徒歩日本二周目(≧∇≦)只今関東地方!

昨日は今日の物語 今日の後に今日は無し…

先祖・坂上田村麻呂最終回…

2014年05月03日 | 日記


前回→続・芸人「たかまつなな」の先祖
http://blog.goo.ne.jp/311kara/e/5df95747a9930bbfb883156ee57c27ab
の続き…

三春という土地の名は
梅と桃そして桜が、時を同じく花を開き
咲き乱れる事に由来する…

その三春町に伝わる郷土民芸品三春駒は
子宝に恵まれない夫婦が
日に三粒の大豆を供えると
子を授かるという有り難い御利益があり
ビックダディになりたい方には
かなりの勢いでオススメで御座いますが
そもそも三春駒は793年
蝦夷勢力との戦いに苦戦する田村麻呂を
どこからともなく現れた馬たちが
助けたという伝承に由来し
その時の馬の子孫がこの三春駒なのだと
説明にはありしかし
もっと詳しく知りたい方はグググッてね…
因みに三春駒は
日本郵便で最初の年賀切手にも採用され
福島競馬場のゴール上にも
その伝統的な姿を目にする事が出来出来
露点の店先では
大きな三春駒の油揚げも見かけたりした…
油揚げついでに余談ですが三春では
古くから寺院料理である豆腐料理が発達
庶民の食生活にも深く馴染みがあり
今も三角油揚げが地域の味として超有名!
お越しの際には是非お買い求め下さ~い…

さて、改めましては
芸人「たかまつなな」さんが先祖と語る
征夷大将軍の坂上田村麻呂公…
その出生には奈良高取説も御座いますが
そちらはどうやら坂上氏姓の発祥地
奈良県高取町大字観覚寺字坂ノ上にあり
その地名「坂ノ上」から
姓氏を名乗ったと伝えられて御座います…

中世以降この辺りを治めた氏族田村氏も
田村麻呂の末裔を称し
一帯に大きく勢力を誇りましたが
戦国末期には仙台君主である伊達正宗が
三春から愛姫を迎えております…
正宗はその死に際し
甲冑武具を纏う立姿で埋葬されましたが
それは愛姫の祖である田村麻呂の
武人装での埋葬を踏襲したのかもですね…

支離滅裂で引っ張りましたこのシリーズ
お読み頂きありがとう御座いました…



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続・芸人「たかまつなな」の先祖…

2014年05月03日 | 日記


芸人「たかまつなな」さんが先祖と称する
坂上田村麻呂は
征夷大将軍様であらせあそばされることは
ひとまず置いといて…

所の所で
その田村麻呂が滅ぼした「多田鬼丸」とは
ぶっちゃけどんな人物かっつうと
人々を苦しめた悪鬼という話と
そして英雄だとする二つの伝承が残される…

まず、悪鬼伝承については言うまでもなく
この時代それ以前それ以後と
朝廷に敵対した抵抗勢力には洩れる事無く
貼り付けられる悪役レッテルであり
大和神話に出て来る悪者なんつうのも全部
似たような侵略戦争の
敵対勢力だったのではないのかと想像する…
そんな平安朝廷の創作話の中で多田鬼丸は
妖術を使い雲霧を呼び
陽の雨を降らせ激しく暴れ回ってたそうな…
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
そんな奴に田村麻呂が勝てる訳無いのだが…
一方、英雄とする言い伝えには
朝廷が一方的に租税を要求して来たとあり
服従を迫る朝廷に対し
先祖伝来の土地や人々の暮らしを守るため
その命令を拒否し続けてたっぽい…
そして朝廷は将軍田村麻呂を派遣
決戦に際し多田鬼丸には
北奥の蝦夷首領アテルイからの援軍もあり
開戦序盤は地形を生かした善戦も見せるが
朝廷軍の圧倒的な兵力に
やがて少しづつ追い詰められ
最後は鬼穴と呼ばれる洞窟にて側近と共に
自害した御臨終…

↑↑↑まぁ教科書みたいな説明でしたけど…

因みに個人的に不思議に思う事なんですが
古代帝国主義に抵抗した蝦夷の首長である
多田鬼丸やその側近として活躍した
豪傑鬼五郎兄弟なんて方々が
今も崇め奉られてるのは当然ロンモチだが
それを滅ぼした田村麻呂もまた伝説的英雄…
それはなぜ?
もしや、多田鬼丸の本拠地は現在の田村市
一方、田村麻呂は現在の郡山市出身
同じ福島県出身者って事で愛着が湧くのか?
余談ですが
多田鬼丸の本拠地と田村麻呂の生誕地とは
直線二十数キロの距離その間が
当時の大和と蝦夷の境界で御座いに御座い…

因みに同じく県内で起こった戦争ですけど
幕末戊辰での会津戦争の事ですが
会津人達は未だ長州人が大嫌いですからね!

つう訳で
長文だと親指の付け根が痛くなりますので
また次回、完結編でお会いしましょう…
今回も大した事が書けませんでしたの残念…

それとひとつ書き忘れなんですが
田村麻呂は自害した敵将多田鬼丸の遺体を
広く景色の見渡せる高台へ丁重に葬ったと
そう伝えられている…
その後も続く蝦夷との戦いでも
適に対しての敬意も忘れる事が無かった…
そういう所も
後世の人々が将軍田村麻呂に好意を寄せた
人間像ではないでしょうか…
以上…


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