、
海老がたっぷり入ったアヒージョを食べた。

翌朝3時頃、
口の中が痒くて目が覚めた。

それから3時半ころまで、インターバルのように
手のひらが痒くなり・・・
足の裏が痒くなり・・・
少しだけお尻も痒くなり・・・

その後、
無性に洗い流したい衝動に駆られ、シャワーをし、
浴室の鏡を見たら、「顔…腫れてんじゃん
鼻から口にかけて下膨れな感じで、まるで原始人みたい。

   いや・・・どうしよう
   手足口病も疑ったけれど、これはアレルギーかな?
   正座から解放された足の様に、手足がシュワシュワして痒い
   口も熱を持って、腫れぼったい
   これ以上酷くなったらどうしよう・・・

身内にもいますが、
アナフィラキシーショックって、命に係わるんですよね。
血圧が一気に下がって、意識が無くなったり。

 病院行かなきゃ。
でも、今日は忙しい。
次男を子ども大学へ送り、
長男を児童デイへ送り、
次男を迎えいにく。
夫は職場仲間と釣りへ行き不在。 
土曜日は午前中しか診察をしていないし…。

そうこう考えて、頭の中で強引な予定を組んでいたら、
発症後2時間ほどで、手のひらの痒みや赤みが少しずつ引いてきて、
完全ではないけれど、口も足も違和感も治まってきて、
「悪化することなく治まってきて良かった~~~
と、安堵しているところです。

 私、時々、海老に反応するんですよね・・・。
量によって反応するというわけでも無く、
少量でも反応することがあり・・・。

直近は10年くらい前かな。
旅行先のホテルで、特別につけてもらった「名物の手長海老」で反応が出て、
熱まで出て、一晩中なんとも言えない苦しさを味わい、
明け方に治まった・・・という。

でも、全然平気な事の方が多いんですよ?
反応が出る時と出ないときの差は、何なんでしょうね?
鮮度を保つための薬品?・・・とか勘ぐっちゃうけど、
そうでも無いのかな。

何なんでしょう?


 しかし、
顔はコレ、・・・治ってきているのかしら?

何だか変なんですけど、・・・もともと?


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子宮筋腫の手術から一年半経過

2024-10-24 08:03:20 | 病気
 子宮筋腫の手術(腹腔鏡による子宮全摘出)から一年半が経過しました。
ママ友から「快適だよ~」とは聞いていましたが、
出血が多すぎて息切れがしたり、
出血が多すぎて手当てが追い付かず外出が出来なかったり、
とにかく体調が悪くて何ともならなかったのが、嘘のように快適

大事な臓器で、子供たちを育ててくれた大事な子宮ですが、
もうね、子宮が有ると無いとでは、体の負担が全然違うと思います。
女性はずっとそれに向き合って来たから、運命として受け入れているけれど、
本当に色んな意味で「大変な使命を組み込まれた生命体」だと感じます。

   
 でも、
こういった心境になれる私やママ友は、恵まれているのかもしれません。

私の母も同じ子宮筋腫で子宮全摘出(開腹)をしましたが、
「お母さん、もう子宮が無いんだよ?」
「あんたたちがいたところだよ?」
「お母さんが手術をしたというのに、あんたたちは呑気に笑っている」
などと、恨みつらみをぶつけて泣いていましたから。
そして、長年それを言い続けましたから。

私達姉妹も、別にゲラゲラ楽しそうにしていたわけではないです。
普通に和やかに会話をしていただけ。
でも母にとっては、自分の枕元で泣いて欲しかったのでしょうね。

だけど私は、
同じ手術をしても、母の気持ちは分からなかった。

私なんか、術後、
私は留守番して、夫と息子2人で鳥羽へ旅行に行かせましたもん


 手術は、
人によっては、メンタルが崩壊してしまうものかもしれませんが、
私にとっては、とてもとても有難い治療でしたので、
子宮筋腫で健康を損ねておられるのであれば、
「私は元気になりましたよ」「生活の質が上がりましたよ」
とお伝えするかな。

でもこればっかりは、「人による」のかもしれません。


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10月になると思い出す「あの日々」

2024-10-18 12:46:17 | 高齢の親
 10月になると思い出す。
あれは1年前・・・10月下旬。

義父が自宅で転倒し、起き上がれなくなり、
翌日義妹が救急車を呼んで、そのまま入院。
約3ヶ月の入院生活の後、翌年1月下旬にサ高住へ。
(サ高住で約3か月過ごした後、現在は自宅で過ごしています)


その間、
統合失調症長年の引き籠もり生活による歩行困難
糖尿病糖尿病による視力低下
そして軽度の認知症を抱えた義母が、我が家にやってきました。


 このままずっと同居になるだろう・・・と覚悟してのスタートでしたが、
約2ヶ月後、次男がコロナに感染した事がきっかけとなり、
「避難」という名目で義母自身の生家へ帰っていきました。
(義母の姉と弟が「こっちで暮しても良いよ」と言ってくれていたらしい)

統合失調だったので、18年間、誰とも上手く関われず、
実の姉弟とも疎遠だった義母ですが、
久しぶりに同じ釜の飯を食べ、昔話などで盛り上がったのでしょう。
姉も弟も仕事を引退してずっと家にいますので、相手もしてくれますし、
「気の毒な私」という体でのスタートでしたので、姉弟に大事にされ、
約3週間、義母はご機嫌で過していた様です。

結局、Xmas~年末年始~と楽しい3週間を生家にて過し、
「おじいさんの退院を待って、おじいさんと施設へ・・・」という流れで、
サ高住へ入居しました。
(本人の意思もありましたが、実子の意向でもあったと思われる)
 
 我が家でも、ま~~~色々ありましたが、
サ高住でも、最初は茶飲み友だち(?)ができ楽しく過ごしていたそうですが、
その内被害妄想が炸裂し、「みんなに嫌われている」「歓迎されていない」
「私は何でも出来る」「どうしてここに居ないといけないんだ」
「実家に帰りたい」・・・と言い出し、入所約2ヶ月でサ高住退所。
ウキウキで生家へ帰ったそうです。

 が・・・
それから1ヶ月もしない内に、姉と喧嘩をした様で、
追出されたのか、啖呵を切って出て来たのか、
一足先に自宅での生活を始めていた「おじいさんのいる自宅」へお引越。

 そして、現在に至る~。


 今は、義妹から私への連絡はありません。
主人と義妹と私のグループLINEも止まったまま。
もの凄く、ホッとしている私。

私を介護に引き込むから・・・と言うより、
私に「親の世話」をやらせようとするから、
介護をする上での「私の願いと狙い」を
LINEで提示したのがきっかけかもしれません。

・要介護者には、社会との関わりを持って欲しい。
・要介護者にとって、開かれた人生であって欲しい。
・実子の2人には、親との最期の時間や関わりを、悔いの無い物にして欲しい。
・要介護者の尊厳と介護者の尊厳が、共に守られる様な関係に。
・介護サービスをになって下さる方々には、家族に対し
 「要介護者の気になる様子」や「家族が判断しかねている状況が伺われる場合」は、
 助言やジャッジを頂けるようお願いしたい。

要は、
「私の考えはこうですよ~」
「あなた(義妹)の采配ではなく、専門家と連携しながらやっていきますからね~」
「介護者(私)にも人生があるので、それも考えてよね~」
「包括と相談しながら、どんどん決めていくからね~」
と、私の方針を示したということ。

 義妹は、「長男嫁は夫の親を介護するべき」という理念があり、
自分のイメージ通りに動くよう、こちらに指令を降ろして来る人なんですよね・・・。
それがかなり押しつけがましく、独りよがりな考えが多いので、
介護より、義妹との関わりが負担で。

こうして、私に一切連絡をしてこなくなったということは、
「(私の考えを)理解して貰えた」というより
「もういいわ(怒&涙)」という事なんでしょうね。

 だけど、
そもそも私の親ではないですし、
愛も恩も受けていませんし、
思えば義母とは、挨拶以外ほぼ会話すらしたことが無いですし、
「いやいや、それは病気だったから~」と言うのであれば、
「そんな病気の人を、私に任せるのはどうなの?」・・・と思いますし、
自分の親は、自分が好きなよう、自分が納得するよう、看たら良いんじゃない?・・・と。


 でもまぁ、いつかまた来るんでしょうね・・・「その時」が。
「お兄ちゃん、何とかして~」(お兄ちゃんほぼやらないし)
「〇〇してやって~」
「XXしてやって~」
「私は嫁いだ身だから、介護はしなくて良いの~」
「身内は介護は無理~」
「介護は他人(私を指す)だから出来る事~」
「私? 無理無理無理~」
「え~~~~ん(泣)」

   しらんわ


 同居で義親を介護(今は介助)している人の話を聞くと、
「随分助けて貰ったから、やってあげたいし、やってあげなくちゃと思うけど、
 私もソレが無かったら無理だと思う~。
 遠方に住む義姉も、『いつもごめんね。有難うね』とは言ってくれるけど、
 『あれしろこれしろ』なんて言わない言わない。
 結局、言い方だよね~。 言葉一つで全然違うもん。」・・・と。

嫁や婿の介護を望むなら、大事にしてその様に関わって来ないとね・・・。
「嫁の世話にはならん!」と思っていても、
いざとなったら誰かの手を借りないといけないのだし、
周りの人は誰であれ大事にしておかないと。
突然、心を寄せてくれるなんて無いからね。

   息子が所帯を持ったら、お嫁さんを大事にしなくちゃ・・・だわ
   お嫁さんだけでなく、息子の友達も
   関わる人全て


10月が来ると思い出す
そして「その時」はまたあるだろうと思い、気が重くなる。


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