徒歩日本二周目(≧∇≦)只今関東地方!

昨日は今日の物語 今日の後に今日は無し…

福島市内有数原発被災地…

2014年05月22日 | 日記
原発からの距離イコールが
そのまま放射線量の高さなのではなく
遠く離れていても
例外となる地点は幾つも存在している…
福島渡利も数ある中のそのひとつ
事故の後の報道の中で
この国は何度もその名を耳にしている…

なんせ事故後のこの辺りは
雨が降る度汚染土壌が流れに流れ込み
わずかの三カ月で
濃度がなんと五倍にまで跳ね上がった…
近くには小学校も保育園もあり
中学校や病院や団地や高校さえもある…
それなのに
政府や行政の測定数値は
いつもいつも悲し過ぎる程に低かった…

しかし
実際は時間が経つたび線量が高くなり
時間が経つたび
セシウムの濃縮が進むと言われていた…
ある日の土壌汚染測定で30万Bq/㎏
渡利小学校の観測点では27.74μSv/h
さらに排水路の泥に至っては
76.96μSv/に達するドンキーくりびつ…

しかし行政は
線量の高い場所は絶対的に測定しない…
それどころか
避難は絶対にさせないと大きく宣言
そして国は
避難をさせないために基準を切り上げ
知事は県外避難を突然打ち切り
さらに行政は
100μSv/年までは影響ないと言い放ち
政府は
福島市民は自分達で除染しろと強要し
防護服が必要な避難区域よりも
線量が高いにも関わらず
中学校は
「放射能は安全」の洗脳を強要されて
人々は被曝を強要された…
それが
どうやら事故二年ぐらいの経緯らしい…

しかし人々は、今なお強く生きている…



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福島渡利原爆模擬弾投下地…

2014年05月22日 | 日記


国道四号を南下して福島市街を抜ける頃
立て続く二本の橋の間を
あっという間に通り過ぎる区間が御座い…

その一帯は福島市渡利…
第二次大戦中に米軍による原爆模擬弾が
投下された場所だっつう話ですね…
辺りは南東にのびる山を背負い
福島市街地のへりにも当たる場所ですが
なぜこんな端っこに落とすかっつったら
本来元来マジな話
福島駅の西側に広がっていた軍需工場が
その標的だったと申します…
つうか実際そこをめがけ落としてみたら
あれよあれよと風に流され
標的を大きく外れた爆弾が渡利に落ちた…
そんな経緯があるらしいっスね…

実際の爆弾つうのが
とんでもなく大型な規模だったみたいで
上空で炸裂し凄まじい爆音を響かせ
辺りは火の海の様な明るさに包まれたと
当時の証言が資料に残るそうです…
そん時の爆風甚だしく
渡利小学校の窓ガラスは全てが割れ飛び
半径二kmに及ぶ民家の屋根瓦も
ことごとく崩れ、爆弾の爆心地には
直径三五㍍の巨大な穴が開き
三百㎡の池が出来たとの記録も御座い候…

地元渡利にある瑞龍寺というお寺様には
その時の爆弾の破片が保管され
当時の悲劇を今に伝えているそうですが
いやはや多くの人々の命を奪ったもの
とても眺める気にはなれませんでしたね…

それからやがて七十年が経ちますが
今更ながら手を合わせ
犠牲の御冥福をお祈りさせて頂きました…

昭和二十年七月二十日
午前八時三五分の出来事だったそうです…



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「生きて下さい…」

2014年05月22日 | 日記
震災の翌年
福島市立渡利中学校の卒業式で
三年二組の担任教師は
旅立つ教え子たちに
こんな言葉を贈ったと言われる…


ひとつ、お願いがあります
簡単なことです…
でも、難しいかも知れません…

先生よりも長生きして下さい
長く長く生きる努力をして下さい…


自分の卒業式の言葉さえ僕は
一語一句すら覚えていない…
でも
震災の翌年に聞いたその言葉は
今も忘れる事が出来ない…

教え子が自分より長生きする事
そして
長く生きる努力を
しなくてはならない生徒たち…

それが子供達に突きつけられた
現実なのかと
今までに持った事の無い感情が
こみ上げてくる…

全国の皆さんが
それでさえ他人ごとと思うのは
仕方の無いこと…

でも、あなたの街で
同じ事の起こる事がないように
それはあなたの役割です…


先生より長生きして下さい
長く長く生きる努力をして下さい…



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