はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

虚舟の埋葬 23

2009年08月11日 21時18分09秒 | 虚舟の埋葬
魏延が、橋をすべて残らず焼き落としたという報せは、全軍につよい怒りと怨嗟を巻き起こした。
孔明の死を嘆く声は、一転して、すぐに裏切りをみせた魏延への怒りに変わったのである。
仮にも大将軍ともあろう者が、まだ孔明の棺の中が温かいうちに反逆した。

これに怒ったのは、魏延を知る身分の高い武将たちばかりではなかった。
曲長や屯将など、身分の低い士卒たちが中心となって、お隠れになった丞相に、ここでご恩返しをするのだという声が起こり、その意気は、熱のように全士卒に伝わった。
一時は弛んでいた士気も回復し、戦うには十分である。

かれらの怒りは、なにも孔明への思慕が強かったからというだけではない。
帰国できると安堵していたのに、魏延によって橋を焼かれ、それがままならなくなってしまった。
帰国を邪魔したうえに、戻って、まだ戦えという。
この身勝手さに、憤りをおぼえたのである。
もちろん、もう戦いたくなどないなどと、表立って口にできないから、すべての憎しみを『征西大将軍が反逆した』という理由に帰しているのだ。

これは、文偉は予想していなかったが、しかし、魏延の振る舞いが、もうすこし思慮深くあれば、まだ兵の反応もちがったであろうと思う。
そも、魏延は、大人しく成都に戻り、それから、人事に不服があれば、きちんと意見を述べ、周囲の賛同を得るように動けばよかったのだ。
その手順を踏まずに、武に頼る。
そこが、魏延という人物の限界なのだ。
漢中を守り続けた、その功績は、たしかに認められるべきものである。
魏延がいたからこそ、諸葛孔明は安心して蜀を治めることができた。
つまり、魏文長がいたからこそ、諸葛孔明もいたのである。
ところが、魏延はどこかで間違ってしまった。
最前線での武を中心とした手法のみに頼り、文と協力することを忘れ、独走をはじめたのだ。
兆候はあった。
趙雲の死後、かの賢明な老将がいなくなったとたん、孔明を「怯」と呼んで憚らなくなった。
孔明はそれを流し、自ら、おのれはたしかに「怯」であると冗談めかしていって、魏延のまき散らす毒を中和させていたが、内心ではどうであったか。
その政策に不満をぶつけ、孔明の側近である楊儀に、満座のなかで刃を突きつけて脅すなどの振る舞いをして、人の心を繋ぎとめられると思っていたのか。
魏延の功績は武のみ。
力を示すのも武のみ。
不器用な人物なのだと許す範囲は、とっくに超えている。
君はすみやかに死なねばならない。



山林の伐採は、工作部隊ばかりではなく、多くの部隊が参加して、予想以上に早く終わった。
幸いにも、司馬仲達の動きは、いまのところない。
ほかの将軍より、仲達が追ってきた場合の対策として、伐採をし終わった木材を利用して、逆茂木を設置してはどうかという提案があがったが、文偉はこれを拒み、ただ、道を切り拓いたままにしておくようにと下知した。
魏延が、谷を渡る橋を、のこらず焼いてしまった以上、仲達が追ってくるにしても、文偉らと同じ道を通らねばならないことになる。
もしも、逆茂木や落とし穴などを設置しておいた場合、嗅覚のするどい司馬仲達のことであるから、蜀には、待ち伏せをする余力がないからこそ、追ってこられないように、工作物を設けているのだと見破るだろう。
事実、伏兵のための部隊を割く余裕はない。
孔明が、喪を秘すようにと言ったのは、自分の死を公表することで、魏延が勝手に動き、仲達の目の前で、軍が争いをはじめることを恐れたからである。
細作が軍内に潜り込んでいたとして、仲達に孔明の死を告げたとする。
孔明の死によって、蜀軍が撤退をはじめたと仲達は思うであろうが、問題はそれから先、撤退の最中に、さらに魏延と楊儀が争いをはじめたと、仲達が気づくのは、いつになるだろうか。
もう気づいているだろうか。

背後を追われての道中である。
みな、口数もすくなく、もくもくと、切り拓いた山道を、不眠不休でひたすら進んだ。
強行軍であるにもかかわらず、不平不満はすくない。
兵卒のひとりひとりが、一大事が起こったのだと理解しているからだろう。
これもまた、孔明が、常日頃から兵卒の教化を怠らなかった成果である。
いままでは、何の気もなしに見過ごしてきたことのひとつひとつが、あらためて、大変な努力と深い思考によって支えられていたのだと気づく。
同時に、文偉は、それまで敬愛と尊敬の対象であった諸葛孔明という人物が、意識のなかでどんどん変貌し、超えがたい障壁になっていくのを感じていた。
先人が偉大すぎる。
あとに続く我らは、はたしてかれを超えることなど、できるのであろうか?


虚舟の埋葬 22

2009年08月10日 22時50分06秒 | 虚舟の埋葬
かつてないほどに、緊迫した空気が支配していた。
文偉は、急ごしらえの陣を敷き、そこで、幕舎にあつめた諸将を前に、魏延が反逆したことのいきさつを、すべて説明した。
趙直の夢占いの話から、孔明が、自分や姜維に最後に下した指示のことまで、あまさず話した。
常日頃の魏延の振る舞いを見ていただけに、だれも魏延を庇うことはない。
まして、ほかならぬ味方の大将が、自分たちの退路を焼き払ってしまったのである。

動揺は、武将たちだけではなく、兵卒たちにも広がっていた。
魏延に内応する約束をしていた者たちも、文偉の前には含まれている。
暗にかれらに向けて、文偉はきつく言った。
「魏文長は、不遜にも大恩を忘れ、丞相のご遺志に反し、勝手に部隊を率いて、われらを窮地に追い込んでいるのである。
幸いにも、いまのところ司馬仲達の動きはないが、これとて時間の問題だ。
早急に谷を抜けねばならぬが、愚かにも魏文長は、橋を焼き払ってしまったのである。かれに魏朝への投降の意志はないとしても、これではどちらの味方かわからぬ。
ここに及んで、魏文長に従う者はおるか!」

答える者はいなかった。
どの武将たちの顔も、緊張で強ばっている。

そこへ、荒々しい足音を響かせて、何平があらわれた。
何平は、当初、軍の殿(しんがり)を務めていたのであるが、魏延に先回りされたことを受け、急遽、先陣に配されたのである。
きわめて事務的に事を進める男で、ここぞという時には頼りになる、亡き趙雲をどこか彷彿とさせる男であった。
その何平が、苛立ちもあらわに、文偉の前に畏まる。
「やられ申した! 谷の橋は、魏文長によって、すべて焼き払われてしまっております! わが隊は、立ち往生となっておりまして、こうして指示を仰ぎに参った次第!」
「すべてだと!」
この報告に、ますます文武の両官は色めきたった。
何平は、かれらを見回し、強く頷く。
「樵夫が使うような、細い橋までも、すべて焼け落とされております」
「退路はすべて断たれたというわけか」

容赦ない攻撃をする男である。
味方であるときは頼もしい限りであったが、敵になったとたんに、これはどうだ。
文偉には、北にいる司馬仲達の目が、獲物を捕らえる機会を狙う猛禽のように、油断なくこちらを見つめている気配をおぼえていた。
こちらが谷で立ち往生していることを知れば、好機とばかりに襲ってくる。

「道がなければ、作ればよい」
と、口を挟んだのは、文偉の斜めうしろで、諸将より、すこし離れた位置で話を聞いていた姜維である。
「何将軍、このあたりに住まう、地理に詳しい樵を探してください。橋が使えないといって、北は敵地。戻るわけには参りませぬ。急ぎます。早く」
何平は、淡々とつむがれる、無駄のない姜維のことばにうなずくと、すぐに幕舎を出て、馬を走らせた。

ほどなく、何平は、山小屋にいた樵を連れてきて、みなのまえに引き出した。

姜維は、武将らをそれぞれの部隊に待機させ、樵を地図の前に連れてきて、尋ねる。
「我らは谷を抜けたい。このあたりで、地形がもっともなだらかで、進みやすい場所はあるか」
ものものしい場所に引っ立てられて、怯えた樵は、おどおどしながら、頷いた。
「へえ。ちょっとばかり急ですが、わしらが狩りに使うときの、ちいさな道がございますが」
しかし姜維は首を横に振った。
「駄目だ。おそらく殆どの道は、魏将軍に先回りされていると見てよい。待ち伏せを喰らわぬように、道ではないところを行く必要がある。多少、遠回りでもかまわぬ。あまり急斜面ではなく、木々の少ない場所はないか」
樵はうーむと唸りながら、頭をひねり、どこそこが、と答える。
すると姜維は、樵の述べた地名に応じて、指先を地図に当てて、ここかと尋ね返す。
すると、樵は、そうでございますと頷く。
そうして、指を軍兵に見立てて、樵の述べるとおりに、地図に、道なき道を描いてみせた。

横で見ていた文偉は、姜維の知識に感嘆した。
「魏文長にも驚いたが、おまえも引けを取らぬな」
「蜀の将となってより、涼州と漢中の地図を眺めなかった日はありませぬ。貴方はちがうのですか」
「一言多いぞ。よろしい。この地図を工作部隊に渡し、山を切り開き、道を作ろう。指揮は何平に頼む。いまのうちに士卒には食事をとらせ、殿は司馬仲達の動きに注意せよ」
「成都の陛下への使いは?」
「魏文長が、橋を落す前に通過できたようだ。成都も大騒ぎとなっているだろう。これをおさめるのは、蒋長史の手腕にかかっているな」
うまくやれよと、文偉は遠い都の友に向かってつぶやいた。

虚舟の埋葬 21

2009年08月09日 16時43分38秒 | 虚舟の埋葬

そして、孔明の死を全軍に報せるべく、伝令をあつめる作業にかかったのであるが、ふと、姜維が、文偉の隣に轡を並べながら、ぼそりとつぶやいた。
「貴方は、ひねりが足りないのだ。わたしがいなければ、あの場で捕らえられておりましたよ。丞相の棺の前で首を刎ねられて、旗印に首を括りつけられての帰国など、お嫌でしょう」
「感謝しておる」
憮然と言うと、姜維は、ちろりと横目で視線を投げてきた。
「丞相は、あなたが正直な方だと評価しておられましたが、その正直さも、場合によりけりですね」
「おまえのほうは、ずいぶんと慣れておったな。兵は楊長史を認めている、の言葉で、長史はお心を治めた。だが、『後継として』認めている、とは、おまえは一言も言っていない」
「それが策士というものです。功名心にとらわれ、大事を見失った者は、おとなしく輜車のなかで震えておればよいのだ」
憎しみを隠さず、吐き捨てるように言う姜維であるが、前方より、斥候として派遣していた騎兵が、こちらに向かってくるのを見て、柳眉をしかめた。
「動きがあったようですな」
つぶやくと、騎兵のほうに馬首をめぐらせる。

騎兵は、相当にあわてて飛んできたらしく、息をぜいぜいと切らしながら、馬上で倒れこまんばかりになりつつ、汗だくの顔を上げて、言った。
「申し上げます、これより先の橋が燃やされ、谷を越えることが出来ませぬ!」
その声に、姜維と文偉の周囲にあつまっていた将兵、そしてそばにいた士卒たちが、大きくどよめいた。

前方の橋が燃やされたとなると、司馬仲達ではあるまい。
行動があまりに早すぎる。
魏延が先回りをしたのだ。

周囲への動揺が広がらぬように注意しながら、文偉は落ち着いて尋ねた。
「それだけか。賊の姿は見えたか」
斥候は、わずかに言い淀み、それから慎重に頷いた。
「岸壁の向こうに、魏将軍の部隊がおりました。それがしの姿を見るや、魏将軍みずから駒を進め、帰国することまかりならぬ、これより先は、丞相に代わり、この自分が指揮を執る、勝手な行動はつつしみ、早々に戻れと」
「ほかには」
「反逆者の楊威公に従うものは、今後、だれであれ厳罰に処すと」

反逆者との言葉に、さらに周囲のざわめきは強くなった。
魏延の行動力には、賞賛すらしたくなる。
急がねばなるまい。

文偉は、ひと呼吸おくと、厳しい声で、周囲にあつまった将兵に命じた。
「みな聞け! ただちに各部隊の将は、わが元へ集合せよ! そして、司馬の費文偉より全軍に通達する! 諸葛公は昨夜、息を引き取られた! これより、全軍は公の棺を守り、すみやかに漢中へ撤退する!」
文偉の声は大きく谷にひびき、こだまをともなって、静まり返った軍列のうえを通りぬけていった。
だれも声をたてるものは無かった。
さらに告げる。
「公が逝去されたことを受け、征西大将軍は反逆の意をあきらかにした! われらはこれを迎撃する! ただちに全軍南進、魏文長を討て!」

長い時間であった。
費文偉は、馬上より、自分にそそがれる目という目、顔という顔を、すべて見渡した。
伝令を束ねる将が、まっ先に我に返り、文偉の言葉をあまさず伝えるべく、それぞれに通達を命令しはじめた。
それをきっかけに、ふたたび波のようにざわめきが広がり、やがてそれは、おおきな潮となって、全軍に広がっていった。

谷にこだまする兵卒たちの声を、風の唸り声とともに聞きながら、文偉は、将たちを集めるために駒を進めた。
伝令が、馬を走らせながら、叫ぶ。
「丞相逝去! 征西大将軍が反逆! 全軍はただちに武装を整えよ!」
後ろより、姜維が追いかけてくる。
「討てとおっしゃるか。捕らえよ、ではなく」
「そうだ」
短く答え、文偉は沈黙した。
もはや迷いはなかった。

虚舟の埋葬 20

2009年08月08日 23時30分07秒 | 虚舟の埋葬
楊儀は、孔明の棺を、その近衛兵に守らせ、自分は輜車のなかにいた。
姜維と文偉が、先頭を行く楊儀に追いつき、孔明の死をみなに報せるべきだと提案すると、楊儀は、それを渋った。
「兵卒たちが、かえって絶望し、統制が取れなくなるのではないか」
というのが、楊儀の言い分である。
しかし文偉はかぶりを振った。
「いいえ、ほとんどが、夜が明ける前までは、敵を目の前にして過ごしていた者たちばかりでございますし、みな、亡き丞相への恩を忘れておりませぬ。
いま丞相の死を報せれば、かえってみな奮い立ち、緩んでいた士気もすぐに回復します。じき現われるであろう魏延に立ち向かうのも、追ってくる司馬仲達を迎え撃つのも、力を発揮出来ることでしょう」
筋が通った話であるし、楊儀は頷くであろうと思っていたのだが、しかし、これがうまくいかない。
「丞相が亡くなられたと聞けば、兵卒は、我らが逃げ帰るのだと誤解し、きっと怖じて動かなくなる。
逆に、丞相は生きておられると偽の情報を流し、われらの指示を丞相からの指示であるとして、軍を動かしたほうがよいのではないか」
「なりませぬ。魏将軍が現われれば、かならずや丞相がお亡くなりになったことを兵に告げ、我らがそれを隠しているのは、後継となるべき己を騙そうという、こちらの思惑があるからだと主張することでしょう。
それは、司馬仲達も同じこと。あの男のことです、おそらく、われらが急に撤退したことで、丞相の身に異変があったとすでに察していることでしょう」
とたん、楊儀の顔が険しくなった。
「なぜ仲達が、こちらの動きをそこまで読めるのだ。もしや、おまえは、司馬仲達の細作の存在を知りながら、野放しにしていたということか?」

野放しにしていたわけではない。
おそらく仲達に事態を知らせるのは、どこかに潜んでいるであろう細作ではなく、地元の民だ。
仲達は老練で抜け目がない。
地元の民を手懐け、こちらの動きを探らせていることは、文偉ばかりではなく、ほかの将も知っていた。
もちろん、敵と接触しないように注意をしていたが、それとて、完璧には防ぐことはできない。
ふたつの勢力に挟まれた場合、時勢に応じて、態度を変える。
それが民の知恵というものだ。
孔明が兵に厳命していたために、おなじ土地で、蜀の兵と地元の民が一緒に畑を耕せるほど、うまくは行っていたが、民とて、生きていくために、蜀に通じていたと疑われないようにしなければならない。
いまごろ仲達のもとに、異変をしらせに行っているはずだ。
これを止めることなど出来はしない。
それに、細作の存在云々は、この状況で問題にすべき話ではない。

「いまは、その話を論じている場合ではございませぬ」
「わたしに意見をするつもりか! それに、魏延が、自分が後継になるべきであると思い込んでいるとは、どういうことだ?」
話がまったく進まない。
文偉は焦れて、言った。
「それは、丞相が、己の後継は、魏将軍とも楊長史だとも、明言されておらぬからでございます!」
とたん、楊儀の顔に、朱が差した。
膝の上の握りしめた手に、ぐっと力が入る。
「おまえは、わたしが後継を僭称しているものとのたまうつもりか!」
「そうではありませぬ。しかし、魏将軍の行動を予測するに」
「黙れ! おまえはわたしが後継ということに、不満があるのであろう! おまえは、丞相の生前より、魏将軍とも懇意にしていた。あちらで、なにか言いくるめられたのではあるまいな!」

ふと気づけば、楊儀付きの部隊の将兵が、こちらを鋭く見つめているのに気づいた。
囲まれている。
楊儀のひとことで、拘束されかねない。

「費司馬は、言葉が足りぬだけでございます、楊長史」
と、激昂する楊儀をなだめるように、じつにやんわりと、優しい声音で姜維が口を挟んだ。
場違いなほど冷静な姜維に、楊儀も毒気を抜かれたのか、落ち着きを取り戻し、尋ねてくる。
「おまえの考えはどうだ」
「いまはっきりと判っていることは、魏将軍と司馬仲達、両者は、かならずわれらを襲ってくるということです。兵卒は、みな楊長史を認めております。
わたくしが危ぶみますのは、丞相の恩を忘れ、いまや賊と成り果てた魏将軍の口より、丞相の死が告げられること。兵卒は、たとえ楊長史に従っていても、なぜに丞相の死を黙っていたのかと、怪しみ出すことでしょう。
もとより、兵卒たちのほとんどは、純真な田舎育ち。中には、くだらぬ流言に乗せられ、魏将軍の言葉を鵜呑みにする輩も出てくるかもしれませぬ。司馬仲達が追ってきた場合にも、同じことが言えましょう。
悲しいことでございますが、たとえ信義はべつなところにあっても、命惜しさのあまり、容易に裏切る面が兵卒たちにはあるということを、頭に入れねばなりませぬ」
姜維のことばと文偉のことば、内容はまったく同じなのであるが、楊儀は、素直に感心して、頷いた。
「なるほど、おまえの言葉には筋が通る。兵卒たちをまとめるためにも、あえて正しい後継たるわたしが、正しい告知をせねばならぬ、ということだな」
激昂した己を恥じているのか、楊儀は、声をたてて笑った。
「すまぬな、わたしはどうも軍事には暗い。姜維、文偉と協力し、丞相がお亡くなりになったことをみなに伝える手筈を整えてくれ」
「お任せくださいませ。魏将軍は、いつ襲ってくるかわかりませぬ。かれの狙いは、貴方さまの首でございます。われらが命に替えてもお守りいたしますゆえ、どうぞ輜車に籠もり、丞相の棺をお守りください。あとは、わたくしどもがいたします」
楊儀は、すっかり気をよくし、大いに頷いた。
「うむ、では、一切はおまえたちに任せよう。わたしはここより指示を出す。くれぐれも、ぬかりのないようにな」
「そこはお任せを」
拱手しながら、姜維は、艶やかと評してもかまわないほど、人を惹きつける笑顔で応じた。

虚舟の埋葬 19

2009年08月07日 18時07分12秒 | 虚舟の埋葬
魏延の追っ手を気にしての帰還であったが、なんとか追いつかれはしなかったようである。
本営に戻れば、孔明の指示どおり、姜維は楊儀と協力し、手際よく、ほとんどの部隊を南に向けて出発させていたあとであった。
広い平原に、ずらりと並んでいた幕舎がなくなり、はためいていた色とりどりの錦の旗もなくなった。
厩舎には馬の姿はなく、留まっている部隊のほとんどは、文偉や姜維のものである。
かれらは、姜維の指示にしたがって、てきぱきと後片付けに励んでいた。
その中で忙しく動き回っている姜維を見つけると、文偉は駆け寄った。
「駄目だ。あの男は追ってくる」
文偉は、魏延のつくった一覧表と、北谷口であったことを、姜維に説明した。
姜維は、見事に分けられた一覧を見て、顔を曇らせて、言う。
「気づかれたとなれば、これだけ地理に習熟し、部隊の状態にも詳しい男。おそらく正直に追いかけてくることはなく、先回りして、われらを逆に迎え撃とうと考えるかもしれませぬ」
「なぜ?」
「魏将軍は、ここで戦を続けたいのです。費司馬は、自分が楊長史の使者だと言ったのでしょう? と、すれば、魏将軍は、自分を騙して置き去りにしようと画策しているのが楊長史だと思い、その首さえとれば、兵は己の意のままとなると思うはず。ならば、楊長史の首を取るために、先回りして南下するはずです」
「しまったな。楊長史の名を使うのではなかった。先発は、どれくらい先にいる?」
「まだそう先には行っておりませぬ。魏将軍のほうが地理に明るい。先回りは成功するでしょう」
「成功するでしょう、などと軽く言ってくれる。追うぞ」
「お待ちを。闇雲に追っても意味がない」
と、姜維は、北の空のほうを向いて、秀麗な容貌をきつくしかめた。
「われらの当面の敵は楊長史と魏将軍。だが、もっと恐ろしい敵が北には控えております。魏将軍が、突然に南下をはじめたのを見れば、おそらく、司馬仲達は異変に気づき、ただちに追ってくるでしょう」
「司馬仲達が、この機に乗じ、魏将軍へ投降を呼びかけることはないか」
「ありえませぬ。あの方のご気性は、費司馬のほうがよくご存知のはず。鶏口となるも牛後となるなかれ。それがあの方の信条といっていい。いまさら、敵に頭を下げるはずがない。楊長史さえ倒してしまえば、自分が蜀の実権を握ることができると信じているのですから」
「なるほど、たしかに。では魏将軍がまちがいなく南下し、われらの先回りをするとして、仲達はどう防ぐべきか」
「どうなさる」

文偉は、しばし考えた。

「楊長史ではなく、われらが軍の指揮を取るのだ。魏将軍があらわれても動揺しないように、いまは伏せておるが、丞相が亡くなられたことを、みなに明らかにしようと思う」
「なぜです。かえってみな、動揺しましょう」
「いいや。正しい情報がないからこそ、兵卒たちは動揺するのだ。丞相が生きているのに魏将軍が襲ってきたと聞くよりも、丞相が亡くなったからこそ、魏将軍が襲ってきたと筋が通る話を聞いたほうが、混乱から覚めやすい。司馬仲達も、我らが思った以上に混乱をしていないと見れば、むやみに襲っては来ないだろう。司馬仲達は信頼できる敵だ」
「敵のほうが信頼できるとは、皮肉なものですな。楊長史は、納得してくださるでしょうか」
「それは、あまり期待できぬ。だが、猶予はならぬ。急いで楊長史を追うぞ」

かくして、文偉と姜維は、それぞれの部隊を率いて、楊儀たちを追って、南下をはじめた。

楊儀たちは、さほど進んでいなかった。
故郷に向かう兵卒たちの表情は、みな怪訝そうで、自分立ちを追い越していく、固い表情の姜維や文偉の姿を見ると、首をひねりながら、ひそひそとやっている。
とはいえ、一部の兵卒たちのなかには、帰国できることを素直によろこび、仲間うちでのんきに歌を唄っている者すらいるほどだ。
主だった武将と、その側近である部将たちくらいしか、まだ孔明の死をしらない。
そのため、末端の兵卒や、それを束ねる士卒長、将兵たちは、どうも上の様子がおかしいとは思いつつも、黙って従っている、というふうだ。

ふとしたことで、士気は一気に弛む。
帰国できる喜びが勝って、戦意の失せたこの状況で、魏延に先回りされ、攻撃を受けたなら、大混乱になりかねない。
さらに、そこを司馬仲達に襲われたらと想像すると、恐ろしいどころの話ではない。
それだけは、なんとしても防がねばならなかった。

一人でも多くの士卒を、無事に帰してやりたい。
それは、よく事情を飲み込めないまま、魏延に従っている部隊の士卒も同じである。
魏延と楊儀の、生臭くもくだらない争いに、これ以上、ひとりでも巻き込みたくなかった。

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