魏延が、橋をすべて残らず焼き落としたという報せは、全軍につよい怒りと怨嗟を巻き起こした。
孔明の死を嘆く声は、一転して、すぐに裏切りをみせた魏延への怒りに変わったのである。
仮にも大将軍ともあろう者が、まだ孔明の棺の中が温かいうちに反逆した。
これに怒ったのは、魏延を知る身分の高い武将たちばかりではなかった。
曲長や屯将など、身分の低い士卒たちが中心となって、お隠れになった丞相に、ここでご恩返しをするのだという声が起こり、その意気は、熱のように全士卒に伝わった。
一時は弛んでいた士気も回復し、戦うには十分である。
かれらの怒りは、なにも孔明への思慕が強かったからというだけではない。
帰国できると安堵していたのに、魏延によって橋を焼かれ、それがままならなくなってしまった。
帰国を邪魔したうえに、戻って、まだ戦えという。
この身勝手さに、憤りをおぼえたのである。
もちろん、もう戦いたくなどないなどと、表立って口にできないから、すべての憎しみを『征西大将軍が反逆した』という理由に帰しているのだ。
これは、文偉は予想していなかったが、しかし、魏延の振る舞いが、もうすこし思慮深くあれば、まだ兵の反応もちがったであろうと思う。
そも、魏延は、大人しく成都に戻り、それから、人事に不服があれば、きちんと意見を述べ、周囲の賛同を得るように動けばよかったのだ。
その手順を踏まずに、武に頼る。
そこが、魏延という人物の限界なのだ。
漢中を守り続けた、その功績は、たしかに認められるべきものである。
魏延がいたからこそ、諸葛孔明は安心して蜀を治めることができた。
つまり、魏文長がいたからこそ、諸葛孔明もいたのである。
ところが、魏延はどこかで間違ってしまった。
最前線での武を中心とした手法のみに頼り、文と協力することを忘れ、独走をはじめたのだ。
兆候はあった。
趙雲の死後、かの賢明な老将がいなくなったとたん、孔明を「怯」と呼んで憚らなくなった。
孔明はそれを流し、自ら、おのれはたしかに「怯」であると冗談めかしていって、魏延のまき散らす毒を中和させていたが、内心ではどうであったか。
その政策に不満をぶつけ、孔明の側近である楊儀に、満座のなかで刃を突きつけて脅すなどの振る舞いをして、人の心を繋ぎとめられると思っていたのか。
魏延の功績は武のみ。
力を示すのも武のみ。
不器用な人物なのだと許す範囲は、とっくに超えている。
君はすみやかに死なねばならない。
山林の伐採は、工作部隊ばかりではなく、多くの部隊が参加して、予想以上に早く終わった。
幸いにも、司馬仲達の動きは、いまのところない。
ほかの将軍より、仲達が追ってきた場合の対策として、伐採をし終わった木材を利用して、逆茂木を設置してはどうかという提案があがったが、文偉はこれを拒み、ただ、道を切り拓いたままにしておくようにと下知した。
魏延が、谷を渡る橋を、のこらず焼いてしまった以上、仲達が追ってくるにしても、文偉らと同じ道を通らねばならないことになる。
もしも、逆茂木や落とし穴などを設置しておいた場合、嗅覚のするどい司馬仲達のことであるから、蜀には、待ち伏せをする余力がないからこそ、追ってこられないように、工作物を設けているのだと見破るだろう。
事実、伏兵のための部隊を割く余裕はない。
孔明が、喪を秘すようにと言ったのは、自分の死を公表することで、魏延が勝手に動き、仲達の目の前で、軍が争いをはじめることを恐れたからである。
細作が軍内に潜り込んでいたとして、仲達に孔明の死を告げたとする。
孔明の死によって、蜀軍が撤退をはじめたと仲達は思うであろうが、問題はそれから先、撤退の最中に、さらに魏延と楊儀が争いをはじめたと、仲達が気づくのは、いつになるだろうか。
もう気づいているだろうか。
背後を追われての道中である。
みな、口数もすくなく、もくもくと、切り拓いた山道を、不眠不休でひたすら進んだ。
強行軍であるにもかかわらず、不平不満はすくない。
兵卒のひとりひとりが、一大事が起こったのだと理解しているからだろう。
これもまた、孔明が、常日頃から兵卒の教化を怠らなかった成果である。
いままでは、何の気もなしに見過ごしてきたことのひとつひとつが、あらためて、大変な努力と深い思考によって支えられていたのだと気づく。
同時に、文偉は、それまで敬愛と尊敬の対象であった諸葛孔明という人物が、意識のなかでどんどん変貌し、超えがたい障壁になっていくのを感じていた。
先人が偉大すぎる。
あとに続く我らは、はたしてかれを超えることなど、できるのであろうか?
孔明の死を嘆く声は、一転して、すぐに裏切りをみせた魏延への怒りに変わったのである。
仮にも大将軍ともあろう者が、まだ孔明の棺の中が温かいうちに反逆した。
これに怒ったのは、魏延を知る身分の高い武将たちばかりではなかった。
曲長や屯将など、身分の低い士卒たちが中心となって、お隠れになった丞相に、ここでご恩返しをするのだという声が起こり、その意気は、熱のように全士卒に伝わった。
一時は弛んでいた士気も回復し、戦うには十分である。
かれらの怒りは、なにも孔明への思慕が強かったからというだけではない。
帰国できると安堵していたのに、魏延によって橋を焼かれ、それがままならなくなってしまった。
帰国を邪魔したうえに、戻って、まだ戦えという。
この身勝手さに、憤りをおぼえたのである。
もちろん、もう戦いたくなどないなどと、表立って口にできないから、すべての憎しみを『征西大将軍が反逆した』という理由に帰しているのだ。
これは、文偉は予想していなかったが、しかし、魏延の振る舞いが、もうすこし思慮深くあれば、まだ兵の反応もちがったであろうと思う。
そも、魏延は、大人しく成都に戻り、それから、人事に不服があれば、きちんと意見を述べ、周囲の賛同を得るように動けばよかったのだ。
その手順を踏まずに、武に頼る。
そこが、魏延という人物の限界なのだ。
漢中を守り続けた、その功績は、たしかに認められるべきものである。
魏延がいたからこそ、諸葛孔明は安心して蜀を治めることができた。
つまり、魏文長がいたからこそ、諸葛孔明もいたのである。
ところが、魏延はどこかで間違ってしまった。
最前線での武を中心とした手法のみに頼り、文と協力することを忘れ、独走をはじめたのだ。
兆候はあった。
趙雲の死後、かの賢明な老将がいなくなったとたん、孔明を「怯」と呼んで憚らなくなった。
孔明はそれを流し、自ら、おのれはたしかに「怯」であると冗談めかしていって、魏延のまき散らす毒を中和させていたが、内心ではどうであったか。
その政策に不満をぶつけ、孔明の側近である楊儀に、満座のなかで刃を突きつけて脅すなどの振る舞いをして、人の心を繋ぎとめられると思っていたのか。
魏延の功績は武のみ。
力を示すのも武のみ。
不器用な人物なのだと許す範囲は、とっくに超えている。
君はすみやかに死なねばならない。
山林の伐採は、工作部隊ばかりではなく、多くの部隊が参加して、予想以上に早く終わった。
幸いにも、司馬仲達の動きは、いまのところない。
ほかの将軍より、仲達が追ってきた場合の対策として、伐採をし終わった木材を利用して、逆茂木を設置してはどうかという提案があがったが、文偉はこれを拒み、ただ、道を切り拓いたままにしておくようにと下知した。
魏延が、谷を渡る橋を、のこらず焼いてしまった以上、仲達が追ってくるにしても、文偉らと同じ道を通らねばならないことになる。
もしも、逆茂木や落とし穴などを設置しておいた場合、嗅覚のするどい司馬仲達のことであるから、蜀には、待ち伏せをする余力がないからこそ、追ってこられないように、工作物を設けているのだと見破るだろう。
事実、伏兵のための部隊を割く余裕はない。
孔明が、喪を秘すようにと言ったのは、自分の死を公表することで、魏延が勝手に動き、仲達の目の前で、軍が争いをはじめることを恐れたからである。
細作が軍内に潜り込んでいたとして、仲達に孔明の死を告げたとする。
孔明の死によって、蜀軍が撤退をはじめたと仲達は思うであろうが、問題はそれから先、撤退の最中に、さらに魏延と楊儀が争いをはじめたと、仲達が気づくのは、いつになるだろうか。
もう気づいているだろうか。
背後を追われての道中である。
みな、口数もすくなく、もくもくと、切り拓いた山道を、不眠不休でひたすら進んだ。
強行軍であるにもかかわらず、不平不満はすくない。
兵卒のひとりひとりが、一大事が起こったのだと理解しているからだろう。
これもまた、孔明が、常日頃から兵卒の教化を怠らなかった成果である。
いままでは、何の気もなしに見過ごしてきたことのひとつひとつが、あらためて、大変な努力と深い思考によって支えられていたのだと気づく。
同時に、文偉は、それまで敬愛と尊敬の対象であった諸葛孔明という人物が、意識のなかでどんどん変貌し、超えがたい障壁になっていくのを感じていた。
先人が偉大すぎる。
あとに続く我らは、はたしてかれを超えることなど、できるのであろうか?