愚かな。
なんという愚かな者たちなのか。
楊儀と姜維は、すでに陣の撤退をはじめている。
取り残されたと知ったこの男は、きっと怒って追撃してくるだろう。
丞相は、やはりすべてを見通していたのだ。
自分の考えが甘かった。
見通していたということは、魏延の中にある野心も、楊儀の中にある野心も、すべて知っていたということである。
本来、支えてくれるべきはずの者が、こんな有様では、さぞかし苦しかったであろう。
孤独の中で、われらに苦しみを気取らせることもなく、ずっと耐えて、そして逝った。
いや、この二人が争いを止めなかったからこそ、丞相は寿命を縮めたのではないか。
この二人への不満の声は多かった。
呉の孫権などは、文偉が使者として呉におもむいたとき、同盟国とはいえ、他国の君主でありながら、公の場で、孔明の人事に疑問を述べたほどであった。
それらを無視し、才能を評価し、孔明は、二人を庇いつづけた。
二人とも、本当に恩を感じていれば、恨みや嫉妬など抱くこともなく、争いも起こさなかったはずだ。
孔明も、もっと安らかに逝くことができただろう。
いや、恩を感じろと要求することからして、この二人には無理なことだったのかもしれない。
自分と同等か、それ以上の他者を、決して認めまいとするこの二人の気性は、とてもよく似ている。
似ているからこそ、激しく憎み合っているのかもしれない。
二人を連れて行くと、孔明は言った。
文偉は、周囲に気取られぬよう、静かに息を整え、心を落ち着かせた。
おそろしいくらいに心が澄んでいる。
怒りや憎しみが、行き着くところまで行き着いて、違うものに変化してしまったのだろうか。
すべてが見渡せる。
為すべきことがわかる。
わたしはいま、丞相の代わりに、二人を葬り去ろう。
それが、ほかならぬあの方への手向けだ。
禍は、ここで防がねばならぬのだ。
「将軍のおっしゃることは判り申した」
文偉は、笑顔さえ見せて、魏延に言った。
魏延のほうは、賛同を得られるのが当然だと思っていたのか、大きく頷いた。
「そうであろう。貴殿は、楊長史とはちがう。それに、俺とは付き合いも深い。きっと判るであろうと思っていたぞ」
「わたくしは、将軍には良くしていただきましたし、それに、たしかに楊長史はご器量の狭い方。そのうえ、文官なのですから、軍の采配については疎いところがございます」
「その通りだ。やつは、葬儀の準備をしておればよい。とはいえ、丞相の遺体が腐らぬうちに準備を整えられるかな」
魏延の軽口に部将たちや息子たちは、いっせいに沸いたが、文偉は、口端をゆがめる程度に止めた。
笑ったのではない。
魏延への、限りない軽蔑をこめて、口を歪めてみせたのである。
気づかれないうちに拱手して口元を隠し、そして言った。
「では、楊長史には、わたくしから、魏将軍のご意向をお伝えいたしましょう。あの方は、たいそう取り乱しておられる。将軍のお言葉に、きっと頷かれると思います」
「うむ、貴殿を信じておるぞ。さっそく行け」
では、と辞去する文偉であるが、踵を返したところで、不意に魏延に呼び止められた。
「いや、待て。しばし待て」
なにか気取られたか。
文偉が慎重に振り返ると、魏延は、己の顎をさすりつつ、なにやら考え込んでいる。
「費司馬、本営の部隊の采配は、もう決まっているのか」
「と、申されますと?」
「うむ、部隊によっては、丞相が死んだことで、士気が落ちている可能性がある。とくに、丞相の直属の部隊は、使い物にならない可能性が高い。いまのうちに、留まる部隊と、丞相とともに帰還する部隊とで分けるべきだと思うのだ。しばし待て。すぐに分ける」
そう言って、文偉も驚いたことには、魏延は、部隊の配置図を片手に、じつに手早く、帰還する部隊と、留まる部隊を分けて、一覧を作ってみせた。
自分が孔明の後を継ぐのだという自負が強いだけあり、軍全体の部隊の様子、それらの得手不得手、それから北谷口だけではなく、漢中から成都にいたるまでの地形を、完璧に頭のなかに叩き込んでいる。
固く心を凍らせていた文偉も、その手際のよさと卓越した能力に、思わず感嘆した。
魏延は、書き上げた一覧を文偉に託した。
これを楊儀にみせて、このとおりに部隊を動かすように指示せよというのである。
惜しい。
この能力に、誠実さが伴っていれば、蜀の未来は、明るいものになったかもしれない。
一覧を受け取りながら、思わず文偉は正直なところを口にしてしまった。
「残念でございます」
口にしてから、しまったと思った。
魏延のほうを見れば、怪訝そうに眉をしかめている。
「なにが残念だ」
「いえ、丞相が亡くなられたことが、でございます」
「ああ、そうか。そうであろう。貴殿は、丞相に可愛がられておったからな」
誤魔化しきれたのか? 危ぶみながらも、文偉は早々に魏延の前から辞去し、馬にまたがる。
すると、魏延のいる幕舎から、部将がひとり、顔色をかえて駆け寄ってくるのが見えた。
文偉は、己の迂闊さを呪った。
やはり、誤魔化しきれなかったか。
文偉は舌打ちすると、姜維の馬の腹を蹴り上げ、制止の声をうしろに、一気に北谷口の軍門を飛び出して行った。
なんという愚かな者たちなのか。
楊儀と姜維は、すでに陣の撤退をはじめている。
取り残されたと知ったこの男は、きっと怒って追撃してくるだろう。
丞相は、やはりすべてを見通していたのだ。
自分の考えが甘かった。
見通していたということは、魏延の中にある野心も、楊儀の中にある野心も、すべて知っていたということである。
本来、支えてくれるべきはずの者が、こんな有様では、さぞかし苦しかったであろう。
孤独の中で、われらに苦しみを気取らせることもなく、ずっと耐えて、そして逝った。
いや、この二人が争いを止めなかったからこそ、丞相は寿命を縮めたのではないか。
この二人への不満の声は多かった。
呉の孫権などは、文偉が使者として呉におもむいたとき、同盟国とはいえ、他国の君主でありながら、公の場で、孔明の人事に疑問を述べたほどであった。
それらを無視し、才能を評価し、孔明は、二人を庇いつづけた。
二人とも、本当に恩を感じていれば、恨みや嫉妬など抱くこともなく、争いも起こさなかったはずだ。
孔明も、もっと安らかに逝くことができただろう。
いや、恩を感じろと要求することからして、この二人には無理なことだったのかもしれない。
自分と同等か、それ以上の他者を、決して認めまいとするこの二人の気性は、とてもよく似ている。
似ているからこそ、激しく憎み合っているのかもしれない。
二人を連れて行くと、孔明は言った。
文偉は、周囲に気取られぬよう、静かに息を整え、心を落ち着かせた。
おそろしいくらいに心が澄んでいる。
怒りや憎しみが、行き着くところまで行き着いて、違うものに変化してしまったのだろうか。
すべてが見渡せる。
為すべきことがわかる。
わたしはいま、丞相の代わりに、二人を葬り去ろう。
それが、ほかならぬあの方への手向けだ。
禍は、ここで防がねばならぬのだ。
「将軍のおっしゃることは判り申した」
文偉は、笑顔さえ見せて、魏延に言った。
魏延のほうは、賛同を得られるのが当然だと思っていたのか、大きく頷いた。
「そうであろう。貴殿は、楊長史とはちがう。それに、俺とは付き合いも深い。きっと判るであろうと思っていたぞ」
「わたくしは、将軍には良くしていただきましたし、それに、たしかに楊長史はご器量の狭い方。そのうえ、文官なのですから、軍の采配については疎いところがございます」
「その通りだ。やつは、葬儀の準備をしておればよい。とはいえ、丞相の遺体が腐らぬうちに準備を整えられるかな」
魏延の軽口に部将たちや息子たちは、いっせいに沸いたが、文偉は、口端をゆがめる程度に止めた。
笑ったのではない。
魏延への、限りない軽蔑をこめて、口を歪めてみせたのである。
気づかれないうちに拱手して口元を隠し、そして言った。
「では、楊長史には、わたくしから、魏将軍のご意向をお伝えいたしましょう。あの方は、たいそう取り乱しておられる。将軍のお言葉に、きっと頷かれると思います」
「うむ、貴殿を信じておるぞ。さっそく行け」
では、と辞去する文偉であるが、踵を返したところで、不意に魏延に呼び止められた。
「いや、待て。しばし待て」
なにか気取られたか。
文偉が慎重に振り返ると、魏延は、己の顎をさすりつつ、なにやら考え込んでいる。
「費司馬、本営の部隊の采配は、もう決まっているのか」
「と、申されますと?」
「うむ、部隊によっては、丞相が死んだことで、士気が落ちている可能性がある。とくに、丞相の直属の部隊は、使い物にならない可能性が高い。いまのうちに、留まる部隊と、丞相とともに帰還する部隊とで分けるべきだと思うのだ。しばし待て。すぐに分ける」
そう言って、文偉も驚いたことには、魏延は、部隊の配置図を片手に、じつに手早く、帰還する部隊と、留まる部隊を分けて、一覧を作ってみせた。
自分が孔明の後を継ぐのだという自負が強いだけあり、軍全体の部隊の様子、それらの得手不得手、それから北谷口だけではなく、漢中から成都にいたるまでの地形を、完璧に頭のなかに叩き込んでいる。
固く心を凍らせていた文偉も、その手際のよさと卓越した能力に、思わず感嘆した。
魏延は、書き上げた一覧を文偉に託した。
これを楊儀にみせて、このとおりに部隊を動かすように指示せよというのである。
惜しい。
この能力に、誠実さが伴っていれば、蜀の未来は、明るいものになったかもしれない。
一覧を受け取りながら、思わず文偉は正直なところを口にしてしまった。
「残念でございます」
口にしてから、しまったと思った。
魏延のほうを見れば、怪訝そうに眉をしかめている。
「なにが残念だ」
「いえ、丞相が亡くなられたことが、でございます」
「ああ、そうか。そうであろう。貴殿は、丞相に可愛がられておったからな」
誤魔化しきれたのか? 危ぶみながらも、文偉は早々に魏延の前から辞去し、馬にまたがる。
すると、魏延のいる幕舎から、部将がひとり、顔色をかえて駆け寄ってくるのが見えた。
文偉は、己の迂闊さを呪った。
やはり、誤魔化しきれなかったか。
文偉は舌打ちすると、姜維の馬の腹を蹴り上げ、制止の声をうしろに、一気に北谷口の軍門を飛び出して行った。