はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

浪々歳々 8

2020年05月02日 10時16分11秒 | 浪々歳々







ひとことも口をはさまず、ふむふむと肯きつつ、すべてを聞き終わった孔明は、目をきらりと輝かせる。
そして、打ち明け話をしたことで、また盛り上がり、お互いの肩を抱き合って、おいおいと泣き伏せる村人たちに言った。
「死ぬことはあるまい」
すぐさま、花嫁の母親が、甲高い声で反駁する。
「まさか、死ぬなど早まるな、生きて耐えよ、などとおっしゃるのではないでしょうね?」
「耐えることもない。要は、衣が出来上がればよいのであろう」
「しかし、娘に機は織れませぬ」
「地主は、衣を用意しろ、と言ったが、かならず花嫁に織らせろ、とは言わなかった。そうであろう?」
言いつつ、孔明はにんまりと笑う。
孔明は、なにか策があるときの、自信満々の顔をしている。大波津波、どんとこい、といった顔だ。
「その作りかけという衣を見せてはくれぬか。それと機屋へ案内してほしい」
「構いませぬが、貴方様は?」
村人たちの問いかけに、馬良が意気揚々と名乗ろうとすると、いつのまにか入ってきていたのか、趙雲がそれを手ぶりで止めた。
そして代わりに答える。
「我らは休暇中のただの小役人だ。しかしこのような不正は許せぬ。我らが尽力し、おまえたちをかならず助けるがゆえ、安心するがいい」
趙雲が戦場で兵卒たちに下知するような、重々しい声で言うと、村人たちは、おおー、と安堵のため息をついた。
おいしいところを攫われた気がするが、馬良は思わぬことの成り行きに戸惑いながらも、久しぶりに小憎らしいほど自信にあふれた孔明にほっとしつつ、花嫁の案内に従って機屋へと向かった。





織機を見るや、孔明はううむ、とうなった。
「最新型だな」
馬良には、ごくごくふつうの織機にしか見えない。
織り機など、どこの家のものも同じ、と思っていたのであるが、どうも違うようである。
孔明は、素人目にもよく手入れがされているとわかる織機に近づくや、『最新』の部品らしいものをしげしげと観察する。
「あたくしの娘は当代一の名人でございますから、その腕に見合った道具をと思って、用意してやったものでございます」
と、花嫁の母は、得意げに説明する。
孔明は振り返ると、感心したように肯いた。
織機のおかげで、花嫁の母と孔明の間に、あっというまに共闘意識が芽生えたようである。
孔明は気骨あふれる職人が大好きなのだ。
「その織りかけの衣が、例の衣でございます」
なるほど、といいつつ、孔明はその、雪原のように清い白い衣を手に取る。
白い衣に、巧みに鳳凰の絵図が織り込まれたものだ。
単色のものならばともかく、鳳凰の絵図を織り込むために、下絵のなにもない状態の布に、織女の頭の中にある図像をそのまま腕に託して、糸をさまざまに換えて、徐々に徐々に積み重ねるようにして、織っていくのだ。
大変な根気を必要とする作業である。
「たしかに花嫁は名人のようだな。手を加えるといっても、あとは完成させるばかりの状態ではないか。夫人はきっと気に入るだろうな」
ちらり、と孔明は花嫁の母の後ろで、ものめずらしそうにしていた趙雲に目を走らせる。
「たぶん」
と、短く趙雲は答えた。
趙雲は、奥向きの全体のことは語っても、孫夫人個人に関しては、あまり話題にしたくないらしい。
孔明は、いったいいかなる策でもって村人たちを救うのであろうかと、期待をもって見つめていた馬良であるが、何を思ったか、孔明は上衣を脱ぐと、ぺたりと床に座り、
「では、この場をしばらく借りよう」
といって、たすき掛けをはじめた。
「亮くん、なにを始める気かい」
うろたえて尋ねる馬良に、孔明は不思議そうに言う。
「なにって、機織さ」
「きみが?」
「そうだよ」
「なぜ?」
あきれる馬良に、むしろ孔明は柳眉をしかめて、
「なぜって、それこそなぜだい? 五日の間に衣を完成させなければ、花嫁は、地主のドラ息子の下に行かねばならない。そうなるくらいなら死ぬと言っているのだよ。
そして、肝心の花嫁は怪我を負っていて機織ができない。ならば、だれかが代わりに機を織らなければならないじゃないか」

馬良は、孔明に策があり、と見たとき、これはきっと、証文の嘘を暴いて、役人たちを引き連れて、地主のところへ堂々と赴くのだろうと思った。
そうして、シラを切ったうえに、「者ども、この小役人どもを始末してしまえ!」と開き直った叫びに応じてわらわらと食客どもが襲ってくるのを趙雲が退治し、そこではじめて、我は諸葛孔明なるぞと地主に対して、その名を明らかにし、地主はすっかり恐れ入って、村人たちはおおよろこび…といった講談ふうの展開を想像したのだが。

主役になる人物は、こうしている間にも、細長い指先を器用に動かし、ちまちまと糸を操り、起用に途中で止まっている機織のつづきをはじめている。
その慣れた一連の動作を見て、花嫁の母は、「なかなかですわね」とつぶやく。
なんだ、この地味な展開は。
「なんだって君が?」
「他にいないだろう。良くん、機織を甘く見てはいけない。機織というのは、職人の感性を極限まで要求される非常に繊細な作業なのだ。いわば芸術といってもよい。
見たまえ、この鳳凰の高貴かつ神秘的な表情を。これほどの腕を持つ娘の作業の続きをするのだよ。生半可な職人に続きをまかせるのは、雪原の上を泥だらけの足で踏み荒らすようなものではないか。
この娘は天才なのだ。字すら満足に読めない娘が、天啓を得て作った物なのだよ。なんという素晴らしい奇跡だろう。
このひどく退屈で陰惨な農村社会にあって(ここで戸口に押しかけていた村人たちは、一様にムッとした顔をしたが、孔明はまるで頓着せずに、つづける)夜闇にきらめく星のような光明が存在する。だからわたしは世の中に絶望することができないのだ。
この作業の続きを為しえるためには、天才に対抗しうるだけの、極上の感性と知性が必要なのだ」
「それが君ってわけかい」
なにをあたりまえな、という顔をして、孔明は答える。
「他にいるかね」
いるんじゃなかろうか。臨烝あたりに。
という言葉を、馬良は呑み込んだ。
「しかしいつの間に、機織なんて覚えたのだ」
すると孔明は目を細める。
「ほう、君のその顔から察するに、機織というのは女の仕事と思い込んでいるようだね。
しかし、一度ぜひやってみたまえ、こんなに熱中できる作業はほかにない。最初は、老眼が進んで、細かい作業がつらい、と言っていたばあやの手伝いのつもりで覚えたのだが、要領をおぼえると、止まらなくなってしまうのだよ。
崔州平には、そんなのは、いい嫁を貰ってしまえば、意味のない技術だ、暗記のひとつでもしたほうがよっぽどためになる、などと言っていたがね、そんなことはない。現にいま、こうして人助けに役立っているのだからね」
「たしかにそうかもしれないが」
「こんなに楽しい作業を独り占めして申し訳ないくらいだ。君にも教えてあげたいところだが、いまはそんな余裕ではないようだ。
それとすまないが、そろそろ話しかけないでくれないか。この作業は特に集中を要する。ちょっと注意を逸らしただけで、全体がぶち壊しになってしまうからね。
いままでは完璧な仕上がりなのだ。天才と同じ質を保たせるには、それを上回る集中力で臨むべきなのだ」
孔明は、一気にまくしたてるようにして言うと、ぴたりと黙り、目の前の織機に真摯な顔を向ける。

置いてきぼりにされた馬良がぽかんとしていると、戸口のほうで馬のいななきがする。
見ると、趙雲が、自分の黒馬に乗っているところであった。
「どちらへ行かれますのか?」
まさか、孔明に呆れて帰ってしまうのか、と思った馬良であるが、そうではないらしい。趙雲はあたりまえのことを口にするように、言った。
「糸を仕入れてくる」
「へ?」
「糸が足らぬと言っていただろう。ちょっとひとっ走りして、糸を仕入れてくる。季常どの、俺が戻るまで、すまぬが、あれのお守りをたのむ」
趙雲に、あれ、と言われた孔明は、ふと織機から顔を上げ、機屋の中から声をかけてくる。
「子龍、糸の種類は花嫁から聞け」
「もう聞いた」
ではさらば、と言うなり、趙雲は、ぱっぱかと駆け出していき、馬良がお気をつけて、と言おうと我に返ったときには、もう見えなくなっていた。

薄暗い機屋に座り込み、眼をきらきらと輝かせて機織に夢中になる孔明と、キツネにつままれたような面持ちでそわそわと落ち着かないそぶりの村人のなかにぽつりと残され、馬良は、とりあえず、今夜の宿はどうしよう、と考えていた。


つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)

浪々歳々 6

2020年05月02日 10時14分10秒 | 浪々歳々
のんびりした場所であった。
これといって特徴のある風景ではない。
天まで聳えるような杉の木と、それにからまる蔦かずら、野鳥が茂みから飛び立ち、たまに枯葉色の野うさぎが跳ねるのが見える。
近在の農民しか使っていないであろう砂利道には、ぺんぺん草が風に揺れていた。
ときおり、甲高い声をあげながら、とんびが頭上高く旋回するのが見える。
靄は完全に晴れ渡り、空には、とんびのほかは、雲ひとつない青空であった。
不意に歌声が流れてきたので、なにかと思い、空にむけていた目線を地上に戻すと、おどろいたことに、趙雲が鼻歌を歌っているのであった。
孔明はその脇で、無言のまま、心地良さそうに周囲の風景をながめている。
詩作の対象にもならない凡百の光景であったが、前をゆく二人には、それなりに新鮮に映っているようだ。
すこし遅れてついていく馬良は、朝が早かったので、馬上でうつらうつらしながら、もうすこし面白い場所へ行きたい、などと考えていた。
当初の予定では、特に明光風眉で名高い桂陽の山林をながめ、ちょっと優雅に詩作でもしつつ、どこかの農家へお邪魔して食事を摂り、夜は旅籠でゆっくり、というふうになるはずであったが、孔明の勘のままに足を向けよう、という趙雲の提案どおりにしたら、なんだかたらたらと道を歩くだけのつまらない旅になってしまったのだ。
とはいえ、今回は、疲労しきっている孔明を回復させる旅であるから、孔明が楽しんでいれば、問題はないわけであるが。

『私が付いてこなくても良かったなあ』
と、眠気覚ましに、肩を交互に回しながら、馬良は思った。
一見、三人連れのように見えるが、実際は二人とおまけの一人、という状態である。
たまに孔明が気を遣って、振り向いて話を振ってくれるが、趙雲がこれに入ってこないので、すぐに途切れてしまう。
早朝に言い争ったことを気にして、そうしているわけではないだろうが、この男、見た目の勇壮さを裏切る内気さを秘めている様子。
ときに物足りない人だと思わせるところがあったが、照れ屋で内気なために、あともう一歩のところで、肝心の言葉が出てこないのだ。
器用に見えて、肝心なところで不器用なところが、孔明と気が合う原因なのかもしれない。
交わされる二人の会話の断片をつなげていくと、どうやら互いにじっくり話すのは、かなり久しぶりであった様子だ。
これまた珍しいことに、主に話し手は趙雲であり、孔明は聞き手である。
呉の孫権の妹・孫夫人の暮らしぶりや、彼女を取り巻く侍女たちの話、劉備側の侍女との確執、そのほかに、おのれの部隊でおこったいざこざや、ちょっとした事件など、後ろでただ聞くだけの馬良も、なかなか興味深い。
言葉はすくないが、趙雲の語りは簡潔でわかりやすく、的確だ。
『いろいろ意外な人だな』
と、馬良は感心した。






当初、馬良は、趙雲は、よく浅慮な男にありがちな、盲目的な忠誠を孔明に捧げている武将ではないかと思っていた。
たしかに孔明に心服している様子であるが、そのすべてを肯定するわけではない。
孔明がぐらついているときは、叱り飛ばして矯正し、誤解を恐れずに直言を吐く。
仲がよければあたりまえのような行為であるが、実際、これに社会的な地位が絡んでくると、なかなか直言を交換する、というのはむずかしいものだ。
「たまには顔を出されよ。主公は、孔明が臨烝に籠もっているのでつまらぬ、とこぼしておられたぞ」
と、趙雲が言うと、孔明は、からからと笑って答える。
「顔を見せようかとも思うのだが、主公は新婚であるから、わたしが邪魔をしてはならぬ、とも思ってね」
「冗談ではなく、真面目な話だ。口がさない者の中には、軍師が孫夫人を嫌って避けている、というふうに言う奴もいる。連中のつまらぬ憶測を消し飛ばすためにも、心を曲げて、顔を出せ」
「ふむ、するとあなたも、わたしが、孫夫人を避けている、と思っているのか」
「孫夫人を、というわけではないだろうが、避けているのは事実だろう」
その言葉に、しばし沈黙が流れる。
打てば響く会話を好む孔明にはめずらしい沈黙である。
おや、と背後で聞いている馬良がいぶかしんでいると、孔明がつぶやくように言った。

「やれやれ、あなたを重く感じるときが来るとはな」

『う。』
と、自分が言われたわけではないのに、馬良は胃に石が沈んだような気持ちになった。
人を重い、などと言っておきながら、孔明の纏う雰囲気はさらに重い。
なんだか後ろに先祖の霊でも背負っているのではないかというくらいだ。
趙雲は、というと、孔明の言葉をさらりと流して、答える。
「それが俺の役目であるから仕方があるまい。おまえは短い間に偉くなりすぎた。周囲が遠慮してなにも言わないのは、おまえに心服しているからという理由だけではないぞ」
「そんなことは、いまさら言われなくても判っているさ。あなたには感謝しているよ。もしあなたが私になにも言わなくなったら、そのときこそ、私もおしまいかもしれないな」
「それはない。死ぬ最後の瞬間まで、小言は止めぬから安心するがいい」
冗談だろうなあ、と思いつつ、しかし実際に遺言すら小言、という状況が、容易に想像できてしまうのはなぜだろう。
孔明は、かすかに笑い声をたてた。
「たぶん、わたしが一番に信用しているのは、主公でもなくあなたなのだろうね」
「なんだ、それは」
『私は?』
と、馬良は心の中でつっこんでみたが、もちろん、声なき声が、孔明に届くはずもない。
「以前に話したはずだが? あとでああ言っておけば良かったと後悔するのは嫌なので、そう思ったときに言うことにしているのだ。そういうわけで、これは本音だ」
「そうか」
「そうだよ」
いつの間にか、孔明の背負っていた、重い空気が消えている。
しかし馬良には、孔明の背後に、『部外者立ち入り禁止』のお触書が立てられたような気持ちになった。
とても二人の会話に入っていけない。
おそらく、このままひっそり馬首をかえして、屋敷に帰ってしまっても、しばらく孔明は気づくまい。
つくづく、もう襄陽の時とは違ってしまったのだな、と馬良はさびしく思う。
たとえここに徐庶がいたとしても、趙雲と孔明の間に入っていくことはできなかっただろう。
貝の口をこじ開けるのだってこれほど難しくはない。





しばらく行くと、刈り入れのおわった田んぼの横で、農民たちが雑草を刈っていた。
孔明は馬の足を止め、彼らに声をかける。
「精が出るようだね。今年の実りはどうだい?」
おかげさまで、という返事を馬良は期待したのであるが…
「てんで、だめでございます」
「なぜ?」
「水でございますよ。去年までは、うちらが使い放題だった水路を、あたらしく郡を統括している諸葛ナントカって人が、平等に水を使えるように、なんて余計なことをしたもので、かえって全体に水が行かなくなって、米もいまひとつでした」
「そう…」
ここで食い下がるのが孔明であるが、やはり本調子ではないのか、たちまちどんよりと暗い雰囲気に包まれ、うなだれる。
あわてて、馬良が口を出した。
「しかし、このあたり一帯の取れ高は上がったのではないかね」
「そりゃあね。喜んでいる家もあるようですが、うちらには迷惑です」
しょんぼりとしている孔明に、馬良は、うながす。
「ほら、元気を出したまえ。聞いた相手が悪かったのだよ。彼らのような、水利を独占している一部の農民から、水利を解放して、みなに使わせる、というきみの策は間違ってないよ」
孔明は、わかったような、わからないような、うむ、という曖昧な返事を寄越す。

「あそこにいる、ほかの農民にも聞いてみよう」
と、趙雲が助け舟を出した。孔明はもう、聞く元気がないようであったので、代わりに馬良が尋ねる。
「今年の出来はどうだね」
しかし。
「いまひとつですな」
「なぜ」
「このたびわしらの郡の統括になった諸葛ナントカ様が、あたらしい品種を植えろとお命じになったのですがね、これがうちの土地にまるで合わなかったものですから」
横にいた農民も、うんうんと頷いて、これに同調する。
「きっと、諸葛ナントカ様は農業ってものを生業にしたことがねぇんだろうなぁ。冷害につよいとか、イナゴに食われにくいとか、いろんな謳い文句がついていたもんで、ワシらも期待したんだけれども、なんか稲穂の粒のひとつひとつが小ぶりでねぇ」
「たしかに郡で新しい品種を勧めたのはたしかだが、土地によって合う、合わないがあるから、それぞれ検討してから植えるようにと達しをしたはずだが?」
馬良が言うと、農民たちは顔を見合わせ、それから首を振った。
「うんにゃ。ワシらはそんな話は聞いてません」
それはおまえたちが悪い、と馬良は孔明のために口にしかけたが、ほかならぬ孔明が、口をはさむ。
「それは、説明を徹底しなかったわれらに落ち度があった。すまなかったな。許されよ」
やたらと身なりが良くて目鼻立ちの通った青年が、そういって頭を下げるものだから、農民たちは目を白黒させている。
そして、孔明の背負ってる暗い空気は、ますます濃くなっていくのであった。

「どうやら、またも聞いた相手が悪かったようだぞ」
と、趙雲が見かねて口を入れてきた。
そして、顎で示す方向を見ると、直前に話を聞いた雑草を刈っていた農民が、作業の手をとめて、じっとこちらの様子を窺っているのであった。
「どうやら、おなじ地主にやとわれている小作人のようだな。この一帯の大地主は、軍師のやりように反発をしているのだ。上の心は下に反映する。今回は、たまたまだ。そう気を落とすな」
「趙将軍の言うとおりだよ、亮くん。そんなに落ち込むことないじゃないか」
しかし孔明は、二人の声にうつむき加減に首を振ると、ぼそぼそと答える。
「わたしのやり方が気に食わない人間がいるのは仕方がないさ。だが、指導が徹底していなかったがために、農民たちの暮らし向きが悪くなっているのであれば、申し訳ない」
「君はよくやっているよ。ついこの間まで、隆中の山の中で本を読んでばかりいた人間が、こうして三郡の監督を切り盛りしているのだから。たしかに彼らは、ああ言ったけれど、書類の数字の上では、三郡ともに、以前よりずっと、よくなっているのだよ」
「所詮、数字は数字なのだ。見たかい、さっきの彼らの不満たらたらの顔を。たとえ全体の数字が上向いていても、彼らがあんなふうにして不満を持っているのであれば、やはりわたしの治世というのは間違っているのではないか」
「まだ結論を出すのは早いよ。ほら、村が見えてきた。あそこでも話を聞いてみよう」
三騎の行く手には、馬良の言うとおり、村の姿が見えてきた。
孔明はちらりと村のほうを見ると、ぼそりと言った。
「…もう家に帰りたいな」
馬良はあわてて言う。
「まあまあ。結論は急がずに。だいたい君、この旅は趙将軍のためでもあるのだよ。趙将軍の意向を大切にするべきではないかね」
言われて孔明は、顔を上げると、すこし離れたところで、のんびり馬を歩かせる趙雲のほうを見た。
馬良には、その姿はまったく普通にしか見えないのであるが…
「うむ、だいぶ機嫌がよいな。ありがとう良くん、この旅の目的を忘れるところだったよ。仕方がない。子龍のためにも、旅はつづけよう」
「そうとも。それでこそ亮くんさ」
「それでこそ、か。良くん、がっかりしたのではないかい?」
「なぜ?」
「わたしは襄陽で、きみにずいぶん偉そうな口を利いていた。
しかし実際に三郡を統治してみたら、結局、ハンパな結果しか出せていない。もし過去に戻れるならば、わたしは過去の私の口を自分で塞ぎたい気分だよ」
「何を言っているのだい。君、高望みが過ぎるのじゃないかな」
孔明は、しばらく沈黙した。おや、怒らせたのかな、と馬良は心配したが、そうではない。
孔明は、口元に寂しそうに笑みを浮かべて、やがて言った。

「江東で、周公瑾という男に会った」
「知っているよ。会ったことはなかったが。美周郎なんてあだ名のある、ずいぶんと煌びやかな男だったらしいね」
「世の中に、これほど素晴らしい男がいるのか、と、正直おどろいたほどにすごい人物だった。
何ってね、彼がそこにいる、というだけで、周囲の人間の顔や目つきが一変するのだよ。男も女も、も武将も関係ない。
ありとあらゆるすべての人間が、彼を見るとき、目を輝かす。信頼する者を見るときのまなざしなのだ。
この人のためならば、犬馬の労も惜しまない、という目をしている。
さらにおどろいたことにはね、兵士たちがこぞっていうのだよ。『美周郎がわれらの上にいるかぎり、負けることはない』と。
兵士たちだけではないのだ。漁民も、『美周郎のおかげで、安心して漁ができるのだ』、と。ほとんど神のような扱いなのだ」
「たしかに、それはすごいな」
「本人はというと、まるで気負っていない。万人の期待と信頼を集めれば、そりゃあ責任も重くなる。普通は縮こまるか、でなければ勘違いして尊大になるだろう? 
そうではないのだ。周公瑾にとって、賞賛されること、信頼されることは、あたりまえのことなのだ。そうして、それだけのことを彼はしていた。惜しくも早死にをしたけれど、悲壮感のまるでない、じつに颯爽とした人物だったよ」
孔明が、そこまで人を褒め上げるのを聞いたことがない馬良は、感心してその話を聞いた。
劉備を語るときですら、孔明はこれほどまでに賞賛しなかった。
不意に、孔明の顔が曇る。
「とてもこんなふうにはなれないと、初めて他人を見て思ったよ」
らしくない言葉に、思わず馬良は孔明の横顔を見る。
「なれない、だなんて…」
「いいや、気休めは言わなくて良い。文武両道、という言葉があるが、彼はまさにその体現だった。
もし生きていたならば、この荊州はすべて江東のものとなり、わたしたちはわずかな土地にしがみつき、いかにして状況を逆転させようかと、いまだに右往左往していたかもしれない。彼に比べれば、わたしなぞは、多少頭が良くて口が回り、顔が良いだけの士人に過ぎぬ」
それだけ条件が整っていれば、十分じゃないか、と馬良は思ったが、孔明のように、大志を抱いている人間にとって、人よりちょっと抜きんでている、というだけでは満足ではないのだろう。
一番でなければ駄目なのだ。
「それで、君はずっと、塞いでいたのだね」

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)

浪々歳々 5

2020年05月02日 10時12分59秒 | 浪々歳々


朝靄のたちこめるなか、馬良はゆったりと白い帳をかきわけてあらわれる武人を出迎えた。
地味な色合いの服をまとい、目立たぬように、服とおなじ色をした袋で剣を隠している。
またがっているのは、いつもの、武将たちがこぞってうらやむ立派な愛馬ではなく、いたって普通の頑丈そうな黒馬。
全体的に地味にしているのにも関わらず、かえって引き立つ男ぶりに、馬良は思わず見惚れてしまった。

馬良は、おのれも特異な風貌にめぐまれているので(この時代、目立つ容姿は武器である)、他者の容姿にも敏感だ。
世に、美男はあまたいるけれど、単に見栄えがよいだけのと、真に男らしいのとは、なかなか一致しない。
優男は、ともすれば軟弱と同義であるし、男らしい男はがさつで艶がない。
馬良は、見知っているなかでは、孔明こそが、いちばんの美貌の持ち主であると思っていたが、孔明の美貌は、性を感じさせない類いのものであり、男らしさという点では欠けている。
趙雲は、孔明とは、まったく種類のちがう美男である。
容姿もたしかに恵まれているが、そもそもの顔立ちは、抜きんでて美しい、というわけではない。
趙雲をほかと違くさせているのは、内面から、非凡な見識、哲学にも似た心意気がにじみでているからだ。
孔明の場合、黙ってそこに立っているだけで、異様な存在感を醸し出すのであるが、趙雲は、ただ立っているだけでは、その魅力は発揮されない。
行動してこそ、趙雲のもつ美質は生かされる。

馬をひらりと下りて、趙雲は、馬良に拱手した。
「おはようございます、馬従事。軍師はもうお目覚めですかな?」
馬良は、孔明の気持ちが変わるのを警戒し、自分の屋敷に泊めたのである。
「屋敷にて朝餉を召し上がっておいでです。貴殿も如何です。すぐ用意をさせましょう」
「いえ、結構。朝の調練が終わって、すぐに食べてしまいました」
特別な日であっても、鍛錬を怠らない姿勢は、たいしたものである。
「ところで、主公は、軍師の休暇については、なんと?」
「快くご承諾くださいました。軍師が回復するまで、いつまででも休め、と」
「いつまででも?」
劉備らしい、気前のよすぎる言葉に、馬良はおもわず鸚鵡返しする。
ずっと回復しなかったら、ずっと休暇中、ということか? 
「前とちがって、いまは龐軍師がいらっしゃいますので、主公も余裕がおありの様子ですので」
あくまで口調は淡々としているが、その言葉の裏に、わずかに苦いものが混ざっていることに、気づかぬ馬良ではない。

劉備の、孔明への寵愛があまりに深いので、以前から反発していた者たちが、龐統を旗頭にして、反孔明の陣を張りつつあるのは事実である。
孔明にも龐統にも、対立するつもりはまったくないだけに、つねに比較され、競争を強いられている二人の様子は、馬良から見ると、気の毒であった。
たしかに、特別に仲がよい、というわけではないが、二人とも、せまい人間関係のなかで、たった一人の男の寵愛をあらそうような、狭隘な器量ではない。

龐統は、無頓着なため、かえって小人にかつぎあげられてしまう。
龐統を担ぎ上げている人間は、龐統の奥ゆかしさを誉めそやし、孔明にとって代わってほしいと動く。
一見すると、龐統を中心になった人々が、龐統を持ち上げているように見えるのだが、実際は、孔明を中心に、一部の不満分子があつまって、右往左往しているのだ。
結局、孔明なのである。
龐統とて、おのれの立場が、いかに滑稽なものであるか、判っているはずだ。
しかし、互いの思惑を無視して、両者を担ぎ上げる派閥の人間の争いは、日々深刻になっていっている。
公平であると評価の高い趙雲でさえ、孔明のために、龐統への不満をにじませた言葉を吐いて見せるのだ。

中立を守っている馬良は、趙雲のつぶやきに、あえて口を出さずに、別の話題をたずねる。
「本日は、どちらへ向かわれますのか?このあたりは山水の風景が素晴らしいので、どこへ行ってもはずれはなかろうと思われます」
「山はやめましょう。人里がよい」
意外な言葉に、馬良はかるく首をかしげる。
「差し出がましいかもしれませぬが、亮くんは人見知りがはげしい所がございます。
人の中にいるよりも、人の気配の薄い山河の光景のほうが、よいのではないでしょうか?」
「もしかしたら、しまいにはそうなるかもしれぬ。だが、いまはちがう。
人の中にいさせてやったほうがいい。己の統治の結果を、民がどう受け止めているのか、それを自らの目で確かめさせてやるのが一番の薬となりましょう」
「趙将軍、亮くんはわたしに教えてくれませぬ。亮くんは、なにをそんなに思い悩んでいるのですか?」
「軍師が貴殿に沈黙を守っているのに、それがしが分を超えて漏らすわけにはまいりませぬ」
ここで図々しい男ならば、そこをなんとか、とか言って、頼み込んで、なんとか話を聞こうとしただろう。
しかし馬良は、強引な手段は得手ではない。
趙雲の言うことがもっともだと思い、孔明が口を開くときまで、おとなしく待っていようと決めた。
「行き先は決めてらっしゃいますか」
「いいえ、地図の類いはなにも」
「なんと、行き当たりばったりで行かれる、というのか」
趙雲は、目をむく馬良をおもしろそうに見遣りつつ、うなずいた。
「予定をきっちり決めてしまいますと、かえって予定にしばられて、苛立つこともありましょう。休暇に期間はないのです。これから先、これほど贅沢な休暇を得ることは、もうないかもしれない。ですから、軍師の思いつくままに、あたりを彷徨するのも悪くないでしょう」
「休暇がもうない、とは、いささか大げさではございますまいか」
「そうですかな。主公と龐軍師、そしてわれらが軍師の間では、すでに蜀に向けての策が着々と進みつつある。
これが成功したならば、軍師にはもう休む暇などありませぬぞ」
「矛盾しておられますぞ。貴殿はさきほど、主公には龐統もいる、とおっしゃったではありませぬか。
今後、いかに主公が天下に力を伸ばされようと、この二人が助けあう限り、どちらか一方に権力が集中する、などということはまずないでしょう。
わたくしは、以前より二人を知っておりますが、どちらとも、この混迷きわまる世情のただ中で、権勢争いにうつつを抜かすような、愚か者ではありませぬ。
亮くんの主騎たる貴殿までもが、派閥争いに加わっては、事態はますます収拾がつかなくなってしまいます」
「ですから…周囲が勝手にはじめたことでも、自身の名を使われているのであれば、それを止めさせる努力はするべきでしょう。
なぜ龐軍師がなにもなさらぬのか、それがしには理解しかねる」
「左様なこと、けして他言なさってはなりませぬぞ。亮くんのことを、わたし以上に理解している貴殿ならば、龐士元のことも理解できましょう。
双方を理解できるのであれば、無用な衝突を回避できるよう、動くことができるはず。それが、亮くんの主騎たる貴殿の、真の務めではありませぬか」
「襄陽の人間は、どうして、どいつもこいつも、ややこしいのだ」
ぼそりと言う趙雲に、馬良はその色の薄い眉をしかめる。
「亮くんは琅邪です」

徐々に薄れていく靄のなか、緊迫した空気が走る。
それを打ち破ったのは、いつもの孔明の声であった。
「なんだね、朝から、二人とも威勢がよいではないか」
馬良が最後に見た孔明は、腫れぼったい目をして、朝餉をもそりもそりと口に運んでいた。
いまは、しゃっきり背筋を伸ばし、曙光を一身に浴びて、いつもの、どこにも隙のない出で立ちの孔明であった。
孔明は旅慣れている、というのもあるが、いつ、どんなとき、どんな場所でも、おのれの身づくろいを、短時間に手早くおこなうことができる、という特技を持っている。
「士元との話ならば、いちいち対策など練る必要はないということで、話が終わったのではなかたかな、子龍」
孔明が言うと、趙雲は、めずらしくあからさまに不満そうな顔をした。
それをみて、孔明は、「やれやれ」とつぶやき、続ける。
「わたしはあなたが、わたしを心配してくれるからこそ、士元に対して、よい印象を持っていない、ということを知っているよ。そこは感謝している。
だが、わたしを疎んじる者が、士元に集まっていることは、あれは仕方のないことだ。そう割り切れないかな」
「なにをどう割り切る、というのだ。事実、主公の周囲では、公然と、孔明派だの、龐統派だのと互いを色分けするのが流行っている状況なのだぞ」
「それは仕方あるまいよ。わたしはたしかに妬まれやすいからな。この美貌に加えて、智謀も天下一、さらに品行もたいへんよろしい、となれば、妬む輩も、どこをどう罵倒してやればわからぬのだろう。そこへ、わたしが唯一、同等か、それ以上と認める龐士元があらわれたのだ。あなたが彼らになったと想定してみるがいい。
士元に飛びつく彼らの気持ちがわかってくるのではないかな」
「おまえ、自分で言っていて、こそばゆくならぬのか」
「事実を端的に述べたまでだが? それとも、わたしとあなたの間柄で、くだらぬ遠慮や謙遜は、まだ必要なのかな。
それはともかく、士元の周囲の人間について、あれこれ気にしてもはじまらぬ。
光が当たれば影もできるのは致し方ないことだ。そして影をおのれから切り離すということは、だれにも出来はしない。ならば、考えるだけ無駄、ということだ。
おなじ時間をつかって、おのれを快く思わぬ人間のために思い悩むのならば、逆に、おのれを好いてくれる人が、いつも笑っていられるようにするにはどうしたらよいか、考えるほうがよほど有用というものだと思うがね」
馬良は、いたって孔明らしい言葉が出てきたので、休暇のはじめにして、ようやく孔明が復活か、と喜んだのであるが趙雲のほうは、呆れ顔で答える。
「あいもかわらず、驚嘆に値する単純明快さだな。だが、単純なものごとほど、実行にむずかしいものはない。
おまえの言葉は耳に心地よいが、俺にはどうも、おまえがうわべだけの言葉を口にしただけのように聞こえるのだ」
「わたしはあなたには嘘などつかぬぞ。ついてもすぐバレるから、つくだけムダであるし」
「嘘ではないと思う。まあ、よい。時間は山ほどある。おのれを取り戻すまで、じっくり考えよう」
趙雲の言葉を最後に、朝靄のなかの議論は、打ち切られた。





「どこへ行ってもいいって? 奥向きで、か弱い乙女らを相手にしているうちに、ずいぶん丸くなったではないか、子龍。これは主公に感謝せねばなるまい」
と、軽口を叩く孔明に、趙雲は言う。
「鎧姿に薙刀を持った乙女のどこが、か弱い?」
「あなたと比べれば、みんな、か弱い。さあて、どこへ行こうかな。良くんのことだから、きっちり予定を立てて、地図にくびったけの道中になるかと思っていたけれど、こういうあてのないのもよいではないか。
ただし良くん、不満が募ったら、爆発する前に教えてくれたまえ。旅の途中で仲たがいすることほど、嫌なものはないからね」
と、孔明は、趙雲に向かって、かつて崔州平と旅をしたときに、派手に喧嘩をしたことを語りはじめた。

伴のない、三人きりの旅である。
ほんとうは、馬良は、護衛をつけたほうが言いと趙雲に言ったのであるが、趙雲は不敵にも、いまさらそんな必要はあるまい、と言い切った。
馬良にしてみれば、趙雲のことばを疑うわけではないが、敵に襲われたときに、趙雲がまっ先に助けるのは孔明だろうということがはっきりわかっているだけに、ひとり、つくねんとしている状況が、いまから心細い。
「どこへ行ってもよい、というのであれば、妓楼へ行ってもよい、ということかな」
と、孔明が、その気もないくせに趙雲に言うと、趙雲はしれっと返す。
「構わぬ。そんな体力が残っているならな」
孔明は軽くため息をつき、目を細めた。
「厭味もうまくなったな。疲れているので、口が滑ったと好意的に受け取っておく」
「そうだ、俺は心身ともにくたびれ果てている。だからおおいに労わってほしいところだな。
で、まずは方向を決めてくれ、東西南北、どちらだ」
うむ、と孔明は四方を見回した。
そうして、ふと西南の方向で首を止める。
直感の人であるから、なにかピンと来るものをおぼえたらしい。
町の賑わいとは無縁の、田畑のひろがる風景である。そちらが選ばれた理由は、
「なんだか呼ばれているような気がする」
といった、ひどく曖昧なものであった。
ともかく、方角が定まったので、三騎は、てくてく、のんびりと馬の足を進めた。


つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)

浪々歳々 4

2020年05月02日 10時10分28秒 | 浪々歳々
孔明の警護をしている兵士たちが、趙雲の姿を見ると、とたんに威儀をただして、起立する。
不意に走った緊張に、執務室にいた孔明の主簿をはじめとする文官たちも、いっせいに趙雲と馬良を見た。
そうして、部屋の主にて、荊州三郡の主、孔明は、筆を止めると、顔をあげた。
意外そうに目を開くが、それも一瞬のことである。蝋で固めたような青白い顔をしたまま、孔明は言う。
「久しいな」
孔明が言うと、趙雲も答える。
「まったくだ」
馬良は、というと、礼をとりかけていたのであるが、緊迫感のあるふたりのやり取りのあいだにあって、一瞬にしてその場から忘れられてしまった形となった。
孔明はすこしも、馬良を見ない。
戸惑いつつ、成り行きを見ていると、趙雲が、これもまた、何事かと見つめている文官たちに言った。
「すまぬが貴兄ら、席を外してくれぬか。軍師と大事な話があるのだ」
「そういうわけには参りません」
と、孔明より先に口を開いたのは、甲高い声をした、年若い主簿である。
「ご覧下さいまし、この、軍師の決済を待っている書類の山を! わずかな時間も惜しいほどなのでございます。いかな趙将軍とて、邪魔は許されませぬ」
その主簿は、孔明がどこからか拾ってきた男である。
たしかに有能で、孔明に無比の忠誠を誓っているにはちがいないのであるが、たまに分限というものを忘れて、ひどく居丈高な態度を取ることがある。
馬良も、何度もやりあったことのある若者だ。
しかし、趙雲は、孔明から目を外さないまま、言う。
「聞こえぬか。俺は外せ、と申したのだ」
恫喝ではなかった。
しかし、その押し殺した声の醸し出す威圧感に、主簿はぐっと言葉を詰まらせ、黙って、抱えていた書簡を卓に置く。
それを合図に、馬良と趙雲、孔明以外の人間が、すべて部屋から退出した。
「よいか?」
と、趙雲がたずねると、孔明は、今朝、馬良の屋敷を出たのとおなじ、血の気のない顔で苦笑する。
「よいもなにも、これでは、わたしはなにもできない」
「ひどい顔色だな。ろくに食べてないのであろう」
馬良がおどろいたことには、趙雲はまるで兄弟にするように…いや、馬良は弟の馬謖にさえ、こんなふうにすることがないと思うが…卓に座ったままの孔明の頬に触れ、わずかな力で上を向かせた。
孔明はとりたて嫌がるでもなし、趙雲がおのれの顔をのぞきこむのをゆるし、自身もまた、無感情な眼差しを趙雲に向けている。
正直なところ、馬良は、この二人がこれほどに仲が良いとは知らなかった。
だいたい、孔明は、親友同士の無邪気なじゃれ合いさえ、嫌がった。

襄陽時代、酔っ払って、めずらしく解放的になった龐統が、背後から孔明に抱きついたことがある。
孔明は上戸なので、酔っても自分を失うことはないのであるが、龐統が抱きついたとたんに、いきなり振り向きざまに龐統の顔のど真ん中に猛烈なゲンコツを食らわした。
おかげで、龐統の顔の均整が、ソラマメみたいにいびつに歪んでいるように見えるのは、実は孔明が横っ面を殴ったせいだ、などというまことしやかな噂が流れたこともある。
もちろん、龐統は、孔明と知り合うまえからソラマメであったのだが。
後日談として、孔明は、龐統への詫びに、戦記オタクの龐統のため、叔父の蔵書の貴重な何冊かを贈ったという話である。

それはともかくとして…
「なにが気にかかっているのだ、龐統か」
「埒もない。龐統とはうまくやっている」
「ならば曹操か?」
「どうかな。いろいろだ」
はぐらかす孔明に、趙雲は言う。
「江東であろう」
すると孔明は、片手で、おのれの頬に触れていた趙雲の手を払いのけ、つまらなさそうに顔をそむけた。
「さきほど主簿が言った言葉が聞こえなかったのか。わたしは忙しい。言いたいことがそれだけならば、出て行ってくれ」
「それはないよ、亮くん、趙将軍は、きみを心配して飛んできたのだよ」
とたん、孔明はぎょっとして、馬良のほうに顔を向ける。そして無情にこう言った。
「なんだ、良くん、いるならひと言、ここにいる、と言ってくれたまえ」
趙雲も気まずそうに言う。
「貴殿、退出しておられなかったのか」
「最初から、ずっとここにおりました」
自分も、その他大勢のひとりなのか、ひどいじゃないか、と馬良は思ったが、一対二の、場違いな輩をとがめるような空気にいたたまれない。
「…出て行きます」
昨夜の様子を心配し、趙雲を連れてきたのは自分である。
なのに邪魔者あつかい、というのは理不尽だ。
孔明は、馬良が退出の礼を取ると、わずかに引き止めるか迷ったようであるが、しかし傍らにいる趙雲の姿をちらりと見て、結局、引き止めてくれなかった。





『主騎とは、ああいうものなのか?』
真面目な馬良は、いま見た光景を、ご丁寧に分析していた。
劉表の主騎を見たことがあるが、主人のうしろに付いて、口を挟むこともなく、周囲の様子をじっと番犬のように窺っていた。
もちろん、それは現在の劉備の主騎をつとめる魏延も同様である。
あんなふうに、いきなり主たる人間の領域に踏み込み、傍若無人に振る舞うのは、それこそ主騎というものを趙雲が勘違いしている、としか思えない。
だが、孔明はそれを是としているようである。
馬良は、ちらりと扉のほうを見る。あの扉越しに、いまどんな会話がなされているのか。
気になる。
とはいえ、育ちが良い馬良は、そのことが逆に足をひっぱって、盗み聞きができない。
そうやって、孔明と趙雲の話が終わるのを待っていると、おなじく追い出された文官たちが書類を抱えてやってきて、馬良に孔明の代理を頼んできた。
どうやら、仕事が進まないのに業を煮やした短気なのが、
「軍師が駄目なら、馬良でいいや」
と判断したのを先頭に、ほかの文官たちも馬良を頼ってくるようになったらしい。
『あきれるほどに仕事の虫ばかり集めたものだな』
と、ミツバチの如く書簡を運んでくる文官たちをながめやり、そこに真面目とか、熱心、というよりも、どこかに『せねばならぬ』といった強迫めいたものを感じ取り、馬良はひとり、友の身を案じた。





かなり長い時間が経過した。
そろそろ陽が傾きつつある。
仕事もひと段落し、帰り支度をはじめている者もあらわれた。
仕事を頼んでくる者もいなくなり、手持ち無沙汰になった馬良は、さて、どうしたものかと思っていると、ようやく孔明の執務室より趙雲があらわれた。
見たところ、趙雲は憔悴しているでも、苦りきっているでもない。
「将軍、軍師は如何?」
「うむ…重症だな」
その言葉にぎょっとした。
この人は、医術の心得もあるのか?
「そういうわけで、俺は明日の用意があるのでこれにて失礼いたす。貴殿は如何なされるおつもりか?」
「そういうわけとは、どういうわけなのか、ご説明をいただけますか」
「ああ、申し訳ござらぬ。軍師は、明日から休暇をとることに相成りました。俺はいまから主公の了解を戴きに参ります」
「軍師が、それを承知したのですか」
馬良は、驚嘆とともに趙雲を見た。
江東の開国派をことごとく、その弁舌で沈黙させ、劉備の起死回生のための活路を切り拓いた男に対し、どんな説得をしたのだ、このひとは。
「で、貴殿は、われらとともに付いてこられるのか?」
「軍師さえよろしければ」
「ならば助かる…あれは俺だけでは面倒を見きれぬ」
孔明は、趙雲には、おのれの心が抱えているものを打ち明けたのだ。
そう思うと、馬良はすくなからず、思いもかけない多面性を持ち合わせる武人に嫉妬すらおぼえたが、それは表には出さなかった。





趙雲が行ってしまったあと、馬良は、孔明の執務室をそおっと覗き見た。
茜色に染まる部屋の卓で、孔明は、気むずかしそうに頬杖をついて、夕陽に染まるもろもろの物と、その作り出す濃い影をながめていた。
馬良は、はつらつとした孔明を期待したのであるが、残念ながら、そんなにすぐ回復するような悩みではないらしい。
趙雲とは、どんな会話があったのだろうか。
「大丈夫かい、亮くん」
「もとより大丈夫さ。わたしはよいが、きみ、代わりにいろいろ忙しい目にあわせてしまったようだね、すまなかった」
「気にしないでくれたまえ。それより明日から休暇だって?」
「表の声が聞こえたのだがね、君が良いのであれば、一緒に来てほしい。でないと、気詰まりで仕方ないからね」
「気詰まり?」
すると孔明は、ちいさなため息をついて、嘆かわしい、というように頭を軽く振る。
「子龍も疲れているのだよ。主公を批判するつもりではないから、ここは親友の君にだけ打ち明けるのだが…子龍は、奥向きの警護などという仕事には向いておらぬのだ。人と人の間に入って、互いがうまく行くように調整し、なおかつ警備をする、なんていうのは、子龍の器にあまる」
「あまる、というと、趙将軍は、奥向きの警護ができないほどの小さい器だと?」
「逆だよ。子龍の器には仕事がちいさすぎて、かえって疲れてしまうのだ。みな、あまり気付いておらぬようだが、あれは明日からでもわたしの代わりをできるくらいの能力があるぞ。
主公もそれをわかっていて、趙雲を桂陽の太守から、奥向きの警備に替えたのだ」
「なぜだね?」
孔明がこれほどまでに趙雲を高く買っている、という事実にうろたえつつ、馬良はたずねた。
すると、孔明は、にやりと不敵に笑う。
「女だよ。奥向きの警護となると、自然と女と接する機会が多くなる。主公は、早いところ子龍に妻を娶らせたいと考えているので、女の多い環境に子龍を置いて、よい出会いを作ってやろう、などと考えておられるのだ。
自分が幸せだと、人も幸せにしたくなるらしいな。もちろん、子龍も主公のお考えには気付いている。だが、本人はまったくその気がないので、主従は悲しくすれちがう。これは疲れるぞ」
「家庭も、なかなかよいものだけれどね。しかし本人にその気がないのなら、苦痛だろうな。きみ、間に入ってやればいいじゃないか」
「いやだ。よけいに面倒になりそうな気がする」
「面倒? どうしてだい」
「わたしがどうしても思い通りにできない人間は、この世に三人いる。教えてあげよう。姉上、主公、そして子龍だ」
「なるほど、それでは駄目だな」
納得しながら、趙雲の話題になると、孔明が、すっかり以前のような、生き生きとした調子を取り戻していることに、馬良は気付いていた。
なにやら落ち着かない。
「亮くん、きみが明日から休むのは、趙将軍のためなのかい?」
「そうだとも。わたしはちっとも疲れちゃいないのだが、わたしが休まねば、主騎たる子龍も休めぬであろう。
子龍も意地っ張りでな、最初は、わたしの様子がおかしいとか、体を壊したら大変だとか、わたしのことばかり言っていたのだがね、実はどうも、わたしにかこつけて、おのれの境遇を訴えたかった様子なのだ。
あの男が愚痴をこぼすところなど初めて見たよ。なかなか貴重な体験だった。わたしも、心配りが足りなかったと、おおいに反省しているところなのだよ」
ははは、と孔明は高らかに笑う。
『肉を斬らせて骨を絶つ』
そんな言葉が馬良の脳裏を過った。

つまり趙雲は、孔明に休めと説得したのであるが、孔明は、もともと天邪鬼であるから、けしておのれの体調の不良を認めずに、かえって頑なになってしまったのだ。
これでは埒が明かぬと判断し、趙雲は、策を切り替え、自分が休みたいので、孔明にも休んでほしい、と頼む作戦に出た。そうしてそれは、みごとに成功した、というわけである。
そんな心理戦が密室で数時間にもわたり繰り広げられていたのだ。
しかし出てきた趙雲が、けろりと涼しい顔をしていたのを思い出し、孔明の評価も妥当である、ただ者ではない、と馬良はあらためて感心した。
孔明の話を聞いて、あれこれ想像しているほうが、よっぽど疲れる。
だが…
『亮くんが、趙将軍の駆け引きに気づかぬ、というのも、らしくない。やはり相当に心身に疲労がたまっているのだ』
重症だ、と趙雲が言ったのも、そういった点にあるのだろう。
以前の孔明ならば、趙雲の思惑もすぐに看過しただろう。看過したうえで、その策に乗っただろう。
だが、孔明は、ほんとうに気づいていない様子である。
『明日からの休暇、友として、亮くんが芯から心安らかにできるように努力せねば』
と、固く誓った馬良であった。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)

浪々歳々 3

2020年05月01日 10時42分45秒 | 浪々歳々
さすがに、このままではいけないと思うようになった。
友を得ようと、馬良なりに努力をしてみた。
慣れぬ努力は、いびつな形で実を結ぶ。
友だちの作り方すら知らなかった馬良は、ともかく必死であったから、だれの、どんな言葉にも、笑顔で「いいよ」と応えた。
そんな馬良の焦りと、人の良さに目をつけたのが、兄弟子たちであった。
はじめは、書を貸してくれないか、つぎにちょっと面倒があるのだが手伝いをしてくれないか、やがてどんどん図々しくなってきて、酒を持ってきてくれないか、金を持ってきてくれないか…
馬良は泥沼にはまり込んだ気配をおぼえたが、そこから脱け出す方法がわからない。
しかも成長期の途上にある馬良にとって、がっしりした体格の兄弟子たちは、とても大きく恐ろしげに見えた。

あるとき、兄弟子のひとりが、馬良に言った。
「おまえの家に、きれいな下働きの娘がいるだろう。あの娘を、ちょっと呼び出してくれないか」
その言葉の先がなにを意味するか、わからない馬良ではない。
兄弟子のいう娘、とは、家令の孫娘のことであった。
馬一家が、じつの娘のように可愛がっている少女である。
馬良はぞっとして、そんなことはできない、と即答したが、その答えの報酬は、殴打であった。
馬良は、孤独から逃れたい一身から、唾棄に値する輩に、おのれの心を切り売りしていたことに気づき、後悔した。
後悔したのだけれども、殴打はつづき、ついに、娘を呼び出す約束をさせられてしまったのである。
約束を守らなかった場合に待ち受ける報復、約束を守ったら守ったで待ち受けるであろう、吐き気を催すほどの後悔。
おのれの愚かさを責めつつも、馬良はどちらを向いても抜け道がない状況に、おろおろするしかない。
兄たちに相談することも考えたが、娘を狙う兄弟子は、荊州でも名の知れた豪族に連なる一門で、さらにくわえて、よろしくない仲間とも付き合いがあった。
自死すら考えた。
流れのはげしい川べりに立って、深いところ目指して飛び込めば、すぐに河伯に引き込んでもらえるだろうか、などと考えていた。

「きみは、ほんとうの力というものを知らない」

不意に、声がした。
まさか自分に声がかかったわけでもあるまい。
兄弟子たちは、なにかを持ってきてほしいときにしか馬良を呼ばなかったので。
「あんな下らぬ連中におもねる労力があるのならば、わたしにおもねり給え。いまはなにも報酬がなくとも、将来、抱えきれないほどのおつりをあげるよ」
ぎょっとして馬良が振り返ると、背後に、同門の諸葛孔明が立っていた。
自分とほぼ同じ年の、しかし、あとから入ってきた徐州出身の少年である。
孔明の姿を見て、最初に馬良が思ったのは、
『迷惑な』
だった。

孔明という少年、評判はすこぶる悪い。
なにせ細くて力もそうない癖に、やたらと喧嘩早い。口より先に拳が出ている。さらに加えて、喧嘩に負けても、
「今日はこのくらいにしておいてやる」
とわけのわからぬ捨て台詞を吐く。
あいつはふざけている、と言う者もいれば、徐州からこっちに逃げてくる過程で、頭を強く打ったのだ、という者もいる。
しかも人を殺した前科を持っている、あの不気味な徐庶と仲が良い。
徐庶はなにが不気味かというと、ぜんぜん前科を思わせないほどに物腰が柔らかく、清潔感にあふれているからだ。
二人して、わけがわからない。あまり近づかないでほしい。

そっぽを向いた馬良に、孔明は言う。
「きみは、せっかくの貴重な人生を、愚図のごろつき以下に捧げてしまうわけかね。ささやかな抵抗が、入水自殺というわけだ。止めはしないし、悲しみもしない。むしろ軽蔑するね」
「言いたい放題だな、おまえなんかに、ぼくの心がわかるものか!」
馬良が憤って答えると、孔明は声をたてて楽しそうに笑った。
「ほら、その意気だよ。わたしにそう言えたように、やつらにも同じふうに言ってやればよいのだ」
簡単に言うやつ、と馬良は苛立った。
もしも、孔明に言ったように、兄弟子たちにおなじ言葉をぶつけたら、彼らは馬良を小突くだろう。
だが、それを見越したのか、孔明は、一見すると、深窓のご令嬢のようなうりざね顔を意地悪くして、言う。
「わたしのような嫌われ者なら怖くないが、兄弟子たちは怖い、というのだね。たしかにわたしは、はぐれ者だからな。やっつけたところで、徒党を組んで仕返しに来られる心配もない。
しかし、だ。
きみは、兄弟子たちを一つの山のように一くくりにして恐れていて、彼らが個々の人間だということを忘れている。徒党を組んでいるからこそ彼らは恐ろしいのであって、一人一人はそうでもない。むしろ、夜道で出会った案山子のほうが、よっぽど仰天させられる存在だ」
「言葉でなら、なんとでもいえるさ。きみだって、喧嘩じゃ、いつも連中に負けているじゃないか」
「負けてやっているのさ。そうでなければ哀れだろう。頭じゃとうていわたしに太刀打ちできないのだから」
なにを言い出すか、と馬良は怒ったが、しかし孔明は涼しい顔である。
どうやら本気で、そう思っているらしかった。
「良くん、賭けをしようじゃないか。
この三日のうちに、わたしは兄弟子たちをこの塾から追放する。もし全員の追放に成功したら、きみはわたしに人生を捧げること。
もし成功しなかったら、そのときは、わたしが兄弟子たちに、きみのところの娘さんの代わりになるものを持っていく」
「代わりになるもの、って?」
「そうだな、妓楼を一晩、貸切りにできるくらいの金があれば、しばらく大人しいのじゃないかしらん。もっとも、連中が遊んでいるあいだに、次の対策をたてるけれど。
どうだろう、きみにとっては、悪い話じゃないだろう?」

馬良は半信半疑であったが、なにもしないよりマシ、と思い、孔明の賭けに乗った。
人生を捧げる、といわれたけれども、その時点では、なんら具体的な画は見えていなかった、というのもある。
そうして、三日間、孔明は、『なにか』をやった。
四日目、馬良の耳に入ってきたのは、兄弟子たちが、いっせいに私塾からいなくなった、という知らせであった。

孔明は、得々と馬良の前にあらわれて、
「ほら、賭けはわたしの勝ちだね」
と、高らかに言った。
あとで徐庶からこっそり教えてもらったことには、孔明は同年の友だちがほしかったのである。
しかし、きっかけが掴めなかったので、賭けの話なぞを持ち込んで、馬良を危機から救って見せたのだった。
孔明が、三日間でなにをしたかについては、徐庶も教えてくれなかったが、
「あいつの目は、俺たちの見ていないものまで見ているのさ」
という言葉だけを意味ありげに語ってくれた。
以来、賭けのとおり、馬良は孔明に人生を捧げることにした。





趙雲は、言葉どおりにまっすぐ、孔明のいる執務室へと向かっていく。
桂陽の太守の地位を、趙範に返してやり、いまは奥向きの取締りをしている趙雲であるが、臨烝においては顔見知りが多いらしく、まっすぐ、といっても途中途中で声をかけられ、なかなか前に進めないでいる。
何人目かと挨拶が終わったあと、趙雲はめずらしく、宙に向かって怒気を吐いた。
「どうして屋敷を出てからここまでの道のりでかかった時間より、役所に入ってから軍師の部屋までの時間のほうが、長いのだ」
「亮…いえ、軍師は執務中でしょう。それに軍師は仕事の虫。いかな貴方様でも、手を止めて、話を聞くとは思えませぬ。ですから、そう焦らずともよいのでは?」
馬良が落ち着かせるために声をかけると、趙雲は振り返らぬまま、返事をした。
「まだ大丈夫だろうと、タカをくくっていると、突然倒れるのが軍師です」
「よくご存知で」
「おれは軍師の主騎ですぞ。その任はいまだ解かれてはおりませぬ。しかし、奥向きに気をとられて、軍師の周辺を部下に任せていたのは誤りでございました」
趙雲が、付け足すように、小声で、
「あのたわけ者」
と、低くつぶやいたのを、馬良は聞き逃さない。
むっとして、趙雲の背中に言う。
「将軍、軍師は、たわけではございませぬぞ。赤壁の戦からいまに至るまで、軍師は身を削るような思いをなさった。そのために、いささか判断力がおかしくなっているだけのこと。たとえ冗談でも、軍師を貶めるような言葉は止めていただきましょう!」
「貴殿は軍師を尊敬しておられるのですな」
「もちろんですとも!」
と、馬良は堂々と胸を張る。
ときおり、腸が煮えくり返るほどに腹を立たせてくれる存在ではあるが、それもまたご愛嬌として、痛快な思い出を残してくれるのが、孔明という人物である。
助けられてきたのは、襄陽で出会ったときばかりではない。
「あんた、ミョーなものを尊敬しているな」
と、趙雲は、馬良の前を、武人らしいきびきびした足取りで進みながら、ぽつりと言う。
馬良は、小走りにそれに追いつき、横に並んで、食ってかかる。
「ミョーなものですか。だいたい、趙将軍とて、軍師の身の上を案じ、ここまで飛んできたではありませぬか」
痛いところを突かれたらしく、端正な横顔に、めずらしく苦いものが走る。
「わたくしと貴殿は、いわば崇拝する相手を同じくする仲間のようなもの。多少の意見の食い違いは、この際、目をつぶりましょう。でも軍師を『ミョー』と評するのは如何なものか」
「…飛んできた、というのは誤りだ。おれは、これが普通なのだ」
「亮くんの崇拝者は、なぜだか本人と同様に、みんな意地っ張りになる。おかしなものですな。徐庶もそうでした」
「…」
「認めておしまいなさい。軍師を崇拝している、と。認めてしまえば、あとは楽になりますぞ」
「きっぱり断らせていただく」
あやしげな新興宗教の勧誘のような馬良に、趙雲は、言葉のとおり、きっぱり言うと、孔明の執務室の前に立った。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/03)

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