はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

虚舟の埋葬 18

2009年08月06日 18時30分38秒 | 虚舟の埋葬
愚かな。
なんという愚かな者たちなのか。

楊儀と姜維は、すでに陣の撤退をはじめている。
取り残されたと知ったこの男は、きっと怒って追撃してくるだろう。
丞相は、やはりすべてを見通していたのだ。
自分の考えが甘かった。
見通していたということは、魏延の中にある野心も、楊儀の中にある野心も、すべて知っていたということである。
本来、支えてくれるべきはずの者が、こんな有様では、さぞかし苦しかったであろう。
孤独の中で、われらに苦しみを気取らせることもなく、ずっと耐えて、そして逝った。
いや、この二人が争いを止めなかったからこそ、丞相は寿命を縮めたのではないか。

この二人への不満の声は多かった。
呉の孫権などは、文偉が使者として呉におもむいたとき、同盟国とはいえ、他国の君主でありながら、公の場で、孔明の人事に疑問を述べたほどであった。
それらを無視し、才能を評価し、孔明は、二人を庇いつづけた。
二人とも、本当に恩を感じていれば、恨みや嫉妬など抱くこともなく、争いも起こさなかったはずだ。
孔明も、もっと安らかに逝くことができただろう。

いや、恩を感じろと要求することからして、この二人には無理なことだったのかもしれない。
自分と同等か、それ以上の他者を、決して認めまいとするこの二人の気性は、とてもよく似ている。
似ているからこそ、激しく憎み合っているのかもしれない。

二人を連れて行くと、孔明は言った。

文偉は、周囲に気取られぬよう、静かに息を整え、心を落ち着かせた。
おそろしいくらいに心が澄んでいる。
怒りや憎しみが、行き着くところまで行き着いて、違うものに変化してしまったのだろうか。
すべてが見渡せる。
為すべきことがわかる。
わたしはいま、丞相の代わりに、二人を葬り去ろう。
それが、ほかならぬあの方への手向けだ。
禍は、ここで防がねばならぬのだ。

「将軍のおっしゃることは判り申した」
文偉は、笑顔さえ見せて、魏延に言った。
魏延のほうは、賛同を得られるのが当然だと思っていたのか、大きく頷いた。
「そうであろう。貴殿は、楊長史とはちがう。それに、俺とは付き合いも深い。きっと判るであろうと思っていたぞ」
「わたくしは、将軍には良くしていただきましたし、それに、たしかに楊長史はご器量の狭い方。そのうえ、文官なのですから、軍の采配については疎いところがございます」
「その通りだ。やつは、葬儀の準備をしておればよい。とはいえ、丞相の遺体が腐らぬうちに準備を整えられるかな」
魏延の軽口に部将たちや息子たちは、いっせいに沸いたが、文偉は、口端をゆがめる程度に止めた。
笑ったのではない。
魏延への、限りない軽蔑をこめて、口を歪めてみせたのである。
気づかれないうちに拱手して口元を隠し、そして言った。
「では、楊長史には、わたくしから、魏将軍のご意向をお伝えいたしましょう。あの方は、たいそう取り乱しておられる。将軍のお言葉に、きっと頷かれると思います」
「うむ、貴殿を信じておるぞ。さっそく行け」
では、と辞去する文偉であるが、踵を返したところで、不意に魏延に呼び止められた。
「いや、待て。しばし待て」
なにか気取られたか。
文偉が慎重に振り返ると、魏延は、己の顎をさすりつつ、なにやら考え込んでいる。
「費司馬、本営の部隊の采配は、もう決まっているのか」
「と、申されますと?」
「うむ、部隊によっては、丞相が死んだことで、士気が落ちている可能性がある。とくに、丞相の直属の部隊は、使い物にならない可能性が高い。いまのうちに、留まる部隊と、丞相とともに帰還する部隊とで分けるべきだと思うのだ。しばし待て。すぐに分ける」

そう言って、文偉も驚いたことには、魏延は、部隊の配置図を片手に、じつに手早く、帰還する部隊と、留まる部隊を分けて、一覧を作ってみせた。
自分が孔明の後を継ぐのだという自負が強いだけあり、軍全体の部隊の様子、それらの得手不得手、それから北谷口だけではなく、漢中から成都にいたるまでの地形を、完璧に頭のなかに叩き込んでいる。
固く心を凍らせていた文偉も、その手際のよさと卓越した能力に、思わず感嘆した。
魏延は、書き上げた一覧を文偉に託した。
これを楊儀にみせて、このとおりに部隊を動かすように指示せよというのである。
惜しい。
この能力に、誠実さが伴っていれば、蜀の未来は、明るいものになったかもしれない。
一覧を受け取りながら、思わず文偉は正直なところを口にしてしまった。
「残念でございます」
口にしてから、しまったと思った。
魏延のほうを見れば、怪訝そうに眉をしかめている。
「なにが残念だ」
「いえ、丞相が亡くなられたことが、でございます」
「ああ、そうか。そうであろう。貴殿は、丞相に可愛がられておったからな」
誤魔化しきれたのか? 危ぶみながらも、文偉は早々に魏延の前から辞去し、馬にまたがる。
すると、魏延のいる幕舎から、部将がひとり、顔色をかえて駆け寄ってくるのが見えた。
文偉は、己の迂闊さを呪った。
やはり、誤魔化しきれなかったか。
文偉は舌打ちすると、姜維の馬の腹を蹴り上げ、制止の声をうしろに、一気に北谷口の軍門を飛び出して行った。

虚舟の埋葬17

2009年08月05日 20時01分06秒 | 虚舟の埋葬
文偉は、休まず、数騎を伴い、すぐに北谷口に向けて出発した。
伴をするのは、姜維がみずから選んだ、姜維の部隊のなかでも、特に腕が立ち、そのうえ口の固い者たちばかりである。
姜維は、かれらには、孔明が死去したことを伝えた。
そして、魏延が、万が一、文偉に危害をくわえようとした場合には、なにがあっても文偉を守り、北谷口を抜け出し、帰還せよと命じた。
孔明の死を知った、魏延と通じる者が、ひそかに使者を送っていないかと注意しながらの道中である。
一睡もしていない状態で、ひたすら北に向けて馬を走らせる旅は辛いものであったが、心が高揚しているためか、疲労はさほどおぼえずに済んだ。
魏延に、先に情報を与えてはならない。
あらわれた文偉に、本心とはちがう答えをする可能性があるからだ。
できることならば、大人しく、ともに成都に帰ると答えてほしかった。
孔明の遺言に背くことになる。
それは判っていたが、楊儀の本音を聞いたあとでは、どうしても、魏延の本心も聞きたかったのである。
楊儀も、魏延も、ともに先代を知る人間だ。
本来ならば、自分たちよりも、孔明を理解しているはずの人間である。
どちらかでも、孔明の死を悼み、志を守ろうと言ってほしかった。
楊儀がだめならば、せめて魏延だけでも。これもまた、感傷からくる悪あがきなのだろうか。

ほぼ半日をかけてようやくたどり着いた北谷口には、まだものものしい空気はない。
だれもまだ、己の先に到着していないことに安堵し、文偉は、魏延に目通りを願った。
あえて、楊儀から命じられた、と告げた。
魏延が、楊儀の名にこだわり、面会を拒むようならば、魏延が軍を動かす証左だ。
構えた文偉であるが、魏延はあらわれた。
いかつい顔に紅潮した頬をして、息子たちとともにあらわれた魏延を見て、文偉は、もしや、孔明のことが漏れたかと危ぶんだ。
しかし、孔明の死を告げた時点で、そうではないことがわかった。
魏延は、文偉が、わずかな伴だけをつれて、陣を訪れたことで、孔明の死を直感したのである。
魏延は、孔明の死の報に触れると、ひとすじの涙を流した。
そして孔明の死を悼むと述べた。
孔明のことを、あれほど臆病だと罵っていた男の涙に、文偉も心を動かされた。
同時に期待をする。
魏延は、ともに帰ると言ってくれるのではないか。

「丞相のご遺言で、全軍撤退と相成りました。この北谷口の陣も、すみやかに撤収を願いたい」
しかし魏延は、その言葉が出ることを予測していたらしく、とうに涙を乾かし、腕を組んだまま、文偉に尋ねた。
「指揮はだれが執る」
「楊長史でございます」
とたん、魏延は鼻で笑い、うしろに控える息子たちも失笑を漏らした。
それは、まわりで話を聞いている部将たちも同じであった。
魏延は、笑いが収まるのを待ってから、吐き捨てるように言った。
「笑止! 楊儀ごときに軍を統率できるものか!」
「しかし、ご遺言にございます」
文偉が食い下がると、魏延は、顔を険しくして、一歩、文偉に歩み寄った。
「費司馬、俺をだれと思う。先帝の御世において、漢中を守りきり、蜀の今日を築いた男、魏文長なるぞ。いま、諸軍を見渡すに、俺ほどの功績を上げた者がおるか? 司馬仲達が動かぬのも、蜀に魏文長ありと恐れているからだ」
文偉の脳裏には、趙直の夢解きの話がすぐに浮かんだ。
まさか、魏延は、趙直の麒麟にかこつけたでまかせを疑うこともせず、鵜呑みにしているのではないか。
楊儀と魏延。お互いに憎悪を燃やし、ついには、まともな判断も出来ぬほどに、狂ってしまったのか。

「楊儀ごときに従い、殿(しんがり)など務められぬ! 貴殿はいますぐ楊長史のもとへ帰還し、こう伝えよ。貴殿らは、丞相のご遺体を持って、成都に帰れ。兵卒は、俺がもらう」
不遜な言葉に文偉は眉をひそめるが、魏延は高らかにつづける。
「丞相がお亡くなりになったことは、たしかに国の大事である。しかしだ、この北伐は、中原回復を目的とした、先代からの悲願であろう。それを、たった一人の人間が死んだからといって、廃するわけにはいかん!」
まったくだ、文官は、これだからいかん、などといった声が、魏延の息子たち、部将たちから、口々に漏れた。
ちょうど、文偉は、それらに囲まれる形となった。
結束力は高い、というわけか。
魏延は、たしかによく兵をまとめているようだ。
だが。

文偉は、気を鎮め、息をつくと、再度尋ねた。
「では、将軍は、このまま戦を続けられるとおっしゃるか」
「当たり前だ。丞相が死んだことは、いずれ司馬仲達にも知れる。そうなれば、連中はここぞとばかり、打って出るであろう。そこを、俺が迎撃するのだ。反撃はないと思っているであろうから、連中は泡を食って逃げ出そう。丞相すら為しえなかったことを、俺が成功させれば、国の者も、楊長史と俺と、どちらが上か、判るというものだ」
魏延は高らかにいうと、周囲の賛同を求める。
その素振りに呼応し、四方から、そうだ、そのとおりだと、追従の声が起こった。
愚かな。
この人も駄目かという失望と同時に、冷たく、それでいて、滾るような憎悪が、文偉の中に生まれた。
魏延は、兵卒たちの中にある、孔明への絶大な信頼を、あまりに過少評価している。
それは、魏延の、孔明に対する想いがどんなものであったかを、暴露するものであった。
陣を維持したところで、孔明が死んだと知れば、子飼いの部将らはともかく、兵卒たちの士気は落ちるのは明らか。
そんな状態で、夢占の結果にしがみ付き、ろくな戦術もなく老練な司馬仲達にぶつかれば、どちらが勝つか、それは文官である自分でさえ、すぐに答えが出せる問題だ。

虚舟の埋葬 16

2009年08月04日 20時24分13秒 | 虚舟の埋葬
孔明の幕舎に戻ると、すすり泣きのつづく中で、姜維は、ひとりだけ、人の輪から外れて、孔明の棺を見つめている。
表情をなくし、目を見開いたまま、涙がこぼれるままに任せていた。
それが、まるで、父親に先立たれ、この世にたった一人で残された子供のように見えて、ひどく哀れに見えた。

悲しみにくれる周囲の人々に気取られぬように注意しながら、文偉は近づくと、茫然自失の態にある姜維に呼びかけた。
「姜将軍、姜将軍」
しかし、姜維はまったく反応を示さず、人形のように動こうとしない。
文偉はちいさくため息をついて、それから、両の手で姜維の頬を挟むようにして打つと、再度、呼びかけた。
「伯約!」
字を呼ばれたことが意外だったのか、姜維は、驚いたような顔をして、ようやく文偉のほうに顔を向けた。
しかし、まだ現実に意識が戻らないのか、目の前に文偉がいることが、理解できないようである。
とはいえ、ゆっくりと姜維の回復を待ってはいられなかった。
文偉は、姜維の肩を抱くようにして、人々の目に付かぬように、幕舎の暗がりに屈みこんだ。
「おまえの悲しみはわかる。しかし、聞け。丞相のお志を曲げようとする者を、我らは排除せねばならぬ。すぐに動かねば、遅れを取る」
「丞相のお志を曲げる?」
それまで無表情であった姜維の顔に、ようやくはっきりと感情が兆した。
文偉は、こくりと頷く。
「いま、われらの敵は、もはや司馬仲達ではない」
では、だれか、と問いたげな姜維に目配せをして、文偉は、周囲がこちらを見ていないか気をつけながら、素早く地面に二文字を記した。




魏延はともかく、楊儀を示す字に、姜維は冷静な武将の顔を取り戻し、怪訝そうに顔を上げる。
「丞相の後継は、楊長史ではない。蒋琬だ。楊長史は、いまだそのことを知らず、己がつぎの後継だと信じておる。魏将軍を討ったあとは、成都に帰還し、丞相の後継として、陛下に取り入り、軍を完全に撤退し、蜀に籠もる作戦を取るつもりだ」
と、姜維に説明しながらも、文偉は、ふと、いやな可能性を思い描いた。

孔明と劉禅の絆が厚いものだと信じていたが、本当にそうか? 
孔明とはべつに、楊儀は劉禅と、なんらかの連絡を取ってはいないだろうか。
楊儀の言葉が妄想ではないとしたら、劉禅の心は、楊儀の語ったとおりであるということだ。
孔明は、次の後継を蒋琬と指名し、了解を得ていたといっていた。
しかし、それは本当に、劉禅の納得の上でのことだったろうか。
孔明の志を引き継ぐ蒋琬を、土壇場になって認めないと言い出す可能性はないか。

文偉は、劉禅が皇太子であったころから、側に仕えていた。
だが、劉禅という人物、それこそ空気のようにつかみ所がない。
正直で素直かと思えば、平然と嘘をつくし、孤独を好むかと思えば、急に思い立って、派手な宴を開こうと言い出す。
そして、どれだけ尽くしても、劉禅は文偉たちに心を開こうとしなかった。
霧の向こうに身を隠しつづけて姿を現そうとしないひとと、ともに旅をしているような、奇妙な感覚がある。
ある程度、気心もしれているのだが、本音は明確ではないのだ。
しかも厄介なことに、こちらの気性は読まれているから、自分の気に染まぬことを文偉らが考えていると、野兎のように敏感に、逃げ出してしまう。
そんなふうであるから、楊儀の言葉を、妄言と一蹴できないのだ。
たとえ、すべてが事実ではないとしても、たしかに、楊儀や、劉禅の周囲にいる、孔明に反発を抱いていた一派が工作をはじめるまえに、成都の蒋琬たちも、自分たちの足場を固めておく必要がある。
孔明の死を知らせる早馬は出した。
蒋琬や休昭は、孔明の遺志を汲み取り、うまくやってくれているだろうか?

そして、もともと人を疑い、策謀を張り巡らせることが得意ではない文偉は、苛立って、己の頭をかきむしる。
ええい、なんと苦しい。
そして苛立たしいことか。
おのれの君主まで疑わねばならぬとは!

「どうなさいました」
姜維が、すでにいつもの顔を取り戻し、心配そうに尋ねてくる。
強い男だ、と文偉は心強く思う。
「すまぬな。平静であらねばならぬと判っているのだが、わたしも動揺してしまっているのだ」
「当然でしょう。動揺しないほうが、どうかしている」
「そうだ。どうかしているのだ。伯約よ、わたしはこれより、北谷口に参ろうかと思う」
文偉のことばに、姜維はおどろいて、体ごと、文偉のほうを向いた。
あわてて、文偉は周囲を気にしつつ、たしなめる。
「落ち着いて聞け。たしかに丞相はああ仰られたが、楊長史の思惑が明らかになった以上、魏将軍ばかりに一方的に責めを負わせるような結果になるのは、心苦しい。せめて、機会をさしあげたいのだ。魏将軍が、まことに趙直の見たように、二心があるのか、それを確かめてくる」
「お一人で大丈夫ですか」
その言葉に、文偉はわずかに笑みを浮かべた。
「大丈夫もなにも、ここには、おまえとわたし意外に、もはや丞相のお志を、真に引き継ぐ者はいない。二人で出かければ、楊長史は暴走する。おまえは、楊長史に注意してくれ」
「判り申した。では、わたしの馬をお貸しいたします。おそらくこの陣で、もっとも足の速い馬でございますゆえ」
「うむ、助かる。おまえは、楊長史、馬将軍と協力し丞相のご遺体を守り、兵卒たちが動揺せず、無事に成都に帰れるように進めよ。ご遺体は、魏の動きをいつでも見ていられるように、漢中の定軍山に葬ってくれとの、あの方の御遺言だ」
「あの方らしい」
そういって笑う姜維の目先には、孔明の棺があり、その睫毛には、涙の玉が浮かんでいた。

虚舟の埋葬 15

2009年08月03日 19時29分15秒 | 虚舟の埋葬
「大丈夫でございますか」
文偉が問うと、とたん、楊儀は不機嫌そうに顔をしかめた。
「なにを大丈夫だと問うか。これほど目出度いことはないというのに」
「目出度い?」
鸚鵡返しにすると、楊儀は、声を立てずに、肩を震わせて笑った。
篝火に浮かび上がるその顔は、慣れ親しんだ上役のものではなく、悪鬼のそれに見えた。
「やはり、丞相は、考えを改めてくださったのだ。魏延めの首を、ようやく取ることができる。のう、文偉よ、魏文長を討ち、その後、成都に帰ったあとは、だれを武官の長に据えるべきかな。姜維であろうか。それとも王平かな」
「斯様なことは、陛下がお決めになります。いまは」
いまは、丞相の死を悼み、すみやかに行動を、と続けようとした文偉であるが、楊儀ははげしく顔をゆがめた。
「いまは、なんだという。陛下はお喜びになっておられるだろう。なんだ、その顔は。知らぬとは言わせぬぞ。みなは黙っているが、気づいておるはずだ。
陛下は、丞相が、いつおのれの地位を襲うかと、恐れておられたのだ。その心配がなくなったのだから、陛下のために目出度いと言って、なにが悪い。
丞相は亡くなられた。陛下は安堵されておる。下手に丞相のことを口に出せば、ご不興を買う可能性がある。水のように臨機応変に動かねばならぬぞ。わたしは、丞相とちがうということを、陛下に示さねば」
劉禅の気持ちを勝手に代弁し、支離滅裂な話を、うわ言のように語る楊儀を、文偉は呆然と見つめた。
あれほど孔明に庇われていながら、この男の本音は、これだというのか?
「丞相の死を、悲しく思われませぬのか」
「悲しいとも。それなりにご恩もある。しかし、文偉は若いから知らぬか。あの方は、先主の時代より、いつ帝位を襲うか判らぬ者として、つねに警戒されてもいたのだ。丞相が亡くなったことで、かえって真の平安が蜀に訪れよう」
「平安ですと? まだ世に賊がはこびっているというのに?」
文偉が言うと、楊儀は、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「勝ち目のない戦を繰り返す意味がどこにある。戦はもうよい。寿亭侯と共に荊州が失われた時点で、われらに勝ち目はもうなくなっていたのだ。丞相はそれを分かってくださらなかった。先主が亡くなられ、陛下がお若いことを幸い、ご自分の好きなように蜀を変えてしまわれた。
丞相の頑なさを、陛下は恐れていたのだよ。今後は、我らは蜀にあり、呉と魏がたがいに潰しあうところを眺めていればよい。そして、両国が疲弊したところを奪うのだ。
魏文長のように、血気にはやる男は不要だ。やつは、自分こそが先帝の志を引き継いだ、丞相はそれを曲げておる、などとうそぶいて、やたらと兵を動かそうとするが、蜀の内情を知らず、猪のように突進するばかりで能がない。たしかに兵には詳しいかもしれぬが、それとて、漢中の周囲では、というだけだ。やつこそ、井の中の蛙というべき輩ぞ。
魏文長を斬れという丞相の言葉は、死に際に、ご自分の過ちに気付き、今後は、つつしんで国を守り、漢中から北へは出てはならぬと、伝えようとしていたのだ。あの方も誇り高いゆえ、最後に己の過ちを口にすることは憚られたのであろうが、わたしには判っている」
「丞相を、愚弄なさるおつもりか?」
思わず声を尖らすと、するどく楊儀が睨みつけてきた。
「黙れ、おまえは長く内地にあり、平和のなかで物事を考えてきた。おまえや、おまえが懇意にしている蒋琬の考えなぞ、所詮は実情から遠い、机上の空論にすぎぬ。前線で命の駆け引きをしてきたわたしとは、重さがちがうのだ!」

それでは、魏延と同じではないかと、文偉は呆然と、憎憎しげに顔をゆがませる楊儀を見つめた。
楊儀は、そもそも、関羽に心服し、劉備の配下に加わった人物であった。
関羽や劉備など、先代の時代の武将をことさら美化し、かれらの生き様を称揚しながらも、志は引き継がず、安寧と地位を求めた。
それなのに、逆に、その生き様を冷徹に見据え、志を引き継ぎながらも、その手法は踏襲しなかった孔明に、ずっと反発を抱いていたのだ。

いや、嫉妬だ。
自分こそ先帝の志を守っていると思い込み、安全な場所にいて命を危険にさらすことも稀であった男が、本来、自分が座るべき地位にいることを、ずっと恨みに思っていたのだ。
諸葛孔明の人生は、楊儀が思っているように、安全であったろうか。
命を危険にさらしてこなかっただろうか。
安穏たる道ではなかったことを、二十年間、そばにいて、文偉は知っている。

なぜ。
文偉は、もうこの世にはいない孔明に、心で呼びかけた。
先代の時代を知っているという、その感傷から、楊儀を使い続けたのか。
楊儀の内側にある暗い想念を、読み通してもなお、許して、気づかぬ振りをして、使い続けたのか。
だとしたら、諸葛孔明という人は、なんと孤独で、なんと偉大であったのだろうか。
わたしには駄目だ。
このひとを許すことができそうにない。

「成都への帰還の準備をいたします」
それ以上、会話をつづけたくなかった。
楊儀のなかに押し殺されていたものが、溢れ出るさまを、眺めていたくなかった。
文偉は、楊儀に礼を取って、その前から去った。
風が吹き、腰に帯びた、翡翠の飾りが、丁丁と音を立てて揺れる。
楊儀は、自分が孔明の後継に選ばれたのだと、頭から信じ込んでいる様子である。
だが、それはない。
貴殿には、なにひとつ渡さぬ。
急激に冷えていく心のなかで、文偉はつぶやいた。

虚舟の埋葬 14

2009年08月02日 16時15分49秒 | 虚舟の埋葬
その後、姜維が帰還し、楊儀と文偉、そして姜維は、連れ立って孔明の元へと向かった。
孔明は、三人に、魏延は、自分が死んだらかならずや北谷口より、兵を率いて南下してくるだろうと説き、それを防ぐため、自分の喪を伏せさせ、魏延を北谷口に置き去りにし、気づいて追ってきたところを迎撃せよ、と伝えた。
先に、趙直の夢占いの一件を、孔明によって伝えられていた姜維は、後顧の憂いを失くすためという孔明の言葉に沈黙し、異議を唱えてこなかった。

しかし、多くの問題も起こしたとはいえ、長い間、ともに戦ってきた仲間である。
魏延にも、言い分があるのではないか。
改悛の余地があるならば、機会を与えてやるべきではないのか。
時間が経つごとに、文偉は、そのことを強く思うようになっていた。

姜維は孔明の幕舎から立ち去ろうとしない。
姜維の顔色は、目に見えて悪くなり、まるで自分が死に行く人のようである。
孔明のために、遠方の村へ薬草を採りに行った健気さを思えば、哀れであった。
孔明より授かった策のための準備があるのであるが、文偉は、あえて姜維に声をかけずに、そのままにした。
師弟というのも違う。まるで親子のようだ。
子と、その父が、最期の別れに臨んでいる。
別れまでの短いあいだに、孔明が、姜維といることで、すこしでも苦しみが軽くなればよいと思った。
時間が足りないといって嘆き、これからの姜維の身を案じた孔明のことを思うと、また悲しくなってくる。
文偉は、姜維の分まで采配をすることにして、時間を過ごした。かえって、体と頭を使っているほうが、苦しまずに済み、冷静でいられた。




風の強い夜であった。
その夜、孔明は静かに世を去った。
姜維が、激しく感情を乱すところを、文偉は初めて見た。それは最初で最後のこととなる。
文偉は、号泣し、取り乱す姜維をなだめ、孔明の遺体を、侍医とたちが丁寧に整えていくのを見守った。
燭の明かりに浮かび上がる、孔明の遺体を見て、文偉は涙しながらも、おもわず笑ってしまった。
あんな薄暗がりで、懸命に自分を隠していたくせに、なんであろう、その表情は、まるで寝入っているかのように穏やかで、面貌はすこしも崩れておらず、無垢な少年のようであった。
激しく泣きつづける姜維の背をなぜたり、肩を抱いたりしてなだめつつ、文偉は、自分のもっとも美しく、楽しかった時代が、ともに棺に納められていくのを眺めていた。
自分の一部もまた、この人と共に、葬られていく。
二度と、戻ることはない。

姜維を、幼い弟にするように、けんめいになだめながら、ふと視線をおぼえて顔をあげれば、楊儀が、こちらを見て、目で、外へ、と伝えてくる。
文偉は、姜維が感情の波にさらわれて、自刃してしまわぬかと、そのことを恐れていたので、駆けつけてきた馬岱に姜維の世話を頼み、自分は楊儀とともに外へ出た。
風がうなり声をあげて、すべての幕舎を揺らしている。
それでも孔明は、自分の喪を伏せよと命じたため、ほかの幕舎は、日ごろと変わらぬ静謐さを保っている。
すでにほとんどが寝入っており、たまに、風の音のなかにまぎれて、馬のいななきが聞こえてくるだけだ。
振り返れば、孔明の幕舎だけが、異様な活気を呈しており、文偉は、自分が歩きながら夢を見ていて、目を覚めたなら、孔明がまだ生きているのではないかと夢想した。
生きていて、自分がこんな夢を見たのだと、笑って話せたら、どんなによいだろう。
愚かしい考えに、自分を叱る。
いまから、こんな心の弱いことでどうするのか。
ふたたび溢れた涙袖で拭い、濡れた頬を、秋風が乾かしてくれるのを待った。

「これより、各将をあつめ、すみやかに陣をととのえ、成都へ帰還する」
楊儀が言った。
自分よりも冷静な先輩官吏に、やはり、この方は、多くの経験を踏んでいるだけに、強いのだなと文偉は思う。
「文偉よ」
ふと、楊儀が、いつになく、声を殺して尋ねてきた。
篝火に浮かぶ楊儀の顔を見て、文偉は、思わず、後ずさりをした。
それは、悲しみと歓喜が複雑に混じった、人のものとも思えぬ不気味な顔をしていた。
悲しみはわかる。
しかし、なにを喜ぶ?
孔明を失った悲しみのあまり、狂ってしまったのではないか?
文偉がうろたえ、言葉を失くしていると、見ているのか見ていないのか、焦点も定かではない目で、楊儀は言った。
「我らは、成都に帰らねばならぬが」
「はい」
「その前に、魏将軍を討つ。さて、だれを殿(しんがり)にするべきか」
「何平が適任かと」
何平は、冷静な男である。
過度に感情的にならずに、命じられたとおりに動くことが可能だ。
そうか、と楊儀は満足そうに頷いて、それから肩を震わせた。
涙をこらえているのではない。
笑いをこらえているのである。
なぜに笑う。
孔明の死によって、楊儀の緊張が一気に解けてしまい、狂乱の域に達してしまったのか。
ぞっとする眺めであった。
これを狂っているといわずして、なんといおう。
文偉は、楊儀の心が、想像以上に痛めつけられているのを知った。

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