※
「どうしてまわれ右をしないで、そのまま先に進む!」
「仕方ないだろう。挨拶をして、さあ、まわれ右、という段になって、両脇を神威将軍の部下とやらに挟まれた。逃げるに逃げられなかったのだよ。あなただって、なんだかんだと付いてきたではないか」
「仕方ないだろう。あんたを奪い返そうとしたら、子供たちに周りを囲まれた」
「神威将軍、なかなか人を見る目があるようだな。この料理、もてなしてくれているのはまちがいないが、どうも食が進まぬ」
「あまり食べないほうが無難かもしれない。疑心暗鬼もいやなものだが、どうも落ち着かない」
「味付けは悪くないのだが。聞いてよいか。なにを以て、そう落ち着かないと言い切るのだ」
「どうもおかしい。だが、魏兵との小競り合いをして悲惨な光景を目の当たりにしたあとで、みな、疲れ果てているだろうに、なぜこうも俺たちを歓迎しようとするのだろう。
それに、みながあんたを見すぎる。あんたは、見られることに慣れているから、気づかないようだが」
「気づいているよ。そんなにわたしの顔はめずらしいだろうか」
「たしかにあんたは目立つやつだ。だが、どうもみなの目つきがおかしい。
それに、さっき小耳に挟んだのだが、連中、どうやら俺がまったく羌族のことばを知らないと思っているらしい」
「うん? わかるのか?」
「いつどこでわかるようになったのかは思い出せないが、簡単なことばなら、問題なく聞き取れる」
「そうか、記憶がなくなっても、青羌兵と一緒に調練したり、馬のことでいろいろとやりとりしたときに得た知識が役に立っているのだな。
で、かれらはなんと?」
「願いがどうとか、石を五つ持っているとか話をしていた」
「もしや」
「ああ。神威将軍が、なにも触れてこないことが、いっそう怪しい。石の存在を知れば、おそらく咽喉から手が出るほどに欲しがるだろう。
石はしっかり持っていろ。石が守ってくれるだろうと油断するな。あんたが夢で見た塔が、この地ではないと断言できないだろう」
「夢で見た土地と、この城塞のような集落は、だいぶちがうが」
「しかし、夢で見た光景から、もう何百年と隔たっているのだろう。そうならば、ちがっていて当然だ」
「羌族は赤毛ではない」
「何百年というあいだ、多くの民族が互いに争い、淘汰されていった。そのなかに、あんたが見た王国の末裔たちも含まれていたらどうだ。ほかの部族にその血が吸収されてしまっていたら。
夢のなかで石を掘り出した王国は、漢に攻め入ったはよいが、結局は滅んだのであろう。ならば、いまは王国の面影など、跡形もなくなっていても、おかしくはない」
「それはそうだな。そういえば、わたしの夢で見た王国、あそこもひとつの神しか持たない国だった」
「ひとつの神しか持たない?」
「そう。我らは多くの神を持ち、それぞれに信奉するだろう。しかし、羌族には神はひとつなのだ。天地を生みたもう神も、大地に恵みをもたらす神も、死者の魂を受け止める神も、みなひとつの神なのだ」
「それでは神は忙しかろう」
「すべてをこなせてしまうほどに巨大で偉大な存在なのだろう。想像もつかぬがね。
そうか、共通点は多いな。ひとつの神、そしてその祭祀の象徴としての塔。だとしたら、ここが終着点として、石を帰すべきかもしれぬ」
「慎重になるに越したことはない。ともかく、今宵はここに泊まることになる。お互いに、寝首をかかれないようにしないとな」
※
「うん? だれだ、夜更けに人の部屋の扉をどんどんと。厠とまちがえているのではなかろうな。それとも刺客が丁寧に来訪を告げてきたか。
おおい、この部屋の主は就寝中だ。用があるならば、朝にしろ」
「起きているのなら、開けてくれ、俺だ!」
「子龍? どうした。う。なんだ、脂粉のにおいをさせて! 女とひと悶着あったから逃げてきた、というのならば匿わぬぞ、勝手に戦え!」
「莫迦、勘違いするな。俺はふつうに寝ていたとも。ところが、ふと気づいたら、女が俺の寝台に忍んできたのだ!」
「ほう」
「なんだ、その目は。俺は何もしてない、潔白だ! というわけで、匿ってくれ」
「やだ」
「なぜだ、薄情もの!」
「わたしが前に言ったことを忘れているな。近づくな、と。こんな夜更けに部屋に入れて、こちらの身が危うくなるのは困る」
「あのな、陳倉での振る舞いは、たしかに俺はどうかしていたかもしれない。謝るから、だから今宵だけでも気持ちをおさめてはくれぬか。あんたには指一本触れないと約束する」
「どうしてそこまで。やってきた女がとんでもない醜女だったのか」
「いいや、文字通り、目が覚めるような、なまめかしい美女であった」
「ふん、ならばせっかくのもてなしを断るまでもなかろうに」
「いいや、あれはだめだ。ああいう女は危うい。一度手を出したなら、それこそなんだかんだと理由をつけて、主導権をがっちり握って、いつまでも纏わりついてくるだろう」
「別に言い換えれば、情の深い女だということではないか。そのうえに美しいのであれば、文句はないと思うがな」
「じゃあ、あんたが俺の部屋に行け」
「お断り。まったく、体が冷えてきた。仕方ない、部屋に入れ」
※
「女が嫌いというわけではなかったよな。たしか、以前にもうわさになった女が何人もいたと聞いたが」
「だれから」
「ああ、そうか、新野でのことも記憶にないのか。生憎とくわしくは知らないのだけれど、あなたには深い仲になった女人がいたのだよ。会ったことはないし、名前も知らないけれど、きれいな女だったと聞いた」
「そうなのか。なぜ、駄目だったのだろう」
「たしか、その女が、ほかの男のもとに走ったからではなかったかな」
「なんだ、俺は情けない役回りだったのだな」
「落ち込むことはないさ。その女はたまたまで、わたしが知らないだけで、あなたにはほかにもたくさんの色事の噂があったようだよ」
「自分のことなのに、なにも思い出せないとは不便だ。俺は女好きだったか?」
「いいや」
「だろうな。あんたには、みっともないところばかり見せている気がする。女が忍んできたくらいで、こんなふうにぎゃあぎゃあと子供のように騒いで、さぞ呆れているだろうな」
「呆れていないよ。あなたは、女人に対して、畏怖に似た感情を抱いている人なのだ。だから、女人を軽く扱うことができないし、深く入れ込むことも、なかなか出来ないでいる。
そういうふうだから、逆に女人から積極的に来られると、おそろしさが先に立って、混乱してしまうのだろう」
「俺になにがあって、そんなふうになったのだろう」
「すまないが、それに関しては、わたしも知らないよ。あなたは話したがらなかった。しかし、記憶がなくなっているのに、そういうところが変わらないというのは、不便だな」
「無理に常山真定に追い返さなくてよかったと思わないか」
「すこし思うね。単純に、過去の嫌なことが、振る舞いのすべてに繋がっていると思いすぎていたかもしれない。それとも、記憶が消えたとしても、からだに染み付いた癖というのは、なかなか抜けないものなのか」
「じゃあ、俺があんたに惹かれるのも、その癖のひとつかな…………なんだって勢いよく部屋の隅に逃げる」
「逃げるに決まっているだろう! いいか、近づくな。以前の子龍ならば安心できたが、いまのあなたは、まるで信用ならぬ」
「俺はそんなに見境のない男ではないぞ。あんたにはたしかに惹かれるが、変な意味じゃない。そんなところで石の壁にぴったり体をくっつけていたら冷えるぞ。寝台に戻れ。俺は大人しく、床の敷物の上に転がっているさ」
「そうしてくれ。いいな、近づくなったら近づくなよ!」
「はいはい」
「『はい』は、一度でよろしい。まったく、今日は眠れるだろうか」
「眠らなくてもよかろう」
「………近づくなと言ったはずだが、どうして人の顔を覗きこんでいるのかな?」
「いや、ふと思ったのだが」
「なんだ」
「あんた、もしかして、男装した女とかではないよな?」
「は?」
「俺は女嫌いというわけでもないし、断袖の趣味があるわけでもないようだ。ほかの男どもを見ても、なんとも思わないし、むしろ女に目が行くからな。
けれど、なぜだかあんたはちがう。いまの俺には、なににつけても、あんたが最優先だ。考えることも、まっ先に目が行くのもあんただ。おかしいだろう」
「うん、変」
「そうだ、変だ。しかし、あんたが実は女だというのなら、俺がおかしい理由もわかるというものだ」
「で、人の服の襟に手をかけて、なにをしようとしているのかな?」
「脱がして確かめるべきかと」
「ほーお。そうかい、そうかい…………って、ふざけるな! これでも食らうがよい!」
「!!」
「この、大たわけ者めが! どうしてそんな発想になる! おかしさもここにきわまれりだ! ほんとうに趙子龍なのだろうな? だいたい、この技は、あなたがわたしに教えてくれたものだろうが。
まったく、すっかり気絶してしまっている。
以前にもあったな、こういうことが。あのときは、わたしが殴り倒したわけではなくて、そうだ、酒に酔いつぶれたのだったな。
子龍、風邪をひくよ。大人しくしているのなら、寝台の半分を分けてやってもよいのだがね。
いや、床に転がしておくべきであろうか。
うむ、以前の子龍ならば、安心できたけれど、いまの子龍はまったくわからぬ。別人だ。理解不能だ。
わたしが女かもしれないなどと、どうしてそんなことを思うのだよ。そうではないから、あなたは苦しんでいたのではないか。
………もしかしたら、そういうことにしてしまおうと、あなたは考えているのかもしれないな。
塔にたどり着いたなら、あなたは故郷に帰る身であるのだし、たとえ一時にしても、以前と似たような心を抱いているおのれが、恐ろしいのかもしれない。
わたしはあなたがわからない。
過去があるから、あなたの心は曲げられてしまったのではないのか。
そうではないというのなら、わたしは、あなたにっとて、苦しみしか与えられない人間だということになる。
想像することが難しいけれど、わたしが女の身で生まれていて、そうしてあなたと出会っていたら、どんな人生になっただろうな。
いや、想像はつくな。
やはりわたしは、あなたにどうしようもなく惹かれていただろうね。
そして、きっと片時も離れやしなかった。
その可能性だけでは、あなたは満足しないだろうか。
石に願いをかけたら、その願いが叶うかもしれないのだな。
愚かな。そうしてどうなる。
わたしの負っている責務のすべてを、感傷だけで放棄することになる。
駄目だ。いまさら逃げ出すには、わたしはあまりに多くの命を犠牲にしすぎた。それは、あなただって同じことだよ。
すべてを忘れてしまって、気持ちが楽になったのかな。
わたしばかりが取り残されて、こんなに煩悶せねばならぬとは。
いいや、この苦しみも、あなたも同じだと思っていたから耐えられていたものだが、当のあなたのほうは、もっと苦しかったにちがいない。
いや、こんな愚痴をぶつけるのも、お門違いというものか。こうして戻ってきてくれただけでも、本当はよしとしなければならないのにな。
待て。
赤毛がわたしの心を石が具現化したものだとしたら、いまここにいる子龍が、わたしの願望の具現化ではないと、どうして言いきれる。
ほんものだろうな。
つねってみよう。えい。
なんだ、この反応のなさ。
やはり、これはほんものではないのか?」
つづく……
「どうしてまわれ右をしないで、そのまま先に進む!」
「仕方ないだろう。挨拶をして、さあ、まわれ右、という段になって、両脇を神威将軍の部下とやらに挟まれた。逃げるに逃げられなかったのだよ。あなただって、なんだかんだと付いてきたではないか」
「仕方ないだろう。あんたを奪い返そうとしたら、子供たちに周りを囲まれた」
「神威将軍、なかなか人を見る目があるようだな。この料理、もてなしてくれているのはまちがいないが、どうも食が進まぬ」
「あまり食べないほうが無難かもしれない。疑心暗鬼もいやなものだが、どうも落ち着かない」
「味付けは悪くないのだが。聞いてよいか。なにを以て、そう落ち着かないと言い切るのだ」
「どうもおかしい。だが、魏兵との小競り合いをして悲惨な光景を目の当たりにしたあとで、みな、疲れ果てているだろうに、なぜこうも俺たちを歓迎しようとするのだろう。
それに、みながあんたを見すぎる。あんたは、見られることに慣れているから、気づかないようだが」
「気づいているよ。そんなにわたしの顔はめずらしいだろうか」
「たしかにあんたは目立つやつだ。だが、どうもみなの目つきがおかしい。
それに、さっき小耳に挟んだのだが、連中、どうやら俺がまったく羌族のことばを知らないと思っているらしい」
「うん? わかるのか?」
「いつどこでわかるようになったのかは思い出せないが、簡単なことばなら、問題なく聞き取れる」
「そうか、記憶がなくなっても、青羌兵と一緒に調練したり、馬のことでいろいろとやりとりしたときに得た知識が役に立っているのだな。
で、かれらはなんと?」
「願いがどうとか、石を五つ持っているとか話をしていた」
「もしや」
「ああ。神威将軍が、なにも触れてこないことが、いっそう怪しい。石の存在を知れば、おそらく咽喉から手が出るほどに欲しがるだろう。
石はしっかり持っていろ。石が守ってくれるだろうと油断するな。あんたが夢で見た塔が、この地ではないと断言できないだろう」
「夢で見た土地と、この城塞のような集落は、だいぶちがうが」
「しかし、夢で見た光景から、もう何百年と隔たっているのだろう。そうならば、ちがっていて当然だ」
「羌族は赤毛ではない」
「何百年というあいだ、多くの民族が互いに争い、淘汰されていった。そのなかに、あんたが見た王国の末裔たちも含まれていたらどうだ。ほかの部族にその血が吸収されてしまっていたら。
夢のなかで石を掘り出した王国は、漢に攻め入ったはよいが、結局は滅んだのであろう。ならば、いまは王国の面影など、跡形もなくなっていても、おかしくはない」
「それはそうだな。そういえば、わたしの夢で見た王国、あそこもひとつの神しか持たない国だった」
「ひとつの神しか持たない?」
「そう。我らは多くの神を持ち、それぞれに信奉するだろう。しかし、羌族には神はひとつなのだ。天地を生みたもう神も、大地に恵みをもたらす神も、死者の魂を受け止める神も、みなひとつの神なのだ」
「それでは神は忙しかろう」
「すべてをこなせてしまうほどに巨大で偉大な存在なのだろう。想像もつかぬがね。
そうか、共通点は多いな。ひとつの神、そしてその祭祀の象徴としての塔。だとしたら、ここが終着点として、石を帰すべきかもしれぬ」
「慎重になるに越したことはない。ともかく、今宵はここに泊まることになる。お互いに、寝首をかかれないようにしないとな」
※
「うん? だれだ、夜更けに人の部屋の扉をどんどんと。厠とまちがえているのではなかろうな。それとも刺客が丁寧に来訪を告げてきたか。
おおい、この部屋の主は就寝中だ。用があるならば、朝にしろ」
「起きているのなら、開けてくれ、俺だ!」
「子龍? どうした。う。なんだ、脂粉のにおいをさせて! 女とひと悶着あったから逃げてきた、というのならば匿わぬぞ、勝手に戦え!」
「莫迦、勘違いするな。俺はふつうに寝ていたとも。ところが、ふと気づいたら、女が俺の寝台に忍んできたのだ!」
「ほう」
「なんだ、その目は。俺は何もしてない、潔白だ! というわけで、匿ってくれ」
「やだ」
「なぜだ、薄情もの!」
「わたしが前に言ったことを忘れているな。近づくな、と。こんな夜更けに部屋に入れて、こちらの身が危うくなるのは困る」
「あのな、陳倉での振る舞いは、たしかに俺はどうかしていたかもしれない。謝るから、だから今宵だけでも気持ちをおさめてはくれぬか。あんたには指一本触れないと約束する」
「どうしてそこまで。やってきた女がとんでもない醜女だったのか」
「いいや、文字通り、目が覚めるような、なまめかしい美女であった」
「ふん、ならばせっかくのもてなしを断るまでもなかろうに」
「いいや、あれはだめだ。ああいう女は危うい。一度手を出したなら、それこそなんだかんだと理由をつけて、主導権をがっちり握って、いつまでも纏わりついてくるだろう」
「別に言い換えれば、情の深い女だということではないか。そのうえに美しいのであれば、文句はないと思うがな」
「じゃあ、あんたが俺の部屋に行け」
「お断り。まったく、体が冷えてきた。仕方ない、部屋に入れ」
※
「女が嫌いというわけではなかったよな。たしか、以前にもうわさになった女が何人もいたと聞いたが」
「だれから」
「ああ、そうか、新野でのことも記憶にないのか。生憎とくわしくは知らないのだけれど、あなたには深い仲になった女人がいたのだよ。会ったことはないし、名前も知らないけれど、きれいな女だったと聞いた」
「そうなのか。なぜ、駄目だったのだろう」
「たしか、その女が、ほかの男のもとに走ったからではなかったかな」
「なんだ、俺は情けない役回りだったのだな」
「落ち込むことはないさ。その女はたまたまで、わたしが知らないだけで、あなたにはほかにもたくさんの色事の噂があったようだよ」
「自分のことなのに、なにも思い出せないとは不便だ。俺は女好きだったか?」
「いいや」
「だろうな。あんたには、みっともないところばかり見せている気がする。女が忍んできたくらいで、こんなふうにぎゃあぎゃあと子供のように騒いで、さぞ呆れているだろうな」
「呆れていないよ。あなたは、女人に対して、畏怖に似た感情を抱いている人なのだ。だから、女人を軽く扱うことができないし、深く入れ込むことも、なかなか出来ないでいる。
そういうふうだから、逆に女人から積極的に来られると、おそろしさが先に立って、混乱してしまうのだろう」
「俺になにがあって、そんなふうになったのだろう」
「すまないが、それに関しては、わたしも知らないよ。あなたは話したがらなかった。しかし、記憶がなくなっているのに、そういうところが変わらないというのは、不便だな」
「無理に常山真定に追い返さなくてよかったと思わないか」
「すこし思うね。単純に、過去の嫌なことが、振る舞いのすべてに繋がっていると思いすぎていたかもしれない。それとも、記憶が消えたとしても、からだに染み付いた癖というのは、なかなか抜けないものなのか」
「じゃあ、俺があんたに惹かれるのも、その癖のひとつかな…………なんだって勢いよく部屋の隅に逃げる」
「逃げるに決まっているだろう! いいか、近づくな。以前の子龍ならば安心できたが、いまのあなたは、まるで信用ならぬ」
「俺はそんなに見境のない男ではないぞ。あんたにはたしかに惹かれるが、変な意味じゃない。そんなところで石の壁にぴったり体をくっつけていたら冷えるぞ。寝台に戻れ。俺は大人しく、床の敷物の上に転がっているさ」
「そうしてくれ。いいな、近づくなったら近づくなよ!」
「はいはい」
「『はい』は、一度でよろしい。まったく、今日は眠れるだろうか」
「眠らなくてもよかろう」
「………近づくなと言ったはずだが、どうして人の顔を覗きこんでいるのかな?」
「いや、ふと思ったのだが」
「なんだ」
「あんた、もしかして、男装した女とかではないよな?」
「は?」
「俺は女嫌いというわけでもないし、断袖の趣味があるわけでもないようだ。ほかの男どもを見ても、なんとも思わないし、むしろ女に目が行くからな。
けれど、なぜだかあんたはちがう。いまの俺には、なににつけても、あんたが最優先だ。考えることも、まっ先に目が行くのもあんただ。おかしいだろう」
「うん、変」
「そうだ、変だ。しかし、あんたが実は女だというのなら、俺がおかしい理由もわかるというものだ」
「で、人の服の襟に手をかけて、なにをしようとしているのかな?」
「脱がして確かめるべきかと」
「ほーお。そうかい、そうかい…………って、ふざけるな! これでも食らうがよい!」
「!!」
「この、大たわけ者めが! どうしてそんな発想になる! おかしさもここにきわまれりだ! ほんとうに趙子龍なのだろうな? だいたい、この技は、あなたがわたしに教えてくれたものだろうが。
まったく、すっかり気絶してしまっている。
以前にもあったな、こういうことが。あのときは、わたしが殴り倒したわけではなくて、そうだ、酒に酔いつぶれたのだったな。
子龍、風邪をひくよ。大人しくしているのなら、寝台の半分を分けてやってもよいのだがね。
いや、床に転がしておくべきであろうか。
うむ、以前の子龍ならば、安心できたけれど、いまの子龍はまったくわからぬ。別人だ。理解不能だ。
わたしが女かもしれないなどと、どうしてそんなことを思うのだよ。そうではないから、あなたは苦しんでいたのではないか。
………もしかしたら、そういうことにしてしまおうと、あなたは考えているのかもしれないな。
塔にたどり着いたなら、あなたは故郷に帰る身であるのだし、たとえ一時にしても、以前と似たような心を抱いているおのれが、恐ろしいのかもしれない。
わたしはあなたがわからない。
過去があるから、あなたの心は曲げられてしまったのではないのか。
そうではないというのなら、わたしは、あなたにっとて、苦しみしか与えられない人間だということになる。
想像することが難しいけれど、わたしが女の身で生まれていて、そうしてあなたと出会っていたら、どんな人生になっただろうな。
いや、想像はつくな。
やはりわたしは、あなたにどうしようもなく惹かれていただろうね。
そして、きっと片時も離れやしなかった。
その可能性だけでは、あなたは満足しないだろうか。
石に願いをかけたら、その願いが叶うかもしれないのだな。
愚かな。そうしてどうなる。
わたしの負っている責務のすべてを、感傷だけで放棄することになる。
駄目だ。いまさら逃げ出すには、わたしはあまりに多くの命を犠牲にしすぎた。それは、あなただって同じことだよ。
すべてを忘れてしまって、気持ちが楽になったのかな。
わたしばかりが取り残されて、こんなに煩悶せねばならぬとは。
いいや、この苦しみも、あなたも同じだと思っていたから耐えられていたものだが、当のあなたのほうは、もっと苦しかったにちがいない。
いや、こんな愚痴をぶつけるのも、お門違いというものか。こうして戻ってきてくれただけでも、本当はよしとしなければならないのにな。
待て。
赤毛がわたしの心を石が具現化したものだとしたら、いまここにいる子龍が、わたしの願望の具現化ではないと、どうして言いきれる。
ほんものだろうな。
つねってみよう。えい。
なんだ、この反応のなさ。
やはり、これはほんものではないのか?」
つづく……