はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

おばか企画・心はいつもきつね色 試験編・1

2020年10月28日 09時43分10秒 | おばか企画・心はいつもきつね色
法正の悲劇は、厚すぎるタケノウチ・マスクの内側に籠もる熱のせいで、頭がぼんやりし、視界が利かなくなっていたことから始まるだろう。
いったい、どんな素材で出来ているのやら、マスクは妙に粘着力があり、ぺたりと肌にくっついているのだが、その密着感が、さらに気持ち悪い。
というか、頭皮も蒸れているような。
抜け毛が増えたりしないか心配です。
『どうしてここまでせねばならぬのだ』
最初に思いついて当然の疑問であったが、法正をして、それが頭に浮かばなかったのは、すべて『行ってこいと妻に言われたから』ということに理由がある。
法正は、妻には絶対服従なのである。
なぜかといえば、劉備を蜀に招き入れ、揚武将軍に上りつめるまでは、法正は、たいへんな苦労を妻にかけさせてしまったという負い目があるからだ。
それにしても、これはやりすぎであったかもしれぬ。

汗とマスクの密着感、さらには視界がろくにきかないことに顔をしかめれば、周囲から、
「渋い」、「渋い」
と聞こえる声。
なにがそんなに渋いというのだ。
柿か? 茶か? 
などと、寒いオヤジギャグを頭に浮かべてやり過ごすが、視線を集めていることが不安である。
『もしや、マスクをかぶっていることが知れているのではなかろうな? ええい、また汗が垂れてきて、気持ち悪い。なんとかならぬか!』
ここでいつもならば、従者が布でもって、さっと法正の汗を拭ってくれるわけであるが、今回は単独潜入である。部下ひとりいない状況で、ライバルである諸葛孔明の本陣ともいうべき左将軍府の前にいる。
『それにしても、すごい行列だな。これが、すべて奴への陳情者なのか?』
老いも若きもずらりとそろった行列を見回して、左将軍府への陳情者は、これほどに多いのかと、すこしばかり嫉妬心を燃やしてみる。
見れば、錦馬超なんかもいるではないか。
なぜだか、費家の莫迦息子と、董家の青瓢箪、ウルトラ級にやっかいな、軍師将軍の主簿・胡偉度もいる。
あやつら、仲が良かったのだな。
に、しても気になるのは錦馬超。
馬将軍は、もしや軍師将軍との接近をはかっているのではないか。

馬超というのは、派手な容姿と言動で、いろいろと話題になりやすいうえ、誤解を受けることも多いが、あれでなかなか聡い男だ。
だれとでも距離を置くことで、政治的な思惑から、みずから率いている青羌兵の立場を守ろうとしている。
これまでは、特にだれかの派閥に属そうとすることがなかった。
ま、わたしが奴であれば、そうするわい、と法正は思う。
馬超の身にまとう、自由な放浪者という雰囲気を、生まれてこのかた、完全には巴蜀より離れることのなかった法正は、すこしうらやましく思っている。
広い大地を自由に旅してみたいと思うのは、だれしも思うことであろうが、名家に生まれた法正には、家門を守らねばならぬという束縛があるため、思うだけで終わっていた。
法正が、孔明に対して嫉妬にも似た反発をおぼえるのは、孔明自身、徐州の諸葛氏の跡取りであるというのに、まったく家というものに束縛されずに、自由にのびのびと好きなように振る舞っている(ように見える)のも原因なのである。

行列に並んでいれば、ひとびとの口から、
「副賞はプリンスエドワード島に招待されるらしい」
「P島としか書いていないじゃないか」
「プリンスエドワード島だと、前に並んでいる若い男が、騒いでいたぞ」
という声が聞こえてくる。
むむ、陳情者の中から抽選でP島ご招待とは、なかなか思い切ったキャンペーンを張るではないか。
さっそくうちでもやってみよう。
左将軍府がプリンスエドワード島というのなら、うちは『香港マカオ2泊3日、遊び倒せ、カジノの旅!』を企画してみるか。
ただし、行きの片道切符のみプレゼント、帰りの分は自分で稼げ。生還できるかは運次第。
うむ、よい企画だ。獅子は子を千尋の谷より突き落とし、その成長を促すものなのだ。
国を預かる揚武将軍たるもの、民の父として振る舞わねばなるまい。
なに? 獅子というものは、百獣の王とかいわれてはいるが、なかなか心が狭いケモノで、自分の子どもがライバルになると怖いから、殺すために谷に突き落としているものだ、とな? 
いや、だからこそだ。
小ざかしくも、わたしの手を煩わせようなどという、小生意気な民を黙らせるための処置なるぞ。言われた分は、きっちり仕事はするがな。

しかし、だ。
この行列、うちで働いている者も、ちらほら混ざっていないか? 
左将軍府に探りを入れている、というのならば、誉められもしようが、陳情に来ているというのであれば、許せぬ。
そうして、法正は、腕時計を改良して作ったスパイカメラで、見知った顔をパシャリと撮影する。
あとで照合し、氏名が特定できたなら、尋問のうえ、減給である。
変装をしているというのならばともかく、礼装を身に纏っている者までおる。
たかが陳情のために、一張羅を着てくるとは、どういうつもりだ。まったく、世の中狂っとる。
それに、さきほどから、『タケノウチ』と口にしながら、費家の馬鹿息子がちらちらと振り返り、敵愾心の籠もった眼差しを向けてくるのは、なぜなのだ。
タケノウチとはなんだ、あたらしい節分の呪文か?
に、しても、この行列の先に、ほんとうに軍師将軍はいるのだろうな。





偉度は、行列の正体を知って、馬超がもう帰ってしまうのではと思っていたが、意外なことに、馬超は、試験開始直前になっても、ものめずらしそうにあちこちを見回して、帰ろうとしない。
とはいえ、本気で孔明の義兄弟になろうとは思っていないのは、一目瞭然で、どうやら、このお祭り騒ぎを純粋に楽しんでいるようである。
といっても、自ら音頭をとろうとしているのではなく、どこか、雲の上から人界を見下ろす、仙人か何かの境地であるようだ。
悠然とした笑みを口はしに浮かべながら、会場を堂々と移動する姿は、なにやら達観した人物独特の、摩訶不思議な雰囲気がある。
なんだか良くわからぬお方だ、と偉度は思いつつ、見れば、試験会場の整理を、みずから率先しておこなっている劉巴と目が合った。
三日月を横にふたつならべたような、いつも笑っているように見えて、実際は、ちっとも笑っていない目を向けて、劉巴は言う。
「おや、偉度ではないか。なんだかんだとおまえも結局、義兄弟に応募することにしたのかね」
「ご冗談を。今日は、董家と費家の莫迦坊ちゃんどものお目付けでございます。軍師はもう出仕なさっておられますか」
「さあて、さきほど、旅行代理店に寄ってから、こちらに来ると連絡があったようだが」
旅行代理店と聞いて、文偉と休昭は、きっとプリンスエドワード島の件だ、と期待をこめて、ひそひそやっている。
呑気なものだと嘆息しつつ、偉度は、列から外れて、臨時の試験会場とやらをながめた。
かなりの人数がひしめき合っている。
ずらりとならべられた長テーブルには、それぞれ間隔を開けて、三人ずつ座れるようになっており、筆記用具もきちんと用意されていた。
「試験とは、なんなのです? もしや、昨年度の採用試験問題の使いまわしでございますか?」
偉度が劉巴に尋ねると、背後で聞き耳を立てていた文偉と休昭は、それでは、我らは不利ではないかと、ぶーぶー不平を鳴らした。
しかし、劉巴は言う。
「いや、わたしと許長史とで、ちゃんと試験問題を作ったよ。ひさしぶりの徹夜作業となったがね、なかなか楽しかった。いやはや、なにかと楽しみを提供してくれる、左将軍府事に感謝だな」
と、劉巴は、ほがらかに声をたてて笑った。
竹の花が咲くよりも珍しい現象に、劉巴を知る、ほかの左将軍府の面々は、仰天して視線をあつめてくる。
劉巴は、嫌味ではなく、ほんとうに、この騒動を楽しんでいる様子であった。
鬱屈した内面を持っている人物なので、こうして晴れやかにしているのは、いいことかもしれないと、偉度は思う。
晴れやかにしている理由が問題だが。

「それにしても、許長史が徹夜とは…」
「あの方とて、なにも考えずに動いているのではない。許長史は、軍師のことを親身に心配しているのだよ。
軍師には、奥方はいても名前だけ。お子といっても養子で、まあ、ちと、問題を抱えておる。かといって、妾やあたらしい妻を持ちそうにもない。
弟君にお子はいるが、弟君自身が、家族を官吏にさせるつもりはないと言っている。となると、このままでは、軍師の跡継ぎが絶えてしまうわけだ。
あの方はあの方なりに、真に頼りになる義兄弟が軍師にいれば、いざというとき血筋が絶えるにしても、志を受継ぐ者が残るかもしれない。そう考えたのさ」
「軍師のお志ならば、いまの時点で、我らが受け継いでおりますぞ」
偉度の不満そうなことばに、劉巴は、また声をたてて笑った。
「わたしもそう思うが、しかし、許長史は、家族というものの形にこだわりを持っているお方だから、われらと同じようには考えないのだ。不満ならば、やはり試験を受けるべきではないかな」
「ですから、そのつもりは、まーーーーーーーーったくございませぬ」
そんなやりとりをしつつ、偉度は試験会場の入り口に立ち、試験監督官のもと、整理券の番号順に席に着く、文偉や休昭、馬超らの姿を確認した。
筆記試験があると聞いて、左将軍府の前にずらりとならんだ人間は、半分くらいに減ったが、それでもたいそうな人数であった。
宮城で見かけた顔も、ちらほらと、ある。
揚武将軍の部下も何名か混ざっているようだ。
ふむ、連中の顔は覚えておいて、あとでうちのスパイになってみないかと誘ってみよう。
会場の席につく人々のなかには、例の、見れば見るほどに『タケノウチ』な、あの男の姿もある。
偉度は、入場者の試験番号と、机の番号をあわせる作業をこなしている劉巴にたずねた。
「試験は、筆記のみでございますか」
「いいや、試験で及第点に届かなかった者はすべて落とし、残った者のみ、軍師と面接というかたちになる。試験であるが、意外にむつかしいから、残れる者はすくないのではないかな」
「自信作、というわけでございますか。どれ…」
と言いつつ、試験問題を手に取る偉度。
ちょうどそのとき、試験会場においても、試験開始のベルが鳴った。


つづく……

(サイト「はさみの世界」初出・2006/03)

おばか企画・心はいつもきつね色 探索編・4

2020年10月24日 10時07分13秒 | おばか企画・心はいつもきつね色
「義兄弟募集の告知は、軍師はご存じないのさ。あとでおまえの父上に聞いてみるがいい。いまごろ軍師は仰天してパニックになっているのではないかな」
「ええ? そうなのかい? 父上に聞いたのだが、軍師は告知のことはご存知のようだよ?」
「本当か?」
「昨夜は、父上がめずらしく、軍師将軍のお屋敷に泊まりがけで遊びに行ったのだ」
「ほう」
偉度が目をほそめて相槌を打ったのは、董和が孔明の屋敷に遊びに行くことが珍しかったからではない。
董和と孔明は、なんだかんだと息が合っており、ちょくちょくと屋敷を訪問し合っているのだ。
董和のほうは、孔明の、偏りのある食生活を心配してのことらしいが。
しかし昨夜に董和が孔明の屋敷を訪れたのは、おそらく、孔明の義兄弟の申し出を、計算に夢中になっているついでに、断ってしまったことを気に病んでのことにちがいない。
「おまえの父上は、相変わらず気遣い上手だな。で?」
「うん、これからの政務について話が弾んで、徹夜で語り明かしていたそうなのだが、そこへ朝刊が届いてね、広告を見るなり、軍師はH.I.S.に電話を架けたそうだ」
「H.I.S.? まさか国外逃亡を計画しているのじゃないだろうな」
「ちがうよ。ほら、あの看板にもあるじゃないか」
と、休昭が指差した先には、『選考会 試験会場』の下に、その人となりを見事に表わした、跳ねる魚のような力強い文字で、『当選者はP島へご招待』とあった。

「あの特徴のある字は、軍師のものだな。でも、『P島』って、なんだ?」
「P島といったら、プリンスエドワード島のことにちがいない」
と、恥ずかしさから立ち直った文偉が口を挟む。
「プリンスエドワード島といえば、『赤毛のアン』の舞台だ、グリーンゲイブルズだ! 『恋人の小径』だ、『お化けの森』だ! 
緑の丘とうつくしいせせらぎの小川を眺め、『輝く湖水』へピクニックに行くのだよ。でもって、時間があったら、アンのように墓場を散策するのも楽しいかも知れぬ」
「落ち着け、文偉。しかし、軍師の頭に、P島=プリンスエドワード島という発想があるとは思えぬ。プリンシペ島(アフリカ大陸南西部に位置するサントメ・プリンシペ民主共和国の一部)かもしれぬぞ」
「それならそれでいいさ。原始のジャングル探検を楽しむ。もしかしたら、ジャングルで世界未発見の生物を見つけられるかもしれぬぞ」
「前向きなのだか、なんなのだか…」
「と、いうわけで、我らはもちろん軍師の義兄弟になりたいのが主な動機なのであるが、P島にも行ってみたいのだよ。
偉度、おまえは荊州からずっと、軍師を見ていて、われらよりよく軍師の好みを知っているだろう? 軍師は、どのような好みをお持ちなのだろう?」
「好みって、それは、友にたいする好みということだよな……うむ、本人はあまり自覚していないと思うが、同性に関しては面食いな傾向があるな。
とはいえ、おまえたちみたいに、のほーんとした顔では駄目だ」
「駄目なんだ!」×2
「おまえたちに判りやすく言うと、趙将軍みたいな、ああいう、いかにも男らしいというか、凛々しいというか、渋くて翳りのある顔に弱い傾向にあるな、うん」

「では、わたしのような顔か」
突如として割って入ってきた、明快かつ、自信に満ち溢れた声に、偉度、休昭、文偉の三人は、驚いて振り向く。
振り向いて、さらに驚いた。
「馬将軍ではありませぬか! もしや、将軍も、軍師の義兄弟になりたいと思っておられるのですか?」
文偉が尋ねると、目も覚めるほどの派手な色合いの錦を、このひとでなければ着こなせないであろうと思うほどに洒脱に着こなしている馬超は、首をかしげた。
「うむ? この行列に並んでいると、軍師の義兄弟になれるのか?」
「なれる、といいますか、なるために選考会に参加しようとしている者たちの行列です」
「おお、そうであったか。なにやら行列があるので、面白そうだから並んでみたのだが」
「好奇心旺盛ですな……話を戻させていただきますが、失礼ながら、馬将軍のお顔は、軍師の好みと、ちと違う気がいたします」
「そうか? 行列を見回すに、男らしく凛々しい顔という点では、わたしのほかに該当する者はないようだが」
馬超はさらりと言ってのけるのであるが、そこが嫌味にならないところが、錦馬超の、錦馬超たる所以である。
「その二点はおっしゃるとおりでございましょう。ただ、渋くて翳りがあるとなると、違うのでは?」

偉度が指摘するとおりで、馬超は世人より誉めそやされるほどに男らしい美貌に恵まれているが、それはあくまで陽の印象を与える派手なもので、『渋さ』『翳り』といった陰の要素は、まったくないのである。

「軍師が特別に仲良くしていたのは、趙将軍のほかに、休昭の父上とか、そうそう、襄陽にいたときには、徐元直にべったりだった」
偉度の言葉に、文偉が反応する。
「その名はよく聞く。最初は主公の軍師であったのに、事情があって曹操のもとに降らねばならなかったという人だろう」
「そう。あれなんぞは、渋さと翳りという点にかけては、趙将軍よりも勝るだろうな」
「それはちがうであろう」
と、意外にも反論したのは馬超であった。
「思うに、渋い顔ならば生まれつきのもおるし、借金で首が回らぬ男も、たいがいは渋面をしておる。
軍師の場合、顔を好んでいるというわけではなく、その顔の内側に秘めたものを、じっと堪えている風情を好ましく思っているのではなかろうか」
馬超が言うと、文偉と休昭のふたりは、おおー、と感嘆の声をあげた。
「さすがスター錦馬超。言うことにも深みがある! なるほど、外見の渋さよりも内面からにじみ出る渋さか。貧乏で困っているわたしなんぞは、有利かもしれぬ!」
「おまえは貧乏でも、口ほどに困っていないではないか」

それを言えば、馬超などは、文偉や休昭らの想像を絶するほどの半生を送ってきている。
そのわりに、表面に苦しみや翳りといったものが表れていないな、と偉度は思う。
……いや、それは偉度が知らないだけで、馬超は、苦しみを突き抜けて、ひとびとより一段上の境地に落ち着きつつあるからなのだが、どうしてそうなったのか、それはまた別の話である。

「平西将軍の説には頷けるものがございますな。たしかに、軍師ほどの、派手で落ち着きのない、非常識のエレクトリカルパレードIN左将軍府を制するには、落ち着きに加えて、世の酸いも辛いも噛み分けたような、真の意味での大人の男が必要かもしれませぬ」
偉度の頭の中にあるのは趙雲なのであるが、肝心の本人は、いまもってあらわれない。
と、偉度は、行列をきょろきょろと見回す。
そして、ふと、後方にいる、ある人物を見て顔を強ばらせた。
「どうしたのだ、偉度?」
「……マズイな。いかにも軍師が弱そうな顔がおるぞ」
と、偉度が指差す方角には、ひとりの無精ひげを生やした男がひとり。
全身から渋さを醸し出すその男は……
「タ、タケノウチ?!」
「もしや、本人? サイン帳、家に忘れたっ! というか、なぜここに? 神狗を追っているうちに、ここに迷い込んでしまったのだろうか」
「いや、その迷いっぷりはすごすぎる。おそらく本物ではなく、そっくりさんにちがいない。
しかし、そっくりさんにしても、渋い! そしてカッコイイ! 
いかん、これは我らがプリンスエドワード島へ遊びにいける確率が低くなってきた!」
「どこの誰かは知らぬが、これはダークホース登場だな…軍師が顔だけで義兄弟を選ばないことを祈るばかりだ」





四人が、ぎゃあぎゃあと騒いでいるのを前に、その『タケノウチ』似の男は、戸惑っていた。

わたしを指差して、周囲が『タケノウチ』という名を漏らしつつ、ひそひそしているのはなぜなのだろう? 
武豊なら知っているのだが。
ええい、軍師将軍の身辺調査に来ただけなのに、行列とは面倒な。
まさか、ヤツへの陳情者が、これだけいる、ということではなかろうな。
ヤツは、それほどに人気があるのか、忌々しい。

そうして、ますます渋い顔をさらに渋くしかめるこの男、もうお気づきだろう、法孝直その人なのである。
妻にすすめられるまま、『オヤジ改造工房』に足を運んでみたものの、そこにいたハリウッド帰りを自称する怪しげなメーキャップアーティストは、
「こんなに見事にキツネ顔だと、いじるのもムズカシイわー、いっそ、被ってみる?」
と、法正にSFX用のマスクをかぶせてきて、法正は、なんだかよくわからない髯面の男に変身させられてしまったのだ。

とりあえず、自分が『法正』であると、左将軍府の面々にばれなければよいわけであるから、まあよいわと、マスクをかぶったままやって来てみれば、ナゾの大行列(法正の妻は、自分たちが読まないからというので、湯布院に出かけているあいだ、新聞を止めてしまったのである)。
左将軍府にさっそくやってきたはよいが、いったい、この行列はなんなのだろう。
左将軍府の若造めが、なにをはじめたのだ? 
しかし、逆に考えれば、これだけひとがいれば、怪しまれずに左将軍府に潜入することも可能というわけだ。
『タケノウチ』という言葉が気にかかるが、わたしの進むべき道は、まちがっちゃいない、歩いていこう。I blieve。

カルトクイズ編につづく……

(サイト・はさみの世界 初出・2006/03/15)

おばか企画・心はいつもきつね色 探索編 3

2020年10月21日 09時23分38秒 | おばか企画・心はいつもきつね色
「……いないな」
偉度はずらずらとつづく行列の、ひとりひとりの顔を確かめて、舌打ちをした。
行列につどう有象無象の顔ぶれはさまざまで、町人もいれば、やくざ者風の男、出世の機会を狙ってあらわれた文官や武官、子どももいれば、腰の曲がった年寄り、女侠客まで混じっている多彩ぶり。
しかし、そのなかには、探している仏頂面はないのであった。
こういうときに並んでこそ、さらに絆も深まるというのに、照れているのか? 
いっそ迎えにいってやろうかと、偉度は行列の最後尾を見る。
人は、今朝の朝刊片手に、つぎつぎと集ってきているのだが、しかし、やはりそのなかに、目当ての姿はないのであった。

いや、目当ての顔はないが、どうでもいい顔が二つ、例によって例のごとく、朝刊を片手に、息を切って駆けてくる。
「すごい人だな。二百人は集っているぞ」
「だから、もっと早く来ようと行ったのに。あ、看板に、『選考会 試験会場』ってあるよ。やっぱり試験があるのだなあ」
最後尾にあらたに加わったのは、呑気に語りあう、いつもの二人、費文偉と、董休昭であった。
ふたりは、つま先立ちなどをして、行列の行く手を観察したりしていたのだが、やがて、行列に添って、うろうろしている偉度の姿を見つけた。
「おお、偉度! とてもよいところにいた。聞きたいのであるが、この選考会、もしや、先着順、ということはないよな?」
文偉が尋ねると、機嫌悪く顔をしかめた偉度は、素っ気なく答えた。
「試験会場と書いてあるのが読めないのか。それより、趙将軍を見なかったか?」
「趙将軍? さあ。今朝は見ていない…というか、趙将軍とは職務上の接点がないから、会おうとしないと会うこともないぞ」
「まったく、まさか新聞を見ていないのではなかろうな。やはり人を使いに出すか」
「趙将軍が選考会に加わるなら、わたしたちの分が悪くなるなあ」
休昭はぼやきつつ、行列の先頭、左将軍府の門に掲げられた看板を見る。そこには達筆な文字で、こうあった。

『第一回 左将軍府事 義兄弟選考会 試験会場』。

今朝の朝刊を手に取った者は、紙面をいっぱいに利用した、義兄弟募集の告知に仰天しただろう。
それは左将軍府の広報より、左将軍府事…すなわち孔明の義兄弟を大々的に募集する告知であったのだ。
左将軍府を取り巻く人の行列は、告知を見て集まってきているのだ。
義兄弟とは、公募で得るものなのか、という疑問はさておき、それでも人がこれだけ集まっている、ということは、それだけ、孔明の名は轟いている、といえなくもない。
が、結局は、孔明という人物に惹かれて集ったというよりも、孔明のもつ権力に惹かれて集ったのである。

「おまえたちもほかの連中みたいに、出世狙いで集ったのじゃないだろうな」
偉度が尋ねると、文偉も休昭も、心外だ、といわんばかりに顔を歪めて、こたえた。
「ひどいことを言うなあ。われらは軍師の人となりをよく知っているぞ。たとえ義兄弟とて、能力がなければ引き立てないのが軍師だ」
「わかっているのならいいが」
「わかっているとも。わたしたちがここに並ぶのは、いつも人から、『あの二人は、義兄弟でもないのに、軍師のまわりをやたらとちょろちょろしている』と言われるのが、イヤだからだ。もしも義兄弟になったら、『あの二人は、軍師の義兄弟だから、軍師のまわりをやたらとちょろちょろしている』に変わるだろう」
「……やたらとちょろちょろしていることに変化はないわけだから、あまり意味がない気がするが…」

そんなふうに言葉を交わしていると、ふと、行列の脇を、地味ではあるが品のよい服を身に纏った、落ち着いた雰囲気の男が通りがかった。
大人しそうな、どこか表情に内面の苦労がにじみ出ているような、中肉中背、色黒の人物である。
男は、行列をものめずらしそうに眺めつつ、歩いていたが、ふと、中に文偉の姿を見ると、穏やかな笑みを浮かべて、声をかけてきた。
「おや、君はたしか、このあいだ、ここに遊びに来たひとだね。こんにちは」
と、男は口調も穏やかに話しかけてくる。
文偉も、襟を正して男に拱手した。
「先日はお世話になり申した。おかげさまで、よい仕事ができました」
「そう、それはよかった。今日は、左将軍府事の義兄弟選考会に来たのかい」
「はい。軍師と義兄弟になれるかもしれません。いいえ、この顔ぶれならば、我らが選ばれることでしょう!」
文偉が意気込んで言うと、男は品良く、声を立てて笑った。
「選ばれるといいね。あの人は気難しいが、君のように楽しいひとが弟になるのであれば、ちょうどよいかもしれないよ。ああ、偉度、君も選考会に加わるのかい」
「ご冗談でしょう。わたしはただ、この者たちと世間話をしていただけでございます」
「それは残念だ。では、わたしはもう行く。またあとで」
言いながら、男はゆったりと歩を進め、左将軍府の中に入って行った。

偉度は、文偉を振り返って、怪訝そうに尋ねる。
「おまえ、あの方と知り合いであったのか?」
「うむ。じつは先日、軍師の身辺調査のアルバイトを請け負ったのだ」
「軍師の身辺調査のアルバイト? なんだそれは?」
「知らないよ。人からの紹介だったので、依頼主とは会ってない。
ともかく、軍師のことを調べてこいという話だったので、左将軍府に来てみたら、さきほどの方が庭にいてね、事情を話したら、軍師の出身地や同郷の方のことなどをいろいろと教えてくれたのさ」
「おまえ、あの方に、なにか変なことを話していないだろうな?」
「変って? 街で流れている噂話をしただけだぞ? 」
「……あの方が何者か、知っているのだろうな」
偉度の問いに、文偉は不思議そうに首をかしげる。
「何者か、って、あのひとは、左将軍府の用務員さんだろう? だって、わたしがこのあいだここに来た時は、庭掃除をしていたもの」
「莫迦。あの方は、単に庭の手入れや土いじりが好きなだけなのだ。聞いて引っくり返れ、あの方こそが軍師将軍の実の弟君、諸葛均どのなのだ!」
「実弟! 似てねー! マジで!」
「マジだ」
偉度が言うと、文偉は呆けたような顔になり、となりの休昭は、いたわしそうに文偉を見た。
「文偉、謝っておいでよ…」
「ど、どうしよう! あの方に、だーれも姿を見たことのないナゾの奥方のこととか、やっぱり存在が未確認のままだという噂の弟君のこととか、いろいろろくでもないことをぺらぺらしゃべってしまった! というか、本人じゃん! つーか、本人なら、本人だって教えるだろう、普通!」
「内気な方だから、おまえの勢いに圧倒されて、なにも言えなかったんじゃないのか?」
「ぐはあ! 実弟に向かって、義兄弟に選ばれて見せます、みたいなことを断言してしまった! かなり恥ずかしい! 五分前の自分のことばをDeleteキーで、きれいサッパリ消去したい!」
「莫迦だな、おまえは。あの方が未確認物体みたいに言われているのは、軍師とぜんぜん似ていないのと、ああいうお人柄で、自己主張をまったくしないから、存在がわかりにくいからなのだよ」
それを聞いて、休昭がぽつりとつぶやいた。
「どちらかというと、軍師より、弟君のほうにシンパシーを覚えるなあ。あちらは義兄弟の募集をしていないのかな。そうしたら、ほら、自動的に軍師の義弟ということにもなるし」
「外堀から埋めてもムダ。外堀の川幅は狭くても、内堀の川幅は長江並みだから。さーて、悶絶している文偉は放っておいて…ええい、本当にこないつもりか、偏屈者め」
「偏屈者って、それは趙将軍のこと? わたしはてっきり、とっくの昔に軍師将軍と趙将軍は、義兄弟の契りを交わされていると思っていたよ」
「そう思うだろう? あのふたりは、いつも一緒にいるくせに、そういう約束事を設けるのを嫌う傾向にあるのだ。
世間にいらざる印象を与えないためにも、義兄弟という形におさまってしまえばいいのだ」
「いらざる印象って?」
休昭の問いに、偉度はぴたりと口を閉ざすと、答えた。
「うん? わたしは、そんなことを言ったか?」
「言ったよ…。よくわからないけれど、趙将軍ほどに仲がよい方とも義兄弟になりたがらないのじゃ、ほかのだれが現われても、望みは薄いのではないのかな。なのに、どうして公募なんてしたのだろう?」
「それはだな」
と、偉度は、行列の先頭の、左将軍府の入り口を見る。

そこでは、めずらしくも許靖が、にこにこと上機嫌で、てきぱきと整理券なんぞを配っている姿があった。
その背後では、悠然と腕を組んで、あつまった人々を、あいかわらずの三日月型の目で眺めている劉巴の姿があった。
やはり、本心を読み取ることがむずかしい顔をしているのであるが、偉度は知っている。
目じりの下がり具合が大きいので、あれはこの騒ぎを楽しんでいるのだ。
趣味が悪いというか、なんといおうか。
そして、肝心の孔明の姿は見えないのであった。

つづく……

(サイト・はさみの世界 初出 2006/03/15)

おばか企画・心はいつもきつね色 探索編・2

2020年10月17日 09時54分12秒 | おばか企画・心はいつもきつね色


「雨が降ってまいりましたな」
と、筆を止めて、執務室より見える庭を見たのは孔明である。
その声に応じるように、その場にいた劉巴、許靖の両名も顔をあげた。
つねにわが道をゆく劉巴のほうは、単に気晴らしのために顔をあげたらしい。
一方の許靖のほうは、さきほどから手持ち無沙汰で仕方がなかったが、孔明が仕事をしているため声をかけられず、ずっと我慢していたところ、ようやく声がかかったので、喜んで顔をあげた。
もうひとり、董和のほうは、孔明の声にまったく反応せず、上下の唇をけんめいに動かして、ひっしになにかを数えている。
決済がひつような書類の、最後の精査をするために、さきほどから何度も計算を繰り返しているのだ。
孔明は、董和待ちなのである。
董和から劉巴、劉巴から許靖、最後に孔明へという流れなのであるが、最初で躓いてしまっているのだ。
とはいえ、董和が眉根に皺をよせ、懸命に数えているのを、さきほどからずっと見ているだけに、せかすこともなかなかできない。

まだまだ掛かりそうだな、と思いつつ、卓に膝を乗せ、孔明はしばらく、音を立てて庭木に雫を落す雨をながめていた。
やれやれ、また雨か。このところ、雨の日が多い。
大降りにならぬとよいのだが。
そうして、ふたたび、薄暗い部屋に目を戻せば、おなじく手持ち無沙汰になっている劉巴と目が合った。
劉巴の顔は変わっていると、孔明は思う。
馬良のように、眉が白いというような、際立った特徴があるわけではないのだが、劉巴は、三日月を横にふたつ並べたような、いつも笑っているような目をしている。
口角も、それに合わせるように、いつも微笑しているものだから、愛想がいいという好印象より、仮面をかぶったひとを前にしているような、違和感をおぼえてしまう。
初対面のときより、なにやら心の読めぬ方だ、という印象があった。それはいまもって変わらない。
劉巴が声を荒げているところを見たことがないが、大笑いしているところも見たことがない。
もっと言えば、泣いているところも、悔しそうなところも見たことがない。
このひとの心は、どのあたりにあるのだろうと思う。
しかし、長年の付き合いのおかげか、だいたいなにを考えているかは読めるようになった。
いまは笑っているようだ。
いつも笑っている顔なのでわかりにくいが、そこは、目の下のちいさな皺で見わけるのである。

「知っているかね」
と、劉巴は切り出した。
「なにがです」
「最近、左将軍府の若い者たちを中心に…まあ、君も若いが…義兄弟になるのが流行っているそうだよ。そういえば、君には義兄弟がいないね」
貴方にもいないではないか、と孔明は思ったが、それは口に出さなかった。
劉巴の経歴は複雑なので、下手に突っ込むと、気まずい思いをするのだ。
「義兄弟というと、大げさに考えてしまいがちだが、いればいたで、楽しいぞ」
と、なにやらご機嫌な様子で口を挟んできたのは許靖だ。
この許靖、左将軍府のなかでは、もっとも老齢である。
とりあえず左将軍長史として、孔明に次ぐ地位にあるのであるが、他者にはじつにわかりにくい道筋で思考を重ねる人物でもある。
朝、だれより早く出仕したかと思ったら、昼過ぎに、眠くなったら帰るといって、悪びれず帰ってしまったこともある。
「長史に、義兄弟がいたとは存じませんでした」
「だろう。わたしも、いままで忘れていた」
屈託なく笑う許靖であるが、その言葉に、孔明はなにやらいやな予感をおぼえて、尋ねる。
「無礼を承知であえてお尋ねいたしますが、長史の義兄弟という方は、すでにお亡くなりになった方なのでございますか?」
「さて、中には死んでしまった者もおるかもしれぬ」
「中には?」
許靖は、手に筆を持ったまま、にこにこと満面の笑顔で頷いた。
「左様。わたしはこの年で、近頃では朝餉になにが出たかも覚えておらぬ始末だ。だから、義兄弟が何人いたか、名前はなんであったかも、忘れてしまったよ」
「左様でございますか…」
許靖の性格からするに、あちこちで、ちょっとでも気の合った者を見つけたら、すぐに盛り上がって、そのまま義兄弟になっていたにちがいない。
そして、きっと一晩たったら、忘れてしまったにちがいないのだ。

許靖の、この記憶力のいちじるしい衰亡は、なにも今日に始まったことではなく、どうやら、江東の孫策と対峙したときに、南蛮の地に逃げ込んで、そこで熱病を患ったのが原因らしい。
以前は、江東の孫家を向こうに回すほどの勢いのある男だったらしいのだが、いまではすっかり好々爺と化している。
しかし、ふとしたときに、
「わたしは、もしかしたら、ずっと熱病に罹ったまま、治っていないのではないかと思うのだよ。いま、こうして貴殿らと言葉を交わしているわけであるが、実は、それすらも熱病のせいで見ている夢かもしれぬな」
などと不気味なことを言って、孔明をぞっとさせることがある。
なににぞっとしたかといえば、許靖の豊か過ぎる想像力に、であるが。
記憶力と想像力は、どうやらあまり関係がないらしい。

「たくさん義兄弟がいる許長史のような方もいれば、君のように、ひとりも義兄弟を持たぬ者もいる。なぜだね」
「なぜと言われましても」
劉巴に問われて、孔明は口ごもった。

孔明とて、世の風潮に合わせ、義兄弟を得ようとしたことがあるのだ。
一度目、徐庶には、
「おまえとなあ」
と、なにやら意味ありげな言葉と共に一笑され、それきりとなった。
二度目、趙雲には、やたらと激しく拒否された。
なんだかいろいろ理屈を並べ立てられた記憶があるが、しかし、なんだってあんなに嫌がられたのだか、いまもってよくわからない。
偏屈者め。

「いまの流行の特長は、荊州の者と、益州の者同士で義兄弟となることだそうだよ。わたしたちから見れば、平和な証だと思うが、どうだね、君も、益州の人士のなかから、義兄弟となるにふさわしい人物を見つけては」
さては、暇なので適当なことを言っているな、と孔明は劉巴の意図を読み、あえて返事をしないでいたのだが、横からまたも許靖が口をはさむ。
「しかし軍師将軍の義兄弟となると、それなりの身分でなければ、釣り合いがとれないのではないかね」
「義兄弟は、相手の身分を見て絆を結ぶものではないでしょう。それを言ったら、軍師に似合いの義兄弟といったら、法揚武将軍くらいしかいないことになってしまう」
そればかりはありえない。ご冗談でしょう、と流しつつ、ふと、脇を見れば、元荊州出身、しかし益州人士と見做されている董和が、まだ、せっせと計算をつづけていた。
孔明は思い立ち、董和に尋ねる。
「董中郎将、如何でしょう、わたしと義兄弟の契りを交わしてみませぬか」
「軍師、いま計算中でなにも耳に入らぬ。すまぬが話しかけないでいただきたい……ああ、わからなくなった。やり直しだ」
董和は、恨みがましい目を向けて、軽く孔明を睨みつけてきた。
二度あることは、三度あったようである。
「もう一度やり直す。お三方とも申し訳ないが、もうしばらくお時間をいただきたい」
「どうぞごゆっくり」
と、傷心の孔明は答えた。
冗談のように口にしたものの、半分は本気だったのである。

劉巴が、にまにまとこちらを観察しているのに気づいていたので、あえて無視して不貞腐れていると、主簿の胡偉度がやってきた。
顔を出すなり、四人の顔ぶれを見て、おどろく。
「おどろいた、許長史がいらっしゃる! 今日は早退されないのですか?」
また、これも一言多いやつだな、と孔明はたしなめようとしたが、許靖は、やはりにこにこと機嫌よくわらいながら、偉度に答えた。
「雨が止んだら帰ろうと思う」
まだ定時まで、ずいぶんあるのだが。
「降られたようだね。ひどくなりそうかい」
と、劉巴が尋ねると、偉度は、水滴のあとのついた衣を気にしつつ、答えた。
「いいえ、西の空は晴れておりましたから、おそらくじき、止むことでしょう。許長史、どうせなら、最後までいらっしゃればよいのに」
いなければならないのだ。本当ならば。
「考えさせてくれ。ところで偉度や、おまえには義兄弟がいるのかな」
その質問に、偉度はちらりと孔明のほうを見る。
孔明が義兄弟だというわけではない。偉度は、自分で組織している細作集団の長であり、部下である者を『兄弟』と呼んでいるのだ。
「おりますよ」
すると、許靖は、できの良い孫が、上手な答えを口にできたかのように、満足そうに何度も頷いた。
「よいことだ。兄弟が多いことは、とてもよい。どうだね、その仲間に、軍師を入れて差し上げては」
「はあ?」
と、素っ頓狂な声をあげて、偉度はちらりと孔明を見た。
孔明のほうも、偉度をちらりと見る。
視線がぶつかると、双方、気まずい思いで、さっ、と逸らした。
偉度は口を尖らせて、言う。
「お断りでございます。このように、気難しく奇矯な方に兄事するなどと、悲劇でございます。いまでさえ、主簿としてお仕えするだけでいっぱいいっぱいだというのに、これで義兄弟となったら、どれだけ面倒を押し付けられることやら。想像しただけで、こめかみが痛んでまいります」
それを聞くや、許靖は楽しそうに笑った。
「ああ、軍師、また振られたようだな」
孔明は、顔をひきつらせて笑うしかない。
と、いうよりは、そろそろ、だれか、ほかの話題を口に出してはくれまいか。
「またとは、どういう意味です?」
しかし、偉度が余計な質問をしてくる。

孔明は、座を立ってしまいたかったが、それもなにやら大人気ないし、董和の計算がいつ終わるかわからないしで、結局その場に留まっている。
横では、許靖が小癪なことに、なんとも嬉しそうに、孔明が董和に義兄弟の話を持ちかけて、一瞬で蹴飛ばされたことを話している。
偉度はすっかり呆れた顔をして、話を聞いているようだ。
「はあはあ、それで二連敗と。お気の毒な軍師将軍。しかし、天才に孤独はつきものでございますゆえ」
「慰めているつもりか、それは」
「君は、印象は華やかなのに、意外に交友関係が狭いからね」
と、劉巴がまたまた口を開く。
いつもは貝のように口を閉ざしているくせに、今日の饒舌ぶりはなんなのだろう。
なにか、よいことがあったのだろうか。
「しかし、君は、知名度、人望ともに、この左将軍府では群を抜いているわけであるし、どうであろう、いっそ、義兄弟を募る、というのは」
とたん、許靖の顔が、星のごとく、ぴかっ、と光った。
孔明は、これほど不吉な輝きを放つ老人を見たことがない。
「それは面白い! さっそく募集をかけてみよう!」
「お止めください。そも、義兄弟とは、真に打ち解け、信頼できる者と絆を結ぶべきものでしょう! 知らない人間と、義兄弟の契りを結ぶことなど、できませぬ」
「会ったら、意外と気に入るかもしれない」
劉巴が適当なことを口にする。
公募なんぞかけたら、孔明の政治力を目当てに、人がわんさか集まってくるだろうことは、劉巴はちゃんと予測している。
しているのに、それでも押してくるところが、この人物の怖さである。
「嫌です。お断りいたします。と、いうわけで、この話は打ち切りましょう。まだ続ける者がいれば、この部屋から出て行っていただく!」
「なら、もう帰ろうかな」
と、許靖が席を立とうとする。ちょうど、雨も小降りになってきたのだ。
孔明はあわてて言った。
「ああ、いまのは取り消しといたします。義兄弟の話をしたら、残業していただく」
すると、許靖は困ったような顔をして、大人しく席に戻った。
とはいえ、許靖は、飾りとして左将軍府にいる、いわば皺の寄ったマスコットキャラクターのようなものであるから、仕事といっても、回ってくるものはすくない。
董和の計算が終わって、劉巴がさらに(とんでもない早さで)二重の精査をかけ、つづいて許靖のところに書類が回ってきたのであるが、許靖のすることといえば、ただ署名をするだけである。
最後に、孔明が全文を読み、決済をおろす。

許靖は、またまた暇になったのであるが、ふと、年に見合わず、子供のような笑みをにんまりと浮かべ、急になにも書かれていない書面に、さらさらと筆を走らせた。
そして、偉度や孔明が、べつなことに気を取られているあいだに、こっそりと、決済ずみの書類入れのなかに忍ばせた。

それは、当然、ひと騒動起こす原因となる。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初出 2006/01)

2020/10/17より、当ブログの更新頻度が変わります。
しばらく、水曜日と土曜日の更新になりますので、ご了承ください。

おばか企画・心はいつもきつね色 探索編・1

2020年10月12日 09時33分26秒 | おばか企画・心はいつもきつね色
早朝の遠駆けを終えて、成都の中ほどにある自邸に帰る途中であった馬超であるが、ふと、その道の途中にて、気にかかるものを見つけた。
それは、川べりの、そよとして枝を揺らす柳の木の下で、身なりのよい十歳くらいの少年が、なぜだかおろし金を両手に掲げて、じっと、川面に映るおのれの顔と、おろし金を見比べているのである。
よほどでなければお目にかかれぬ珍妙な光景に、馬超は気を引かれて馬を下り、その少年に声をかけた。
「小僧、そのような場所で、そのような物を持ち、なにをしているのだ」
西涼のなまりを隠さぬ堂々とした口調に、少年は怪訝そうに顔を上げる。
聡明そうではあるが、尖ったあごの目立つ、いささか癇の強そうな少年であった。
「なんだ、貴様は。わたしが揚武将軍の長子と知って、無礼にも声をかけたのか」
「威張った小僧だな。揚武将軍の子か」
わずかに顔をしかめつつ、しげしげと子どもの顔を眺めれば、なるほど、たしかに、キツネを思わせる逆三角形。
この顔は、揚武将軍の血筋にちがいない。
馬超は女子供に好かれるが、それは馬超が、女子供を好いているからである。
だから、成人の男子であったなら、だれであろうと、無礼はそちらであろうが、と言いつつ、ぺしゃんこにしてやるところであるが、子供であるからと見逃して、言った。
「無礼は謝ろう。しかし、揚武将軍の御子ともあろう方が、なにゆえ、伴もつけずに、ひとりでそのようなところにいる」
「貴様には関係ない」
そう言うと、口調も父によく似た少年は、ふたたび、ぷい、と顔を川面に向ける。

いつもの馬超ならば、そこで、はいそうですか、さようなら、となるところであるが、見れば、少年は、川面の己の顔を見ながら、涙をこぼしているようである。
しかもその手のおろし金は、なんなのだ。
こうなると、黙っておられない。
馬超は重ねて尋ねた。
「おい、なぜ泣くのだ。それに、なにゆえ、おろし金などを手にしている」
「泣いてなんぞおらぬ。これは、埃が目に入ったのだ」
と、少年は、語気を荒くして言うが、しかし言っている端から、ぽろぽろと涙がこぼれて、少年のことばのうそを暴くのであった。
「む、このまま立ち去っては、わたしがいとけない子を泣かせたものだと誤解されてしまう。おい、揚武将軍の子、事情を話せ」
馬超が問うと、頑なに見えた少年は、不意に緊張がゆるんでしまったのか、とたんに十歳の子供らしく、わあわあ声を上げて泣き出して、おのれの事情を打ち明けはじめた。





巴蜀の主が、劉璋から劉備に代わって久しい。
この君主の交替劇において、重要な役目を果たしたのは、法正、字は孝直である。
前の君主である劉璋を裏切り、劉備を蜀に招き入れたひとりなのだ。
それを劉備に高く評価され、劉備が蜀を平定したあと、揚武将軍という、文官のなかでも、もっとも高い地位を手に入れることとなった。

揚武将軍という地位を手に入れた法正であるが、ここで問題が発生する。
法正が、なぜ前の君主である劉璋を裏切ったかといえば、それは、劉璋のもとで冷遇されていたからである。
もともと、劉璋とはそりがあわず、同郷の人間に悪い噂を流されてしまったこともあって、法正は、出世街道からはずれたところにいた。
それが、劉備のもと、揚武将軍の地位を得るや否や、それまで胸に抱えていた鬱屈としたものが、溶岩のようにあふれ出した。
そして、閑職に追いやられていた恨みとばかり、かつての政敵たちを、ささいな罪でもって捕縛し、その一族を、ことごとく根絶やしにしてしまったのである。
その有様たるやひどいもので、成都の民はすっかりおびえ、心ある人士も眉をひそめたが、なにせ相手は、政務の頂点たる揚武将軍。
目を逸らし、口を閉ざすしかできない。
そうして陰では、あたらしい殿様もどのようなお人かよくわからぬのに、これからどうなるのだろうと、不安がった。
しかしその不安は、じきに晴れる。

劉備の寵のもと、その権威を振るい、圧政を敷くのではと恐れられた法正であるが、そこに水を差す勢力があらわれた。
ほかでもない、荊州人士の中心、左将軍府事にて軍師将軍を兼ねる、諸葛孔明の一派である。
益州を攻略する際に、軍師の龐統が戦死してしまい、劉備はその交替として、荊州三郡をおさめていた孔明を荊州から呼び寄せた。
同時に、曹操の南下にともなって、避難生活をつづけていた荊州人士が、大量に益州に移住してきた。この中心が孔明なのだ。
この諸葛孔明、本名も派手派手しいが、その号もまた派手に、臥龍という。
法正としては小癪なことに、これが、名前負けせぬ辣腕ぶりを示して、よそ者だというのに、あっという間に民の信頼を得てしまった。
そのため、法正としても、このまま黙って好き勝手をしていたなら、地位を奪われる危険すらあると察し、大人しくせざるをえなくなったのだ。
最初、法正は、孔明をうまく丸め込み、骨抜きにしてしまうことも考えた。
しかし、さらに小癪なことに、孔明という青年軍師、清流を自認する、きわめて潔癖な男で、物欲、食欲、性欲といった、人の弱いところに訴える手法がまるで効かないのである。
それに、法正の人となりを見越しているようで、どんな手を打っても、するり、するりとかわしてしまい、おのが陣営に取り入れようにも、逃げられるばかりである。
下手にでるよりも、真正面から対決したほうが早いと法正は判断し、かくて、劉備を挟んで、揚武将軍の法正と、左将軍府事の孔明の対立はつづいているのであった。

さて、この法正には子があり、名を法邈(ほうばく)という。
自慢の聡明な息子なのであるが、今朝から、姿が見えないと、大騒ぎになっていた。
ところが、あとになって、どういうわけだか、神威将軍と恐れられたこともある、法正とおなじく、劉備の入蜀におおいに力を示した馬超に、泣きべそをかきながら、負ぶわれて帰ってきた。
理由を聞いたが、法邈は、父親から目を逸らせて、答えようとしない。
代わりに馬超が答えたのであるが、その内容は、父親を不機嫌のどん底に落すのに、十分なものであった。
錦馬超曰く、
「あえてズバリ言うが、貴殿の行状があまりに黒いことを理由に、近所の子供たちに怖がられてしまい、だれも相手にしてくれないので、お子はしょげているのだ。
先日、おのれの身分を知らぬであろうと隣町にまでこっそり足を運んでみたものの、やはり、正体はすぐ知れて、おまえなんかあっちいけ、一緒に遊んだら、おとうや、おっかあが殺される、といじめられてしまったそうなのだ。
なぜ正体が知れてしまったかといえば、顎だ。失礼であるが、貴殿の顎には特徴がある。お子も、ずばりおなじ特長を備えておられる。それで、とんがりキツネ顎の子は揚武将軍の子だと、みなに知れてしまったというわけだ。
そこで、お子は悩んで、おろし金で自分の顎を削ったなら、みなに揚武将軍の子だとばれなくて済むかもしれぬと、子供らしく考えたわけだな。貴殿の子にしては、純真な発想をする」
最後のセリフが余計であったが、法正は、それくらいでは、こうまで不機嫌にはならなかったであろう。
決定的であったのは、馬超に負ぶわれて、泣いて顔を真っ赤に腫らせた、法邈の言葉であった。
「こんなザンコクな父上いやだ! 軍師将軍みたいな父上がいい! キツネ顔もいやだ! 軍師将軍みたいなカッコイイ父上が欲しい!」


「あれがカッコイイ? わが子とはいえ、目が狂っとる」
これは躾が悪いのか、あとで妻を叱らねばならぬな、とイライラしながら思いつつ、法正は、卓にひろげた秘密文書を見る。
それは、軍師将軍諸葛孔明の弱みを握るべく、手の者に依頼して、その身辺を探らせたものである。

姓・諸葛 名・亮  字・孔明 
181年、徐州琅邪にて生まれる。華侘と同郷だとかなんだとか。知り合いらしい。

家族構成
妻 荊州の襄陽の権勢家である黄家の出。軍師が成都に来てから、だれもその姿を見たことがない。最近、UMA(未確認生物)に指定された。
子 仲がたいへん悪いという噂の、兄の次男を養子にもらった。実兄との確執はさておき、養子の喬氏とは、ちゃんと父子をしている様子。
弟 近所に暮らす弟がひとり。左将軍府のどこかにいるらしい。本人と似ていないため、まったく面識のない状態でその人を捜し当てるのは、ウォーリーを探し当てるより、はるかに困難を極めるという都市伝説が成立しつつある今日この頃、みなさま如何お過ごしですか。この弟の妻が馬家の遠戚だったため、馬季常は、本人を『尊兄』と呼ぶ。
義兄弟 なし

長所 やたらポジティブ 強い意志
短所 細かすぎるわりに整理整頓下手  どうでもいい面で発揮される優れた記憶力
趣味 機織 細工もの 仕事全般
好きなもの 骨のある職人 内省的かつ賢い人
苦手なもの 反骨 自己主張の激しい人 
健康状態 たいがい良いが、少々過労気味。眼精疲労の気あり

経歴
いまさら語るのもアレなんで、現在の状況だけ述べますと、左将軍府事として、バリバリ仕事をこなしながら、つぎの揚武将軍、やってみたいなー、なんてチラッと考えているとかいないとか。

『なんだ、これは』
法正は、眉をおおいにひそめつつ、報告書を読んでいると、妻が娘をともなって、部屋にやってきた。
たしかに卓越した才能を持ってはいるものの、その手法が酷で、手段を選ばぬために、よい評判のすくない法正であるが、家庭では、意外にもよき父親である。
家には糟糠の妻と、娘と跡継ぎ息子がいるばかり。
妾のたぐいは家に置いていない。
家族が不便ないように、争いの起こらぬようにと、家人にはたっぷり報酬を与えているため、かれらの忠誠心も厚く、家での評判は、外と比べると、とんでもなく良いのである。
「郎君、邈の件ですけれど、家出したことは、咎めないでやってくださいましね」
と、妻はいきなり切り出した。
このところ、慣れぬ贅沢がかえって仇となって、肥満気味であるが、それでも、面差しは昔のままである。
法正は、この妻に、とことん弱い。
目ざとい妻は、法正の手にするものを見て、怪訝そうに首をかしげた。
「いまさら、そのようなものを読んだところで、なんの参考にもなりませんわよ」
「なんだと? これがなんだか、知っておるのか?」
だってねえ、と言いながら、妻と娘は、顔を見合わせた。
「今朝、うちの門扉にそれが差し込まれていたのを、この子が見つけたのですもの。どんな者を雇ったのかしりませんけれど、ずいぶんとお粗末ですわね。家人に見られたら笑いものになります。
だから、わたくしが、あなたの机に置いたのですけれど、気づきませんでした?」
「すまぬ…しかし、いい加減なバイトを雇いおってからに」
ぶちぶち言う法正であるが、妻は容赦ない。
「バイトもいい加減ですけれど、郎君もどうかと思いますわ。軍師将軍といえば、貴方にとっては政敵。その政敵の身辺調査を、いまさらさせているなんて、後手後手に過ぎるのじゃありませんか」
「そういうところが、邈が嫌がっているところじゃないの?」
と、更に容赦のない娘が言った。
妻の言葉もぐっさりと来るが、娘の言葉は、さらに胸に響く。
「おまえも、邈と一緒で、わたしのような父親より、あんな男だか女だかよくわからん顔をした、のっぽの案山子みたいな男が父だったら、などと思っているわけか。今月のお小遣いを下げるぞ!」
「そうやって、質問と脅しを一緒に口にするところがイヤ。お小遣い下げたら、去年、父の日にあげた肩たたき券、回収する」
肩たたき券をもらって感激した法正は、いまだにそれを使用せず、大事に押入れにしまっているのだ。
「なんという娘だ! おまえからも叱れ」
と、妻に言うが、妻のほうはしれっとして、答えた。
「うちの家訓は『やられたらやりかえせ』だ、とおっしゃっていたじゃありませんか。この子は、それを実行したまでです」
「おまえ…」
「子供たちが難しい年頃を迎えているとはいえ、最近の郎君は、どこか緊張感が欠けているように見えますわ。だから、子供も、このように舐めきった態度なのです」
「それはだな」
「郎君がお仕事をどのように進めているか、わたくしは口出しする立場ではございませんし、目にしたこともございませんが、なんとなく想像はつきますわね。
はいはいと、適当に頷いてくれる人しか周りにいない状態で、好き勝手にお仕事をなさっているのでしょう。
そして、家に帰ったら帰ったで、横になっては昼寝をするか、価値があるのだかないのだか、それともただ古いというだけで崇めているのだか、よくわからない骨董品を磨いて、ぼーっとなさっている。いまの郎君は、フヌケです」
「フヌケ!」
「ええ。わたくし、長年、郎君にお仕えしてまいりましたが、フヌケを夫に持ったおぼえはありませぬ。昔の郎君は、もっとしゃきっとなさっておいででした。ですから、子供たちも尊敬していたのですわ」

ふと、法正の脳裏には、法邈が、父の日に書いた作文の一部がよぎった。
『ぼくのおとうさんは、くにでいちばんのはたらきものです。いえでは、すこしだらしがないけれど、はたらきものなのは、えらいとおもいます。』
しかし、そのあとに、『ざんこくなのは、なおしてほしいです』とつづく。
ちなみに、タイトルは、『おとうさんは、ざんこく』。

「むう」
「むう、じゃありません。このままでは、邈がグレます。悪の道に染まります。郎君の残酷DNAを受継ぐあの子が悪の道に走ったら、それはもう、大変なことになります」
「わたしにどうしろと」
「わたくしたちは、郎君に、ぴしっとしていただきたいのです。いくら人手不足とはいえ、軍師将軍の身辺調査に、いい加減なバイトを雇うような郎君ではなく、かつての、だれよりも働き者であった郎君に戻ってほしいのです」
といって、妻は、一枚の名刺を差し出した。受け取って、文面を読んだ法正は、おおいに顔をしかめる。
「『オヤジ改造工房』?」
「ええ。その方の手にかかれば、どんな容姿も思いのまま。ただ好きなように変身できるというだけではなく、きわめて格好いいオヤジに変身できるそうですわ。そこで変身して、左将軍府にもぐりこみ、ご自分の目で軍師将軍の働きぶりを確認なさればよいのです」
「なぜ、わたし自らが出向かねばならぬ!」
「郎君、最近、運動不足ですもの。ダンベル体操も三日もしないうちにやめてしまわれたし」
「そういう問題か?」
「そういう問題です。切迫した事情がなければ、郎君は動かないじゃありませんか。では、がんばってくださいませね。郎君が左将軍府にもぐりこんでいるあいだ、わたくしたちは、邈の傷ついた心を癒すため、すこしばかり湯布院に湯治に行ってまいります。
ですから、郎君は、心置きなく調査に励んでくださいますように。わたくしたち、九州から応援しております」
「う、うむ? 行っちゃうの?」
「父上、お土産に、きりぼんグッズ、買ってきてあげるね」
「むう、いるような、いらないような。きりぼん、ドラマとちがって、お湯につけても色が変わらぬのだよな」
「いーじゃん、可愛ければさー。色が変わるとか、男のくせに、細かいのイヤー」
「軍師将軍のほうが、もっと細かいぞ!」
ちなみに、法正の趣味は骨董品あつめであるが、聞いた噂では、孔明の趣味は機織らしい。
いい加減きわまりない、バイトの作成した報告書にも、その旨はしっかり書かれている。
「繊細とみみっちいのとは、ビミョーに違うよね、母上」
「ビミョーどころか、大きな隔たりがあります、娘よ。というわけで、お留守番、しっかりお願いいたします。新聞の勧誘が来ても、ちゃんと断るんですよ。
あと、うちは、保険には、もうたくさん入っていますからね、見栄張って、ほいほい契約結んじゃダメですからね。
あと、ろくでもない骨董品をまた増やしたら、今度こそ、お気に入りの壷を割りますよ」
「留守番を押し付けられるうえに、自由もないのか」
ぶつぶつ不平を言う法正であるが、妻と娘は、まるで頓着せず、湯布院に向けて出立する準備をはじめた。
が、見ていると、どうも出かける準備が整いすぎている。
法邈の件は単なる口実で、以前から、『法正を置いてきぼりにして、湯治を楽しもう』計画は進んでいたようであった。
「……………ふん」
仕方がないので法正は、妻に勧められた『オヤジ改造工房』に、しぶしぶ電話をするのであった。

つづく……

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