※
「急いでいるのに雨とは。しかもなんだ、この天地を逆さにしたような降りっぷり。まるで海の水が空からこぼれ落ちているようではないか。
途中で廃屋が見つけられてよかった。これがなければ、かなり悲惨なことになっていたぞ」
「海の水が空からこぼれるとはふしぎな喩えをいうものだ。天に海はあるのか?」
「天に行ったことがないからわからぬが、秦(宓)子勅という、古書から引っ張り出したウンチクを引っ張り出してヘ理屈をこねさせたら、右に出る者はないという、口ばかり達者で実のない面倒な使者が来た場合に、追っ払い役をさせるのに最適な男がいるのだが、そいつに聞いたら、なにかわかるかもしれないな。
すごいのだ、いろいろ。ちょっと間違いをすると、すぐ怒るし。だから友達もいないらしい」
「あんたのまわりには、ほかにはだれがいる」
「そうさな、質実剛健を絵に描いたような董幼宰、いつも顔は笑っているけれど、心はいじけている、友達がみんな魏にいる劉(巴)子初、さぼってばかりだが友達は多い許(靖)文休、ガミガミうるさい、友達はそこそこいるが本人は否定している胡偉度……ほかにもいろいろ取り揃っておる」
「個性的だな。友達がすくないやつが多い気がするが」
「そうさ。だからわたしが友人をしてやっているのだよ」
「逆かもしれないぞ」
「……子龍、ほんとうにわたしに慣れてきたようだな」
「慣れたとも。おい濡れて冷えているだろう。もうすこし火のそばに寄ったらどうだ」
「こんな狭い、しかも雨漏りのひどい小屋しか雨を避ける場所がないとは、これも反動だろうか。あんまりそばに来ないでくれないか。この距離感に慣れていない」
「もうすこしで天水なのにな。まあ、この雨であれば、女のほうも足止めを食らっているだろうよ。しかし、ほんとうにすごい雨だな。海と天が引っくり返ったようだ。あんたは海を見たことがあるか」
「琅邪にいるときに、父上に連れて行ってもらったことがあるな。たしか、叔父上が遊びにいらしたので、三人で、泊りがけで遊びに行ったのだ。
漁師がちょうど網引き漁をしていたので、一緒に手伝って網を引っ張った記憶がある。帰りにきれいな真っ白い貝殻をもらったのだが、白水素女は出てこなかったな」
「白水素女? あの、貝殻から天帝の美人の娘が出てきて、留守のあいだにいろいろと家事をしてくれたという、あれか?」
「なんだ、その笑いは。わたしだって、そういう女人がいたらいいなと、子供心にあこがれた時期があったのさ。
もらった貝はずっと大事にしていたのだが、揚州で叔父上といっしょに南陽へ逃げる際に、どこかへ行ってしまった」
「揚州から南陽へ? またずいぶんな移動だな」
「袁術の力が弱くなったので、孫策が宮廷に根回しをして、揚州を手中にいれるべく、太守を送り込ませたのだ。
あのころの揚州は、孫策と袁術、劉表の三つ巴の対立が起こっていたからな。で、叔父は負けた。戦うことで、民を巻き込みたくなかったのだろう。
けれど、民は無慈悲にも、賞金目当てに叔父と、われらを襲ってきた。
袁術は援軍を送って来なかった。偽帝として即位した頃だったから、忙しかったのだろうさ。
袁術はあてにならないと見切りをつけた叔父は、もともとよしみのあった劉表のもとへと逃げたのだよ。
もらった白い貝殻は、たぶん、どさくさでだれかに盗まれたか、でなければ、つまらぬものとして、割られてしまったかしたのだろう」
「俺は海を知っているのだろうか」
「知っているのではないかな。ああ、でも聞いたことがなかったな」
「もう本当に指摘に飽きたが」
「みなまで言わずともわかる。そこまで知っているのは、仲が良かったのだろうと言いたいのだろう。そんなことはない。わたしはとても聞き上手なのだ」
「常山真定にもどったら、海は見られないであろうな」
「成都にもどったら、もっと見られないぞ。あるのは山、山、山ばかりだ。常山真定のほうが、まだ海にちかい」
「陳倉で、俺は東に行くのだな」
「そうだ」
「では、東に行ったついでに、もしいつか海に行くことがあったなら、あんたがなくしたという白い貝殻をひろって、成都に届けてやろう」
「それは、ありがとう。期待しないで待っているよ」
「天水は、羌族が多いな。商人も西域からの者が多いようだ。市場の雰囲気も、成都とちがうな。どの商人に荷物を届ければよいのだろう」
「市場で胡桃を売っているじいさんだと」
「おや、これは葡萄か? こんな大きな粒のものがあるのだな」
「めずらしがっている場合ではないぞ。なにか騒ぎが起こっているらしいな。聞いてくる。待っていてくれ」
「うむ。葡萄をひとつ…いや、ふたつくれ。おや、棗もある。これもくれないか。味見してよいのか。ありがとう。
わたしか? 襄陽からきたのだよ。訛りが中原のものだろう。よくわかるな。中原にも足を運ぶのかい。
成都に行ったことは? まあ、あそこは山道が険しいからね。え? 途中で出没する警備隊の質が悪い? そうかい、改善するように言うさ。
ああ、知り合いが蜀にいるのでね。左将軍府にいるのさ。ある男によれば、わがままで嘘つきでろくでもないやつだそうだけれど。
ああ、なに、こちらの話だよ。おまけまでくれるのか。ありがたいな。これからもっと西へ進まねばならないから、滋養のつくものはありがたい」
「こ、いや、元平だったか平元だったか」
「元平に統一しよう」
「よし、元平、子どもが消えたらしい。どこぞの寡婦の息子だというのだが、奇妙なことを口走って、家出をしたそうなのだ」
「奇妙なこと? どんな」
「塔へどうしても行かなくてはならないと言っていたそうだ。その母親が言うには、息子とやらは、数日前に河原で薄桃色の、卵のような、きれいな石をひろったらしい」
「五つ目だな」
「ああ、おそらくな。塔の夢をみたということは、まだ石を使っていないのだろう」
「子どもはいくつだ」
「まだ十歳にもなっていないらしい。母親は気も狂わんばかりになっている。母ひとり、子ひとりだったそうだから、余計だろう」
「塔へ向かったのなら、西だ」
「ああ、そして、おそらく女も、子どものもつ石に引き寄せられて、姿を現すだろう」
「よし、すぐに出立しよう。馬がなくても、子どもの足だ、すぐに追いつく。で、子どもの名前はなんだって?」
「阿維とか呼ばれていたな」
「阿維か。よし、その使命感に満ちたやんちゃ坊主を追うぞ」
※
「人だかりがあるな。先に坊主を探しにいった者たちだろう。話を聞いてみよう」
「おや、羌族のことばがわかるのか?」
「片言ではあるが、あとは身ぶり手ぶりだ。人間が相手に伝えたいことなんて、あんがい、単純な事柄ばかりだったりするぞ」
「なかなか含蓄のある言葉だな」
「どうやら、子どものかぶっていた頭巾が落ちていたらしい。二又の道の片一方にあったそうだ」
「二又の道とな? ふむ、わたしが見よう」
「頭巾が落ちたのも気づかずにひたすら西へ向かったとは、『塔』は、そんなに強烈に暗示をかけるものなのか」
「茂みにひっかかったわけでもなし。頭巾が落ちているとは、なんとも怪しい。しかしわたしには通用せぬぞ、見るがいい」
「子どもの足跡だな。昨日の雨でぬかるんでいるおかげで、はっきりとわかる。うん? だがおかしいな。足跡が途中で引き返している」
「そうさ、そして、もう一方の道を見るといい」
「こっちにも子どもの足跡だ。別の子どものか?」
「いいや、そうではあるまい。足跡の深さを観察すれば行動が手に取るようにわかるというものだ。
阿維といったか、その子は、まず、この二又の道にさしかかったときに、自分を追ってくるであろう街の大人たちを振り切るための策を思いついた。
ほら、ここで立ち止まっている。そうして、自分の頭巾をとると、わざと先に進まないほうの道に置いたのだ。
そうして、慎重に引き返したのが、足跡の深さと、間隔でわかる。そして、つぎには、もう一方の道を、こんどは猛然と駆け出した。歩幅が大きいだろう。そのうえ、足跡の深さが浅い。走ったのだよ」
「なるほど。妙に知恵のまわる小僧だな。だれか大人が一緒なのだろうか」
「そうではあるまい。子供に付き添っているような足跡はない」
「それでは、これをあいつらにも教えて………やろうと思ったのに、せっかちな連中だな。もういなくなっている」
「人が多くないほうが、この場合、かえってよかろう。石のことをほかの者が知るのは、好ましくないからな。われらはこちらの道を行こう」
※
「子どもの足だからと高を括っていたが、なかなかどうして、かなりの俊足らしいな。まるで姿が見えない」
「石を使ってしまったのではあるまいな。子どものことだから、かなりつまらぬことに使ってしまってもおかしくないぞ」
「たとえば?」
「走って地平線まで行ってみたい、とか」
「壮大じゃないか。地平線のその先は地平線だ。つまりはえんえんと地の果てまで駆けていくことになる。俺だって地の果てに行ってみたい」
「地の果ては海だよ」
「ならば、海の果ては? 馬鹿でかい山があって、そこに太陽を動かす怪物が住んでいるというのなら、そいつを見てみたい」
「なんだか、いろいろごっちゃになっているようだな。だいたい、海の上を走るのか」
「走れるものならば、走ってみたいな。俺がどうして馬が好きかといえば、あの風を切る感覚が心地よいからだ。あんたは地の果てや、海の果てを見たいとはおもったことがないのか。まだだれも見たことがないはずだぞ」
「そんなことを考えていたわけか。そうだな、見てみたいとは思うが、考えてみればふしぎなものだ。どうしてこの大地を縦横無尽にうごきまわる商人たちがいるのに、だれも地の果てを見たことがないのだろう。
伝説の帝王たちは、みながみな、天下を治めることを目的に兵を動かすが、天下とは、もしかしたら、われらが想像する以上に広大で、人の身が、これをおさめることなどできないのかもしれない。
だとしたら、われらは虚しい夢を追っているということにならないだろうか」
「そんな嘆きにとらわれるのは、あまり健康的な心のありようではないな。あんたは地の果てにはなにがあると思う。海か、それとも巨山と、そこに住まう太陽を司る怪物か」
「さてね、それこそ想像がつかないな。東には大海がある。そしてそのさらに東には蓬莱という国があるそうな。この蓬莱より東は、どうなっているかよく知らないが、やはりまた海であるらしい。
となると、西だが、これはえんえんと厳しい乾いた大地がつづき、さらに進めば大秦国があるそうだが、大秦国のさらに西は、やはり海だというのだよ。その海の彼方になにがあるのかは、だれも知らないそうだ」
「行ってみないか」
「いつ。そしてだれと?」
「そうだな、あんたは『塔』へ行くんだったな。そして俺は石の災厄たる反動を避けるため東だ。
あんたは厄介な道連れだが、退屈しない道連れでもある。彼方の太陽をひたすら追いかける旅も、あんたが一緒だったら面白いのではないかと思ったのだが」
「ずっとこんな調子だぞ。面白いのか」
「俺は面白いがね、あんたは面白くないというのなら、仕方ない、あきらめるさ」
「ほかの道連れを探すがいい。あなたの人生はこれからなのだからな。
ほら、そうこうしているうちに、いよいよ目標発見だ。あそこで崖の上にいるざんばら頭の子供こそ、われらが阿維ではなかろうかね」
「なにをしているのだ、あれは」
「空でも飛ぼうとしているのかもしれないが……ええい、石の力がどれほどのものか知らぬが、うまく力が働かなかったら、あの高さでは死ぬぞ! 急ぐぞ!
ええい、何を考えているのだ、ほんとうに! どういう躾をしているのだ、親は! やめよ、小僧!」
「躾けの問題ではないぞ、駄目だ、間に合わぬ!」
「あ」
「あの女?」
つづく……
「急いでいるのに雨とは。しかもなんだ、この天地を逆さにしたような降りっぷり。まるで海の水が空からこぼれ落ちているようではないか。
途中で廃屋が見つけられてよかった。これがなければ、かなり悲惨なことになっていたぞ」
「海の水が空からこぼれるとはふしぎな喩えをいうものだ。天に海はあるのか?」
「天に行ったことがないからわからぬが、秦(宓)子勅という、古書から引っ張り出したウンチクを引っ張り出してヘ理屈をこねさせたら、右に出る者はないという、口ばかり達者で実のない面倒な使者が来た場合に、追っ払い役をさせるのに最適な男がいるのだが、そいつに聞いたら、なにかわかるかもしれないな。
すごいのだ、いろいろ。ちょっと間違いをすると、すぐ怒るし。だから友達もいないらしい」
「あんたのまわりには、ほかにはだれがいる」
「そうさな、質実剛健を絵に描いたような董幼宰、いつも顔は笑っているけれど、心はいじけている、友達がみんな魏にいる劉(巴)子初、さぼってばかりだが友達は多い許(靖)文休、ガミガミうるさい、友達はそこそこいるが本人は否定している胡偉度……ほかにもいろいろ取り揃っておる」
「個性的だな。友達がすくないやつが多い気がするが」
「そうさ。だからわたしが友人をしてやっているのだよ」
「逆かもしれないぞ」
「……子龍、ほんとうにわたしに慣れてきたようだな」
「慣れたとも。おい濡れて冷えているだろう。もうすこし火のそばに寄ったらどうだ」
「こんな狭い、しかも雨漏りのひどい小屋しか雨を避ける場所がないとは、これも反動だろうか。あんまりそばに来ないでくれないか。この距離感に慣れていない」
「もうすこしで天水なのにな。まあ、この雨であれば、女のほうも足止めを食らっているだろうよ。しかし、ほんとうにすごい雨だな。海と天が引っくり返ったようだ。あんたは海を見たことがあるか」
「琅邪にいるときに、父上に連れて行ってもらったことがあるな。たしか、叔父上が遊びにいらしたので、三人で、泊りがけで遊びに行ったのだ。
漁師がちょうど網引き漁をしていたので、一緒に手伝って網を引っ張った記憶がある。帰りにきれいな真っ白い貝殻をもらったのだが、白水素女は出てこなかったな」
「白水素女? あの、貝殻から天帝の美人の娘が出てきて、留守のあいだにいろいろと家事をしてくれたという、あれか?」
「なんだ、その笑いは。わたしだって、そういう女人がいたらいいなと、子供心にあこがれた時期があったのさ。
もらった貝はずっと大事にしていたのだが、揚州で叔父上といっしょに南陽へ逃げる際に、どこかへ行ってしまった」
「揚州から南陽へ? またずいぶんな移動だな」
「袁術の力が弱くなったので、孫策が宮廷に根回しをして、揚州を手中にいれるべく、太守を送り込ませたのだ。
あのころの揚州は、孫策と袁術、劉表の三つ巴の対立が起こっていたからな。で、叔父は負けた。戦うことで、民を巻き込みたくなかったのだろう。
けれど、民は無慈悲にも、賞金目当てに叔父と、われらを襲ってきた。
袁術は援軍を送って来なかった。偽帝として即位した頃だったから、忙しかったのだろうさ。
袁術はあてにならないと見切りをつけた叔父は、もともとよしみのあった劉表のもとへと逃げたのだよ。
もらった白い貝殻は、たぶん、どさくさでだれかに盗まれたか、でなければ、つまらぬものとして、割られてしまったかしたのだろう」
「俺は海を知っているのだろうか」
「知っているのではないかな。ああ、でも聞いたことがなかったな」
「もう本当に指摘に飽きたが」
「みなまで言わずともわかる。そこまで知っているのは、仲が良かったのだろうと言いたいのだろう。そんなことはない。わたしはとても聞き上手なのだ」
「常山真定にもどったら、海は見られないであろうな」
「成都にもどったら、もっと見られないぞ。あるのは山、山、山ばかりだ。常山真定のほうが、まだ海にちかい」
「陳倉で、俺は東に行くのだな」
「そうだ」
「では、東に行ったついでに、もしいつか海に行くことがあったなら、あんたがなくしたという白い貝殻をひろって、成都に届けてやろう」
「それは、ありがとう。期待しないで待っているよ」
「天水は、羌族が多いな。商人も西域からの者が多いようだ。市場の雰囲気も、成都とちがうな。どの商人に荷物を届ければよいのだろう」
「市場で胡桃を売っているじいさんだと」
「おや、これは葡萄か? こんな大きな粒のものがあるのだな」
「めずらしがっている場合ではないぞ。なにか騒ぎが起こっているらしいな。聞いてくる。待っていてくれ」
「うむ。葡萄をひとつ…いや、ふたつくれ。おや、棗もある。これもくれないか。味見してよいのか。ありがとう。
わたしか? 襄陽からきたのだよ。訛りが中原のものだろう。よくわかるな。中原にも足を運ぶのかい。
成都に行ったことは? まあ、あそこは山道が険しいからね。え? 途中で出没する警備隊の質が悪い? そうかい、改善するように言うさ。
ああ、知り合いが蜀にいるのでね。左将軍府にいるのさ。ある男によれば、わがままで嘘つきでろくでもないやつだそうだけれど。
ああ、なに、こちらの話だよ。おまけまでくれるのか。ありがたいな。これからもっと西へ進まねばならないから、滋養のつくものはありがたい」
「こ、いや、元平だったか平元だったか」
「元平に統一しよう」
「よし、元平、子どもが消えたらしい。どこぞの寡婦の息子だというのだが、奇妙なことを口走って、家出をしたそうなのだ」
「奇妙なこと? どんな」
「塔へどうしても行かなくてはならないと言っていたそうだ。その母親が言うには、息子とやらは、数日前に河原で薄桃色の、卵のような、きれいな石をひろったらしい」
「五つ目だな」
「ああ、おそらくな。塔の夢をみたということは、まだ石を使っていないのだろう」
「子どもはいくつだ」
「まだ十歳にもなっていないらしい。母親は気も狂わんばかりになっている。母ひとり、子ひとりだったそうだから、余計だろう」
「塔へ向かったのなら、西だ」
「ああ、そして、おそらく女も、子どものもつ石に引き寄せられて、姿を現すだろう」
「よし、すぐに出立しよう。馬がなくても、子どもの足だ、すぐに追いつく。で、子どもの名前はなんだって?」
「阿維とか呼ばれていたな」
「阿維か。よし、その使命感に満ちたやんちゃ坊主を追うぞ」
※
「人だかりがあるな。先に坊主を探しにいった者たちだろう。話を聞いてみよう」
「おや、羌族のことばがわかるのか?」
「片言ではあるが、あとは身ぶり手ぶりだ。人間が相手に伝えたいことなんて、あんがい、単純な事柄ばかりだったりするぞ」
「なかなか含蓄のある言葉だな」
「どうやら、子どものかぶっていた頭巾が落ちていたらしい。二又の道の片一方にあったそうだ」
「二又の道とな? ふむ、わたしが見よう」
「頭巾が落ちたのも気づかずにひたすら西へ向かったとは、『塔』は、そんなに強烈に暗示をかけるものなのか」
「茂みにひっかかったわけでもなし。頭巾が落ちているとは、なんとも怪しい。しかしわたしには通用せぬぞ、見るがいい」
「子どもの足跡だな。昨日の雨でぬかるんでいるおかげで、はっきりとわかる。うん? だがおかしいな。足跡が途中で引き返している」
「そうさ、そして、もう一方の道を見るといい」
「こっちにも子どもの足跡だ。別の子どものか?」
「いいや、そうではあるまい。足跡の深さを観察すれば行動が手に取るようにわかるというものだ。
阿維といったか、その子は、まず、この二又の道にさしかかったときに、自分を追ってくるであろう街の大人たちを振り切るための策を思いついた。
ほら、ここで立ち止まっている。そうして、自分の頭巾をとると、わざと先に進まないほうの道に置いたのだ。
そうして、慎重に引き返したのが、足跡の深さと、間隔でわかる。そして、つぎには、もう一方の道を、こんどは猛然と駆け出した。歩幅が大きいだろう。そのうえ、足跡の深さが浅い。走ったのだよ」
「なるほど。妙に知恵のまわる小僧だな。だれか大人が一緒なのだろうか」
「そうではあるまい。子供に付き添っているような足跡はない」
「それでは、これをあいつらにも教えて………やろうと思ったのに、せっかちな連中だな。もういなくなっている」
「人が多くないほうが、この場合、かえってよかろう。石のことをほかの者が知るのは、好ましくないからな。われらはこちらの道を行こう」
※
「子どもの足だからと高を括っていたが、なかなかどうして、かなりの俊足らしいな。まるで姿が見えない」
「石を使ってしまったのではあるまいな。子どものことだから、かなりつまらぬことに使ってしまってもおかしくないぞ」
「たとえば?」
「走って地平線まで行ってみたい、とか」
「壮大じゃないか。地平線のその先は地平線だ。つまりはえんえんと地の果てまで駆けていくことになる。俺だって地の果てに行ってみたい」
「地の果ては海だよ」
「ならば、海の果ては? 馬鹿でかい山があって、そこに太陽を動かす怪物が住んでいるというのなら、そいつを見てみたい」
「なんだか、いろいろごっちゃになっているようだな。だいたい、海の上を走るのか」
「走れるものならば、走ってみたいな。俺がどうして馬が好きかといえば、あの風を切る感覚が心地よいからだ。あんたは地の果てや、海の果てを見たいとはおもったことがないのか。まだだれも見たことがないはずだぞ」
「そんなことを考えていたわけか。そうだな、見てみたいとは思うが、考えてみればふしぎなものだ。どうしてこの大地を縦横無尽にうごきまわる商人たちがいるのに、だれも地の果てを見たことがないのだろう。
伝説の帝王たちは、みながみな、天下を治めることを目的に兵を動かすが、天下とは、もしかしたら、われらが想像する以上に広大で、人の身が、これをおさめることなどできないのかもしれない。
だとしたら、われらは虚しい夢を追っているということにならないだろうか」
「そんな嘆きにとらわれるのは、あまり健康的な心のありようではないな。あんたは地の果てにはなにがあると思う。海か、それとも巨山と、そこに住まう太陽を司る怪物か」
「さてね、それこそ想像がつかないな。東には大海がある。そしてそのさらに東には蓬莱という国があるそうな。この蓬莱より東は、どうなっているかよく知らないが、やはりまた海であるらしい。
となると、西だが、これはえんえんと厳しい乾いた大地がつづき、さらに進めば大秦国があるそうだが、大秦国のさらに西は、やはり海だというのだよ。その海の彼方になにがあるのかは、だれも知らないそうだ」
「行ってみないか」
「いつ。そしてだれと?」
「そうだな、あんたは『塔』へ行くんだったな。そして俺は石の災厄たる反動を避けるため東だ。
あんたは厄介な道連れだが、退屈しない道連れでもある。彼方の太陽をひたすら追いかける旅も、あんたが一緒だったら面白いのではないかと思ったのだが」
「ずっとこんな調子だぞ。面白いのか」
「俺は面白いがね、あんたは面白くないというのなら、仕方ない、あきらめるさ」
「ほかの道連れを探すがいい。あなたの人生はこれからなのだからな。
ほら、そうこうしているうちに、いよいよ目標発見だ。あそこで崖の上にいるざんばら頭の子供こそ、われらが阿維ではなかろうかね」
「なにをしているのだ、あれは」
「空でも飛ぼうとしているのかもしれないが……ええい、石の力がどれほどのものか知らぬが、うまく力が働かなかったら、あの高さでは死ぬぞ! 急ぐぞ!
ええい、何を考えているのだ、ほんとうに! どういう躾をしているのだ、親は! やめよ、小僧!」
「躾けの問題ではないぞ、駄目だ、間に合わぬ!」
「あ」
「あの女?」
つづく……