Sbagliando si impara. (間違うことで人は学ぶ。)

イタリア語の勉強に、nonna ひとりでフィレンツェへ。自分のための記録。

東野圭吾「白鳥とコウモリ」

2021年11月01日 | 読書
久々にblogを書くためにログインしようとすると、「dアカウント」登録場面が現れたので、
<今は設定しない>で記事入力に進みました。もうこれ以上新しいアカウントを増やしたく
ないのですが、最終的には登録しないとダメなのかしら??

「白鳥とコウモリ」

『 二〇十七年秋―。  
  窓枠の向こうに見える空の下半分が赤く、上は灰色だった。 』 で始まった。
 
      
正義感の強い善良な弁護士が殺された事件を軸に、解決済みの30数年前の殺人事件
深く絡んで進展する、読み応えのあるミステリーでした。

被害者と加害者の当事者たちの人間物語でなく、30数年前に目撃者が真実を話さなか
為に起きた悲劇に、大きく人生を狂わせられた人たちの人生ストーリー。
それから30数年後に、同じような間違いを繰り返した同一人物に惑わされたことで、
意外な事実にたどり着く。この人物の生き方には、悪く言えばエゴしか感じられず
終始イライラ感を持ちました。
また、30年以上前の悲劇がなければ、2017年の殺人事件は起こらずに済んだはず。

加害者側と被害者側、立場は敵同士だが同じように殺人動機に疑問を持ち、ただ真実
を知りたいという同じ思いから事件は思わぬ方向へ展開して行きます。
こんなことがあり得るのかと驚き、唯々呆然としました。  
検事や弁護士というのは、裁判に勝ちさえすれば真相などは二の次。真実を追求して
いなかったら被害者側も加害者側も重苦しい人生を送ることとなったであろうと想像
する読んでいる側も息苦しくなりました。

この表装は事件現場を想像させられます。
「白鳥とコウモリ」の意味するものは何だろうと思いながら読むと、
ズバリとその答えが書かれてました!
『光と影、昼と夜、まるで白鳥とコウモリが一緒に空を飛ぼうって話しだ』と。
被害者側と加害者側が一緒に真実を追求し、(到底考えられないことですが)
協力して疑念を解いていくことを指していたのです。 
光と影、昼と夜、白鳥とコウモリ・・被害者側も加害者側もどちらも影であり、
夜そしてコウモリであり、暗く重苦しい状況に置かれ、決して相反したものでは
ないと強く感じました。


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