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気ままに生活してるシニアの残日録

「北村朋幹ピアノ・リサイタル」を観る

2023年02月28日 | クラシック音楽

クラシック倶楽部で北村朋幹のピアノコンサートを放映していたので観た。東京文化会館でのコンサートに行ってきたばかりだが、テレビでも彼のコンサートを放映していたので観たくなったのだ。

曲目は、ピアノ・ソナタ 作品1(ベルク)、ピアノ・ソナタ 第3番 ヘ短調 作品5から(ブラームス)の2つ。

番組で彼は、ロマン派の終わりから現代に向かってという時期が自分にとって大事、意識したわけではないが自然と選曲がその線になった。共通しているのは歌の作曲家だということ。歌は何かを表現するときに自然と出てくるもので、それが音楽の基本のところにあるので美しい、

ベルクのソナタは14才くらいの時から弾いている、15年以上弾いている曲、楽譜を見ると信じられないくらい細かくどういう表現をしてほしいか書いてある、歌のフレーズのようになっている、いろんな人がいろんな歌を歌っているように解釈できる、そのようないろんな情報の中から自分が選んで弾かなければいけないためいまだに新しい発見がいくつもあるので、その点はちょっと人生と似ている、

ベルクは調整にとらわれない12音階技法を取り入れた20世紀のウィーンで新しい音楽を創造していった、1908年23才の時にこの作品を発表してまもなく師シェーンベルクの元を離れ作曲家として自立する、とテロップが流れているが、この点はフルトヴェングラーが批判しているところだ。フルトヴェングラーは官能と精神の一致が大事であり、これが現代では分離されている、非官能化の最も致命的な一例をいえば、12音階的作曲が示しているところのものがそれです、といっている(「音と言葉」25ページ)。時代が変わっていく過渡期なのだろう。

番組で北村は、自分が願っているのは作曲家自身がどういう音を聴いていたのか知りたい、だから彼が書いた日記だとか手紙だとかとことん読むし、その時代の空気を疑似体験ですらないけど知りたい、それでイマジネーションの差がでる、楽譜が当時どういう意味だったのか理解したい、といっているがもっともなことだ。

ピアノ3番はシューマンと出会ったときの初期の作品、だからまだ第5楽章はシューマンに手を入れてもらっている、夢も希望もたくさんあった時代の作品、でも5楽章で出てくるテーマが「自由だが孤独」というもの、シューマンの指摘で書き直した5楽章にそれが出ているし、それが彼(シューマン?)の人生のその後を予測している、また、特別なのは2楽章は言葉で表せないくらい美しい、と説明している。

テレビで彼の演奏姿を見ると講演会では離れていてよくわからない演奏中の細かい表情などがわかって興味深い、彼の演奏中の表情は曲にどっぷりとつかって、酔いしれているような表情をしている、思い入れが良く出ている、これは良いことだと思う。真剣に弾いている証拠だ。

ところで講演会でも気づいたことだが、彼の演奏中の椅子であるが、3つ重ねたものに座っているのに驚いた(上の写真参照)、これはどういう理由なんだろう、1つだけだと不安定で座り心地が悪いのだろうか、或いは1つだけだと高さが合わないのか。

 

 


「スパイシーカレー魯珈」のレトルトカレーを食べる

2023年02月28日 | グルメ

大久保の「魯珈」という店のカレーが人気らしいことを知ったが、長い行列必至とのことで行く気はしなかった。ところが、大手食品会社から有名店とコラボしたカレーやシチューのレトルトが販売されており、この「魯珈」のカレーもあることを知り買ってみた。

シニアになって長い行列に並ぶのは好きでない、いい年してシニアはヒマだといわれそうだし、実際そんな時間ない、行列や予約の取りにくい店にうまい店はないという逆説もあるし、店の方も客あしらいなどが雑になっていることも多い。他人の評価でなく自分の判断基準を身につけたいという思いもある。

しかし、スーパーやコンビニで同じ味のレトルトが買えるとあれば試して見るのは良いと思う。店に行く時間と交通費を考えたら300円程度の価格は安いと言えよう。

今まで何回かこの「魯珈」のカレーレトルトを食べているが、旨い。スパイスがきいていて独特の味がする。ラーメンといいカレーといい、他国発祥の料理をそれ以上の存在にするのが日本人だ。この店に関しては行列ができるのも納得だ。


「カルネアデスの舟板」(松本清張)を読む

2023年02月28日 | 読書

ある人が教科書検定のことを知りたければこの本を読むとよくわかる、と言っていたのでKindleで買って読んだ。この本は短編集で表題の小説の他、6つの短編小説が入っている。ここでは、読書の目的であった教科書検定のことについてのみ記載することにするが、それ以外の小説も面白かった。

この小説は、一人の新進気鋭の学者の物語である(ネタバレ注意)

  • 主人公の大学教授は歴史学者であり、戦前、師の老教授に習い保守的な考えを持っていた
  • ところが戦後、保守的な学者は追放され進歩的な唯物史観、階級闘争史観の学者が主導権を握った
  • 主人公は巧妙に進歩派に転向し世間の注目を浴びるようになるが、転向できなかった老教授は追放された
  • やがて教科書の出筆依頼がくると進歩史観で記載した教科書は多くの学校で採択され多額な印税収入が入り、贅沢な暮らしができるようになった
  • その後、元老教授を大学に復帰するのを手伝い、その教授も転向したが、あるときから文部省が進歩派の教科書を採択しなくなった
  • 主人公は再び保守派に転向しようとしたら老教授に先に転向されそうになる、そうなっては困るので老教授を葬らなければならない、その理屈が・・・

という感じで進んでいく。

そして一番最後の、自分が生き残り、老教授を葬り去る理屈が本の題名の「カルネアデスの舟板」だ、カルデアネスとは西暦紀元前2世紀頃のギリシャの学者で、大海で船が難破した場合に一枚の板にしがみついている一人の人間を押しのけて溺死させ、自分を救うのは正しいかという問題を提起し、身を殺して他人を助けるのは正しいかもしれないが自分の命を放置して他人の命にかかずらうのは愚かであるとした、その理論である。

ここで面白いのは、そのカルネアデスの舟板の理論ではなく、大学教授が生きていくためにはいとも簡単に自説を捨て、時流に合う学説に転向することである。それも巧妙に世間や学生にわからないようにやるのだ。そして戦後、教師の組合活動が階級闘争史観に染まり活発化している時期に、そのニーズに合う階級闘争史観の歴史教科書を書いて、それが多くの学校で採択され、ベストセラーになると印税の額も巨額になる。一度この味を覚えるともう保守派には戻れない、学者の信念も主義主張もカネ次第で変わると言うところだ。

これは教科書に限らず、テレビのコメンテーターの教授たち、役所の審議会の委員に任命される先生たちでも同じかもしれないと思いたくなる。

さて、この本を読むと文部省は一時期、左に寄りすぎた歴史教科書を修正しようとして一部実現したが、その後はどうだろう、元の左翼史観に戻ったのではないだろうか。