さて、魏延の軍は崩壊したわけであるが、楊儀の機嫌は悪かった。
魏延をみすみす取り逃がしてしまったこともそうであるが、なにより、蒋琬が軍を率いて北上しているという報せが、気に食わない様子であった。
楊儀をなだめるのは、その近衛と姜維にまかせ、文偉は、馬岱が帰還するまでの間、泥のように眠った。
眠りながらも、蒋琬の寄越した手紙のことが頭に引っかかり、妙に鮮明で、居心地の悪い夢を見た。
起き上がり、傷ついた将兵たちを慰労し、そして諸将と連絡をとりながら、仲達の動きになにも変わりはないかたずねる。
追撃してくるにしても、これまでなにも動きがないというのは、遅すぎた。
放っていた細作が魏より帰還し、文偉は、仲達が、本営のあった場所まで南下してきたが、そこからまた北へ引き返して行ったという。
仲達の追撃はない。
その報告に、みなは安堵し、歓声をあげるものさえいたが、文偉は喜ぶことはできなかった。
仲達は、孔明の残していった陣を見て、
「天下の奇才である」
と賞賛し、立ち去って行ったという。
そこに、魏延や楊儀にも見られなかった、深い思慮と尊敬が感じられて、情けなく思えた。
もちろん、そんな綺麗事だけではなく、おそらく、領内にくまなく潜ませていた細作より、楊儀の軍が、南谷口の魏延の陣を襲い、これを撃退したことを知ったのだろう。
兵の士気は孔明の死によって、むしろ高まっている。
無理に追撃して、火傷を負う必要はない。
そう判断し、引き返して行ったのだ。
武将や兵卒たちの中には、はやくも、仲達は孔明が生きていることを恐れて、引き返していったのにちがいないと言い出すものがあらわれた。
文偉はそれには口を出さず、噂が広がるままにしておいた。
すでに孔明は、歴史の枠を超え、神話の粋に入ろうとしているのだ。
目の前で築かれていく伝説の中でわたしは、どれだけの役目を果たしてきたのだろうと、文偉は思い返した。
多くの賞賛のなかで、真実は実像と引き離され、埋もれていくにちがいない。
龍の名にふさわしい、華麗な人生であったと評するべきであろうか。
しかし、孔明は、いつも愁眠の中にあったことを文偉は知っている。
いま、ようやく安らかに眠れたのだ。
そして、今度は自分が愁眠の中にある。
やがて、馬岱が帰還した。
馬岱の言葉に二言はなかった。
馬岱は、精鋭を率いて、逃亡した魏延を追跡し、みごとにこれに追いつき、その首を討った。
首の入れられた櫃の小ささに、文偉は動揺した。
これまでに、人の生首を見てこなかったわけではない。
しかし、これは特別であった。
魏延の首が公開されると、さすがに、居並ぶだれもが息を呑み、楊儀への追従も、魏延への怨嗟の声も、発するものがいなかった。
しかし、楊儀だけは、首を見るとよろこび、不意に両手で持ち上げたかと思うと、その足で踏みつけ、思うさま罵倒した。
敵の将の遺体を辱める、これは特別なことではない。
しかし、敵とはいえ、孔明が死ぬ、それこそ数日前までは、味方であった男の首である。
思い出もある。だからこそ、みなは沈黙をしているのだ。
それを省みず、楊儀は、玩具を得た子供のように振る舞ってみせた。
この男は、気の毒に、ほんとうに深く心を病んでしまっているのだ。
無残にも、楊儀の沓あとののこる魏延の首を見据え、文偉は、しじまのなか、思った。
待っていたまえ、貴殿の仇敵も、じきに後を追うことになるだろう。
馬岱は多くを語らなかったが、覚悟を決めた魏延の最期は、武将らしく立派なものであったという。
あと一歩のところで、権力の座を逃した男は、最後に、王のように堂々と死んだ。
孔明を、遺言どおりに定軍山に葬り、文偉は成都に帰還した。
そのあとのことは、ざっと述べるに止める。
成都に帰還した楊儀であるが、叛乱を鎮圧した功績を認められるとばかり思っていたが、勲功はないに等しいものであった。
孔明の後継として選ばれたのは、以前より軽視していた蒋琬で、自分は、長史から、中軍師になっただけであった。
もちろん、理由は、本人以外は、みな知っている。
魏延が謀反を起こしたのも、楊儀との争いが原因なのである。
魏延は馬岱に討たれたが、謀反と言っても、その目的は、楊儀を打ち倒すことだけであった。さらに、楊儀が魏延の首を辱めたことも、かれから人を遠ざける要因となった。
なにひとつ思い通りにならず、中軍師といっても、まともな仕事はなにひとつ回ってこない。
これは、楊儀の精神状態を危ぶみ、回復までは閑職にとどめておこうという、蒋琬の配慮であったが、楊儀には通じず、これを逆恨みした。
楊儀の精神は、どんどんと暗い方向へ進んでいった。
しまいには、楊儀が、孔明の死後に、魏延と与していればよかったと嘯いているという噂が立った。
文偉が真相をたしかめるべく屋敷を訪れれば、まったくそのとおりで、楊儀の勢いがあまりに激しく、治まりをみせなかったため、ついに上奏し、これを庶民に落すこととなった。
楊儀はその後、成都を追放されたが、追放先においても、恨みは治まらず、妄想にも似た中傷を吐き続け、また、それを書にしたためて成都に送った。
その内容は、事実と虚妄の入り混じった、民を惑わすものであったため、楊儀は逮捕される。
そして、牢内にて、楊儀は自害した。
孔明の死の、翌年のことである。
楊儀が上書した書の内容は、伝わっていない。
こうして、長い長い龍の葬列は、狂乱と怨嗟のなかに身を落としたひとりの男が、その命を絶つことで、ようやく終わった。
魏延をみすみす取り逃がしてしまったこともそうであるが、なにより、蒋琬が軍を率いて北上しているという報せが、気に食わない様子であった。
楊儀をなだめるのは、その近衛と姜維にまかせ、文偉は、馬岱が帰還するまでの間、泥のように眠った。
眠りながらも、蒋琬の寄越した手紙のことが頭に引っかかり、妙に鮮明で、居心地の悪い夢を見た。
起き上がり、傷ついた将兵たちを慰労し、そして諸将と連絡をとりながら、仲達の動きになにも変わりはないかたずねる。
追撃してくるにしても、これまでなにも動きがないというのは、遅すぎた。
放っていた細作が魏より帰還し、文偉は、仲達が、本営のあった場所まで南下してきたが、そこからまた北へ引き返して行ったという。
仲達の追撃はない。
その報告に、みなは安堵し、歓声をあげるものさえいたが、文偉は喜ぶことはできなかった。
仲達は、孔明の残していった陣を見て、
「天下の奇才である」
と賞賛し、立ち去って行ったという。
そこに、魏延や楊儀にも見られなかった、深い思慮と尊敬が感じられて、情けなく思えた。
もちろん、そんな綺麗事だけではなく、おそらく、領内にくまなく潜ませていた細作より、楊儀の軍が、南谷口の魏延の陣を襲い、これを撃退したことを知ったのだろう。
兵の士気は孔明の死によって、むしろ高まっている。
無理に追撃して、火傷を負う必要はない。
そう判断し、引き返して行ったのだ。
武将や兵卒たちの中には、はやくも、仲達は孔明が生きていることを恐れて、引き返していったのにちがいないと言い出すものがあらわれた。
文偉はそれには口を出さず、噂が広がるままにしておいた。
すでに孔明は、歴史の枠を超え、神話の粋に入ろうとしているのだ。
目の前で築かれていく伝説の中でわたしは、どれだけの役目を果たしてきたのだろうと、文偉は思い返した。
多くの賞賛のなかで、真実は実像と引き離され、埋もれていくにちがいない。
龍の名にふさわしい、華麗な人生であったと評するべきであろうか。
しかし、孔明は、いつも愁眠の中にあったことを文偉は知っている。
いま、ようやく安らかに眠れたのだ。
そして、今度は自分が愁眠の中にある。
やがて、馬岱が帰還した。
馬岱の言葉に二言はなかった。
馬岱は、精鋭を率いて、逃亡した魏延を追跡し、みごとにこれに追いつき、その首を討った。
首の入れられた櫃の小ささに、文偉は動揺した。
これまでに、人の生首を見てこなかったわけではない。
しかし、これは特別であった。
魏延の首が公開されると、さすがに、居並ぶだれもが息を呑み、楊儀への追従も、魏延への怨嗟の声も、発するものがいなかった。
しかし、楊儀だけは、首を見るとよろこび、不意に両手で持ち上げたかと思うと、その足で踏みつけ、思うさま罵倒した。
敵の将の遺体を辱める、これは特別なことではない。
しかし、敵とはいえ、孔明が死ぬ、それこそ数日前までは、味方であった男の首である。
思い出もある。だからこそ、みなは沈黙をしているのだ。
それを省みず、楊儀は、玩具を得た子供のように振る舞ってみせた。
この男は、気の毒に、ほんとうに深く心を病んでしまっているのだ。
無残にも、楊儀の沓あとののこる魏延の首を見据え、文偉は、しじまのなか、思った。
待っていたまえ、貴殿の仇敵も、じきに後を追うことになるだろう。
馬岱は多くを語らなかったが、覚悟を決めた魏延の最期は、武将らしく立派なものであったという。
あと一歩のところで、権力の座を逃した男は、最後に、王のように堂々と死んだ。
孔明を、遺言どおりに定軍山に葬り、文偉は成都に帰還した。
そのあとのことは、ざっと述べるに止める。
成都に帰還した楊儀であるが、叛乱を鎮圧した功績を認められるとばかり思っていたが、勲功はないに等しいものであった。
孔明の後継として選ばれたのは、以前より軽視していた蒋琬で、自分は、長史から、中軍師になっただけであった。
もちろん、理由は、本人以外は、みな知っている。
魏延が謀反を起こしたのも、楊儀との争いが原因なのである。
魏延は馬岱に討たれたが、謀反と言っても、その目的は、楊儀を打ち倒すことだけであった。さらに、楊儀が魏延の首を辱めたことも、かれから人を遠ざける要因となった。
なにひとつ思い通りにならず、中軍師といっても、まともな仕事はなにひとつ回ってこない。
これは、楊儀の精神状態を危ぶみ、回復までは閑職にとどめておこうという、蒋琬の配慮であったが、楊儀には通じず、これを逆恨みした。
楊儀の精神は、どんどんと暗い方向へ進んでいった。
しまいには、楊儀が、孔明の死後に、魏延と与していればよかったと嘯いているという噂が立った。
文偉が真相をたしかめるべく屋敷を訪れれば、まったくそのとおりで、楊儀の勢いがあまりに激しく、治まりをみせなかったため、ついに上奏し、これを庶民に落すこととなった。
楊儀はその後、成都を追放されたが、追放先においても、恨みは治まらず、妄想にも似た中傷を吐き続け、また、それを書にしたためて成都に送った。
その内容は、事実と虚妄の入り混じった、民を惑わすものであったため、楊儀は逮捕される。
そして、牢内にて、楊儀は自害した。
孔明の死の、翌年のことである。
楊儀が上書した書の内容は、伝わっていない。
こうして、長い長い龍の葬列は、狂乱と怨嗟のなかに身を落としたひとりの男が、その命を絶つことで、ようやく終わった。